牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

ミケランジェロの彫刻、ダビデ像の大理石

2015-10-24 18:33:32 | Weblog
ミケランジェロがフィンツェのある通りを歩いていました。彼は廃棄物の中に、カララ・マーブル(イタリアのカララ地方で採れる最高の大理石)が捨てられているのに気付きました。
最高の大理石は、未熟な彫刻師切断し、切り刻み台無しにし、廃棄物の中に投げ捨てたものでした。
しかし、ミケランジェロは、廃棄物の中に投げ捨てられたカララ・マーブルの中に、天使の姿=壮麗で美しい偉大な姿を見たのです。
廃棄物の中から拾い出し、ピエタと並ぶミケランジェロの代表作であるばかりでなく、ルネサンス期を通じて最も卓越した作品の一つであるダビデ像を創りだしたのです。
ダビデ像は、人間の力強さや美しさの象徴ともみなされる作品であり、芸術の歴史における最も有名な作品のひとつと言えます。
ダビデとは、イスラエル王国の二代目の統治者。大理石で身の丈5.17メートルにかたどられたこの像は、ダビデが巨人ゴリアテとの戦いに臨み、岩石を投げつけようと狙いを定めている場面を表現しています。


イエス・キリストは、投げ捨てられたような人生を拾い上げて、神の子としてくださり、限りなく可能性に輝く品性へと造り変えてくださいます。
イエス・キリストの十字架と復活の救いをアーメンと信じ、その偉大な愛の御手に人生を委ねてみませんか。輝かしい祝福の日々を、平安で幸せに
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝います。










今日も天国。ハレルヤアーメン。

2015-10-24 18:22:23 | Weblog
詩篇143:8 朝にあなたの恵み=変わらぬ愛のことばを聞かせてください。 私はあなたに信頼していますから。私の行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたをあおいでいますから。
恵みの朝です。朝ごとに、変わらぬ愛と、愛のことばを聞けるのは、神の子とされた幸いです。
恵みと愛とに 救われ今日も
静かに平安 祈りと賛美
主イエスを信じて 神の子となり
喜び輝き 守られ過ごす


変わらぬ恵みは 十字架の救い
罪とが赦して 呪い取り去り
病もいやして 永遠のいのちも
与えて天国 ハレルヤアーメン


主イエスは復活 世の終わりまで
インマヌエルの主 御霊に満たし
豊かな祝福  愛と力で
福音伝えて 今日も天国
アーメン。
 
ありがとうございます。今日もまた天国一日でした。感謝します。


収穫は多く、働く人が少ない

2015-10-24 07:08:28 | Weblog
聖書の一言;ルカの福音書10:2 そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
生駒聖書学院のある俵口、上田原、下田原、南田原、北田原は米所、黄金の穂波が波打ちます。実りの秋は収穫の秋。先日は滋賀県草津市から、近江こしひかりを持っての来訪もありした。
豊かな刈入れは、豊かな種蒔きから始まります。
実りは多いのは、イエス・キリストが十字架の上にいのちを捨てたので=ヨハネの福音書12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。の通りに実現しています。
全世界の救いの種となり、今は収穫の時です。アーメンと言えば救われ、恵みと愛の人生を、復活のキリストと共に、収穫の世界で働く喜びです。
生駒聖書学院が俵口にあるのは、ここから出て豊かな収穫をする働き人を送り出すためです。
収穫の時は来ています。今春も長野県茅野市、丹後半島=天橋立、大阪府堺市、東大阪市へと送り出し、クリスマスを迎えます。
ヨハネの福音書4:34-38 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」
畑の中の黒い土、ポロリと落ちた麦の種。
恵みと愛との陽を受けて、100倍麦が取れました。
日本は愛されたすばらし国。福音の種は、蒔き続けられています。イエス・キリストをアーメンと受け入れるだけです。救われ平安と幸せ豊かに、天国の日々です。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。


