恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

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教育基本法改定案の問題点と審議の行方

2006年10月25日 | 教育基本法・教科書
 10月25日、衆議院で教育基本法改定案の審議が再開されました。
 私はあらためて、この法案の問題点の一部をご紹介し、私たちの子どもたち・孫たち、そしてまだ生まれていない子どもたちに、今の政府・与党が一体何をさせようとしているのかを考えてみたいと思います。

■ 「伝統と文化を尊重し、・・・我が国と郷土を愛する」

 国や郷土を愛するのは「当たり前」だという主張もあります。「当たり前」なのであれば、なおさら自由で自発的な意思に任せておけば良いのです。
 これを敢えて条文化することには特別な意味があります。
 学校で「国を愛する」ことが求められ、子どもたちの「心」に権力が踏み込もうというのです。
 既に学習指導要領にはこれが盛り込まれ、一部の学校では既に「どの子が、どれだけ愛国的か」が評価・競争の対象となっています。今のところ政府・与党は評価まではしないとしていますが、かつて強制まではしないとした「日の丸」「君が代」が今どうなっているのかをみれば、画一的な「国への愛」つまり「忠誠」が、子どもたちの間で比べられます。しかも、子どもたちには、その「忠誠」を「態度」で示すことが求められます。
 さらに法案には、子どもたちの「心」に踏み込もうとする部分が20箇所以上もあります。
 それほど本腰を入れて子どもたちの「心」を支配しようとしているのです。

■ 「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」

 一見、「愛国心」は排他的ではない、他国への尊重とバランスを取った、と誤解させるような一節です。
 戦前も「修身」で「他の国家や民族を軽んずるやうなことをしてはならぬ。」と教えていましたが、実際には「他の国家や民族」に何をしていったか、ご存知の通りです。
 ただし、この規定を盛り込むことについての、政府・与党、とりわけ自民党の思惑は、もっと別のところにあるように思います。

 近年の外交政策はどのようなものだったか思い出して下さい。
 小泉前首相は「日米関係がうまく行けば全ての国との関係がうまく行く」と小泉首相は言い続けました。確かに米国との関係は、イラク戦費などの負担、米軍司令部機能の受入れなど日本の犠牲によって、ある程度うまく行っているようですが、その他の国々とは溝を深めていきました。
 政府は「国際貢献」だとして、自衛隊をインド洋やイラクに派遣しましたが、それは米軍のアフガン戦争の後方支援や、イラク占領政策のための派遣に過ぎませんでした。つまり、彼らが言う「他国」や「国際」とは、ほぼ米国に限定されたものと言って良いでしょう。
 彼らが推し進めようとする新憲法草案は「集団的自衛権の行使」、つまり「他国(米国)との共同軍事行動に踏み込むこと」に主眼が置かれています。
 彼らは「国家のため」「政府のため」だけでなく「米国のために寄与する態度」も、子どもたちに求めようとしているのではないでしょうか。

■ 現行「真理と平和を希求し」から「真理と正義を希求し」へ

 一見「平和」を「正義」に置き換えただけに見えるかもしれません。
 しかし、この違いはとても大きなものです。
 以前、米国や英国、日本などでは、イラクを攻撃することを首脳が「テロとの戦い」と呼ぶと同時に「正義の戦い」と呼びました。日本でも多くの人々が、その「正義」にだまされましたが、真実が明らかになるにつれ、その「正義」を本気で信じる人々は、かなり減りました。「真理」は別のところにあったのです。
 しかし、ブッシュ大統領やブレア首相、そして小泉首相らが唱えた「正義」によって、「平和」が壊され、計り知れない命が失われたのは、紛れもない事実です。
 歴史上のあらゆる侵略戦争は、例外なく「正義」を唱え、国民を駆り立てていきました。

 この法案を推進する人々は、「正義」とさえ言えば、進んで自他の「平和」を捨て、破壊することを求める子どもたちを作ろうとしているのではないでしょうか。

■ 「個人の価値をたつとび」から、「公共の精神を尊び」へ

 「個人の価値」は、「子どもたち一人一人の価値」です。
 子どもたちはもちろん国民には、憲法によって「生命権」をはじめ数十の権利・自由が一人一人に保障されています。
 判例などで派生して認められている権利も含めれば、さらに多くの権利・自由が約束されています。
 しかし政府・与党、とりわけ自民党は「新憲法草案」で、このような権利・自由の全てを「公益」「公共」の下に置いて、まとめて制限してしまおうとしています。

