牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

愛はとりなす。とりなしの祈りは大きな愛

2015-10-20 18:22:45 | Weblog
愛はとりなし。とりなしの祈りは愛です。
今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。モーセの愛のとりなしの祈りです。
聖書には、アブラハムとモーセとパウロの必死のとりなしの祈りが書かれています。また、イエス・キリストのとりなしの祈りがあり、その祈りは今も絶えることなく続いており、アーメンと言えば救われ、信仰生活も守られる恵みの源です。
キリスト教会の歴史の中でも、とりなしの祈りの勇者たちがあり、世界中で信仰復興が与えられています。クリスチャンは、裁くためではなく、愛の許しととりなしにために、生かされています。家庭の中で、学校や職場で、日本と世界のために、モーセのように愛と情熱のとりなしの祈りをささげる、今日もまた天国の一日です。

アブラハムは、ソドムとゴモラのために、神の前に立ちもし50名の正しい人がいるなら、45人なら、40人、30人、10名の正しい人がいるならと、肉薄して祈りました。
残念ながらソドムとゴモラには10名の義人もなく、義人ロトと二人の娘だけが救われました。

使徒パウロは、私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(ローマ9:1-3)と、自分の同族イスラエルのためにとりなしました。

内村鑑三は、I Love two J’s(私は2つのJ=Jesus&Japan=日本とイエスを愛すると、迫害を受けながら日本の救いのために邁進しました。

そして何よりも、イエス・キリストは、ゲッセマネの園で、人類の罪と汚れの毒杯を飲み、十字架の上で罪の刑罰を引き受け、いのちを捨てられました。そして3日後の朝に復活し、今も生きて人類のために執り成しの祈りを続けておられます。
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル7:24-25)
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。(ローマ8:34-35)

イエス様は、ペテロに、「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。全てのクリスチャンが、また全人類が、十字架の救いと復活のとりなしの中にアーメンと言えば救われるのです。
だから今、だれでもアーメンと信じバプテスマを受けるなら救われます。
失望しないで、とりなしの祈りが続くように、聖霊の豊かな愛に満たされる、今日もまた天国の

その町に、ひとりの罪深い女がいて

2015-10-20 06:12:55 | Weblog
聖書の一言;ルカの福音書7:36-50 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。

「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

その町にひとりの罪深い女がいてと紹介されたは、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ(ルカ8:2)だったのでは?と理解されています。、
その町にひとりの罪深い女がいてと言われるほど知られた女性でした。しかし、イエス・キリストに出会い、7つの悪霊を追い出され、聖なるきよくされ、あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。あなたの罪は赦されたのです。
イエス・キリストの十字架は、すべての罪を赦しきよめ、罪ある女を復活のキリストとの最初の出会いに導き、十字架と復活の輝かしい証人に変えました。
十字架の血に 清めぬれば 来(こ)よとの御声(みこえ)を 我は聞けり
主よ我は 今ぞ行く 十字架の血にて 清め給え アーメン

讃美歌515番を賛美しながら、イエス・キリストの十字架の救いを、種子島の西之表キリスト教会で体験しました。1957年11月24日で57年前になります。
11月1日に西之表キリスト教会礼拝でメッセージ。日本バプテスト連盟種子島新生キリスト教会でも夕拝でメッセージです。お祈りお願いします。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。