恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

「高校無償化」をめぐる「誤解」と「差別」

2010年03月16日 | 教育基本法・教科書
 16日、いわゆる「高校授業料無償化法案」(「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律案」)が衆議院を通過しました。
 ご存知の通り、この法案については様々な批判があります。
 しかし、その中には多くの誤解もあるようですので、少し私なりに整理してみたいと思います。

■ 「国際人権規約」

 まず、良くある批判が「選挙目当てのバラマキだ」という批判がありますので、これについて考えてみましょう。
 国際人権規約という条約があります。1979年に批准しています。
 その中の「A規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)」には、「高等教育の無償化」が盛り込まれています。
 この「高等教育の無償化」について日本は長い間、留保してきました。もちろん国々にはそれぞれ様々な国内事情もありますので、この「A規約」を批准したからといって直ちに国内法の整備を行う義務があるわけではありませんが、批准から約30年もの間放置されてきたこと自体、少し放置し過ぎたようにも思います。
 それが今回、ようやく着手することになった、これが今回の「高校無償化法案」だというわけです。

 こうした経緯から考えれば、本質的には子どもたちの人権(「教育を受ける権利」)の問題であって、「バラマキ」などの類いの問題ではないのです。

■ 国どうしの「仲」の良し悪しと「人権」は別物

 さて、もう一つ問題になっているのは、朝鮮学校などに通う生徒さんたちも対象にするのか否かということです。
 例えば、閣僚の中では国家公安委員会の中井洽委員長が、拉致問題と経済制裁を理由に朝鮮学校を除外するよう求めたことがありました。
 前述の通り、そもそも法案の本質は「子どもたちの人権」の問題です。人権を論ずるのに国どうしの「仲」の良し悪しが判断基準になるようでは、お話にもなりません。

 もちろん北朝鮮による拉致も、重大な人権侵害ですし国家犯罪ですが、日本が北朝鮮や韓国の国籍を持つ人々、まして子どもたちを「差別」や「人権侵害」を行なっても良いとするならば、逆に北朝鮮などが日本人に対して「差別」や「人権侵害」を行なうことに、「日本もやっているだろう」と根拠を与えてしまうことになります。
 「子どもたちの人権」の問題だという本質を見誤らない限り、中井氏のような主張はできないはずです。

■ 「教育を受ける権利」

 さて、批判の中には憲法の条文を根拠にしたものもあるようです。
 その一つは、憲法26条の定める「教育を受ける権利」は「すべて国民は」としており、日本国民だけが対象だというものです。
 残念ながらこうした批判は誤解に基づくものであり、妥当とは言えません。有名な最高裁判所の判例をご紹介します。1978年10月4日に出された、いわゆる「マクリーン事件判決」です。

 「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ。」
 
 「権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるもの」が、どの程度の範囲かという議論もあるでしょうが、例えば外国籍の子どもたちが普通の小学校に入学しようとしたとき、外国籍であることを理由に入学や転入が拒否されるでしょうか。「教育を受ける権利」が保障の対象外だとすれば、拒否されて当然となるわけですが、実際はそうではありません。
 「教育を受ける権利」の保障も、「わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ」と考えるべきでしょう。

■ 「公の支配」

 また、中には憲法89条を根拠にした批判もあります。
 89条は、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」と定めていますが、朝鮮学校は「公の支配に属しない」存在であり、これに公金を支出するのは憲法違反だという主張です。

 これも一見、かなりの説得力があるように見えますが、繰り返し述べてきた通り、ことの本質は、「子どもたちの人権」を支援するものであり、学校を支援するのではありません。
 これは一般の公立高校や私立高校でも同じで、学校が受け取る授業料を「子どもたちから取るのか」「国から受け取るのか」の違いだけで、学校からしてみれば変わりません。あくまで、支援を受けるのは学校ではなく、そこに通う子どもたちなのです。

 すなわち、89条の規定をもって憲法違反だという批判も全くの「的外れ」なのです。

■ 「学校法人」への「支配」は絶大

 ついでに余談ですが、朝鮮学校が「公の支配」に属していないかというと、そうとも言い切れません。
 朝鮮学校は他の私立学校などと同様「学校法人」が運営していますが、この設立に当たっては日本国政府(文部科学省)の認可が必要です。
 また、その管理や寄付行為の変更などについて定められた日本の私立学校法に服しており、法令や所轄庁の処分に違反した場合、文部科学省は私立学校審議会の意見を聞いた上で「解散命令」を出すこともできます。
 しかも、この「解散命令」は絶大で、「行政不服審査法による不服申立てをすることができない」と定められています。
 これだけの絶大な「支配」が朝鮮学校にも行き届いていることは、知っておいた方が良いのではないかと思います。

■ 反対政党の「付け焼き刃」

 ここまで述べてきたことを知らなかった人々を、批判するつもりはありません。
 今まで知らなかったことが多かったのは、ある意味、提案者側の「説明不足」の責任でもあります。
 ただし、今回法案に反対した自民党や、その「亜流」みんなの党に対しては、その「説明不足」の責任も含めて「軽蔑」を禁じ得ません。
 ここまで書いてきた「批判」も、すべて自民党・みんなの党の、言い分です。
 日頃から、憲法にも人権にも見向きもしない政党の「付け焼き刃」では仕方ないかもしれませんが、いかにも中身が「薄っぺら」です。

■ 人種差別撤廃に動いたはずの「保守」

 具体的に言うならば、前述の1979年の「国際人権規約」の批准は、自民党政権の大平正芳内閣のときです。大平氏といえば、自民党総裁の谷垣禎一氏の「宏池会」の大先輩です。なぜ内容を理解できないのでしょうか。

 また、自民党が最大与党として、社会党・新党さきがけと連立を組んでいた1995年に批准した「人種差別撤廃条約」には、国や自治体など公共機関が人種や民族などで差別する行為や、差別の扇動や助長を行わないことが定められています。
 この「人種差別撤廃」を国際会議で最初に提案したのは日本です。第一次大戦後に作られようとしていた「国際連盟」の規約に「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざること」という文言を入れるべきだと主張したのは、1919年当時の日本なのです。 

 しかも、そのときの全権大使だった牧野伸顕氏は、麻生太郎前首相の「ひいお爺様」です。なぜ、それさえも無視するのでしょうか。

■ 「恥ずかしい歴史」を刻む「保守」

 もちろん、それだけ立派な主張を国際社会に訴えた日本も、その頃は国を挙げて他のアジア諸国やその民族を「差別」していたのですから、お恥ずかしい限りです。

 それでも、先人が尽力してきたことや、世界に誇れるような功績を受け継ぐべきなのに、逆に負の「差別」だけを受け継ぐ良識なき末裔が「保守」を僭称し、まだこの日本に蔓延っていることは、やはり嘆かわしいことです。

 「人権」や「教育」を思うとき、他者への「差別」を1世紀近くにわたって引きずるためだけの「保守」。「人権」と「外交」の区別もつかない「保守」。
 すなわち今の自民党・みんなの党などは、「恥ずかしい歴史」を刻み続ける「恥ずかしい」存在なのではないか、私にはそう思えてなりません。

「教科書を変えてきた」麻生首相の「闘い」

2009年02月24日 | 教育基本法・教科書
 先日、麻生首相が青森で講演し、自民党は「いい加減な教科書を変えてきた」「日教組と断固闘う」と豪語したというニュースがありました。
 その発言について質問した記者と麻生首相との応答を読むうちに、真面目に反論を書く気が失せました。

■ 「変えてきた」のは「ペットに対する表現」

Q:総理は昨日の青森の講演で、我々はいい加減な教科書を変えた、というような発言をされたと思うんですが。政治の力で内容を変えさせたとも受け止められる発言なんですけれども検定制度の趣旨からして、政治的介入はあってはならないと思うのですが。

A:それは当然ですよ。それは当然です。教科書検定っていう制度がありますんで、それによって。確かあれはペットを家族の一員というような話だったんじゃないすかね、あれは。それはちょっと違うんじゃないかということで、あれは検定に関して、ペットに対する表現は変えた、たぶんその例だったと思いますけどね。私の記憶です。

