恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

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ナショナリズム・パトリオティズムという「言葉遊び」

2006年05月27日 | 教育基本法・教科書
   ~ 「愛国」は「伝統」などではない ~

 教育基本法の改定案が「愛国心」教育の規定を盛り込んでいることは周知の通りです。
 しかし、この「愛国心」について、「ナショナリズム(nationalism)はいけないが、パトリオティズム(patriotism)ならば良い」という政治家や評論家・学者の方々の議論があります。
 では、その違いは何でしょうか。

■ ナショナリズムとパトリオティズム

 goo辞書によれば、両者は次の意味だそうです。

【ナショナリズム】
「一つの文化的共同体(国家・民族など)が,自己の統一・発展,他からの独立をめざす思想や運動。国家・民族の置かれた歴史的位置の多様性を反映して,国家主義・民族主義・国民主義などと訳される。」

【パトリオティズム】
「愛国主義。」

 どう違うのか、少なくとも私には、どうも釈然としません。
 特に「パトリオティズム」に関しては、耳慣れないためか、よく分かりません。
 果たして、子どもたちはこの違いをしっかりと理解できるのでしょうか。
 また、先生方はこの違いを理解した上で、子どもたちに適切に教えることが出来るのでしょうか。

 そこで私は、少し日本における「愛国」の「原点」について書いてみたいと思います。

■ 「愛国」は、西洋からの「借り物」

 「教育勅語」が作られた翌年、すなわち1891年に書かれた「尊皇愛国論」という文献に「パトリオチズム」について触れられています。これを書いたのは、西村茂樹氏という人物で、後に華族女学校の校長や、宮中顧問官を務めたバリバリの「御用」「保守系」の思想家ですが、その本には、こうあります。

「本邦にて用ふる愛国の義は…(中略)…西洋諸国にいふところのパトリオチズムを訳したるものなり…(中略)…本邦の古典を閲するに西人の称するが如き愛国の義なく、また愛国の行を顕したる者なし。」

 つまり「愛国」は、日本古来の伝統などではなく、植民地政策に血道をあげていた当時の西洋諸国からの「輸入品」あるいは「借り物」でしかなかった、ということです。しかも、これが草莽の思想家ではなく、西村茂樹氏のような「御用」「保守系」の人物が、日本の古典を引っくり返した上で出した得た結論であるということは特筆に値すると思います。

 「伝統と文化を尊重」という記述も法案に見えますが、この「愛国」と「伝統」の矛盾に、与党や民主党はどう答えるのでしょうか。

■ パトリオティズムも軍国主義と同根
 
 さて、この後「借り物」の「愛国」を政府主導で叩き込まれた日本人は、日清戦争・韓国併合・日露戦争・第一次大戦・シベリア出兵…など幾多の戦争に駆り立てられました。この「愛国」は後に「靖国神社に祀られた人々(戦死者)にならえ」「七生報国(七度死んでも七度生まれ変わって国に報いる)」など、「死」と隣り合わせのものとして国民に刷り込まれていきます。結果、数百万の日本人、数千万の他民族の、かけがえのない命を奪いました。

 この時代の「軍国主義」「国家主義」は、戦後「ナショナリズム」と呼ばれてきましたが、前述の西村茂樹氏によれば、それは「パトリオチズムを訳したるもの」であり、日本では「ナショナリズム」は同じものだということです。
 冒頭にご紹介した、「ナショナリズムは×、パトリオティズムは○」などという議論など、下らない「言葉遊び」に過ぎません。子どもたちや先生方が理解できないのは当然です。この意味するところは、初めから同じものだったのですから。

 何より、問題は政府が法律に条文化して子どもたちの「心」に踏み込むことは許されない、ということにあります。こう考えてみると、ナショナリズムとパトリオティズムは、両者とも「×」をつけなければなりません。

■ 子どもたちの「心」を守ることは、「命」を守ること

 いま与党と民主党は、改憲に躍起になっています。既に昨年、自民党は改憲案を発表し、民主党は提言という形で発表しています。どちらも「軍隊」「武力行使」の容認が盛り込まれていることは言うまでもありません。このような改憲を推進するために、与党と民主党は5月26日、改憲の手続きを定めるための国民投票法案を国会に提出しています。

