フィリピン移住だが、筆者のキャスター付きの椅子のキャスターが泥だらけで部屋が汚れたウンウンだが、トンデモナイ原住民だ。
*こっちの原住民大工など屋根裏工事でライトを貸してほしいと言うので<<充電式でラジオも付いている高いのを貸したらダイヤル式オンオフスイッチを逆に思いっきり回して破壊されてオシマイ!
更に電気ドリルの回転切り替えスイッチを逆にして穴があかないので思いっきり押してドリルの歯を折った。
このバカ野郎は、少し難しい鉄筋入れたセメント工事を途中で体の調子が悪いと投げ出して、天井が丸見え状態で雨天時にびしょびしょ!!
*別の大工に頼んで工事を進めてようやく完了したが、元が悪いので雨が滲んでくる。
この次に来た、この大工は、腕は少しはマシだがキッチンの工事で勝手に高いキッチンナイフを使って先端を折る。
まだ工事の途中だが、別のところへ掛け持ちで行くので途中から全然進まなくなった。
**日本の田舎者は、知性が足りないが(田舎での生活の知恵はあるが学歴がない)フィリピンの原住民など日本の田舎者どころではないレベルの馬鹿揃い。
ただしフィリピンの原住民は、余程の性格の悪い人間でない限り(中途半端な中間層的な原住民は、見栄の張り合いをする傾向が非常に強い)、日本民族のような執念深さや妬み嫉みは外人には少ない<<連有は、外人は別の文化だと認識してる>>
「田舎暮らしの人づきあい」都会育ちのアラフォーが実感したこと
11/9(土) 6:01配信
ダイヤモンド・オンライン
「田舎暮らしの人づきあい」都会育ちのアラフォーが実感したこと
写真はイメージです Photo:PIXTA
東京の港区で生まれ育って「都会人」を自称する筆者が田舎暮らしの生活をスタートさせ、その様子をリポートするこの企画、前回、前々回で住み心地や虫問題について触れた。今回は最終回として、ご近所付き合いや土地の人柄について取り上げたい。(取材・文/フリーライター 武藤弘樹)
● 一番大きかったギャップ 人との距離感の違い
田舎への移住を開始してそれまでの生活とのギャップやカルチャーショックをいくつか感じてきたが(過去記事『恐怖のGも出現!田舎暮らしを始めたアラフォーが苦悩する「虫との闘い」』、『都会育ちアラフォーが、妻子と猫を連れて始めた「田舎暮らし」の現実』を参照)、対人関係の違いへの驚きが最も大きかったかもしれない。
「都会は人が冷たい。田舎は温かい」とよく聞くが、これはとらえ方次第なのではないかと個人的には考える。都会にも温かい人はちゃんと何人もいたし、田舎にもいた。だから都会と田舎、それぞれに住む人たちの人間性にそこまで大きな隔たりがあるとは感じていないが、田舎の方が人と人との距離感が圧倒的に近いのは事実である。その土地の空気を一緒に吸っているだけで同志と見なされるような人懐っこさを、新居に移ってから接したその土地の人たちに感じた。高齢の方が割合多く住んでいる地域だからというのもあるかもしれない。
● 娘が必ず褒められる 気持ちよくなりたい親は田舎がおすすめ
田舎ではスーパーなどどこかに出かけると、ほぼ必ず一度は声をかけられる。1歳半になるわが娘は人をして「オムツが本当に似合わない」「ヘップバーン以来の衝撃」と言わしめるほど大変美人に育っていて、お世辞半分で聞いても親としては誇らしい限りであり、その娘がすれ違う人たちに褒められるのである。
都会は違った。
ばっちりとめかし込んだ子連れのママさんらは、当然自分の子どもが一番かわいいと思っているはずであるし、子連れの買い物自体修羅場のようなところがあるから余裕がなく、いちいち声をかけてきたりしない。たまにこちらにあえて聞こえるように「あの子超かわいい」とささやき合ってくれる子連れ夫婦に出くわし、「あの夫婦はわかっている。偉い」と悦に入り、好意から「あそこの子もよっぽどかわいかった」と自然と思わされることがあり、なれ合いではあるが善意が行き来する心地良い交流が生まれることがある。都会では得難いこの機会が、田舎では頻繁に得ることができる。