■ 「タマ」の除外という「闘い」

 確かに以前、ある教科書会社が家族についての例として、「サザエさん」の磯野家を例に挙げたところ、検定意見が付されました。そこで、その会社が記述の中から猫の「タマ」を除外したところ、検定を通過したということがありました。
 麻生首相の「アニメ」へのこだわりは聞き及んでいますが、「いい加減な教科書を変えてきた」のが「タマ」の除外ですか。しかもこの件に「日教組」がどう関係すると言うのでしょうか。

 さらに記者とのやり取りは続きます。

■ 「選挙」で戦う 「え、なんだったっけ」

Q:教科書を変えさせたということについては。

A:いや、変えた。いや変えさせたと言ったのか知りませんけど。あれは教科書検定、検定委員会だったっけな。教科書検定委員会が変える、ここが責任です。

Q:昨日の同じ講演で日教組と戦う、それが自民党だという趣旨のご発言をなさってますが、9月に辞任をさせた中山国交大臣の日教組をぶっ壊すという発言については、はなはだ不適切とおっしゃってましたが。総理はかなり強い意向だったのかな…。

A:あれは、日教組から支援されている政党もある。私どもはそこと選挙で戦っていく。

Q:今の件ですけれども、変えさせたということは、言葉通り聞くと政治介入をしたという風にしか受け取れないんですけれども。

A:そういう意味ではありません。教科書検定、え、なんだったっけ。検定委員会だっけ。検定委員会が変える。そこが、責任を持って変えるということです。

■ 検定の仕組みすら知らない麻生首相

 何のことはありません。「政局より政策」と言っていたはずの麻生首相が、日教組への攻撃は「選挙目当て」だということを、自ら白状しただけのことです。
 さらに、後で麻生首相の秘書官が次のように補足したことで、麻生首相が教科書検定の仕組みを全く理解していないことが明らかになります。

 「教科書はたぶん『審議会』だと思うので確認してください。申し訳ございません。」

 秘書官の補足の通り、教科書の検定を行うのは「教科用図書検定調査審議会」であり、麻生首相が再三述べた「検定委員会」なるものは存在しません。
 このような人物が首相となり「選挙目当て」に教育を語るなど、実に情けない限りです。

 せいぜい「タマは家族の一員じゃない!」という的外れな「闘い」を続けて下さい。

「不断の教育改革」を言うならば

2009年02月13日 | 教育基本法・教科書
■ 引用された「被仰出書」

 「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す。」

 麻生首相は、2月12日付けのメールマガジン「国づくりの基本は人づくり」で、「学制序文」すなわち「学事奨励に関する被仰出書(おおせいだされしょ)」(太政官布告第214号)の一節を引用し、施政方針演説にもあった「教育改革」への取り組みを訴えました。
 この「被仰出書」については、私も以前、拙稿“「愛国」は伝統や文化ではない”において、取り上げたことがありますが、この「被仰出書」を読む上で最も重要なのは「教育は誰のためにあるのか」「学校は何のために必要なのか」という点です。

■ 「子どもたち」「国」、誰のための教育か

 「被仰出書」の冒頭部分を現代語で読むならば、「人々が自立して財産を管理し、その仕事を成功させ、その人生を全うさせるのは、他でもなく自分を律して知識を開き、才能を伸ばすことによるものである。そのためには、学ぶということがなくてはならない。それが学校を設置する理由であり…」と述べています。
 つまり、教えられる側の「人々」である子どもたちのためだったのです。そして、そのために「不学の人なからしめんこと」を目指すことが、日本の近代教育の原点だったのです。

 ところが、麻生首相のメールマガジンでは「教育」を「人づくり」と呼び、「国づくりの基本」としています。さらにその中では「国力の向上」や「活力ある日本を取り戻し、世界に貢献する。これを支えるのは人です」など、教育や本来「権利主体」である子どもたちは、まるで「国のため」の「材料」か「部品」のような扱いです。

■ 情けない「尻すぼみ」

 確かに、「被仰出書」も、冒頭では「人々」のため、という崇高な精神を掲げたものの、「国家」のため、というのも出てきます。
 しかも、それが実に情けない「お金」の話として、末尾に登場するのです。

 「これまで学問はサムライ以上のことで、『国家のため』と言っていたのを理由に、学費から衣食まで政府をあてにして、これを給付しなければ学ばないものと思い、一生を棒に振る者も少なくない。これからは皆そんな勘違いをせず、学問以外のことをなげうってでも、自ら奮って学ばせること」

 分かりやすく言えば、「人々(子どもたち)のため」「国のため」と言ってきたけれども、政府はお金は出しませんよ、という「ケチ」な話で終わっていたのです。
 このために当時の就学率の伸びは低調でした。
 
■ 「不断の改革」なのに削減された「教育予算」

 その点で言うならば、麻生首相が、国会冒頭の施政方針演説で「経済状況の厳しい中でも不安なく教育を受けられるようにすること」を訴え、今回のメールマガジンでもそれを繰り返している点は立派だと思います。しかし、これも「被仰出書」同様、「尻すぼみ」に終わっているのです。

 いま麻生首相や政府・与党が「早期成立を」と訴える来年度予算案を見てみると、「文教及び科学振興費」は、前年度に比べて15億円のマイナスです。さらに、そこから「科学技術振興費」を引いた本当の教育予算は、合わせて164億円の削減となっています。
 もちろん、金をかければ良いというものではありませんが、今回の予算案で一般歳出が4兆4千億円以上の増額となる中での教育予算としては「不断の改革」が泣くというものです。
 正に明治政府と同じく、言うことは「ご大層」ながら中身は「しみったれ」、というものです。

 麻生首相ですが、「被仰出書」の精神や「漢字」は読めなくとも、せめて重大な職務の一つとして「予算案」くらいは読めるようになって頂きたいものです。

■ 「貧困」だからこそ必要な「教育」

 明治初期における、それまでの飢饉による困窮という事情、そして現代における構造的に貧困を作り出すシステムに追い討ちをかけた世界同時不況という事情。
 こうした中で、「不学の人なからしめん」教育は必要不可欠です。
 それは「国づくり」などという支配者の論理ではなく、教育の権利主体である子どもたちの将来のためです。

 親の経済状態によって、満足な教育を受けられず、それが理由で満足な職に就けず、明日をも知れぬ不安定かつ低賃金な非正規雇用に甘んじなければならない、という「貧困の固定化」は、現実に数百万という単位で存在しています。

 いま本当に必要なのは、「被仰出書」を引用した麻生首相のメールマガジンにもある通り、「国民皆学」の精神です。そのためには施政方針演説で述べたように、親の経済状態に関わらず、しっかりと「子どもたちの権利」としての教育を支える予算措置が必要なのです。

■ 「金がなければ学校に行けない」という現実

 これまで支持率低下に悩む首相ほど、子どもたちを「ダシ」にして「教育改革」を叫ぶという傾向があります。安倍元首相などはその最たるものと言えますが、いま本当に必要な「教育改革」とは、憲法26条に保障された、子どもたちの「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」を。国民全体で力の限り支援できる制度を作ることですし、そうした予算編成を行うべきです。

 現実問題として、明治期と同様「金がなければ学校に行けない」という現実があるのですから。

 「教育」を「人づくり」「国づくり」と呼ぶことの正当性はともかくとして、そこまで「ご大層」なことを言うならば、せめて、そのために必要な「教育予算を拡充させてから」にして頂きたい、少なくとも私はそう思います。

恥ずかしい日韓両政府による、恥ずかしい教育

2008年07月16日 | 教育基本法・教科書
■ 竹島問題

 政府が、中学校向け学習指導要領の解説書に、竹島問題を記載することを決めて以来、日韓両国で騒ぎが続いています。
 韓国政府は駐日大使を召還し、また政府高官を竹島に派遣して日本に対する抗議文を読み上げるなど、騒ぎを拡大させています。
 さらには、日本大使館に向かって生卵を投げる市民も現れるなど、思わず眉をひそめてしまうような行動を取る人々もいました。
 では、なぜ彼らはこのような反応を示すのでしょうか。それは、彼らが受けてきた教育に原因があると思います。

