教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

新「日本教育考」(1)ーなぜ「学力低下」なのか?

2010年02月19日 | 教育全般
新「日本教育考」(1)ーなぜ「学力低下」なのか?


▼PISAに表れた日本の子ども達の「学力低下」問題
 日本人の子ども達の「学力低下」が本格的に問題になり始めたのはOECD加盟国による第2回目のPISA(2003年度学習到達度テスト)辺りからではないだろうか。その結果が発表になったのは2004年の暮れ。
 「PISA調査では、義務教育修了段階の15歳児が持っている知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかどうかを評価。」とあり、「2003年調査では数学的リテラシーが中心分野。読解力、科学的リテラシーを含む主要3分野に加え、問題解決能力についても調査。」とある(共に、文部科学省のホームページ、文部科学省生涯学習政策局調査企画課から)。

▼文部大臣の考えた「学力低下」の処方箋とは?
 この時の文部大臣は中山成彬氏。日本のマスコミが一斉に日本の子ども達の学力低下に警鐘を鳴らした時、彼が考えついたことはただ学校の授業時数を増やそうとしたことだった。これだけ教育熱が高く、塾産業が隆盛をきわめている日本において「なぜ、学力低下なのか!?」その根本原因に迫ることもできず対処療法として示された処方箋が学校の授業時間を増やそうでは余りにもお粗末。これが文部大臣とは聞いて呆れるばかりだった。日本の教育の病理を腑分けする能力もなければ陣頭指揮する能力もない。実は子どもの学力低下だけの話ではないことを彼自らが体現してくれた格好だった。彼自身がただ時代遅れの観念の遊戯に酔いしれているだけだったのだ。

▼「生きる力と学力低下」のシンポジウムの開催
 日本の教育状況について無知をさらけだしたようなそんな中山文科相の反応は、日本の不登校の子ども達の支援活動に携わり、かつフリースクールを運営していた私には、半ば想定内の反応ではあったとはいえ、やはり大きな驚きであった。しかし、指導的立場にある人がどんな思い違いをしていようと、現場の人間としては子ども達と接している日々の活動を抜きに考えることはできない。現場から、特に学校教育から排除された子ども達の視点から現今の教育を問い直すことは等閑に伏せないことであった。
 そこでPISAのテストで連続してトップの成績を収めたフィンランドの教育改革に日本人として大きな貢献をした早稲田大学名誉教授の中嶋博さんをお招きし、佐々木光郎さん(『いい子の非行』の著者)と私との3人でNPO法人教育ネットワーク・ニコラ主催の教育シンポジウム「生きる力と学力低下」を開催したのだった(2005年3月27日、埼玉会館にて)。

▼日本の教育の病理の腑分けを
 あれから何年経ったのか。少しでも子ども達の学習環境は向上したのだろうか。「学力低下」解決の方途は見つかったのだろうか。「ゆとり教育」批判や「総合的学習」の見直しと削減などに伴って、子ども達への勉強の荷重が一層増したように見えるのはなぜか。
 しかし、授業時間を増やせば(なぜか土曜日復活論議が盛んだ)日本の教育の根本問題が解決するというわけでもあるまい。PISAでトップを維持しているフィンランドの教育の秘密を探るべくフィンランド詣でも結構だが(日本のように必要以上に学校に縛り付けず少ない時数で教育効果をあげている実態をこそ知るべきだ)、やはり日本の教育は日本の社会特有の問題を腑分けすることから始めるべきであろう。
 文科省だけでなく各地の教育委員会を先頭に、全国教育行政において膨大な費用をかけて不登校対策を行ってきたはずである。学校教育法外であるという理由で、フリースクールにはほとんど見向きもせずに。しかし、それでどれだけの教育効果があったというのか。雀の涙ほどの成果を大々的に喧伝しているだけではないか。それは事業仕分けの対象となるべきではないか。

▼政権が代われば教育も変わる?
 政権交代を成し遂げた今、教育も変わべき大きなチャンスを迎えたと言える。教育は政治や宗教から独立しているとは言え、長期政権の政策に大きく依拠してきたことは否めない。畢竟、教育の不偏不党・独立ということは建前に過ぎない。そこでは、文科省を頭として全国の隅々に到るまで自民党政権の意向が色濃く反映した教育が行われてきたということは否定のしようがない。日教組や全教などの教職員組合の切り崩しもその一つであった。
 政変によって民主党を中心とする政権に切り替わったが、その民主党のバックには日教組の組織もあったと言われる。では、政権が変わったことで日教組主導の教育が展開されるのかというと、やはり教育はそんなに単純なものではない。政治が大きなうねりで変わろうとしていても、教育がそれに連動するとは限らない。

▼今までの言い訳が正当化されかねない
 端的に言うと、日本の教育の問題は依然として未解決のまま残っているということである。いやむしろ、今までは「文科省が…、教育委員会が…、校長が…」という形で言い訳されてきたことが、権力の逆転現象によってそのまま正当化され、開き直られかねないとも思っている。
 例えば、小中学生など義務教育段階の子ども達が学校に行かなくなり不登校状態になると、なぜ公的な教育費が家庭にも本人にも一銭も回らなくなってしまうのか。それは本来個々の子どもの教育のための公費であったはずである。それが教師の人件費に消えてしまっていい筈がない。それこそ税金の無駄遣いとして事業仕分けの対象となるべきではないのか。
 そういう矛盾していることが、政権交代後も教育界には依然として多いのである。もし、民主党が国民の声を真剣に聞くというのであれば、ただ学校を離れ、学校には行けなくなった、学校には行きたくないという子どもの言動に児戯に類する反応をしたり、心のない形だけの不登校対策を行う前に、教育棄民の状態に置かれている本人やその家族の呻吟に耳を傾け、あたら若い可能性を潰しかねない教育の現実にこそ目を注ぐべきではないのか。そういう現実には見向きもせず国民の声を聞くといっても、今度は国民の側が聞く耳を持たなくなることであろう。

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