 こうした権力者集団が、軍隊と武力行使の憲法上認めさせ、「戦争」を可能にしようと画策しているのと平行して、法律と権力を振りかざして教育に介入し、子どもたちの心に、踏み込んで「愛国」を求めようとする姿勢に、危険を感じずにはいられません。

 このような政府・政党・議員は、それこそ教育を受ける国民、すなわち子どもたちの将来に対して極めて無責任で、「反国民」的な存在だと私は思います。

 将来、子どもたちが自ら進んで命を投げ出すことを防ぐためにも、60年間近く、政府による「不当な心の支配」から、子どもたちを擁護してきたという実績を持つ、現行の教育基本法を守り抜く必要があるのではないでしょうか。
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日本の教育の歴史に見る「教育基本法」の意義

2006年05月24日 | 教育基本法・教科書
 24日、衆議院の教育基本法に関する特別委員会が開かれ、既に提出されている与党の教育基本法改定案が実質的に審議に入りました。
 なぜ今、教育基本法を変えなければならないのか、という議論がないまま、審議入りまで進んでしまったことを非常に残念に思います。
 私は今回、日本の教育の歴史を振り返りながら、現行の教育基本法の意義を考えてみたいと思います。

■ 「被仰出書」の時代

 教育行政の始まりは、明治初期にさかのぼります。
 1871年、文部省が作られました。翌72年には「学制」の公布によって大・中・小学校が作られ、義務教育が始まります。
 このとき、教育・学問の目的は、理念を記した「被仰出書(おおせいだされしょ)」に「国民各自が身を立て、智をひらき、産をつくるためのもの」とされました。
 教育を受ける「国民各自」、すなわち子どもたち一人ひとりのための教育が、近代日本の教育の原点だったのです。このとき特に、識字率を高めるなど基礎的教養のための小学校教育に力を入れる「国民皆学」のほか「男女共学」などが定められました。

 「学制」自体は、学校の設立を自治体に丸投げしたり、決して少額とは言えない授業料を徴収があったり、と問題点が多くあり、見直されていくのですが、「被仰出書」の教育理念は評価できるものだと思います。

■ 「教育勅語」の時代

 しかし、その教育理念は次第に歪められていきました。
 1872年の「徴兵告諭」に始まり、翌73年の「徴兵令」、非公式ながら74年の「征台の役」、近代初の公式海外軍事行動である75年の「江華島事件」など、軍事面での動きが急激に加速します。
 その後、軍が強化・整備されていく中、82年には「軍人勅諭」が作られました。徴兵でかき集めた人々に対して「軍人としての心得」を説き、「天皇への絶対的な忠誠心」「天皇の統帥権(軍隊指揮権)の歴史的正当性」を叩き込むためのものです。

 しかし、これを大人になってから、軍隊に入れてからだけでなく、基礎的部分を幼い頃から全ての国民に叩き込んでおこうと、8年後の1890年「教育勅語」が作られます。
 「何かあれば国に義勇をささげ、天皇陛下をお助けせよ」という教えが、教育の中心に置かれ、子どもたち一人ひとりのための教育ではなく、「愛国心」「忠誠心」を教え、そして将来、「義勇をささげる」つまり軍務につくための基礎を作ることに力が注がれました。
 その後、1903年に教科書が国定化されたことで、ますます政府が子どもたちの「心」に踏み込むこととなり、以後その軍国主義的な内容に強化しながら、1945年の敗戦まで、こうした教育が続けられました。

■ 「教育基本法」の時代

 敗戦後、日本は「教育の民主化」を行なうべく、教育基本法を定めました。
 この教育基本法が定める教育理念は、「人格の完成」「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」となっています。
 また、第10条の教育行政のあり方について、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」と定めましたが、これは敗戦までの国家の教育の不当な支配を反省し、政府や権力者のためではなく、子も親も含めた国民全体のためのものであると規定したのです。
 子どもたちは、教育の「権利主体」すなわち主人公となり、政府はその環境整備を行なうという役割を担うこととなり、「教育勅語」の下で行なわれたような「不当な支配」から、子どもたちは解放されたのです。
 現行の教育基本法が戦後の占領下で制定されたことを、教育基本法の批判材料とする人々が多くいますが、こうして見てみると、「被仰出書」の理念であった、子どもたち一人ひとりのための教育を取り戻したに過ぎないと言えるのではないでしょうか。

