教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

脳化社会の行き着く先はどこ?…感受性の器づくり

2009年07月29日 | 「大人のフリースクール」公開講座
 ▼若者とインターネット情報
 インターネットに流れている情報は、ほとんどが二次情報や三次情報などの複製情報、あるいはそれ以下の恣意的な情報と考えていいのではないか。つまり、それは誰かによって価値付けられ、方向付けられ、解釈され、編集された情報であって、生の情報そのものではない。だから、インターネットの情報をもとに判断し行動しようとすることにはよほど慎重でなければならない。それはエセ情報ではないにしても、他人によって作られた情報であることをとくと心得ていなければならない。とっころが、今の若い人たちを中心に、ネットに流されている情報への無条件の信頼のようなものを感じさせられることがあり、そのあまりのナイーブさに少し複雑な思いに駆られることがある。

▼現場の取材と情報発信
 かつて私が不登校の子ども達やそ親御さんを主な読者とする教育雑誌『ニコラ』の取材を行なっていたとき、現場で大衆紙の新聞記者だけでなく専門紙の記者や他の雑誌記者などと同席したことが何度となくあった。彼らは皆、自分の足で歩き自分の目で現場に取材し、そこから第一次情報を組み立て発信する人たち、つまりは情報のコンテンツを作り上げる人たちである。もちろん私は彼らを観察することが目的ではなく、彼らと同じく現場に取材することが目的で来たわけだが、それぞれが「報道の自由」を掲げて行動しているとはいえ、取材や報道の目的・媒体がみな違う。そこで彼らがどんな原稿を書き、どんな記事を発信するのかということに、少なからず興味をもったものである。

▼情報の受け取り方
 対して、報道を享受する人たち、とりわけ今の若い人たちは権威あるマスコミの報道となると、そこに批判精神がないわけではないが、やはりアプリオリに(無条件に)「正しい情報」と信じてしまうこと多いようだ。「情報伝達のプロが嘘を伝えている筈がない」と。それはそれで尊重すべき受け取り方である。情報を伝達する側としては、何から何まで疑われたのでは記事に出来やしない。みんな交通法規を守って正しく運転してくれると信じて車を運転しているのと同じである。いつ対向車がセンターラインを超えて突っ込んでくるかも分からない…などという考えで頭がいっぱいであれば、とても車の運転など出来やしない。情報の伝達、報道というものが発信者と受信者との信頼関係の上に成り立っているのは間違いない。「しかし、…」である。

▼取材者のフィルターを通して
 たとえば、戦場という現場で取材する時のことを考えてみたい。あるカメラマンが戦闘の場面を撮影するとする。彼のカメラ自体はニコンにせよキャノンにせよ一つの道具に過ぎない。多少の性能の違いはあるにしても、レンズを向けた被写体が客観的な映像として記録される。では、誰が撮っても同じように写るのだろうか。答えは「ノー」である。実は被写体はカメラマンの目を通して眺められているのだ。ここには、同じ鉛筆やボールペン等の筆記用具を使ったとしても、記者が違えば記述される文章が違うのと似ている。全てはカメラマンや記者の頭脳を通して、彼らのそれまでの経験や学びや思考を通して、現場の事象が映像や文章という情報となって発信されるのだ。だから、人が享受する情報のどれ一つとして人の思考のフィルターを通さないものはないのである。

▼判断の基準はマスコミの情報?
 確かに、ほとんど非可逆的な一方向の伝達方式であるテレビや新聞等のマスコミの情報伝達は、その権威主義的な価値付けや公認された“公正さ”や“正論”という枠組みと相俟って、そこに胡散臭さを感じる人たちが多くなってきたのは確かである。そこに意図的な情報操作の臭いを感じ取る人もいる。そして旧来のマスコミが次第に影響力を弱めてきているとはいえまだまだ伝統的な存在感に揺るぎがないのは、人々の多くがまだそこに拠って立つ自己の判断の基準を求めているからであろう。もはや完全な信頼は置けないが、自分の判断が糸の切れた凧のようでは心許ないからである。