■ 「恥ずかしい」教育

 韓国では、竹島は「独島」と呼ばれていますが、韓国の「国史」の教科書に、この「独島」に関する記述があります。
 そこでは、2ページにわたって地理的・歴史的側面から、「独島」が韓国領であることが書かれていますが、とりわけ日本の殖民地支配の歴史と、それが終わったことを意味する「光復」によって、「独島」が取り戻されたこと、そして軍を派遣してこの島の領有権が明確にしたことなどが強調されています。
 こうしたことを学校で教えられた子どもたちの心には、一体何が残るでしょうか。
 取り戻された「独島」への愛着をおぼえるだけでなく、植民地支配を行った日本への反感も抱くかもしれません。そして、「愛国心」と呼ばれる感情も芽生えるかもしれません。これこそが歴代韓国政府の「狙い」だったのです。
 そのような教育の結果、ひとたび今回のような問題が起きれば、市民レベルでも、生卵を投げたり「日の丸」を焼いたり、といった衝動的な行動が繰り返されるようになりました。
 政府から受けた教育と、植えつけられた「愛国心」によって、子どもたちが大人になってこのような行動を取るのですから、実に「恥ずかしい」教育だと言わざるをえません。

■ 「恥ずかしい」教育を真似る日本政府

 日本ではどうでしょうか。
 この竹島問題に見られるように、日本政府はいま領土問題に関する教育を強化しようとしています。
 これは、一昨年の暮れに改定された教育基本法に、いわゆる「愛国」規定が盛り込まれたことが、背景としてあります。
 子どもたちに、領土問題を教え込んで相手国に対する反感を煽って、「愛国心」を植えつけようとするのですから、日本政府が行おうとしている教育も、韓国と同様の「恥ずかしい」教育に他なりません。
 「相手国が言っているのだから、こちらも…」と言うような人々は、教育を行う上で、何よりも子どもたちのことを大切に考えなくてはならないということを見失っています。子どもたちに教えて、領土問題が解決するとでも言うのでしょうか。
 そのようなことも分からない人々のご機嫌をとるために、将来、他国の大使館に向かって、生卵を投げたり、門の前で旗を燃やしたりするような「愛国心」を植えつけられようとしている子どもたちが可哀想でなりません。

■ 「子どもたちのための教育」を

 では、この問題について両国政府が取るべき行動は何だったのかを考えてみましょう。
 今月初め行われた洞爺湖サミットで、韓国の李明博大統領は、日本の福田首相との会談で直接、竹島問題について記述しないよう要請していました。このとき、もし私が福田首相ならば、こう答えたでしょう。

 「分かりました。領土問題を子どもたちに教えても何の解決にもなりません。日韓両国が合意できるまで、双方がお互いに教科書から領土問題を削除し、本気で解決を目指して政府間で交渉を進めましょう。」

 以前にも書きましたが、政府間の交渉なくして領土問題の解決はありません。
 その努力もせず、他国への反感を利用するために、領土問題を教育に持ち込むような政府は、実に「恥ずかしい」政府です。

 私は、日本・韓国だけでなく、教育に「愛国心」などというものを持ち込む全ての国々の、「恥ずかしい」教育を改め、子どもたちが未来を展望するための教育を、それぞれの国民の手に取り戻さなければならないと考えます。

「目くらまし」に使われた「空襲」「沖縄戦」「原爆」

2008年07月03日 | 教育基本法・教科書
■ 改定された学習指導要領解説

 このほど文部科学省が、小学校向けの学習指導要領の解説を改定し、発表しました。
 その中で、初めて「各地への空襲、沖縄戦、広島・長崎への原子爆弾の投下など、国民が大きな被害を受けた」という記述が加えられたことが報じられています。
 この記述が加えられたことについて、私は率直に評価しますが、しかしこれは126ページに及ぶ「社会編」の僅か一部分に過ぎないことを忘れてはなりません。
 
■ 執拗に登場する「愛国心」

 この解説は元々、06年12月、安倍政権が強行した改定教育基本法、そしてそれに従って改定された学習指導要領についての解説です。
 全体を読んでみれば、「戦前回帰」を目指した安倍政権時代の、復古的・国家主義的教育観が色濃く反映されたものとなっています。
 例えば、「日本人としての自覚」という記述は11回も登場しますし、実に50回以上も登場する「愛情」「愛する心情」という表現は、「我が国の国土に対する愛情を育てる」「我が国の歴史に対する愛情を育てる」という文脈で使われ、特に6年生に対しては「我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする」と、しつこいほど露骨な「愛国心教育」が掲げられています。
 やはり、ここでも教育基本法改定の際の「内面には踏み込まない」という政府答弁とは全く正反対の内容です。

■ 「天皇」

 さて、その「愛国心」「国家主義」を煽る道具の一つは、戦前・戦中の教育と同じ「天皇」です。
 具体的には、初期段階で「古事記・日本書紀・風土記」などの「神話・伝承」を使って「天皇=神の末裔」像を刷り込み、聖徳太子や大化改新について「天皇を中心にした新しい国づくり」の意識付けを行い、挙句には、大仏建立まで「「天皇を中心にしてつくられた新しい国家の政治が都だけでなく全国にも及んだ」という極めて一面的な部分のみを強調する内容です。
 その後、武家政治の時代を経て、明治維新によって再び「天皇中心の国家」となったことを強調するという、さながら森政権時代の「神の国」を思い出させるような、徹底ぶりです。

■ 「国旗」「国歌」

 「愛国心」を煽る「道具」は天皇だけではありません。
 やはり、国旗や国歌も忘れてはならない存在です。
 解説では、「国旗があることを理解するとともに,それを尊重する態度を育てるよう配慮する」「我が国の国旗と国歌の意義を理解させ,それらを尊重する態度を育てることが大切」と、国旗国歌法制定時に「教育現場で強要しない」としていた政府答弁とは大きくかけ離れた内容です。
 ただし、国旗・国家の意義や経緯については、天皇ほどの執拗さはなく、「長年の慣行」という実にお粗末な理由が付されているだけです。
 中国や韓国などへの配慮があるのかもしれませんが、所詮その程度でしかないのであれば、わざわざ強調する必要もないはずです。

■ 「領土問題」

 「愛国心」を煽るには、やはり「敵」を作るのが効果的です。
 それで、与党などが必死に、教育に持ち込もうとしているのが「領土問題」です。
 解説では、特に「北方領土の問題」について、「現在ロシア連邦によって不法に占拠されていることや,我が国はその返還を求めていることなどについて触れるように」と念を押しています。
 しかし、ここでも中国や韓国などへの配慮が見られ、その帰属をめぐって中国や台湾と論争のある尖閣諸島や、韓国と論争のある竹島は、盛り込まれていません。
 そもそも、日本のみならず他の国々も、領土問題を小学生に教えて何になるのでしょうか。領土問題で交渉を行うのはその国の政府です。政府間交渉によって画定した線引きを、子どもたちに教えてあげれば良いのであって、子どもたちに領土問題の争いを教えたところで、何一つ進展などありません。
 このように領土問題を教育に持ち込んで「感情的なしこり」を残すだけの教育は愚かです。

■ 中韓米より子どもたちへの「配慮」を

 これまで述べてきたように、中国や韓国には配慮がなされています。
 また、今回盛り込まれた「空襲」「沖縄戦」「原爆」などを行った「アメリカ合衆国」という国を全く登場させないという、同じような米国への配慮もなされています。
 しかし、本当に配慮しなければならないのは、「教育の権利主体」である子どもたちです。
 執拗な「愛国心教育」を振りかざして、子どもたちの内面や感情に踏み込むというのは、子どもたちの権利・自由の侵害ですし、その後の人生を狂わせかねません。

■ 「戦争の悲惨さ」を語り継ぐことの意味

 そうした弊害は、中国の「愛国」教育や、北朝鮮の「権力者崇拝」教育を見れば、よく分かります。また、日本でも、教育勅語から敗戦までの約55年間、歪んだ国家主義教育が、どれほど多くの人々を不幸に陥れ、死に追いやったかを思い出す必要があるでしょう。
 いま同じ方向へ、同じような手口で、今の日本の教育が蝕まれようとしています。
 「空襲」「沖縄戦」「原爆」の記述は、所詮そのことへの批判をかわそうとする「目くらまし」に使われたと言っても過言ではありませんが、この記述は子どもたちにとっては重要です。
 戦争によって結局、不幸や死を背負わされるのは、国民です。戦争がいかに悲惨な結果をもたらすかを語り継いでいくことは、子どもたちが将来、過ちをおかさないようにするために大切なことです。