■ 「教育基本法」改定案

 いま、この教育基本法が危機に瀕しています。
 与党・民主党とも、子どもたちに再び「愛国的態度」あるいは「愛国心」を求めています。
 子どもたちの、自由で自発的な愛着ではなく、政府が定義した人為的な「心」を、公教育の現場で子どもたちに叩き込もうとしているのです。
 「教育勅語」の時代と似ているのは、それだけではありません。
 自衛隊の海外派遣、米軍再編による日米軍事一体化が進められ、防衛「省」昇格法案も間もなく提出されるという、軍事面の強化という背景を見逃すことはできません。
 さらには、改憲の策動と相前後して行なわれている点、また教科書検定に際しての政府見解の偏重など、共通点が多くあります。

 「戦争に駆り立てるための改正」との批判に対し、小泉首相は特別委員会で「誤解というより曲解」と断じたそうですが、私は小泉首相の言葉を鵜呑みにすることはできません。

 国家のための教育への逆行を許さず、子どもたち一人ひとりのための教育を守り、実現していくために、絶対に教育基本法を、与党案や民主党案のように変えさせてはならない、それが歴史的見地からの私の強い思いです。
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自公民3党による教育基本法「改悪」

2006年05月16日 | 教育基本法・教科書
 「愛国心」教育導入などを盛り込んだ教育基本法改定案は16日、趣旨説明と質疑が行なわれ、審議に入りました。

■ 政府案よりひどい民主党の「対案」

 この法案の焦点であり、最大の問題点は、「法律によって、政府が子どもたちの心に踏み込もうとしていること」にあります。
 民主党は与党案への「対案」を、昨15日に正式決定し、近く国会に提出するとしていますが、焦点の「愛国心」の表現では、「国や郷土を愛する…態度」とする与党案よりも、さらに踏み込んだ「日本を愛する心」とするなど、どちらも「改悪」案であると言わざるを得ません。
 15日の民主党の会議(教育基本法問題調査会総会)でも、「愛国心」教育について、「強制ではないことを明記すべきだ。」「政府の解釈や運用によって将来的に押し付けとなる懸念が残る。」という意見が出されましたが、取りまとめ役の西岡武夫参議院議員は、「理念として前文に書いたので強制される恐れはない。」とし、原案のまま決めてしまいました。
 私は、これを聞いて驚きました。「前文に書けば強制されない」というのは一体、何の根拠があって言っているのでしょうか。

■ 根拠を与えればエスカレートは避けられない

 現実問題として、いま既に「小学校学習指導要領」には、「我が国の文化と伝統に親しみ,国を愛する心をもつ」、「中学校学習指導要領」には、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に努める」という文言が、法的根拠がないにもかかわらず、盛り込まれているのです。
 政府がこのような教育の強化を「ごり押し」しようとしているこの状況下で、前文であろうと、条文であろうと、根拠を与えてしまえば、子どもたちの心に政府が踏み込んでいくことを助長するだけですし、ますますエスカレートしていくことは避けられません。
 さらに、学校で「愛国心」が評価や競争の対象にされ、成績や内申書、進路に影響するとなれば、それはもはや「強制」です。

 このようなことを、西岡氏のような大ベテランが気付かないとは到底思えませんし、いくら民主党といえども、そこまで「素人」ではありません。まず間違いなく、全てを分かった上での「確信犯」と考えて良いでしょう。

■ 民主党の「対案」の狙い

 ではなぜ、このようなことを民主党はするのでしょうか。
 「民主党は、もともと自民党と同じ」と言ってしまえばそれまでですが、他にも、教育基本法改定を望む経済界や米国、そして保守系メディア・論者の機嫌を取って目立ちたいという、ポピュリズム的発想もあるでしょうし、「武力行使」を容認する上で、結局はそれを実際に行なう国民を作る、すなわち「子どもたちに銃を取らせる教育」を必要とした、という実態もあるでしょう。どれとは特定できませんが、こうした様々な思惑が入り混じったものが、民主党の「対案」の実態だと思います。

 しかしそこに、本当に考えるべきはずの「子どもたちの将来」はあるのでしょうか。
 私は、ないと思います。もしあれば、「対案」と称して政府案に迎合するようなものを作るような、愚かな行為はしないと思います。