笑顔の出会いが続く日々

2015-10-23 05:40:47 | Weblog
聖書の一言;ルカの福音書9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」
昨日、坂道で会ったか男の子は、名前も2歳とにこやかに答え、ママも初めての出会いですが、優しい笑顔。祝福の祈りを道端で、元気でたくましく、素直に賢く成長を、イエス様のお名前でアーメン。きょとんとしたがアーメンとニッコリ、握手してくれてバイバイ。
80歳の男性が車を止め、窓を開けて挨拶。肝臓がんで82歳の奥様が召され、牧師と同じで一人になった。二人の娘が来てくれるが、一人になってしまった。ウインドー越しに握手し、平安と慰めを祈りアーメン。
午後3時頃学院入り口に、自転車でたたずむ方にこんいちわ。65歳男性長男長女、40代で二人とも独身貴族、親子4人で楽しく生活だが孫の顔も見たい。握手し幸せを祈りアーメン。神学生に頼んで冊子を持って行って、やっと間に合った。
さらに40歳男性と初対面。図書販売車内で、イエス・キリストを心に迎えるとアーメン
の祈りを。
サーバントリーダーシップが行われる、平和憲法の国になるよう祈る朝です。
哀歌3:17- 私のたましいは平安から遠のき、私はしあわせを忘れてしまった。私は言った。「私の誉れと、主から受けた望みは消えうせた。」と。私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
ありがとうございます。きょうもまた天国の一日です。感謝します。




良い出会いとすばらしい愛の歩み

2015-10-22 18:37:47 | Weblog

詩篇141:1ー3主よ。私はあなたを呼び求めます。私のところに急いでください。私があなたに呼ばわるとき、私の声を聞いてください。
私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上ぼりますように。
主よ。私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください。
祈りは宣言。もちろん願い求め、希望でもあり期待です。しかし、イエス様は、まことにあなた方に告げます。だれでも、この山に向かって、動いて海に入れと言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でもすでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。と教えました。
その約束は今日も変わらず、そのまま信じて祈るとき実現します。精神的なことはもちろん、物質的なことも健康のことも、すべてのことを祈り、答えられて幸せです。
午後、ライフセンター販売車が書店開き。山田こうぞ市議夫妻と中村てつじ元衆議院議員ご夫妻来訪。幸いな交わりと祈りの時も。
午前4時起床で、午後6時まで面談など、動き続けの一日でした。2歳の男の子と若いママ、80歳と65歳男性、40代3人と握手し祈るときも与えられました。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日でした。感謝します。







榮 義之さんの写真


榮 義之さんの写真

嵐の海も静められ、平安に望む港へ

2015-10-22 05:21:43 | Weblog
聖書の一言;ルカの福音書8:24-25 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。
イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
イエス様は弟子たちといっしょに舟に乗り、すぐ手枕をして、ぐっすり眠ってしまいました。
ところが突風に見舞われ、弟子たちは水をかぶって危険になりました。
イエス様も一緒でしたが、熟睡中だったのです。でもベテランの漁師たちでも、おぼれ死ぬ恐れでいっぱいでした。死なばもろともと言う覚悟もなく、私たちがおぼれて死にそうです。自分たちのことでいっぱいになりました。今でも同じことが信仰生活で起こります。心配、不安、葛藤、軋轢、矛盾に満ちた世界は、嵐の海に置き去りにされた思いに支配されます。
祈っても叫んでも助けが無く、焦りもがき苦しみます。
イエス・キリストは共におられるのに、何で?と疑問だらけ。
しかし、主の御名を呼ぶ者は、誰でも救われます。イエス様は起き上がって、風と波をしかりつけられ、すると風も波も収まり、大なぎになりました。
昨日は、大会で世界一になったこともある、アメリカ帰りのサーフアーが来訪し、話を聞きました。波乗り越えて、いざ行かん。幸ゆたかなり、太平洋です。波を求めて種子島までもサーフィンでアメリカの仲間と行き、種子島新生キリスト教会での交わりでした。
詩篇107:28-30 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。
主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。


二枚舌を使う者どもが、甘い汁を吸うのはごめんです

2015-10-21 18:23:05 | Weblog
詩篇140:12ー13 私は知っています。主は悩む者の訴えを支持支持し、貧しい者に、さばきを行われることを。
まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。
リビングバイブル訳で、二枚舌を使う者どもが、この国で甘い汁を吸うのはごめんです。早々に罰してやってください。しかし神様は、踏みつけにされている人々を助け、貧しい者の権利をお守りくださいます。神様を信じて従う人は、きっと感謝の声を上げことになるしょう。
ありがとうございます。今日もまた天国の聖なる一日です。感謝します。