■ 取り戻したい「子どもたちのための教育」

 こうした記述を引き出したのは、国民の声でした。
 戦前への逆行を命じる進軍ラッパを吹き鳴らした安倍政権は、国民から強い批判を浴びて昨年の参院選後に崩壊し、今や参議院では「憲法9条は変えるべきではない」という議員が過半数に達しています。
 その後、高校の教科書から、沖縄戦での集団自決に関して日本軍が「強制」したという記述を削除させる検定意見に、沖縄県を中心に怒りの声が沸きあがりました。
 「関与した」という記述を認めるなど小手先のごまかしで、今も検定意見を撤回しない文部科学省に対して、私も憤りを禁じ得ませんが、こうした政治的・社会的な動きがあったからこそ、今回ようやく解説に「空襲」「沖縄戦」「原爆」などが盛り込まれたのです。 
 安倍政権の「亡霊」によって歪められようとする教育に対し、声を上げ続け、政府や権力者のためではなく、真に子どもたちのための教育を取り戻したいと、私は思います。

学習指導要領「密室修正」に踏み切った「愚かな権力者」

2008年03月30日 | 教育基本法・教科書
■ 密室の暴挙

 先日28日付で、小中学校用の学習指導要領が告示されました。
 これに先立つ15日に公表された改定案は、3年間にわたって中央教育審議会が公開の下で審議を進め、まとめられた案でしたが、告示までの十数日間という「土壇場」で一転、密室での修正が加えられたのです。正に前代未聞の暴挙と言わざるを得ません。
 では、このような不透明で強引な修正によって、一体政府は子どもたちに何をさせようとしているのでしょうか。
 そこには「復古主義」、すなわち「天皇制国家主義」への回帰、そして国際貢献という名で進められてきた「海外派兵」への志向があります。

■ 踏み込んだ「愛国心」

 修正された点として、まず「道徳教育」の目標の中の、「愛国心」規定が挙げられます。
 現行の指導要領から、中教審の改定案、そして改変後の新指導要領を見比べると、次第に表現が強化されていることが分かります。

《現要領》 「豊かな心をもち、個性豊かな文化の創造・・・伝統と文化の創造・・・道徳性を養う」

《改定案》 「伝統と文化を継承し、発展させ・・・道徳性を養う」

《修正後》 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し・・・道徳性を養う」

 そもそも、安倍政権下で改定された教育基本法の国会審議においても、「子どもたちの内面にまで踏み込むべきではない」という理由から、国や郷土を愛する「態度」を求め、「心」までは求めないとされてきましたが、今回「愛し」という直接的な表現が盛り込まれました。
 これは、復古的国家主義的色彩が強い教育基本法の枠をさらに踏み越えて、学校現場で「国を愛せ」と子どもたちに迫ろうとするものと見るべきです。

■ 毎年の「君が代」強制

 こうした志向は、小学校の音楽でも見られます。これは「君が代」についての規定です。

《現要領・改定案》 「『君が代』はいずれの学年においても指導すること』

《修正後》 「『君が代』はいずれの学年においても歌えるよう指導すること」

 これについても政府答弁では、「口をこじあけてまで歌わす、これは全く許されない」とされてきました。これは子どもたちだけでなく、親や先生も当然「そんなことまでさせたくない」と思うでしょう。しかし、この修正は「教える」だけでなく、「歌わせる」ことを重視しました。
 音楽が採点をともなう教科である以上、「歌えるよう指導する」というのは、「歌えるか確認し、点数をつけて評価する」ことになります。しかも「いずれの学年においても」です。学年が変われば次の歌を指導するのに、子どもたちは「君が代」だけ毎年歌わされ続け、評価の対象とされ続けるのです。
 小学校の音楽という、子どもたちが基礎的な芸術的素養を身につける絶好の機会も、国家主義者たちにとっては、ただ「君が代」を歌わせるための時間としか捉えていないのかもしれません。

■ 「神話」のすり込み

 次に、小学校の国語に新たに盛り込まれる規定を見てみましょう。

《改定案》 「昔話や伝説などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりする」

《修正後》 「昔話や神話・伝承などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりする」

 こだわりが見えるのは「神話」です。
 「神話」の元となるのは、古事記・日本書紀などですが、そもそもこの「記紀」は、「大和朝廷=天皇による支配を正当化する」という政治的意図をもって、「天皇を神々の子孫」であると信じ込ませるために、8世紀以後、当時の権力者たちによって作り出されたものです。
 こうした「神話」を、科学的検証もできない幼い時期から子どもたちの心にすり込み、「天皇=神々の子孫」という「無意識の意識」を植え付けるというのが、戦前の「皇民化教育」の手口だったわけです。全く同じ手口は、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史の教科用図書にも見られます。
 正に「馬鹿の一つ覚え」と言うべき姑息な手口ですが、戦前の「皇民化教育」によって育った子どもたちが、先の「愛国心」教育と相俟って、成長した後もどれだけ多く命を捨てさせられたかを思えば、その脅威を感じずにはいられません。

■ 「神話」から「信仰」「宗教」へ

 さらに、中学の社会を見てみると、国家主義者たちが愛する「もう一つのもの」が見えてきます。
 歴史的分野の縄文・弥生時代について、こういう修正がありました。

《改定案》 「日本列島における農耕の広まりと生活の変化・・・を理解させる」

《修正後》 「日本列島における農耕の広まりと生活の変化や当時の人々の信仰・・・を理解させる」

 また、公民的分野では、より露骨な修正が加えられています。

《改定案》 「生徒の公正な判断力の育成を目指す」

《修正後》 「政治及び宗教に関する教育を行うものとする

 先に述べたように小学校の国語で「神話」をすり込まれた子どもたちです。
 元々8世紀以後の政治的創作である「記紀」の中の「神話」ですが、書かれていることをその通り信じれば「皇紀」などという非科学的な数え方があるように、紀元前数百年、つまり弥生時代にまで遡ります。
 つまり、物語として教え込まれた「神話」を、中学生になった子どもたちは、初期に学ぶ縄文・弥生期の「歴史」として「復習」させられるのです。
 行き着くところは「天皇=神々の子孫」を、間接的に歴史として「誤解」させることにあります。実際、文部大臣を経験したこともある森喜朗氏が、首相として「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく」と大真面目に語ったのは、わずか8年前のことなのです。
 こうした「神話」に基づく「国家神道」、そしてその頂点としての「靖国神社」への崇敬を、現代の公民的分野で、最後の仕上げとして子どもたちに教え込む、これこそがこの修正の意図なのでしょう。

■ 「国際貢献」の美名の下で

 中学校の公民的分野、しかも「世界平和と人類の福祉の増大」という小項目の中では、こうした修正が加えられました。

《現要領・改定案》 「我が国の安全と防衛の問題について考えさせる」

《修正後》 「我が国の安全と防衛及び国際貢献について考えさせる」

 政府が、この「国際貢献」と呼んできたものは何だったでしょうか。「専守防衛」をやめ、米国の言うがまま、米軍の戦争への「加担」や「後始末」のために自衛隊を海外に派遣するための口実こそ「国際貢献」という言葉だったはずです。これを、中学生に教えるだけでなく「考えさせる」というのです。
 新テロ特法案が参議院で否決され、一時は派遣部隊がインド洋から撤退したように、この米軍の戦争への加担は、今も賛否両論があります。「国際貢献」について「考えさせ」られる生徒の中には、否定的に考える人もいるでしょう。それこそが当然の姿です。
 しかし政府が推し進めてきたこの自衛隊の海外派遣を、敢えて政府によって学習指導要領に入れられて「考えさせる」とき、生徒の自由な考え方が押し潰されてしまうという危険性を考えなければなりません。

■ 教育の権利は誰に

 教育は権利であることは言うまでもありませんが、では「教育は誰の権利なのか」ということを考えなければなりません。
 憲法では「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」とあります。ここで「義務」を課されているのは「保護する子女」を持つ「国民」、つまり「親」です。その「親」に「普通教育を受けさせる義務」を負わせることにより、「子女」すなわち「子どもたち」の権利が保障されています。すなわち、あくまで「教育」に関しての権利は「子どもたち」にあるのです。憲法上、政府には何の権利もないのです。
 その「子どもたち」に対して、このような学習指導要領に基づいた教育が施されるならば、これほど不幸なことはありません。