▼インターネットの情報の信用度
 では、インタラクティブな(双方向の)情報が行き交うインターネットのような情報伝達の方法はどうなのだろう。そこではメールやメーリングリストやメルマガやブログ、各種サイトなどの情報が絶えず流されている。そしてその情報量は今や圧倒的で、巨大な国際的な図書館や博物館の趣がある。かつてはその大学に入らなければ入手できなかったような貴重な情報も今ではその多くがほとんど苦労知らずに手に入るのではないか。学ぶ気さえあれば情報は至るところにあり、それこそ時空の壁を越えて接することが出来る。昔の知識人にはとても考えられなかったことである。では、その情報は信に足るものかというと、これが難しい。正に玉石混交で、真偽の区別なく情報が流れ、その情報が正しいものであると権威付けるものがもはやなくなったからである。それに、それらの情報は一時情報ではない。先に見たように、それは人の思考のフィルターによって取捨選択され選別された二次情報や三次情報であり、あるいはそれ以下の恣意的な情報であったりする。学術的な観点からするならば、それらはみな使い古された情報か信の置けないなのである。例えば“Wikipedia”などという百科事典の類がネット上にはあるが、思考の参考には出来ても、『広辞苑』並みに扱うわけにはいかない。

▼オリジナルではない情報の海
 だから、極論するならば、ある学生が卒論のために必要な情報を全てインターネットを駆使して集めたとするならば、当人にとってはそれが新しい情報のように見えたとしても、そこに彼のオリジナルな情報や考えは何もなく、全ては他人の言葉の引用の山に過ぎなくなる。もし、それに彼の名を冠したとするならば、そこに新しいものは何もなく、それはまるっきり盗作の論文に過ぎなくなる。これは常識のレベルのこと。だが、今、海賊版の流布や著作権無視の風潮のように、ある種の若者たちにはこの認識が乏しいように見える。これはインターネット社会の負の側面だろう。そして、それらの情報をあたかも自分が考えかのように錯覚している場合もある。これは情報の海に溺れている姿ではあるまいか。

▼脳化社会の行き着く先は
 今は、「情報化社会」を飛び越え「脳化社会」だとも言われる。人間が作り出した全てのもの、人間が関わる全てのものが、人間の脳が作り出したものであるといわれる。脳の研究が盛んであり、脳科学者とかいう先生方がテレビにもまるでお笑いタレント並みに露出している。昔は「それが常識だよ」と言われれば「そんなものか」と思ったものだが、今は「それは脳の働きのせいだよ」と言われれば「そんなものか」と思ってしまうから不思議である。だが、「だから、何なの?」とルール違反の話を振った時、その先の答えが何もないように見えるのは私だけの感慨か。

▼自分の言葉で考えない子ども達
 危惧すべきは、新たな意味で「自分の言葉で考えない子ども達」が生じてきているように思えることである。時事に通じ、社会の動向に通じているように見えながら、その実、その人のオリジナルなものは何もないという現象に時々でくわす。よく聞けば、それはどこかでアナウンサーや解説者が言っていた言葉。それがその人の口から滔々と出る。あたかもその人が独自に考えて述べた言葉のように。他人の言葉を半ば鸚鵡のようにくり返す当人もそれが自分の言葉であることを疑っているようには見えない。記憶された言葉が当人の脳の中で自動回転していて、あたかもその言葉が自分の言葉そのものとなってしまっているのかもしれない。

▼自然の機能を退化させた人間の営み
 そこでは、ミツバチが花を捜し求めて蜜を採取し蜂蜜へと変換するように、情報を採取して言語化するためのフィールドワークも現場への踏査も必要はない。そこでは、新たなコンテンツを生み出すことが重要なのではなく、インターネットに流布する情報の屍を如何に巧みに自分の口で転がせるかが問題なのだ。これは巨大な情報を蓄える生身のハードディスクのようなものだ。これはもしかすると「余計なことは考えずにひたすら記憶させることを主眼としてきた日本の教育」が生み出した産物ではないのか。そこに私は人間の脳化社会の行く末を、手や足や様々な感覚器官を退化させてしまった反自然的な人間の営為の行き着く先を見るような思いがしている。

▼感受の器=人のOSづくり
 ちなみに、私が関わるスクールでは、かの寺山修司にならって、「書を捨てて街に出よう、野山に出よう」と掲げ、現場に出かけ、本物に触れ、体感することをとても重視している。人間の営為をいたずらに脳に限定するのではなく、その前にそれを感受するための器=人としてのOSづくりが必要なのだ思っている。

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