昨日の礼拝では、入園や入学を祝福して祈りのときを持ちました。ニコニコと輝いた笑顔で前に進み出る姿は、ピカピカの一年生!
今日は生駒聖書学院も入学式です。今年度は6名が牧師になるため。今日からスタートします。先輩たちとともに張り切っている姿に感動です。
1959年に種子島から生駒に来ました。兄が大阪駅まで迎えてくれ、聖書学院に着いたとき、元気な歓迎の挨拶に包まれたことを、昨日のことのように思いだします。
将来、牧師にならないかと声をかけられましたが、とてもなれないと正直思いました。当時の種子島の牧師は、とてもハンサムで音楽家、人格も穏やかで優しく、写真や電気製品の修理など何でもできる先生でした。牧師は聖書だけでなく何でもできる人なんだなあと遠くから眺めていました。
歌は小学校一年生から一度も歌ったこともなく、話もほとんどしないで黙っている自分。何よりも孤独を愛し、人間嫌いで世の中のすべてのことを否定的に見ていたときです。クリスチャンになったとはいえ、聖書の知識もなくただ礼拝に出ているだけの高校生でした。
兄からは、牧師になるには神様からの召命が必要だという第一条件があるとの手紙。まず召命ということばの意味さえ分からないときでした。
ある日、山に薪取りに出かけ、薪を背負えるだけ背負い、途中で一休みしました。当時は新約聖書をどこに行くときも持っていたので、開いて読み始めました。ローマ人への手紙10章14節と15節のことばが、目と心にシッカリ留まりました。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
そのことばが心に張り付き、神様がイエス・キリストのすばらしい救いの知らせを伝えるために、召してくださっていると思うようになりました。
良いことの知らせを伝える足として献身を決意し、生駒聖書学院に入学し、今日に至っています。
アーメンと言えば救われます!イエス・キリストはすべての罪や病、のろいや貧乏、死と滅びのすべての悩みを十字架に引き受けて死んでくださいました。墓に葬られましたが、3日目に復活し聖霊により信じる者の心に訪れてくださいます。
「イエス様。信じます。私の心にお迎えします。アーメン」と言ってください。アーメンとは真実・、本当ですという意味です。本音で祈れば救われます。
良い知らせをいつもお知らせできればと願いながらの日々です。
ローマ人への手紙
10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
今日は生駒聖書学院も入学式です。今年度は6名が牧師になるため。今日からスタートします。先輩たちとともに張り切っている姿に感動です。
1959年に種子島から生駒に来ました。兄が大阪駅まで迎えてくれ、聖書学院に着いたとき、元気な歓迎の挨拶に包まれたことを、昨日のことのように思いだします。
将来、牧師にならないかと声をかけられましたが、とてもなれないと正直思いました。当時の種子島の牧師は、とてもハンサムで音楽家、人格も穏やかで優しく、写真や電気製品の修理など何でもできる先生でした。牧師は聖書だけでなく何でもできる人なんだなあと遠くから眺めていました。
歌は小学校一年生から一度も歌ったこともなく、話もほとんどしないで黙っている自分。何よりも孤独を愛し、人間嫌いで世の中のすべてのことを否定的に見ていたときです。クリスチャンになったとはいえ、聖書の知識もなくただ礼拝に出ているだけの高校生でした。
兄からは、牧師になるには神様からの召命が必要だという第一条件があるとの手紙。まず召命ということばの意味さえ分からないときでした。
ある日、山に薪取りに出かけ、薪を背負えるだけ背負い、途中で一休みしました。当時は新約聖書をどこに行くときも持っていたので、開いて読み始めました。ローマ人への手紙10章14節と15節のことばが、目と心にシッカリ留まりました。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
そのことばが心に張り付き、神様がイエス・キリストのすばらしい救いの知らせを伝えるために、召してくださっていると思うようになりました。
良いことの知らせを伝える足として献身を決意し、生駒聖書学院に入学し、今日に至っています。
アーメンと言えば救われます!イエス・キリストはすべての罪や病、のろいや貧乏、死と滅びのすべての悩みを十字架に引き受けて死んでくださいました。墓に葬られましたが、3日目に復活し聖霊により信じる者の心に訪れてくださいます。
「イエス様。信じます。私の心にお迎えします。アーメン」と言ってください。アーメンとは真実・、本当ですという意味です。本音で祈れば救われます。
良い知らせをいつもお知らせできればと願いながらの日々です。
ローマ人への手紙
10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。