goo blog サービス終了のお知らせ 

教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

「鳥の目・蟻の目」の視点から教育を語ること

2010年01月04日 | 教育全般

◆◆◆ 年頭にあたって ◆◆◆

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
今年もまた、折りに触れ気ままに筆をとらせて(キーを叩かせて)もらいます。

▼鳥の目と蟻の目の双方向の視点から語ること
今まで「実践に基づく子どもたちの教育を語る」と言いながら、実際にはその周辺のことに終始したキライがないわけではありません。もちろんそういうパースペクティブの上に語られねばならないことではあるのですが。しかし、それではいつまでも本題に入れないことになります。そこで今年は、そういう視野を持ちながらも実際に子どもたちが活動する現場から(特に私の場合は、今の学校教育を拒否し&拒否されたこどもたちの学びや活動に焦点を当てながら)教育の理論とそれを具現化し実証する実際の場面に付いて、あるいはその逆のパターンも踏まえて、つまりは理論と実際の双方向の視点を取り入れながら語りたいと思っています。ある人がこれを「鳥の目と蟻の目」という言葉で語っていました。

▼フリースクールの教育活動と子ども
「ぱいでぃあ」を利用されている親御さんなら先刻承知のことであると思っていましたが、改めて言わせてもらえれば「フリースクール・ぱいでぃあ」はNPO(NPO法人教育ネットワーク・ニコラ)が運営するフリースクールです。これは文科省認定下の国公私立の学校とは異なる、言わば民立の教育機関です。従って、一切の税金の恩恵を受けない代わりに、窮屈な枠に囚われ融通のきかない公式的な教育に制約されることもなく、独自の教育理念をもって理想とする教育を追求することが出来ます。実際に、「フリースクール・ぱいでぃあ」では「ぱいでぃあ」独自の子どもを主体とする教育活動を行っています。「勉強は教科書の中だけにあるのではない。社会の至る所に開いている」と考え、なるべく社会との垣根を低くして、社会との交流を図り、絶えず社会の息吹が感じられる教育を行おうというのもその一つです。

▼フリースクールとはどういう機関か
 ところが、フリースクールに子どもを通わせているご家庭の中には「NPOの教育活動に子どもを巻き込むまなくても…」という親御さんの声が一部にあるのも事実です。でも、そういうご家庭では得てして、なぜわが子が学校に行けなくなってしまったのかという状況を十分に考えることもなく(大人の事情に子どもが振り回されたという場合もありますし、何回か転校したけれどもそこにも通えなくなったという子などもいますが、必ずしも「どこが問題だ」と決めつけられない場合が多いのです)、「学校に行けなくなって、勉強が大変だ、進路をどうしよう」とばかりに、ひたすら「学校の代替機関」を求めてフリースクールにやって来るご家庭もないわけではありません(「ぱいでぃあは居場所として機能するだけではなく、進学にも力を入れ、それなりの実績もあげています)。が、フリースクールは──そこに学校でトップクラスの子が通って来ようとも──単なる進学塾のようなところとは大いに異なる機関なのです(進学塾で不登校生を扱えるところはほとんどないでしょう。昼間は学校に行っている生徒たちとは同居出来ないのですから)

▼自分の人生の主人公となれるように
「何かの縁があってフリースクールに来た子どもたち」──学校で何があったのか、なぜ学校に行けなくなったのか、その子の立ち直りの度合いに応じて自発的に向き合い、考えてもらうことになります。これは「ぱいでぃあ」を飛び立つときには自己否定の感情を吹っ切っているだけでなく、自分の人生の主人公は自分であると考えて自己づくりに向けて堂々と雄飛して欲しいと願っているからです。

▼日本の教育の現状を親子で知る機会に
学校は生徒が主体の場と言われながら、現実には自分が通えなくなる学校があったということ、先生はいつも生徒のことを考えていると言いながら、実際にはそれに何ら有効な手を打ってくれない教師がいたということ、国家が面倒みるから義務教育は無料と言いながら、不登校になると一切の教育公費の支援を受けられなくなる事態が待っていて、いわば教育棄民の状態に据え置かれる状況に追い込まれてしまった…こういう日本の教育の現状を親御さんだけでなく是非子ども本人にも知ってほしいのです。そして、そのために親も頑張りわが子のために声援を送っている姿があるということをも是非子どもにも知って欲しいのです。「ぱいでぃあ」ではそう願い、子どもたちだけでなく親御さんにも理解を求めています。子どもが不登校になるということは、今までの学校教育を良しとしてきた親に対する異議申立ての訴えでもあるわけですから。