 内面まで踏み込まれての「国を愛せ」、口をこじ開けられて毎年歌わされる「君が代」、すり込まれた「神話」で天皇は神々の子孫だという作り話を、その後「史実」のように誤解させられたかと思えば、自衛隊が海外で米軍の戦争に加担させられていることを「国際貢献」だと信じ込まされるわけです。
 憲法上、教育の権利主体である子どもたちが、同じく憲法上に何の権限も持たない政府の思惑によって、このように一方的で愚かな「不利益」を教え込まれるのですから、これほど馬鹿げた話はありません。 

■ 修正の「元凶」

 では、このような修正を行ったのは一体誰なのでしょうか。そこを考えるとき、修正に至る過程を一つ一つ遡って考える必要があるでしょう。
 
 学習指導要領を告示するのは、文部科学大臣であり、そこに持っていくまでに官僚がほぼ全ての修正を請け負います。彼らの責任は重大です。
 もちろん行政手続として一応、公開して「パブリックコメント」を国民から募っています。その意見が何らかの影響を与えたかもしれないことは否定できませんが、もともと政府が国民の直接的な意見をまともに取り入れることは現実的にほとんどありませんし、政府に対して意見を述べることは自由です。コメントを寄せた人々に責任はありません。
 国民の意見を取り上げることのない官僚も、今回の修正を行うまでに、懇切丁寧に説明を行い、お伺いを立てた人々がいます。それは「与党の国会議員」です。与党議員だけ、議員会館の事務所、ときには外の個人事務所まで足を運び、「いかがでございましょうか」とそのご意向を聞き、その意向を色濃く反映させたのが今回の「修正・学習指導要領」なのです。
 もちろんその中には、先に述べた森喜朗元首相や、幹事長時代に「改憲・教基法・教科書改定は不離一体」として全国の自民党都道府県本部に「つくる会」教科書の選定のために圧力をかけさせた安倍晋三前首相なども入っています。このような狂信的な天皇制国家主義者たちが、この修正の「元凶」と見るべきでしょう。

■ 「将軍様」と同じ「愚かな権力者」

 子どもたちに、笑顔で元気よく「君が代」を歌わせ「国を愛させて」喜ぶのなら、まるで子どもたちに「マスゲーム」を踊らせて悦に入る、どこかの「将軍様」と大差ありません。
 そして「神話」を、中学生になった子どもたちに「歴史」で「復習」させて「天皇=神々の子孫」と誤解させて喜ぶのなら、これも「偉大な革命指導者」の息子だからということだけで「総書記」として君臨する、どこかの「将軍様」と同じ手口です。
 しかし、「国際貢献」という美名で、子どもたちを対外戦争に加担させようというのであれば、どこかの「将軍様」以下である可能性もあります。その国は朝鮮戦争以後、我が国ほど露骨な「海外派兵」は行っていないのですから。

 我が国では、どこかの「将軍様」並みかそれ以下の「愚かな権力者」が、子どもたちの権利である教育の現場を、洗脳・調教の場として、今頃ほくそ笑んでいるのです。

■ 子どもたちの心と命のために

 「愚かな権力者」から子どもたちの心と命を守り抜くには、現場の先生方、そして親の皆様方のご理解とご協力が不可欠です。
 
 子どもたちに「幅広いものの見方」を教えてあげて下さい。「真実」を教えてあげて下さい。「自分たちの命を大切にすること」を教えてあげて下さい。
 そして「あなたたちのために教育はある」と子どもたちに教えてあげて下さい。

 その上で「愚かな権力者の責任を問い直し、権力の座から追い落とすこと」で、子どもたちを守ってあげて下さい。

「軍尊民卑」との闘い

2007年10月02日 | 教育基本法・教科書
■ 死に様・生き様をかけた闘い

 「私たちのオジイやオバアたちの死に様、そして私たちの生き様をかけた闘いなのだ」

 これは沖縄に住む、私の友人が語った言葉です。 
 沖縄では、日本軍による「集団自決」強要に関する歴史教科書の記述を削除させる検定意見に対して、その撤回を求めた9月29日の県民大集会に約11万人が参加しました。

■ 文科省主導の「検定意見」

 沖縄戦の中、旧日本軍が住民らを米軍の捕虜にさせないために、集団自決を強要したことについては数々の証言からも明らかです。
 ところが、幾多の証言を無視して、その教科書の記述について「検定意見」が出され、教科書会社はその記述の削除を余儀なくされました。
 しかも今回の「検定意見」は事実上、文部科学省の主導によるものだったことが既に明らかになっています。

■ 「軍尊民卑」

 近年の歴史捏造の動きは目に余るものがありますが、共通しているのは、「軍」を尊び「民」を卑しめるという「軍尊民卑」の思想です。
 まだ、かつての軍国主義と決別できていない人々が、絶えず「軍」の側に立ち、「軍」に都合の悪い記述を徹底的に排除しようとしているのです。
 こうした動きは、安倍前首相の「美しい国」思想や、「愛国」教育を盛り込んだ改定教育基本法の影響が大きいことは明白ですが、そのような教育によって、子どもたちの目や耳を閉ざし、その口を封じようとする行為は、絶対に許せるものではありません。
 そして今回の沖縄の県民大集会に、11万の怒りの声が結集したのです。
 
■ 政府を突き動かした「怒り」

 この怒りの声は、ついに政府を突き動かしました。
 渡海紀三朗文部科学大臣は10月1日、「(教科書会社からの訂正申請があった場合には)真摯に対応する」とコメントし、記述の復元の可能性を示唆しました。
 教科書会社が訂正を申請するかはまだ分かりませんが、「死に様」「生き様」をかけた沖縄の人々の闘いは私たちに勇気を与えてくれました。
 今なお残る「軍尊民卑」という亡霊との闘いはこれからも様々なところで続いていくでしょうが、「許せないことは許さない」と声を上げ続けていくことの大切さを、私は決して忘れることはないでしょう。

子どもたちよ

2006年12月15日 | 教育基本法・教科書
子どもたちよ

覚えておきなさい
今日という日があったということを

覚えておきなさい
この国がまた過ちを犯そうとしていることを

覚えておきなさい
君たちをただ服従させようとする人々のことを

覚えておきなさい
君たちを道具として使い操ろうとする人々のことを

覚えておきなさい
君たちの心や命を思い通りにしようとする人々のことを

でも あきらめないでいなさい
君たちにより良い世の中を贈るために

父は
これからもたたかい続けるから

父は
君たちの未来を 決してあきらめないから


2006年12月15日 君たちの父親より

私はあきらめません

2006年11月16日 | 教育基本法・教科書
教育基本法改正案、衆院で可決

15日の委員会採決、16日の本会議採決と、与党は単独でこれを行い、衆議院を通過させました。

 その与党が、野党の採決欠席や、審議拒否を批判していますが、極めて「的外れ」です。

 圧倒的多数の国民の声は「慎重に審議を」「時間をかけて議論を」というものでした。
 その国民の声に応えて、より徹底した審議を主張した野党に対して、その「徹底審議」を「拒否」して採決に持ち込んだのは与党のほうです。
 御用メディアや評論家の皆さんは、野党に「審議復帰」させようと野党側への攻撃を強めるでしょうが、私はだまされません。

 衆議院通過は大変残念ですが、落胆している暇はありませんし、まだ終わったわけでもありません。

 国会では、野党がしっかりと共闘を組み「徹底抗戦」の構えです。
 国民の声に応えた野党を、参議院でも激励し、法案や審議などの問題点を明らかにしていきながら、法案の廃案を目ざして、力を尽くしていきたいと思います。

 私は一人の父親です。子どもたちに対して責任があります。
 私は現在の国民です。将来の国民に対して責任があります。

 大切な子どもたちの「心」や「命」に関わる問題を、あきらめるわけにはいきません。

安倍総理大臣への手紙

2006年11月15日 | 教育基本法・教科書
内閣総理大臣 安倍晋三 様

 謹啓 初めてご挨拶申し上げます。goo-needsと申します。
 先の総理大臣ご就任を、あらためてお祝い申し上げます。

 さて、総理は就任3日後の9月29日、衆参両院で所信表明を行われました。この所信表明演説に対して「具体策が見えない」「抽象的すぎる」「骨太の方針の引用ばかりだ」といった酷評が多かったというのはご存じの通りです。