 「公益」「公共」は誰が決めるのでしょうか。それは政府です。
 彼らが教育現場に求めているのは「君たちの価値、命や権利・自由よりも、政府の利益のための精神を大切にしろ」という教えではないでしょうか。

■ 教育行政は「公正かつ適正に行われなければならない」

 一見、問題がないような文言ですが、現行法では「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」との規定が、これに書き換えられようとしています。
 「公正」「適正」という曖昧な基準は、誰が決めるのでしょうか。これも政府です。
 これまで「子どもたちのための教育」の条件を整備するという義務が、国や自治体に課せられていたのが、「政府が決める基準の達成」の義務に変えられようとしています。
 では、「政府が決める基準」とは何でしょう。
 これまで書いてきた、「子どもたちが、国家・政府、そして米国を大切に思い、正義への寄与のために、自分の命や権利を進んで投げ出す教育」に他なりません。
 このような教育を、都道府県・市区町村にまで「行われなければならない」と徹底して義務付けようとしているのではないでしょうか。

■ 「国は、…教育に関する施策を策定し、実施」

 これまでの教育は、まがりなりにも「子どもたちのため」のものでした。そして現行の教育基本法が「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」と定めている通り、親も含めて「国民全体」のために行われてきました。
 しかし、今回の改定案が通れば、これからは「国」が教育に関するすべての「施策」の策定、そして「実施」と介入してくることになるのです。
 それがどういう教育か、それは言うまでもなく、これまで書いてきたような「国のため」の教育、つまり「国家主義教育」です。
 しかも今度は、この法律(法案)の「お墨付き」を得て「国」が、教育姿勢や、その具体的な内容、教え方にまで公然と介入してくる危険性を秘めています。

 条文に残されることになった「不当な支配に屈すること」がない、という規定は、そもそも教育内容を、国家や権力による「不当な支配」から守ることを意味していましたが、以後は国の「支配」に対して、国民が口を出すことを禁じる規定に変えられていこうとしているのです。
 これは、国が自分の子どもたちに対して教えることに、たとえ親でも何も言えなくなってしまいかねません。
 しかも、それは学校だけにとどまりません。
 
■ 「家庭教育」の新設

 現行の教育基本法は、教育に関しての条件整備など、国がしなければならいことを定めたものです。これは、教育基本法が憲法から直接の負託を受け、子どもたちの「教育を受ける権利」を保障するために設けられた法律だからです。
 しかし、今回の改定案は、国が、子・親を問わず国民の上に立って「こうしなさい」と命令するものです。
 国が踏み込もうとする、その領域は「家庭教育」にまで及んでいくのです。

■ 国家主義教育への改悪は、「国家による虐待」

 これまでご紹介してきたように、こうした政府案が与党に押し切られてしまえば、戦後になって子どもたちが初めて手に入れた「自分たちのための教育を受ける権利」が、再び奪われてしまいます。
 学校は「子どもたちのための教育」の場から、「国家権力のための教育」「国家主義教育」の場へと変えられてしまうのです。しかも、そうした教育は家庭にまで公然と入り込んでくるのです。

 これが改悪でなくて何でしょうか。

 幼い子どもたちの心にの純真さに付け込んで、国家や権力者のための「死」を刷り込もうとするような教育は「国家による虐待」に他なりません。
 私は国民として、また一人の親として、このような「改悪」「国家による虐待」を見過ごすことは出来ません。

■ 今後の審議の行方

 しかし、与党はこれを一気に進めようとしています。
 23日の特別委員会の理事懇談会で与党は、前回国会で49時間37分間の審議を済ませているとして、あと20時間程度の審議で採決に持ち込みたいという考えを示しています。問題点など中身よりも「審議時間という形式だけ」という非民主的な手法が、国会ではまかり通るのです。
 その時間数を言うならば、昨年の郵政民営化法案における衆議院での審議は100時間以上でした。子どもたちの未来を大きく左右する教育と、前首相の「趣味」で行われた郵政民営化、どちらが慎重な審議を要するでしょうか。

 また与党は、重要法案において欠かすことができない地方公聴会についても、前回国会でまだ十分に審議されていないとして野党側が開催に反対したことをあげつらい、今回も開催せず、これを「省略」すると言い出すなど極めて強硬な姿勢です。