 このような政党や議員に振り回されようとしている、現在・将来の子どもたちが哀れに思えてなりません。

■子どもたちの心は、子どもたちのもの

 冒頭、私は「法律によって、政府が子どもたちの心に踏み込もうとしていること」が問題だと書きましたが、自民・公明・民主3党、これだけの巨大勢力が、「対立」を演じながら、実は同じ方向へ教育を捻じ曲げようとしているという、現代版「大政翼賛会」の姿に、怒りを禁じ得ません。

 こうした3党の動きに対し、他の国会内勢力では、共産党は「教育基本法改悪に反対するアピール」を発表し、闘争本部を立ち上げています。また、社民党も「広範な諸勢力と連携し、廃案に向け全力を挙げる。」としています。

 子どもたちの心が、子どもたちのものであり続けられるよう、私も広範な連携を強めながら、教育基本法の改悪に反対していきたいと思います。
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なぜ教育基本法「改悪」を急ぐのか

2006年05月12日 | 教育基本法・教科書
■ 特別委員会設置

 11日、衆議院では、教育基本法を改定するため特別委員会が設けられました。
 昨年の郵政民営化特別委員会のように、強行的な審議日程を組み、教育基本法を早く変えてしまいたいという考えによるものです。
 各国会議員の事務所をまわり、この法案への反対を求める要請を行なった、ある団体から話を聞いたところ、自民党議員の事務所の反応は「今が変えどきだ」の一点張りだったそうです。
 この教育基本法という子どもたちにとって重要な法律を、なぜ「変えどき」という「時機」を持ち出して急ぐのでしょうか。
 私は、その理由は二つあると思います。

■ 大型選挙が近づかないうちに

 一つは「選挙日程」です。
 昨年は各地の合併選挙が行われ、また総選挙がありました。その影響で今年は、ごくわずかしか選挙がありません。今後は、来年の春に統一自治体選挙、夏に参議院議員選挙が行われますが、そこまで大きな選挙は行われません。
 与党側の思いは、早めに教育基本法を片付け、できるだけ国民の記憶から消し去っておかないと、次の大型選挙への影響が心配だということです。それほど、この内容が、「国民の反発を買う」ことを彼ら自身がよく分かっているということではないでしょうか。

■ スポーツでナショナリズムを高揚

 もう一つは、政治以外の「外的要因」にあります。
 与党側は、明らかにこの作業を急いでいました。国会は1月に召集されましたが、それ以前から与党側が、この国会会期中に成立を目指す、と息巻いていたのが、この改定案でした。
 この国会は、国会とは無関係な別の要因である、スポーツを利用することができる会期だったのです。
 冬にはトリノ五輪があり、春にはWBC(ワールドベースボールクラシック)が行なわれました。この後、ドイツでサッカーのワールドカップが行なわれます。ナショナリズムを煽り立てるには絶好のチャンスだというわけです。
 ナチスが1936年のベルリン五輪をプロパガンダに利用したのと同じやり方です。
 近年では中国の重慶で行なわれたサッカーの試合で、中国人サポーターが暴れた際、「政治とスポーツは別だ」と言っていた政府が、今度は敢えて、スポーツ大会でナショナリズムが盛り上がっている内に、ナショナリズムを強制する法案を通してしまおうというのですから、あまりに姑息、かつ卑劣です。
 逆に、そうした雰囲気の中ではないと、国民にとって到底受け入れられないものだということを証明しているようなものではないでしょうか。。

■ 政府の「変えどき」は国民にとっての「正念場」

 選挙から遠ざけたい、スポーツの国際大会でナショナリズムを喚起したい、その「時機」として最適なのが、今国会だということです。
 政府・与党が「変えどき」だと言うのであれば、私たち国民にとっては「踏ん張りどころ」「正念場」です。
 彼らが目論む「国家のための教育」ではなく「子どもたちのための教育」を守り抜きたい、そのためにも教育基本法改悪を許してはならないと強く思います。
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教育基本法改悪「推進本部」の思惑