近所に玄関先へ椅子を出してよく世間話に興じている高齢の女性2人がいて、足元には野良猫が数匹はべっている。娘を散歩させていると彼女らの前を通りかかるのだが、娘はそこでアイドルのようになっている。
親としては彼女らに「優しく接して頂いて本当にありがとうございます」と思うとともに、気持ちいい。つまり気持ちよくなりたい日があれば、娘を散歩に連れてそちらの方面に向かえばいいお手軽さである。
高齢者が多い、と先ほど書いたが、一般的に子どもをかわいいと思う高齢者は多く、田舎はさらに人との距離が近いので高齢者がすぐに娘を褒めてくれる。子持ちでわが子を他人にたくさん褒めてほしい人にはぜひ田舎への移住を推奨したい。
● 近所付き合い 共同体としての結束力
“ご近所さん”という言葉の持つ意味合いは都会と田舎でまったく違うこともわかってきた。都会のご近所さんは「たまたま近くに住んでいる者同士というだけの縁。関係は良好に越したことはないが概ね他人」だが、田舎は「近くに住んでともに生きていくのだし、せっかくだから積極的に仲良くしましょう」という空気がある。
基本的にずっとそこで生活していく前提なので、ご近所との関係がこじれたら悪夢だが、うまくいっている間は非常に心地よい。必要な際には互いに助け合える安心感もある。都会でも、知り合いの家庭では子どもの保育園を通じて知り合った父母たちがおおいに仲良しになるケースなどがあるが、田舎ではただご近所というだけで仲良しになる可能性がある。
まあしかし「村社会」という言葉もある。村社会に漂っているとされる外部への排他性はまだ肌で感じたことがないのでどうなのかというところだが、町会費集金の予告が先日回ってきたので、これをボイコットすればひょっとしたら「村八分」の扱いを受けるのやもしれぬ。今回の引っ越しでは都会風を吹かすこちらよそ者に対して、土地の人たちの非常にオープン、ウエルカムな雰囲気を感じた。
新入居者への対応には地域ごとに違いがあるのかもしれない。快く受け入れてくれる人たちが集まった地域が移住先であったのは幸運であった。
家の前が通学路になっていて、庭に出て作業をしていると下校中の小学生たちがこちらを見て、元気よく「こんにちは!」と挨拶してくる。これはいろいろな子が、かなりの高確率で、である。小学生の威勢よろしき挨拶は非常に気持ちよく、素晴らしい地域だと感嘆し、また自分はもうそんなことを感じる年齢になったのだと感慨深い。
都会の実家に帰った時、ご近所の男性が往来に出ていたので、新居で日常的にやっている調子でちょっと声を張って挨拶すると、男性はこちらを不審げに見つめて3秒ほど固まり、あごを若干突き出して会釈を返してきた。あとで母に聞けばあの男性は獣医師らしく、「いい年して挨拶もろくにできないような医者にうちのかわいい猫は決して見せないからな!」とひとり息巻いたが、よくよく考えてみるとあの地域において異分子は明らかに私の方で、田舎住まいを始める前の私があの男性の立場だったと想像すれば、いきなりご近所さんに元気よく挨拶されておそらく戸惑ったはずなのである。
ご近所さんとの挨拶はするに越したことはないが、「特にしなくても問題ない都会」と「積極的にしてみんなで気持ちよくなる田舎」という大まかな傾向はあるかもしれない。
人との距離感が近い傾向にある田舎に住むにあたって、自分の領域を大事にしたい人には近すぎるのも考えものであろう。わが家のご近所さんは近すぎず、ある程度の距離を保ちながら近く接してくれる人たちだったがどうやらこれには理由があった。
町会長の訪問があった日に聞いたのだが、なんでもその地域では昔ながらの農家と新興住宅地に移り住んできた勤め人たちの間でいがみ合いが長きにわたってあって、最近ようやく融和してきているとのことだった。
