狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

火野葦平について

2006-05-12 21:49:44 | 博物館

『声の残り――私の文壇交遊録』 ドナルド・キーン著/金関寿夫訳  朝日新聞社
1992年4月から7月まで、57回に亘って朝日新聞に連載されたものである。

半世紀以上にわたり日本文学・文化の研究に打ち込んできた著者が出会った第一線の作家たち―谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、大岡昇平、有吉佐和子、開高健、司馬遼太郎、大江健三郎、安部公房ら18人との個人的な交友をふりかえり、当時の書簡なども交えながら温かい筆致で綴ったエッセイだが、その手始めは火野葦平であった。

>(略)火野が米国国務省の招きでアメリカを訪れたとき、私は初めて彼にあった。まず猪熊弦一郎の展覧会場で落ち合って、そのあと、私は彼をフランス料理店に案内した。席についたあと、火野は大きな手拭を懐中からおもむろに取り出したが、それは赤と青で、河童の絵が描いてあった。そしてそれでもって、派手な身振りで自分の顔と首を拭いたものだった。私は元来、公共の場所で目立つことを嫌うたちだ。今相客の目を引き付けているのは自分ではないとは知るものの、恥ずかしくて、身もすくむ思いであった。

次に給仕が、フランス語のメニューを持ってきた。火野はそれに書いてあるすべての品目を日本語に訳せ、と私に云うのだった。私はベストを尽くしてやってみたが、その間給仕がそばに立って、じっと私たちを見ているのだった。火野はやっと何を注文するか決めたけれど、そのあとで何回か変わった。スープが出て来ると、彼はそれを大きな音をさせて啜ったが、その音たるや、ほとんどナイアガラの滝音にも負けぬくらいであった。私の当惑が倍増したこと、それは言うまでもない。

その晩火野と別れてから、私は自分の狭量な、プチブル根性がいやになった。火野が手拭で汗を拭ったり料理の注文にたっぷり時間をかけて、一体それのどこが悪いのだ、と私は自分に訊いてみた。しかしそのもう少しあとになって、彼は単純素朴な一庶民の役どころをわざと演じて、自作に登場する兵隊を地で行こうとしたのではないか、という考えが、頭に浮かんだ。

米国国務省の招待を受け入れはしたけれど、だからといって自分は、魂までアメリカさんに「買われた」のではないことを証明しようと火野は心に決めていたようである。そして彼は、アメリカでの日本人相手の講演会で、あの悪名高いバターンの死の行進は、全く根も葉もない作り話だと聴衆に告げることと、終始アメリカ生活の、暗くて、いやな面のみを強調した一冊の本を書くことによって、その心意気を見せた。

何処かの墓地から、ニューヨークの高層ビル群を眺める図柄の表紙にくるまった彼の本を読んで、この一向にわけの分からない、多分心のどこかに深い屈曲を持つ人間についての、私の分裂した気持ちは、むしろ一層深まっていくばかりだった。







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2 コメント

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見識 (ましま)
2006-05-13 10:35:37
 こんにちは、

兄の博識ぶりに、いつも「ふーん(語尾がさかる)」と感心するだけで、コメントが出遅れます。アメリカはつい最近まで好きな国だったはずなんですが、ベトナム敗戦の原因をハト派の妨害だったという意見が勢いを増し(日本も戦争責任などで似てきている)、今日に至っているようですね。ブッシュの人気が下がってるけど先行きどうなるか。
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識見 (tani)
2006-05-14 09:40:36
恐れ入谷の鬼子母神様。

こちらこそ学兄の識見には脱帽です。

しかし、小泉の爆走はどこまで行くのでしょうか。

不可解な世の中になりました。
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