 もし与党の予定通りに進められてしまえば、最短で11月7日の委員会採決、同日の本会議採決・衆議院通過という強行もあり得ます。そうなれば参議院での審議時間は、衆議院の7~8割程度ですから、安倍首相が固執する「今国会での成立」は十分に可能になってきます。

 これからのわずかな期間に、私たちの子や孫、そしてこれから生まれる子どもたちの将来と、その命がかかっているのです。
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安倍政権が描く「良い先生」

2006年10月24日 | 教育基本法・教科書
■ 下村副長官の否定

 文部科学省の諮問機関である中央教育審議会(中教審)は、教員の資質向上のため、教員免許に10年の有効期間を定め、その期間満了までに講習を受けない場合は失効させるという制度を答申として出しています。自動車の運転免許に近い制度と言えば分かりやすいかもしれません。
 10月22日、官房副長官の下村博文氏はこれに対し、「これでは本当の改革はできない。だからこそ教育再生会議がある」と、この答申と中教審そのものを否定しました。
 確かに、教育再生会議の協議事項には「教員免許の更新制度」が挙げられていますが、安倍首相に極めて近いとされる下村氏のこの発言の意図は、どこにあるのでしょうか。

■ 思想調査・統制による排除

 安倍首相や下村氏らが描く制度は、徹底した「排除の理論」です。教員一人一人を評価し、「不適格」という烙印を押された教員は排除するというものです。
 では、どういう人物が「不適格」だというのでしょうか。
 今年の8月、すなわち安倍政権の発足前、下村氏自身が官房副長官になる前に、下村氏は都内で行われたシンポジウム(「全国教育問題協議会 教育研究大会 シンポジウム2006」)にパネリストとして出席し、「安倍政権が目指す教育」について、次のように語っています。

 「(文部科学省の)局長クラスは政治任用し、役人の思想信条はチェックする。」
 「『自虐史観』は官邸のチェックで改めさせる。」

 下村氏は、総裁選前から「思想調査・統制」を公然と掲げ、しかもその方法は徹底した「官邸」のチェックによる「排除」を掲げていたのです。まるで全てが国家統制下にあった戦前や戦時中を思い出させるような発言です。彼らの言う「自虐史観」とは、戦前や戦時中の日本の政治の否定を意味することから考えても、これこそが彼の「適格」「不適格」の判断基準なのではないでしょうか。

■ 「国民全体に対し直接に責任」を負う教育から、「法律の定めるところによる」教育へ

 安倍首相や下村氏らが改定に躍起になっている、現行の教育基本法には、第10条で「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。 」と定めています。つまり、戦後の日本の教育現場では、このような「国家統制」を否定してきました。
 「国民全体」とは当然、子どもたちやその親を含んでいます。
 現行の教育基本法は、そのどちらに対しても教育が直接に責任を負うものと定めています。つまり、これは責任をもって「子どもたちのため」「親たちのため」の教育を行わせるという私たち国民の決意です。
 安倍首相や下村氏は、こうした子どもたちや親という、「国民のため」の教育を廃止し、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」教育に変えようとしています。
 では、そのような教育の中で、どのような教員が「適格」、すなわち「良い先生」とされるのでしょうか。 

■ 子どもたちに対して無責任な教員ほど「良い先生」

 一言で言えば、法律にだけ従順で、余計なことを考えない教員が「良い先生」ということになります。
 安倍政権が推進している通りの教育基本法が出来れば、教員は、子どもたちにも、親にも責任は負いません。ただ法律に従い続ける教員が「適格」な「良い先生」というわけです。
 この教育基本法改定案には、「国を愛する態度」が盛り込まれていますが、「良い先生」は学校で次のように教えるかもしれません。

 「国を愛せ。そしてその愛を態度で示せ。いざとなれば国のために死んでみせろ。」

 このことを聞いた親御さんが、学校に抗議に行くとします。

 「先生、子どもたちに死ねとは何を教えるんですか。子どもたちの命を何だと思っているんですか。子どもたちに対して無責任じゃありませんか。」

 そのとき「良い先生」はこう言うでしょう。

 「私は、法律に従っているだけです。あなたや子どもさんに対して、私は何の責任もありません。」

 「子どもたちのことを思えば、国のために死ねとは言えない」 とためらうような教員は、「不適格」な「ダメ教師」の烙印を押され、「排除」の対象となっていくのです。

■ 子どもたちの将来、そして命のために

 戦争遂行のために全国民を駆り立て、しまいには「一億玉砕」として「国民の皆殺し」まで画策した、戦前や戦時中の体制を否定する人々を「排除」し、「国を愛する態度」を子どもたちに強要しながら、「私は国民に対して責任は負いません。」という教員を生み出す。安倍政権が進める「教育再生」とは、正にそういうことなのです。