2006年05月09日 | 教育基本法・教科書
■ 文部科学省挙げての「推進本部」

 教育基本法改定を進めようとする文部科学省は8日、省内に「教育基本法改正推進本部」を設置し、初会合を開きました。
 この推進本部は小坂文部科学大臣を本部長とし、副大臣・政務官・事務次官を、本部長代理・副本部長・事務局長に置き、省内のすべての局長・次長が組み込まれています。さらにこの推進本部の下に、ほぼ全職員を配置するプロジェクトチームを置くという、正に省を挙げての異例の徹底ぶりです。

 当然この推進本部は、子どもたちに「愛国心」を求め、それを「態度」で示すことを強制しようとする与党の要請で設置かれたものでしょうが、では、これほどまでに強力な体制をつくり、文部科学省は何をしようというのでしょうか。
 報道によれば、この教育基本法改定案の成立に向け、法案の広報活動、国会対応にあたることだというのです。
 
■ 立法に対する、行政の「介入」

 まず私は、この設置に疑問を持たない国会議員がいるとすれば、その方には直ちに「議員辞職して頂きたい」と思います。

 立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所にあります。言うまでもなく、民主主義国家である大前提としての「三権分立」です。
 国会と行政の関係で言えば、主権者から選挙で選ばれた議員で構成され「国権の最高機関」である国会が法律を作り、その法律を執行することが、
 もちろん、内閣の各省が法案を起案することがほとんどですが、法案が閣議決定を経て国会に提出されてからの法案の審議の仕方は、あくまで国会の主導によって行われます。内閣提出法案について、内閣は国会に対し、審議を「お願い」する立場にあります。趣旨説明してから後は、立法権を持つ国会の領域だからです。
 それを、内閣所属の一行政機関、そして「官僚集団」である文部科学省が、日常業務「そっちのけ」で全省挙げての推進本部を立ち上げ、法案の成立に向けて動き出すとなれば、正に「行政」による「立法」への「介入」です。
 しかもまだ審議にも入っていない法案について、その成立を図る「初会合」の開催を、あらかじめメディアに流し、カメラや記者を招き入れて開くことに極めて意図的なものを感じざるを得ません。
 こうした意図的な「介入」を、疑問に思わない議員がいるとすれば、その方は自分が受けた主権者の負託に耐えうる人物とは言えません。私がこのような方に「議員辞職して頂きたい」と思う所以です。

■ 敢えて文部科学官僚が「介入」を行う理由

 もちろん、このようなことは文部科学省の官僚たちも十分、認識しているはずです。
 国会開会中は普段、質問の通告を受けて、大臣らの答弁原稿を作る官僚たちが、「広報活動」すなわち「一大キャンペーン」を打とうというのですから、仕事も増えますし、違和感を感じていることでしょう。
 しかし、彼らにあるのは違和感だけではないでしょう。仕事が増えれば、予算がつきます。予算といっても元は税金ですが、予算があれば権限が増します。そして業者とのコネを深め、「天下り」先の確保が可能になります。しかし、「天下り」できるのはごく一部のベテランの官僚に限られます。ところが、それ以外の官僚のメリットは別にいくらでも広がっているのです。

 まず、「与党へのコネ」です。官僚出身の政治家で多いのは、財務(旧大蔵)を筆頭に、他に経済産業(旧通産)・総務(旧自治)・国土交通(旧建設・運輸)などは目に付きますが、文部科学省出身の政治家はごく僅かです。実は「キャリア組」で文部科学省は権限が少ないため人気がなく、人材も集まらないと言われています。
 しかし今回のように、自民党が異常に力を入れる法案で、力を尽くせば何か期待できるのではないか、と期待するのも無理はありません。
 政治家にならなくても、先ほどの「天下り」に手が届くようになるためには、出世競争に勝たねばなりません。その足がかりとするには、若き官僚には絶好の機会なのです。
 
 そして、最も彼らにとって魅力的なものは、法案の内容そのものに潜んでいます。
 私は、教育基本法改定案を「改悪」案と呼びますが、その最大の理由は、「国家・政府中心の教育を子どもたちに強制すること」に主眼を置いているからです。一見不思議に思えるかもしれませんが、彼ら文部科学官僚たちも、「国家・政府」側の人々なのです。
 しかも、彼ら官僚は「政治家以上に国家主義的」な存在だと言えるのです。
 彼らの上司である大臣・副大臣、そしてさらに上の首相は、数ヶ月~数年で代わります。しかし、彼らは何十年も、その道のスペシャリストとして、「国家」の中枢に居座り続けます。
 「国家・政府」側に権限を集中させることは、彼らにとって大いに歓迎すべきことであり、そのための労力は惜しまないのです。
 先ほど「文部科学省は権限が少ない」と書きましたが、「権限」すなわち「許認可権」も恒常的に生まれます。これほど文部科学省という官僚組織にとってありがたい話は、早々あるものではないのです。