 しかし私は、この所信表明の中で、これは素直に評価したいという一節がありました。
 それは「私は、国民との対話を何よりも重視します。」という総理の決意でした。

 国民の負託を受けた政治家の皆さんにとって「国民との対話」を重視するというのは本来、極めて当然のことなのでしょうが、当選・就任した途端に態度を変え、「国民の声を無視して自分たちのやりたい放題」という人々が多いというのも、残念ながら事実だと思います。
 総理がその所信表明にあたって、あらためて「国民との対話」を重視する姿勢を打ち出されたのは、その現状を打開しようという決意ではないかと期待を寄せたものでした。

 「具体策が見えない」と言われた所信表明演説でも、「国民との対話」については、総理はしっかりと次の「具体策」を挙げておられました。

 「メールマガジンやタウンミーティングの充実に加え、国民に対する説明責任を十分に果たすため、新たに政府インターネットテレビを通じて自らの考えを直接語り掛けるライブトーク官邸を始めます。」

 しかし考えてみれば、この内「メールマガジン」「インターネットテレビ」は、政府から国民への「一方通行」の媒体であり、決して対話とは呼べるものではありません。こうしてみれば、総理が重視された「国民との対話」の手段として残るのは「タウンミーティング」だけです。

 その「タウンミーティング」すらも今、政府主導の「やらせ」が次々と発覚しています。
 総理が掲げられた中で、唯一の「国民との対話」の場までもが、政府からの「一方通行」だったということに、私は失望を隠せません。
 しかもこの「やらせ」が、総理が内閣官房長官時代に、その内閣府が関与した事例がいくつもあるというのですから尚更です。

 さらにこの件について内閣府は、「依頼者」や「サクラ」に「謝礼金」まで支払っていたという疑惑まで発覚しているのです。

 この発端となったテーマは「教育改革」です。これは言うまでもなく総理ご自身が「最重要課題」と位置づけられた政策課題です。

 総理が「何よりも重視します」と高らかに宣言された「国民との対話」が、「最重要課題」と位置づけられた教育の課題について、問題になっているのです。
 それにもかかわらず、政府・与党の皆さんから「国会の議決が全て」「強行採決も辞さない」という声が上がることを、安倍総理はどのようにお考えでしょうか。

 もしこれに何も異論を唱えず、強行採決を許すようであれば、それこそ総理の「私は、国民との対話を何よりも重視します。」との所信を、自ら踏みにじることになるのではないでしょうか。

 タウンミーティングでの発言は、「やらせ」を除けば教育基本法改定に反対の声が多かったという指摘もあります。
 実際、どの世論調査を見ても、総理ご自身や政府・与党が唱えるように「何としても今会期中の成立を」との声はごく僅かであり、国民の圧倒的多数は「慎重」を望んでいます。
 
 安倍総理におかれましては、こうした国民の声を真摯に受け止められ、まっとうな「国民との対話」を重視して頂きながら、「美しい平和憲法を持つ日本」の首相に恥じない政権運営を行って下さいますよう、国民の一人として切にお願い申し上げます。

謹白

「愛国」は伝統や文化ではない

2006年11月13日 | 教育基本法・教科書
 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する…」
 これが、問題点の多い教育基本法改定案の中でも、特に問題視される「愛国」の表記です。
 今回は、日本の公教育における伝統と文化、そして「愛国」について書いてみたいと思います。

■ 「学事奨励に関する被仰出書」

 日本では教育の場として藩校・寺子屋・塾などが開かれました。あるいはもっと前にさかのぼれば紫式部や清少納言のような家庭教師もありました。
 しかし、地域的・身分的・期間的・人的側面、そして性別の面でも極めて限定的なものに過ぎませんでした。
 本格的な公教育が始まったのは近代です。政府はいわゆる「被仰出書(おおせいだされしょ)」、正式には「学事奨励に関する被仰出書(太政官布告第214号)」を発して、初めて日本の公教育の理念が示されました。
 この「被仰出書」の冒頭は、教育の必要性についてこう説いています。

――――――――――――――――――――――――――――――
 人々が自立して財産を管理し、その仕事を成功させ、その人生を全うさせるのは、他でもなく自分を律して知識を開き、才能を伸ばすことによるものである。そのためには、学ぶということがなくてはならない。それが学校を設置する理由であり…
――――――――――――――――――――――――――――――

 日本は初めて全国に学校を作るにあたって、教えられる側の「人々」、すなわち子どもたちの将来のためを真っ先に考えました。
 「被仰出書」にはこのほか「華族・士族・兵卒・農民・工匠・商人および婦女子を問わず、村々に不学の家やの不学の人をなくすることを目ざす」として、身分・男女別を問わず誰でも学べるよう定められました。
 人々の「教育を受ける権利」を政府として保障するために、学校を設置して教育環境を整え、教育を受けさせるようにし、「不学」の人をなくすこと。これこそが日本の公教育の原点だったと言えるでしょう。

■ 軍人・山縣有朋による「教育勅語」

 しかし日本の公教育は、徐々に変わっていきました。
 翌1872年の「徴兵告諭」に始まり、73年の「徴兵令」、74年の「征台の役」、75年の「江華島事件」など軍事面での動きが急激に加速します。
 こうして、軍が強化・整備されていく中、82年「軍人勅諭」が作られました。この「勅諭」は、徴兵でかき集めた人々に対して「軍人としての心得」を説き、「天皇への絶対的な忠誠心」「天皇の統帥権(軍隊指揮権)の歴史的正当性」を叩き込むものでした。

 これを入隊させてからではなく、幼い頃から全ての国民にその基礎を叩き込んでおこうと、90年、山縣有朋内閣のときに教育勅語が作られました。そこには「何かあれば国に義勇をささげ、天皇陛下をお助けせよ」との教えが記されました。

 この教育勅語が教育の中心に置かれ、それまでの「子どもたち一人ひとりのための教育」ではなく、天皇・国家のために「自ら犠牲となれ」という「愛国心」「忠誠心」の徹底と、軍務の基礎を植えつけるという、極めて偏向した教育に転じていったのです。
 この山縣有朋はもともと軍人であり、首相になる以前に次のような意見書を政府に突きつけています。

――――――――――――――――――――――――――――――
 日本の利益線は朝鮮だ。その利益線を守るのに大事なのは、まず兵備、次に教育だ。教育の力で国を愛する心を養成し、これを保ち続けよ
――――――――――――――――――――――――――――――

 根っからの軍人である山縣有朋は、この後の朝鮮半島への侵略のために「兵備」という軍拡とともに「愛国」教育を主張し、自ら首相の座に着き、教育勅語を作らせたのです。 

■ 「愛国」は西洋の「借り物」

 こうして山縣有朋が教育に持ち込んだ「愛国」は、決して日本の「伝統や文化」と呼べるものではないという指摘は、実は当時からありました。
 教育勅語が定められた翌1891年、思想家・西村茂樹はその著書「尊皇愛国論」で次のように批判しています。彼は後に華族女学校の校長や宮中顧問官を務めるほどの「御用」「保守系」の思想家でしたが、そのような立場の人でさえ、この「愛国」には強い反発を示したのです。

――――――――――――――――――――――――――――――
 わが国で使われる「愛国」というものは、…西洋諸国の「patriotism」を訳したものである。…わが国の古典を見渡す限り、西洋の人々が唱えるような「愛国」というものはなく、また「愛国」の態度を示した者もいない。
――――――――――――――――――――――――――――――

 つまり朝鮮半島への侵略戦争に人々を駆り立てるために、山縣有朋が利用しようとした「愛国」は、同じく侵略戦争に明け暮れていた西洋からの「借り物」に過ぎないというのです。

 実際この教育勅語制定から敗戦までの約55年間、日本政府は軍国主義教育を強化しながら、日清戦争・日露戦争・第一次大戦・日中15年戦争・太平洋戦争へと突き進み、その期間の半分以上を戦争に費やしました。我が国の歴史上、これほどまでに対外戦争に明け暮れた時期はありません。
 このような教育によって自ら戦争に身を投じ、命を失っていった子どもたちは、それこそ数えきれません。それほどまでに、「借り物」の「愛国」教育はその威力を発揮し、多くの子どもたちの命を奪っていったのです。