 今週末、教育基本法改定案の審議が再開されます。この法案には、さらに多くの問題点が詰まっています。
 安倍内閣は一気呵成にこれを押し通そうとしていますが、子どもたちやその親たち、すなわち「国民のための教育」か、それとも権力者に都合の良い「国家のための教育」か、その分岐点に私たちはいます。そして、私たちが今どう動くかに、子どもたちの将来と命がかかっています。

 私は動きます。子どもたちの将来、そして命のために。
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中川昭一政調会長への手紙

2006年10月16日 | 国会・政党・選挙
自民党政務調査会長 中川昭一様

 謹啓 初めてご挨拶申し上げます。goo-needsと申します。
 さて早速ですが、10月15日のテレビ番組で、中川会長は「核保有議論は必要」「憲法でも核保有は禁止されていない」「やればやり返すという論理はあり得る」などと述べられました。
 しかし私は、中川会長のご発言と、これまでのご発言とでは、大きな矛盾があるように思えてならないのです。
 中川会長は2003年7月24日、衆議院憲法調査会において北朝鮮の核開発についてこう述べておられます。

 「問題は、核兵器をつくって、小型のミサイル搭載型の核兵器にして、そしてそれを装備したときにはまさに意思と能力がある、これがまさに侵略戦争のまず第一義的な定義だ」

 中川会長は、核兵器をミサイル搭載型にして装備するということが「侵略戦争の第一義的な定義」としておられますが、「やればやり返す」とおっしゃる以上、いつでも発射できるよう、核兵器をミサイル搭載型にして装備する必要があるのではないでしょうか。
 それこそ「侵略戦争の第一義的な定義」と自ら定義づけたことであり、憲法とは全く相容れないのではないでしょうか。

 もちろん中川会長は、そのことをよくご存知のことと思います。
 また、2005年4月22日の衆議院経済産業委員会で次のように答弁されました。
 
 「日本は世界の平和を希求するという憲法あるいは国民の総意がある」
 「とりわけ核の脅威というもの、核拡散、あるいはまた使用といったことについては先頭に立って反対をしていかなければならないことは、実績としても、また今後もそういう方針は国民の総意として変わらない」

 おっしゃる通りだと思います。ぜひ「先頭に立って反対をしていかなければならない」というご自身のご発言を忘れてしまわないようお願い致します。
  
 同じく2005年の5月12日、参議院経済産業委員会でも、こう語っておられます。

 「もとより、日本は世界で唯一の被爆国であり、また第五福竜丸、水爆実験の被害でもありということで、国民の間に忘れてはならない核兵器に対する、つまり核兵器に対する絶対に二度と繰り返してはならないという決意がある」

 16日、「私はもとより核武装反対論者だ」と釈明されたと報じられています。
 私はその言葉を信じることに致しますが、誤解を招くご発言は厳に謹んで頂きたいと思います。
 中川会長が発言して来られた通り、「反核」「平和」への総意と決意が国民の間にあり、今後も変わらないということを決して忘れずに、真摯に政務に取り組んで下さいますよう、国民の一人として強くお願い申し上げます。

敬白


goo-needsより
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日本に「死の灰」を降らせるミサイル防衛

2006年10月14日 | 外交・国際
■ ミサイル防衛の前倒し

 北朝鮮が地下核実験を行ったと発表したことを受けて、安倍首相は10月12日の参議院予算委員会
で、「ミサイル防衛網整備を促進すべく努力したい」と語りました。
 また、久間防衛庁長官も「国民の不安を取り除く必要があるので前倒しを」と述べ、早急にミサイル防衛システムの導入を図る考えを示しました。
 特に政府は、日本海での「海上配備型」の整備を急ぐとしています。

■ 残骸が日本に降ってくる

 ミサイル防衛システムとは、発射されたミサイルを上空で撃ち落とすというものです。
 北朝鮮と日本の間には日本海がありますが、もし北朝鮮が発射したミサイルを日本海上空で撃ち落したとき、その残骸はどうなるでしょうか。
 当然、偏西風に流されながら、日本に降ってくることを考えなければなりません。
 そのミサイルに、もし核弾頭が搭載されていたとすれば、どうでしょうか。上空で大爆発した後、高濃度の放射能に汚染された残骸は、私たちの頭上に降り注ぐことになります。
 爆発でつくられた雲が降らせる「黒い雨」の影響も考えなければなりません。恐らく日本は数千万人という「被爆者」を新たに生み出すことになるでしょう。