筆者の新居は新興住宅地の方だったので、田舎なりの距離感の近さと勤め人世帯の距離感の遠さがうまい具合にブレンドされているのかもしれない。
とはいえ、距離感に関しては一度戸惑ったことがある。
ある日、庭でかがみこんで作業をしていると急に頭上から声が聞こえた。驚いて顔を上げるとすぐそばにご近所さんが立っていて、「それはこうした方がいいんじゃない?」とアドバイスをしてくれ、作業を手伝ってくれた。ご近所さんが手を貸してくれた時点で筆者は自分のペースと自分のプランを失った。「自分でやるので大丈夫です」と手伝いを辞退する選択肢もあったが、好意をむげにするのは申し訳ないし、何よりそのご近所さんが初老の男性のわりには二の腕の筋肉が隆々としていて逆らいがたかったのである。当初のプランとは違う方向性ではあるが、作業自体はおそろしくさっさと片付いた。
こちらの作業が一段落して、そのご近所さんは自分の家の庭の作業へと戻っていった。気付かなかったが、どうやらご近所さんは自分の作業を中断してこちらに手伝いにきてくれていたようであった。
筆者は2分ほど悶々としながら後片付けをしていたが、わが心の狭さにやっと思い至り、ありがたき善意を受けたと芯(しん)から思い直して片付けを完了させると、今度はそのご近所さんの方にお邪魔して手伝いを申し出た。
ご近所さんは「こっちももう終わるから大丈夫。ありがとう」と言ってくれ、かくして善意の交流と、筆者の田舎暮らしの距離感への適応がなされたのであった。
● 田舎特有のゆるさ 都会流の完璧主義を持ち込むべからず
新居は築数十年の木造一軒家で至る所にガタが来ている。賃貸なので勝手な修繕を施すわけにもいかないし、大抵のことは大家さんに相談すればなんとかしてくれる。そこで何か家にまつわる問題があると仲介となっている不動産会社にすぐ一報を入れる。
不動産会社のAさんはいつも比較的事務所で暇そうにしているからかわからないが、電話するとわざわざ家まで数分で飛んできてくれる。そこで自ら水が出なくなった水道管にドライバーを持って取り組んでみたり、業者に電話をかけるなどして対応に当たってくれる。不測の事態に頼りにされているためか、忙しそうに動くAさんには心なしか充実感が漂っている。
娘を連れて2人で買い物に出た時、買った物が多くてレジ付近で往生しているとたまたま店にAさんがいて人懐っこく話しかけてくれ、車まで荷物を運ぶのを手伝ってくれた。Aさんは家の不具合の報告を受ける電話口で必ず「ええっ!?」と驚いた声を上げるのでそれを毎回聞くのが実は嫌なのだが、非常に頼りになるいい人である。
が、例えばどこかの営業員が訪問先の家庭に上がってカバンを置く時、カバンの下にハンカチを敷くような行き届いたホスピタリティーは、Aさんだけでなく田舎に期待するべきではないかもしれない。
ある時Aさんがうちに来た時、家の前の通りにおもちゃともゴミとも見分けがつかない物体が落ちていて、Aさんがそれを拾って「これは武藤さんのですか?」と尋ねてきた。「違います。よそのゴミだと思います」と答えると「わかりました」とAさん。Aさんが帰ったあとで見るとそのゴミが元の場所にきちんと戻されていたので、こちらで拾って捨てておいた。こういうことが何回かあった。
都会流のホスピタリティー、とひとくくりにするには語弊があるが、然るべきクオリティをこちらから求め過ぎると不満がたまるので期待はほどほどにし、ある程度のところまでやってくれれば万事オッケーという心構えでいた方が精神衛生上よろしい。
「お互いほどほどに」というなあなあ感は、同じ地域に住む者同士の仲間意識から比較的芽生えやすく、またなじんでしまえば心地良いものである。コンビニにパートに来ている中年女性は“親しみやすい近所のおばちゃん”である確率が高く、ただコンビニで買い物をするだけでもアットホームな交流が生まれることがある。マニュアルに基づいた完璧な接客や、洗練された接客からは得られない心温かさがそこにはある。