■ 「子どもたちのため」を取り戻した「教育基本法」

 戦争が終わり、日本では「教育の民主化」が進められました。
 戦後の日本の国会において、多くの子どもたちの命を奪った教育勅語は廃止され、教育基本法が制定されたのです。
 この教育基本法が定める教育理念は、「人格の完成」「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」というものでした。

 また、教育行政のあり方については「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」と定められました。これは敗戦まで続けられた、教育への国家の不当な支配を反省し、政府や権力者のためではなく、子も親も含めた国民全体のために教育があるのだという宣言に他なりません。

 子どもたちはおよそ56年ぶりに、教育の「権利主体」すなわち主役へと返り咲き、教育勅語の下で国家や権力者が続けてきた「不当な支配」から解放されたのです。
 
■ 「子どもたちのための教育」と「国家のための子どもたち」

 この教育基本法について「戦後の占領下で制定された」ということだけを批判材料として、これを変えようとする人々を多く見かけます。しかし、こうして見てみると日本の教育は「被仰出書」が描いた、子どもたち一人ひとりのための教育、「人々」のための教育という原点を取り戻しただけではなかったのではないでしょうか。

 この現行の教育基本法によって、本来の日本の公教育の原点を取り戻したというのに、また一部の権力者によってそれが奪われようとしています。子どもたちに「愛国」を叩き込むなど、日本の公教育の歴史に照らして言えば、伝統でも文化でもなく、子どもたちを将来、戦争に駆り立てようとする「洗脳」に過ぎません。それは我が国の公教育の歴史が強く物語っています。

 現行の教育基本法に貫かれている「子どもたちのために何ができるか」という姿勢と、教育勅語や改定案に流れる「国家や権力者のために、子どもたちに何をさせるか」という姿勢では、天と地以上の開きがあります。


■ 「子どもたちのための教育」を守ることこそ日本の伝統・文化

 「侵略」や「戦争」のための「愛国」、この教育勅語の制定に力を注いだ山縣有朋は長州藩に生まれ、高杉晋作や木戸孝允、伊藤博文らとともに松下村塾に学んだ一人です。
 今その松下村塾に心酔する安倍晋三氏が首相となり、その山縣有朋にならってか、日本の伝統・文化とは相容れない「愛国」教育を、再び強引に押し通そうとしています。
 
 彼らは教育勅語を絶賛しながら「愛国」を教育現場に持ち込み、憲法を変えて武力行使、すなわち「戦争への道」を開こうとしています。このような人々が「日本の伝統・文化」を語るのですから、これほど馬鹿げたことはありません。

 かつて戦争に突き進み、戦争に明け暮れた「異常な55年間」を築いた教育勅語への逆行を許さず、教育基本法が貫く「子どもたち一人ひとりのための教育」を、国家や権力者からの「不当な支配」から守りぬき、しっかりと実現していく。これこそが「被仰出書」という日本の公教育の原点であり、いまなお教育に求められる普遍的な理念です。
 このことが日本の教育の歴史、伝統・文化が示す確固たる結論であると思います。

※全歴史文献の口語訳・筆者

それが国家百年の教育のやり方か

2006年11月02日 | 教育基本法・教科書
■ 「やらせ」のタウンミーティング

 9月に青森県で行われた「教育改革タウンミーティング」において、政府は参加者に対し、教育基本法改定案に「賛成」の立場で質問するよう依頼する「やらせ」を仕組んでいたことが明らかになりました。
 内閣府、青森県教育庁などは、依頼した相手に文部科学省が作成した発言例を渡し、発言の仕方について「趣旨を踏まえて自分の言葉」で、「『お願いされて』とか『依頼されて』と言わないで下さい」など、事細かに指示を出していたことも報じられています。

 幅広い国民と直接、意見交換を行い、その声に耳を傾けるために設けられたのが、タウンミーティングだったはずです。
 それを政府が「やらせ」を仕組み、改定推進の雰囲気を演出するという姿勢は、本気で国民の声に耳を傾けようとしていないことの表れであり、厳しく非難されるべきだと思います。

■ 国民から逃げる政府

 しかし教育基本法に関して、政府が国民の声を聞こうとしないのは、これだけではありません。
 重要法案では必ず行われる「地方公聴会」についても同じです。
 前回の通常国会で教育基本法改定案の採決を急いだ政府・与党は、審議時間が予定の半分ほどしかなかった時点で、野党側に「地方公聴会」開催を持ちかけました。野党は、審議時間が不十分であることを理由にこれを受け入れませんでした。
 今国会で法案の審議が進む中、政府・与党は前回の野党側の拒否を理由に、地方公聴会の「省略」を主張しました。これに対し野党は、国民全体に関わる重要な問題であるとして、47都道府県で地方公聴会を開くよう主張しました。
 結局、11月8日にわずか4都市で開催されることが決まりました。たった4箇所での限られた時間の公聴会で、一体どれほどの声が聞けると言うのでしょうか。

 政府・与党は正に形ばかりで「アリバイづくり」のような地方公聴会を行い、その翌日・翌々日と、一気に総括質疑、委員会採決、本会議採決に持ち込もうという構えです。
 国民がその中身をよおく分からない内に、一気に逃げ切ってしまおうという意図が見え見えです。

■ 安倍首相の嘘

 そんな政府・与党ですが、言うことだけは立派です。
10月26日に送られた「安倍内閣メールマガジン」には、こう書かれています。

――――――――――――――――――――――――――――――
「教育再生会議」は、昨日(10月25日)、2回目の会議を開きました。17人のメンバーがそれぞれの教育改革を熱く語っておられ、議論が尽きません。皆さんが、現場に根ざした意見を述べられるので、どれも説得力があります。この議論の輪を大いに広げ、多くの意見に耳を傾けながら、国家百年をつくる教育の再生に全力を尽くしたいと思っています。
――――――――――――――――――――――――――――――

 この記事は実に示唆に富んでいます。
 教育の問題は、安倍首相やその側近が好き勝手に選んだ、わずか17人の間でさえ「議論が尽きない」ほどの問題です。
 その17人の顔ぶれを見るに、本当に「現場に根ざした意見」を述べることができる人物は一体何人いるでしょうか。
 逃げることばかりを考えている政府・与党が、よくこれだけ厚顔無恥な嘘が吐けるものだと驚きます。

■ 国家百年の「恥」

 現行の教育基本法の改定に対し、世論の大勢は「慎重に」「時間をかけて」という立場です。
 これを全く無視し、法案成立を急ぐあまりの政府ぐるみの「やらせ」、昨年の郵政民営化法案にも満たない審議時間、たった4箇所だけの地方公聴会など、どれを取っても極めて姑息かつ強引であり、明らかに拙速です。
 安倍首相の「この議論の輪を大いに広げ、多くの意見に耳を傾けながら」という言葉が大変しらじらしく思えてなりません。

 教育基本法は長きにわたり、教育の憲法として重んじられてきました。
 これを改め、「国家百年をつくる教育」を目ざすというのであれば、百年後に恥じない法案で、百年後に恥じない審議を尽くし、百年後に恥じない合意形成を図るべきです。
ところが、法案の中身は戦前回帰、審議は拙速、合意形成にあっては「やらせ」や「簡略化」、さらに首相はしらじらしい嘘ばかり、という有様を見過ごしたのでは、私たちはずっと子どもたちに恥じ続けなければならないように思います。

教育基本法改定案の問題点と審議の行方

2006年10月25日 | 教育基本法・教科書
 10月25日、衆議院で教育基本法改定案の審議が再開されました。
 私はあらためて、この法案の問題点の一部をご紹介し、私たちの子どもたち・孫たち、そしてまだ生まれていない子どもたちに、今の政府・与党が一体何をさせようとしているのかを考えてみたいと思います。