■ 「教育」は、国家や官僚のためにあるのではない

 今回の法案が、与党や文部科学省にとって、どれほど強く願うものであるかは、これまで述べてきた通りです。しかし、私たち国民や、とりわけ「教育の権利主体」である子どもたちにとっては、どうでしょうか。
 国民にとっては、自分たちに対する「強制権」を持つ法律が、自分たちが選挙で選んだ議員による「審議」ではなく、官僚たちが行う「キャンペーン」によって作られていくことを見過ごすことは、自分たちの首を絞める行為でしかありません。
 そして、このような思惑によって、子どもたちの受ける教育が、子どもたちのための教育ではなく、「国家・政府」のための教育に変えられてしまうならば、子どもたちにとって、これほど不幸なことはありません。

 しかし今、ほとんどの子どもたちは、これに異を唱えることができません。こうした本質を知らないからです。
 だからこそ私たち「現在の大人」が、子どもたちに代わって叫ばなければならないと思うのです。

 現行の教育基本法の本質は、「教育は子どもたち一人一人のためにある。」です。
 私は、この当然の真理を守り抜くことこそ、「現在の大人」の使命であると思います。
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憲法記念日に伝えたいこと

2006年05月03日 | 憲法
 5月3日、日本国憲法は59回目の「誕生日」を迎えました。
 しかしご存知の通り、昨年、自民党が昨年「改憲案」を発表し、民主党も「憲法提言」を発表しています。
 彼らに煽られてか、世論調査では、戦争放棄を定める憲法9条は変えるべきではない、という声は今も大多数を占めていますが、憲法を変えることへの賛成は、反対を大きく上回っています。
 日本国憲法は、「風前の灯」と言うべき状況にあると言わねばなりません。

 しかし、私はこの国民の皆さんの「改憲賛成」の声が不思議に思えてならないのです。
 私が着目していただきたいと思うのは、私たち国民・政府・憲法という3つの存在の序列です。
 
 細かい説明は省きますが、現在の憲法は「国民」を最上位に置き、次に「憲法」を置き、その次に「政府」という序列になっています。この憲法の特性こそ、「国民のための憲法」「憲法は権力を縛るもの」といわれる所以です。
 
 しかし、条文の形になっている自民党の改憲案を見ますと、最上位は「政府」、次に「憲法」、その次に「国民」と、完全に逆転しているのです。

 政府が絶対的権力を持ち、その政府が決める「公益」や「秩序」のためだと言われれば国民は、「知ること」「思うこと」「考えること」「言うこと」「住むこと」「働くこと」などはもちろん、「学ぶこと」「愛すること」、そして「生きること」までもが統制されようとしているのです。

 これでは、まるで政府の奴隷です。
 改憲に賛同すること、それは自分、家族、友人、そしてその子や孫をも「政府の奴隷」にしてしまうことを意味しているのです。
 これを選択することは、今を生きる私たち国民、そして将来の国民である子孫を裏切る行為です。

 子孫だけではありません。祖先に対しても同じことが言えます。
 
 憲法97条は、こう定めています。
 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
 
 この「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」「過去幾多の試練」とは何を指すのでしょうか。

 私たちは、この憲法を制定するまでに、余りにも多くの祖先の血を流してきました。
 政府や国家が国民の上位にあったため、国民は戦場へ駆り立てられたり、弾圧されて殺されたりしたのです。

 それから僅か59年です。それまでの、政府や権力に下に置かれ、生きることさえ支配された数千年に及ぶ祖先の苦悩を、たった59年で無駄にするというのでしょうか。

 今の改憲に賛成するということは、「これまで血を流してきた祖先を裏切り、これから血を流すことになる子孫を裏切る行為」なのです。

 私は、今を生きる一人の人間として、こんなことを許すわけにはいきません。
 この私の思いこそ、この憲法記念日に皆さんにお伝えしたいことです。
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