青くさい話になりますが
若い時から「人生の意味とは何か」とか「人生の目的は何か」とか考え、答えを求める性質でした。
これだ!と納得できる普遍的な人生の目的があるはずだと思っていたのです。
哲学っぽい本を読んだり、何かを成し遂げた人の生き方考え方に憧れたり。
その結果、今は「自分が持っているもの、与えられたものを活かすこと」が人生の目的なのかなと思っています。
それが人類共通のことかはわかりませんが。
でも、いつも引っかかるのが理不尽に命を奪われたりした人はどうなのか。と言うことでした。
災害や交通事故、虐待、犯罪に巻き込まれた人の人生とは何なのか。
戦火の中で死にゆく子供たちの人生に意味はあるのか。
どうしてそのような仕打ちを与えられなければならないのか。
神も仏もないじゃないか。
もちろん、宗教的な答えはあるでしょう。
でもやっぱり納得できない。
この長年の疑問の一つの答えに、この前読んだアドラー心理学の「嫌われる勇気」の中で出会いました。
(以下引用)
我々の世界には理不尽な出来事が隣り合わせで存在しています。
戦禍にまきこまれて命を落とした子どもたちを前に「人生の意味」など語れるはずもありません。
つまり、人生には一般論として語れるような意味は存在しないのです。
(中略)
人生一般には意味などない。
しかし、あなたはその人生に意味を与えることができる。
あなたの人生に意味を与えるのは、他ならぬあなただけなのだ。
その答えとは「一般的な人生の意味はない」と言うものでした。
まさかの、「ない」が答え。
しかし、まことしやかに「ある」という説明をされるより、ストンと腑に落ちました。
その人なりの答えがあって、その人なりの意味のある人生を送る。
当たり前と言えば当たり前のことです。
けっこう、当たり前のことが正解だったり、「分からない」が答えだったりするものだよねと、このごろ感じていましたがやっぱりそれでよかったのだ。
たとえば岡江久美子さん。
本当に無念で理不尽な死です。
ですが、彼女の人生の意味は彼女が与えることなのです。
人の尊厳ってそういうことなのかもしれません。
幸せな意味のある人生だったことを祈るほかないです。
ただ、アドラーの本では「戦禍や不条理な悲劇に対して何もしないのは不条理を肯定しているのと同じなので、なんらかの行動を起こさなければなりません」と加えられています。
このコロナに関して言えば、出来ることをやる、気を付けることが報いることなのだと思います。
以上、青くさい独り言を長々と失礼いたしました。
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