しかし、時に“なあなあ感”が下に突き抜けることもあるので注意が必要である。
賃貸した物件にはエアコンがついていたのだが、あるのは室内機(古くてほぼ壊れている)だけで室外機が欠けている謎現象に見舞われていることが住んでから判明した。新しいエアコンを取り付けることにしたが、室内機の撤去費用が取り付け業者に頼むと5000円だという。
この5000円をAさんに負担してくださいと連絡すると、Aさんは「わかりましたが、もっと安い業者を知っているのでそちらにお願いさせてください」と言う。こちらは古い室内機が撤去され、かつその費用を負担してくれれば何も文句はない。「ありがとうございます。それでよろしくお願いします」と話はついた。
後日やってきた業者は、初老の男性だった。男性は早速室内機の撤去に取り掛かったが、途中「すみません、この椅子を貸してください」と、ろれつがやや回っていないハフハフした調子で声をかけられた。男性が示したのはオフィスによく置いてあるようなキャスター付きのデスクチェアで、目的も用途も疑うことなく快諾すると、男性は椅子を持って屋外に出た。そして「脚立を忘れてしまって。すみません」と椅子を躊躇(ちゅうちょ)なく土の上に置いて、その上にはだしで立って作業を始めた。
作業は無事終わったが、椅子のキャスターどれもに深く土がめり込んでいた。それに気づいた男性は返却する際に「すみません。すみません」とわびながらドライバーで土をほじり出そうと試みてくれたが、らちが明かなさそうな様子なので、「いいですよ。あとでやっておきますから」と声をかけると、「そうですか。すみません」とあっさり諦め、サッと帰っていった。部屋はキャスターからこぼれ落ちた土で各所が汚れていた。
椅子を風呂場に持ち込んでキャスターを洗い、部屋を掃除して買い物に出かけると、家から少し離れた所で先ほどの男性とすれ違った。男性は自転車で、カゴに何か一升瓶ほどの大きさの箱を積んで悠々と道を行く。筆者は車だったので向こうはこちらには気づかなかった。
あの箱の中身がなんであったかはわからないが、先刻の作業でいくらか小銭を稼いで、その稼ぎが男性のこれから始まるささやかな至福のひと時に貢献しているのだと思えてきて、キャスターの土をゆるす気持ちが自然と湧いてきたのであった。
なお、Aさんが使う業者は当たり外れがあり、入居前にハウスクリーニングをしてくれた業者も相当怪しかった。クリーニング後、キッチンに開け方のよくわからない引き出しがあり、Aさんの活躍で無事開いたのだが、中には前入居者が残していったゴミとゴキブリのフンが大量にあった。
トイレも床を雑巾がけするためにかがむと異臭がしたが、こちらで細かい部分を掃除したら異臭は消えた。筆者一家は前入居者の神経とクリーニング業者の仕事ぶりを大いに疑ったものであった。
都会人が実際に田舎暮らしをスタートさせ、いくつかの点で感じたギャップをリポートするこの企画は今回で最後である。
都会に住む人が田舎に、田舎に住む人が都会に、思い描く理想像はあるはずだが、実際に住んでみれば現実が見えてくる。確実に言えるのはどちらもユートピアではないということである。
しかし人間は順応する基本的な能力が高いので、「石の上にも三年」や「住めば都」のことわざが示す通り、心がけ次第でその場所を自分なりのユートピアとしていくことができる。筆者は今その真っ最中だが、娘や猫が非常に楽しそうにしているので当面大満足である。今後もこの地をさらなるユートピアにすべく、田舎住まいの人間として純度を高めていきたい。
武藤弘樹
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