聞く愛から、聴く愛へ

2015-10-21 09:44:24 | Weblog
聖書の一言;ルカの福音書8:18 だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。
愛は聞きます。一つの口と二つの耳があるのは、話すことの二倍聴くためです。
きくと言う字は三つあります。
聞く=門替えで聞くので、自分に都合よいように聞きます。
訊く=問いただします。自分に良い答えが出るまで、訊き続けます。
聴く=耳を傾け、十四の心=徳のある心で、しっかり聴きます。
聴き方に注意することは、持っている人は、さらに与えられます。教室での授業もしっかり教師の教えを注意して聞くことです。
職場でも聞き方に注意すれば、仕事はやりやすくなります。

直ぐ分かった、分かったという人で,ほんとうに分かった人は少ないそうです。分かっていないのに、分かったと言うので、持たない人は、持っているものまでも取り上げられます。
耳のある者は聞きなさいともあるように、物事がハッキリ明らかに分かるので、悩まず苦しまずに、明るい人生を豊かに生きることができます。

信仰は聞くことにあり、聞くことはキリストのことばによります。聖書のことばにしっかり耳を傾け、聴き続ける心躍るような幸せを体験しましょう。
ありがとうございます。今日も天国の一日です。感謝します。

愛はとりなす。とりなしの祈りは大きな愛

2015-10-20 18:22:45 | Weblog
愛はとりなし。とりなしの祈りは愛です。
今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。モーセの愛のとりなしの祈りです。
聖書には、アブラハムとモーセとパウロの必死のとりなしの祈りが書かれています。また、イエス・キリストのとりなしの祈りがあり、その祈りは今も絶えることなく続いており、アーメンと言えば救われ、信仰生活も守られる恵みの源です。
キリスト教会の歴史の中でも、とりなしの祈りの勇者たちがあり、世界中で信仰復興が与えられています。クリスチャンは、裁くためではなく、愛の許しととりなしにために、生かされています。家庭の中で、学校や職場で、日本と世界のために、モーセのように愛と情熱のとりなしの祈りをささげる、今日もまた天国の一日です。

アブラハムは、ソドムとゴモラのために、神の前に立ちもし50名の正しい人がいるなら、45人なら、40人、30人、10名の正しい人がいるならと、肉薄して祈りました。
残念ながらソドムとゴモラには10名の義人もなく、義人ロトと二人の娘だけが救われました。

使徒パウロは、私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(ローマ9:1-3)と、自分の同族イスラエルのためにとりなしました。

内村鑑三は、I Love two J’s(私は2つのJ=Jesus&Japan=日本とイエスを愛すると、迫害を受けながら日本の救いのために邁進しました。

そして何よりも、イエス・キリストは、ゲッセマネの園で、人類の罪と汚れの毒杯を飲み、十字架の上で罪の刑罰を引き受け、いのちを捨てられました。そして3日後の朝に復活し、今も生きて人類のために執り成しの祈りを続けておられます。
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル7:24-25)
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。(ローマ8:34-35)

イエス様は、ペテロに、「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。全てのクリスチャンが、また全人類が、十字架の救いと復活のとりなしの中にアーメンと言えば救われるのです。
だから今、だれでもアーメンと信じバプテスマを受けるなら救われます。
失望しないで、とりなしの祈りが続くように、聖霊の豊かな愛に満たされる、今日もまた天国の

その町に、ひとりの罪深い女がいて

2015-10-20 06:12:55 | Weblog
聖書の一言;ルカの福音書7:36-50 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。

「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

その町にひとりの罪深い女がいてと紹介されたは、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ(ルカ8:2)だったのでは?と理解されています。、
その町にひとりの罪深い女がいてと言われるほど知られた女性でした。しかし、イエス・キリストに出会い、7つの悪霊を追い出され、聖なるきよくされ、あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。あなたの罪は赦されたのです。
イエス・キリストの十字架は、すべての罪を赦しきよめ、罪ある女を復活のキリストとの最初の出会いに導き、十字架と復活の輝かしい証人に変えました。
十字架の血に 清めぬれば 来(こ)よとの御声(みこえ)を 我は聞けり
主よ我は 今ぞ行く 十字架の血にて 清め給え アーメン

讃美歌515番を賛美しながら、イエス・キリストの十字架の救いを、種子島の西之表キリスト教会で体験しました。1957年11月24日で57年前になります。
11月1日に西之表キリスト教会礼拝でメッセージ。日本バプテスト連盟種子島新生キリスト教会でも夕拝でメッセージです。お祈りお願いします。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。