恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

「無法者」から守り抜くべき日本国憲法という「砦」

2009年05月03日 | 憲法
 日本国憲法が施行されてから62年、今年も憲法記念日がめぐってきました。
 新聞・テレビなど多くのメディアが憲法について取り上げ、各地でも、憲法をめぐる様々なイベントや取り組みが行われました。
 私も地元での取り組みに参加した一人ですが、そこでふと思ったことがありました。
 「彼ら」は何をしているのだろう、と。

■ 憲法を邪魔者扱いする「権力」

 憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と定めています。
 「この憲法を尊重し擁護する義務」を負っている「彼ら」が、この憲法記念日に何をしているのか全く見えてこなかったのです。

 「法律は国民を縛るもの。憲法とは国民を守るために権力を縛るもの。」

 これが近代以後の「憲法」の位置づけを最も的確に表現した言葉だと思いますし、99条もその証ですが、その「尊重擁護義務」を負っている側が、この憲法記念日に「何もしない」のです。
 「権力」の側は、それほど自分たちを縛る「憲法」が邪魔なのでしょう。

■ 「最高法規」すら守らぬ「無法者」

 しかも、これは露骨な行動となって表れています。
 この憲法記念日、多くの自民党や一部の民主党の議員などは、「この憲法」を否定する立場で行動していたのです。
 「権力」を預かる与党議員、「権力」を預かろうとする一部の野党議員が、国内の「最高法規」によって自らに課せられた「義務」さえ遵守できないような「恥ずかしい」有様です。
 国の「最高法規」さえ守れないような人々は「無法者」と呼ばざるを得ませんが、そのような「無法者」が定めようとする「新憲法」とは、一体どのようなものなのでしょうか。果たして「憲法とは国民を守るために権力を縛るもの」という「最低条件」を満たすようなものなのでしょうか。

 そのような「無法者」や、憲法を「邪魔者」扱いする「権力」が牽引するような「改憲論」に、そのような期待が持てないことは、火を見るより明らかです。

■ 「無法者」による「開き直り」

 「憲法は現実に合わない。」
 これは彼らの常套句ですが、「冗談ではない」と言いたくなります。
 「現実」が示すものとは、「権力」が憲法を守ってこなかったという、「恥ずかしい」実態だけではありませんか。

 9条は「解釈改憲」が続けられ、自衛隊が作られ、その自衛隊にしても「専守防衛のための実力組織」だったはずが、日本の領土を「ほったらかし」にしてまで、中東やアフリカにまで送り出される始末です。

 「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 」という25条の規定が守られていれば、「高齢者切捨て」「障害者切捨て」「医療切捨て」「公害被害者切捨て」などは起こりえなかったはずですし、「ワーキングプア」など「貧困」の問題もかなり解消されていたことでしょう。

 「憲法が現実に合わない」などという主張は、「無法者」に「権力」を預け過ぎ、その「無法者」たちが好き勝手を続けた挙句、「開き直っている」だけではありませんか。

■ 憲法という「砦」を子どもたちに引き継ごう

 このような「無法者たち」の「開き直り」を許さず、「憲法とは国民を守るために権力を縛るもの」という近代憲法の原点に立ち返ることこそ、いま何よりも重要なことだと思います。

 私には自由があります。権利があります。誰かを殺すことも、また死ぬことも強制されませんでした。まだ自分自身が「生きる」という主張もできます。このように何とか「権力」「無法者」に蹂躙されない人生をおくることができたのは、ひとえに「無法者たち」の「開き直り」を許さなかった先人たちのおかげです。

 その「砦」を「無法者たち」に、やすやすと明け渡すことはできません。

 憲法という私たちの「砦」を「無法者」たちから守りぬき、次の世代である子どもたちに引き継ぐことこそ、いまを生きる私の使命だと考えます。
 その使命のために今後も力を尽くすことをお誓いし、今年の憲法記念日にあたっての私の決意と致します。


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