▼子どもが主人公のフリースクール
実際のところ、フリースクールと一口に言ってもその形態は様々です。規模も大小様々なら、理念や目標とするところもスクールの数と同じだけあります。設立の動機も、止むに止まれぬ思いで親たちが自発的に立ち上げたとか、私たちのように先に子どものを主体とする父母の教育活動が先にありその発展型として誕生したとか、ビジネスを目的としてて参入したとか、様々です。ただ共通するところは文科省下の学校とは違って「子どもが主人公」というところではないかと思っています。学校というところは──いくら教師が弁明したところで──パターナリズム(権威をバックにした温情主義)の権化として教師が主人公の学び場であり、上意下達によって上からの指令が絶対的な重みを持つ場なのです。

▼人権を制限する収容施設としての学校
そういうことも含めて、日本には伝統的なパターナリズムの論理が幅をきかせる機関が幾つかあります。学校、病院、刑務所、少年院、児童養護施設……。そして、これらに共通しているのは収容施設であること、そこに収容された人間はみな人権が制限されるということです。
かつて、映画の黎明期、ドイツの無声映画の中に『カリガリ博士』というのがありました。ある人が偶然殺人現場を目撃します。彼は犯人を追って行きますが、逆に何者かに捕まえられ収容されます。そして、そこは精神病院でした。何と彼が殺人犯として追っていた人物はそこの院長となっているではないか。彼はそのことを病院の同僚に「実は……」と話します。しかし、誰が精神病院の患者の言うことを真に受けるでしょうか。これは一種の典型的なのフィクションには違いないですが、「事実は小説より奇なり」で、アンビリバボーな現象がよく散見されるのがこの現実世界です。

▼フリースクールでの学びをバネに人生にトライする
「蛮勇」と言って、無駄な争いをして命を粗末にする必要はありません。だから、「いきいきニコラ」や「フリースクール・ぱいでぃあ」のサイトでも「逃げろ!無駄に死ぬことはない。より生きるために逃げろ!」という趣旨のことを述べています。しかし、そうやって逃げたところで、自分の個性を意識すればするほど、周りの人間が自分の思いを解消してくれると思わない方がいいでしょう。そうではなく、自分の生き方を追求する中で周りの自発的な支持を得られることが大事なのではないでしょうか。だから、フリースクール・ぱいでぃあに逃れてきた子どもたちには、自分に自信を持って自己卑下の感情を克服すること、均一な統制の輪から外れたか否かで自分を判断するのではなく様々な異質な個性のぶつかり合いを通して人の中で生きる生き方を身につけることなどを、教科学習と同等に、場合によっては(その方が多い)それ以上の重きを置いて行動出来るようになることを大事にしています。もっと言えば、自分に自信を持ち元気にさえなれば、少し道草を食ってフリースクールで学んだことも含めて、今までの経験をバネとして未来の自分づくりにトライすることが出来るのです。

▼社会への架け橋としてのフリースクール
だから──振り出しに戻りますが──NPOに基づくフリースクールの活動の一環として、その主役としての子どもたちに大いに参加し、活動してもらいたいと思っています。今はもうただ決められた勉強をしていればそれで何とかなるという時代ではないのです。ところが、学校に代表される教育機関は今まで社会の悪弊が教育を汚染しないように社会との間に塀を立て(これもまた収容施設に共通している)、子どもたちを純粋培養するような形で教育を営んできました。しかし、その社会的有用性はとうに失せてしまっています。今ではむしろ社会から切り離された学びの方が問題視されるようになって来ています。世界の子どもたちと比較して日本の子どもたちは幼く社会性に乏しいと批判される所以です。ですから、①何でも見てやろう、聞いてやろう、体験してやろう。②書を捨てて街に出よう、野山に出よう。③学ぶ気になれば本はどこにでも開いている。──「フリースクール・ぱいでぃあ」のこのモットーを今後も掲げて活動していきたいと思っています。

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村