■ 火中の栗

 それでも、撃ち落さなければもっと恐ろしい被害をもたらすことが明らかであり、数千万人という犠牲もやむを得ないというのであれば、少しは納得する人もいるのかもしれません。
 しかし、北朝鮮が7月に発射に失敗した長距離弾道ミサイル「テポドン2」が、米国を狙ったものであったということは米国の国防総省をはじめ、多くの人々が知るところです。
 衛星からの情報などによって計算された軌道は、ロシア沿海州沖を通り千島列島上空を通り、アラスカ沖の太平洋上をたどって米国東海岸へというものでした。
 それをわざわざ日本の近海で撃ち落とし、日本にその灰を降らせようというのですから、「正気の沙汰」とも思えません。正に「火中の栗」を拾って大やけどを負うようなものです。 

■ リスクを金で買う

 一方、米国にとってみれば、これほど嬉しいことはありません。
 自国の近海で撃ち落とせば米国本土に深刻な被害をもたらすところですが、そのリスクを日本が一身に受け止めてくれるのです。
 しかも、ミサイル防衛システムを売りつけることによって、少なく見積もっても十数兆円もの金が米国に流れるのです。
 正に米国にとっては「一石二鳥」ですが、日本にとっては全く正反対です。
 数千万人の「被爆者」を出すほどのリスクを肩代わりし、さらに、そのために十数兆円もの代金を税金を投じて支払うわけです。

■ 迷惑な、安倍内閣とミサイル防衛

 米国のために、税という国民の財産を拠出し、さらに国民の命まで差し出そうとする安倍首相。
 彼は「国家のために死ぬこと」を賛美してきましたが、その「国家」とは本当に日本なのでしょうか。
 それとも、かつて彼の祖父である岸信介氏や、その弟の佐藤栄作氏が秘密資金援助を受け取ってきた米国という「国家」なのでしょうか。
 国民の命を全くかえりみない安倍首相の姿勢を見れば、その答えは、おのずと明らかです。
 私たち国民にとっては、このような安倍内閣も「ミサイル防衛」も、「無用の長物」どころか、迷惑以外の何者でもありません。
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北朝鮮の核実験に思う

2006年10月10日 | 外交・国際
 10月9日正午、北朝鮮が「地下核実験を行い、成功した。」と発表しました。
 私はあらゆる「核」に反対する立場として、これを強行した北朝鮮に強く抗議し、ただちに核開発を中止するよう求めたいと思います。

 北朝鮮が強行した「核実験」を問題にするのは当然です。
 しかし、政府やメディアの論調は、核実験を行ったのが「北朝鮮であること」ばかりがクローズアップされている気がしてなりません。
 
 メディアは制裁をあおっています。私は賛成です。
 核実験を強行した国、すなわち北朝鮮をはじめ、米国・英国・フランス・ロシア・中国・イスラエル・インド・パキスタン等すべてに日本は制裁を加えなければなりません。
 数え切れないほどの核実験を繰り返してきたこれらの国々に、日本は何をしてきたでしょうか。

 北朝鮮と同じ共産主義で言えば、かつて日本でも、共産党や原水協は、資本主義・帝国主義国の核には反対しましたが、共産圏の核については容認、黙認の立場をとってきました。
 当然、自民党をはじめ多くの政党は、この「二重基準」を非難しました。しかし自民党も、みずから「核の抑止力」を正当化して、米国の「核の傘」に入っていったことも事実です。公明党や民社党などもそれを容認してきました。

 唯一、社会党(現在の社民党)や原水禁は、「二重基準」を許さず、「核と人間は共存できない」と、全ての国の核実験に反対してきました。

 核実験をした北朝鮮を非難する人は、すべての国の核実験に反対し、核廃絶を願って下さい。
 そうでなければ、かつての共産党の「二重基準」を非難する権利もありませんし、北朝鮮の核実験に反対することもできないと思います。
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「共謀罪」法案は見送られてなどいない

2006年10月07日 | その他
■ 「成立見送り」報道

 10月5日、与党間協議で今国会で優先的に成立を目指す重点法案を決めました。
 その中に、「共謀罪」法案がなかったことから、「『共謀罪』の成立 今国会見送りへ」という記事が出ました。

http://www.tokyo-np.co.jp/00/sei/20061006/mng_____sei_____003.shtml

 しかし、そう楽観視して良いものでしょうか。
 前回の通常国会でも、何度も与党が「断念した」という報道が繰り返されましたが、会期末には民主党案を「丸呑み」するという奇策まで持ち出して成立を図りました。

■ 「見送り」報道を否定した法相

 今回、確かに重点5法案からは外れていますが、法案自体が廃案になったわけではありません。
 「共謀罪」法案の審議の場である法務委員会は、他の重点5法案とは無関係です。つまり法務委員会では、依然として最重点課題の一つであることは間違いありません。

 あまり報じられていませんが、この法案を所管する長勢法務大臣は10月6日朝、閣議後の記者会見で次のように述べています。
 「国際連帯の中でどうしても必要であり、早期成立に全力を挙げたい。見送るという報道もあるが、そういうことはない。」

 「共謀罪」法案について政府は、あくまでも今国会での成立を目指す構えです。
 決して予断を許さない状況にあることを、私たちは再認識する必要があると思います。

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安倍内閣のための憲法第73条

2006年10月04日 | 憲法
■ 違憲・違法行為を「適切」と強弁
 
 東京都教育委員会が、卒業式・入学式などで「国歌」斉唱をしなかった、あるいは起立しなかった教職員の大量処分について、東京地裁が「憲法違反」「法律違反」と判断したことは記憶に新しいところです。
 これについて安倍首相は10月3日の衆議院本会議で、こう述べました。

 「(国旗や国家を)尊重する態度を育てることは重要だ。東京都は適切に判断し、対処していただいている」

 裁判所が違憲・違法と判断した東京都教育委員会の通達や処分を、明確な法的根拠もなく「適切」だと強弁する安倍首相の姿勢には、あきれ果てるばかりです。

■ 法治主義と遵法精神

  99年、国旗国家法案が上程された際、日弁連は「法制化によって強制の傾向が強まることは問題である。」と指摘し、その2年前にも「子どもの権利条約」の立場から、教育現場での「日の丸」「君が代」の事実上の強制の実態について「賛同しない子どもの思想・良心の自由が侵害されている。」との報告を発表しています。
 この法案審議の前後に、政府は何度も、これは「強制するものではない」と説明しています。

 今回、教育委員会による処分という、公権力の「強制」に対して、それを憲法上の「思想・良心の自由」の侵害であり、教育基本法上の「不当な支配」に当たるという指摘は、法的に見て当然です。
 日弁連の指摘、政府見解、そして裁判所の判決に照らして明らかに違憲・違法である行為を、「適切」と強弁する安倍首相について、「法治主義」についての認識不足や、「遵法精神」の欠如を指摘しなければなりません。

■ 違憲・違法行為を全国に展開

 安倍首相はその日の答弁で、こう付け加えています。

 「全国の学校で国旗国歌に関する指導が適切に行われるよう、しっかり取り組んでいく。」

 安倍首相は、既に憲法違反・法律違反という判断が下された指導を、「適切」と言い張るだけでなく、「全国の学校」に展開しようというのです。
 違憲・違法行為を推進し、それを教職員のみならず、児童・生徒に指導・強制するというのですから、安倍首相が提唱する「教育再生」がどのようなものか、よく分かります。

■ 法律の誠実な執行を

 日本国憲法第73条には「内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。」と定められていますが、その冒頭にあるのが次の項目です。

 「法律を誠実に執行し、国務を総理すること。」

 まるで、違憲・違法行為を推進する安倍内閣のためにあるような条項です。
 安倍首相にはもう一度よく憲法を勉強し直し、「誠実に法律を執行」することに努めていただきたいと思います。
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安倍首相の「改憲志向」に対する危機感

2006年10月03日 | 憲法
■ 「改憲志向」を打ち出してきた安倍首相

 9月、「戦後レジームからの新たな船出を」「5年後を目途に新憲法の制定を」と唱えて自民党総裁となり、首相となった安倍晋三氏。
 この強烈な戦前回帰の匂いを漂わせる安倍首相の「改憲志向」には、周囲に静かながら強い危機感を感じます。

■ 公明党の「主張」

 連立を組む公明党は、党大会での運動方針で連立重視の立場から、先の通常国会までに提案された諸法案に肯定的な立場を強調しています。
 しかし、99年の連立政権参加以来、周辺事態法、国旗国歌法、盗聴法、憲法調査会設置に始まり、テロ特措法に基づくアフガン攻撃の後方支援、有事関連10法、自衛隊イラク派遣と多国籍軍参加、在日米軍再編による日本の前線基地化・日米軍事一体化という、これまでの流れに強い抵抗があります。
 その抵抗の表れが、太田新体制の「平和の党」の強調です。
 今回、自民・公明両党が署名した政権合意では、安倍首相がこだわる「新憲法制定」を一切、消し去りました。
 公明党の赤羽氏・高木らは7月中旬に「安倍政権」を見越して、当時の安倍官房長官に「公明党からも補佐官の起用を」と直談判を行いましたが、安倍首相は5名もの補佐官を登用しながら、公明党からの起用はありませんでした。これは、「官邸主導」強化を打ち出す安倍首相の「公明党を利用はするが、実際の政権運営は我々のグループだけで行う。」という意思表示です。それほどまでに身勝手な安倍首相に何の義理立てがいるでしょうか。
 かつて、公明党が連立に加わるとき「改革にアクセル、右傾化にブレーキ」と言ってきました。公明党が「平和の党」と自認するのであれば、「右」に著しく傾く安倍政権に対し、無理に合わせるのではなく、主張すべきことは堂々と主張する姿勢こそが求められるのではないでしょうか。

■ 改憲に反対する自民党員

 さて、安倍首相の改憲志向への危機感は、実は自民党内にも根強いものがあります。
 総裁選では、当初8割前後とも言われていた安倍氏支持票が6割台にとどまったのも、その一つかもしれません。
 しかし、それ以上に興味深いのは、総裁選が始まった直後に自民党の党員・党友に対して、共同通信社が行った調査結果でした。その調査は5項目の設問があり、その4番目に「憲法を改正すべきだと思いますか、そうは思いませんか」という質問がありました。
 半世紀以上にもわたって「自主憲法制定」という看板を掲げ、昨年11月には「新憲法草案」まで発表して改憲への気運をあおる自民党の党員に尋ねる以上、「改正すべき」という意見が圧倒的多数を占めるのが当然です。
 ところが、「改正すべき」は52.4%と、辛うじて過半数を維持するにとどまり、逆に「改正すべきではない」という意見は27.4%にも達したました。自民党の党員・党友が4人いれば、少なくとも1人は「憲法は変えるな」という意見なのです。
 安倍首相の「改憲志向」を危惧する「足元」からの声は、安倍首相の「改憲志向」がいかに「上滑り」的なものかを物語っています。

■ リーダーシップ

 安倍首相は、総裁選中に「新憲法制定」について「リーダーシップを発揮する」と訴えました。
 しかし、自民党総裁という立場だけならまだしも、首相あるいは国会議員という立場にある以上、現行憲法第99条が定める「憲法を尊重し、擁護する義務」を負わねばなりません。これまでのように現行憲法を否定する発言は、憲法違反の指摘を免れません。
 さらに言えば、「憲法改正」について第96条は、国会に「発議」、国民に「承認」の権利を定めていますが、内閣には何一つ権限を与えていないのです。
 安倍氏も首相になった以上、その程度は理解すべきでしょう。
 首相が、憲法に関して「リーダーシップ」を言うならば、憲法の尊重や擁護に対して、それを発揮するべきなのです。
 
■ 主権者である国民として

 「憲法は権力への規制」だといいます。
 暴走しがちな権力というものに対して、主権者である国民による「規制」です。
 国民から搾り取ろうとする権力、国民の自由や権利を抑えて服従させようとする権力、そして国民を戦争に駆り出そうとする権力。そうした権力の横暴を規制してきたのが憲法です。
 私たちは、いま彼が、私たち国民から何を奪おうとしているのか、何を押し付けようとしているのかを冷静に見極めねばなりません。

 憲法第97条はこう定めています。
 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
 いま私たちが、先人たちの「自由獲得の努力の成果」に背を向け、再び国家主義の罠に陥れば、「現在」だけでなく「将来の国民」すなわち、まだ生まれぬ子どもたちにまで禍根を残すことを忘れてはなりません。
 権力に憲法を守らせることこそ、権力の横暴から自分たちを守る手段なのですから。
コメント (3)
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