■ 「伝統と文化を尊重し、・・・我が国と郷土を愛する」

 国や郷土を愛するのは「当たり前」だという主張もあります。「当たり前」なのであれば、なおさら自由で自発的な意思に任せておけば良いのです。
 これを敢えて条文化することには特別な意味があります。
 学校で「国を愛する」ことが求められ、子どもたちの「心」に権力が踏み込もうというのです。
 既に学習指導要領にはこれが盛り込まれ、一部の学校では既に「どの子が、どれだけ愛国的か」が評価・競争の対象となっています。今のところ政府・与党は評価まではしないとしていますが、かつて強制まではしないとした「日の丸」「君が代」が今どうなっているのかをみれば、画一的な「国への愛」つまり「忠誠」が、子どもたちの間で比べられます。しかも、子どもたちには、その「忠誠」を「態度」で示すことが求められます。
 さらに法案には、子どもたちの「心」に踏み込もうとする部分が20箇所以上もあります。
 それほど本腰を入れて子どもたちの「心」を支配しようとしているのです。

■ 「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」

 一見、「愛国心」は排他的ではない、他国への尊重とバランスを取った、と誤解させるような一節です。
 戦前も「修身」で「他の国家や民族を軽んずるやうなことをしてはならぬ。」と教えていましたが、実際には「他の国家や民族」に何をしていったか、ご存知の通りです。
 ただし、この規定を盛り込むことについての、政府・与党、とりわけ自民党の思惑は、もっと別のところにあるように思います。

 近年の外交政策はどのようなものだったか思い出して下さい。
 小泉前首相は「日米関係がうまく行けば全ての国との関係がうまく行く」と小泉首相は言い続けました。確かに米国との関係は、イラク戦費などの負担、米軍司令部機能の受入れなど日本の犠牲によって、ある程度うまく行っているようですが、その他の国々とは溝を深めていきました。
 政府は「国際貢献」だとして、自衛隊をインド洋やイラクに派遣しましたが、それは米軍のアフガン戦争の後方支援や、イラク占領政策のための派遣に過ぎませんでした。つまり、彼らが言う「他国」や「国際」とは、ほぼ米国に限定されたものと言って良いでしょう。
 彼らが推し進めようとする新憲法草案は「集団的自衛権の行使」、つまり「他国(米国)との共同軍事行動に踏み込むこと」に主眼が置かれています。
 彼らは「国家のため」「政府のため」だけでなく「米国のために寄与する態度」も、子どもたちに求めようとしているのではないでしょうか。

■ 現行「真理と平和を希求し」から「真理と正義を希求し」へ

 一見「平和」を「正義」に置き換えただけに見えるかもしれません。
 しかし、この違いはとても大きなものです。
 以前、米国や英国、日本などでは、イラクを攻撃することを首脳が「テロとの戦い」と呼ぶと同時に「正義の戦い」と呼びました。日本でも多くの人々が、その「正義」にだまされましたが、真実が明らかになるにつれ、その「正義」を本気で信じる人々は、かなり減りました。「真理」は別のところにあったのです。
 しかし、ブッシュ大統領やブレア首相、そして小泉首相らが唱えた「正義」によって、「平和」が壊され、計り知れない命が失われたのは、紛れもない事実です。
 歴史上のあらゆる侵略戦争は、例外なく「正義」を唱え、国民を駆り立てていきました。

 この法案を推進する人々は、「正義」とさえ言えば、進んで自他の「平和」を捨て、破壊することを求める子どもたちを作ろうとしているのではないでしょうか。

■ 「個人の価値をたつとび」から、「公共の精神を尊び」へ

 「個人の価値」は、「子どもたち一人一人の価値」です。
 子どもたちはもちろん国民には、憲法によって「生命権」をはじめ数十の権利・自由が一人一人に保障されています。
 判例などで派生して認められている権利も含めれば、さらに多くの権利・自由が約束されています。
 しかし政府・与党、とりわけ自民党は「新憲法草案」で、このような権利・自由の全てを「公益」「公共」の下に置いて、まとめて制限してしまおうとしています。

 「公益」「公共」は誰が決めるのでしょうか。それは政府です。
 彼らが教育現場に求めているのは「君たちの価値、命や権利・自由よりも、政府の利益のための精神を大切にしろ」という教えではないでしょうか。

■ 教育行政は「公正かつ適正に行われなければならない」

 一見、問題がないような文言ですが、現行法では「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」との規定が、これに書き換えられようとしています。
 「公正」「適正」という曖昧な基準は、誰が決めるのでしょうか。これも政府です。
 これまで「子どもたちのための教育」の条件を整備するという義務が、国や自治体に課せられていたのが、「政府が決める基準の達成」の義務に変えられようとしています。
 では、「政府が決める基準」とは何でしょう。
 これまで書いてきた、「子どもたちが、国家・政府、そして米国を大切に思い、正義への寄与のために、自分の命や権利を進んで投げ出す教育」に他なりません。
 このような教育を、都道府県・市区町村にまで「行われなければならない」と徹底して義務付けようとしているのではないでしょうか。

■ 「国は、…教育に関する施策を策定し、実施」

 これまでの教育は、まがりなりにも「子どもたちのため」のものでした。そして現行の教育基本法が「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」と定めている通り、親も含めて「国民全体」のために行われてきました。
 しかし、今回の改定案が通れば、これからは「国」が教育に関するすべての「施策」の策定、そして「実施」と介入してくることになるのです。
 それがどういう教育か、それは言うまでもなく、これまで書いてきたような「国のため」の教育、つまり「国家主義教育」です。
 しかも今度は、この法律(法案)の「お墨付き」を得て「国」が、教育姿勢や、その具体的な内容、教え方にまで公然と介入してくる危険性を秘めています。

 条文に残されることになった「不当な支配に屈すること」がない、という規定は、そもそも教育内容を、国家や権力による「不当な支配」から守ることを意味していましたが、以後は国の「支配」に対して、国民が口を出すことを禁じる規定に変えられていこうとしているのです。
 これは、国が自分の子どもたちに対して教えることに、たとえ親でも何も言えなくなってしまいかねません。
 しかも、それは学校だけにとどまりません。
 
■ 「家庭教育」の新設

 現行の教育基本法は、教育に関しての条件整備など、国がしなければならいことを定めたものです。これは、教育基本法が憲法から直接の負託を受け、子どもたちの「教育を受ける権利」を保障するために設けられた法律だからです。
 しかし、今回の改定案は、国が、子・親を問わず国民の上に立って「こうしなさい」と命令するものです。
 国が踏み込もうとする、その領域は「家庭教育」にまで及んでいくのです。

■ 国家主義教育への改悪は、「国家による虐待」

 これまでご紹介してきたように、こうした政府案が与党に押し切られてしまえば、戦後になって子どもたちが初めて手に入れた「自分たちのための教育を受ける権利」が、再び奪われてしまいます。
 学校は「子どもたちのための教育」の場から、「国家権力のための教育」「国家主義教育」の場へと変えられてしまうのです。しかも、そうした教育は家庭にまで公然と入り込んでくるのです。

 これが改悪でなくて何でしょうか。

 幼い子どもたちの心にの純真さに付け込んで、国家や権力者のための「死」を刷り込もうとするような教育は「国家による虐待」に他なりません。
 私は国民として、また一人の親として、このような「改悪」「国家による虐待」を見過ごすことは出来ません。

■ 今後の審議の行方

 しかし、与党はこれを一気に進めようとしています。
 23日の特別委員会の理事懇談会で与党は、前回国会で49時間37分間の審議を済ませているとして、あと20時間程度の審議で採決に持ち込みたいという考えを示しています。問題点など中身よりも「審議時間という形式だけ」という非民主的な手法が、国会ではまかり通るのです。
 その時間数を言うならば、昨年の郵政民営化法案における衆議院での審議は100時間以上でした。子どもたちの未来を大きく左右する教育と、前首相の「趣味」で行われた郵政民営化、どちらが慎重な審議を要するでしょうか。

 また与党は、重要法案において欠かすことができない地方公聴会についても、前回国会でまだ十分に審議されていないとして野党側が開催に反対したことをあげつらい、今回も開催せず、これを「省略」すると言い出すなど極めて強硬な姿勢です。

 もし与党の予定通りに進められてしまえば、最短で11月7日の委員会採決、同日の本会議採決・衆議院通過という強行もあり得ます。そうなれば参議院での審議時間は、衆議院の7~8割程度ですから、安倍首相が固執する「今国会での成立」は十分に可能になってきます。

 これからのわずかな期間に、私たちの子や孫、そしてこれから生まれる子どもたちの将来と、その命がかかっているのです。

安倍政権が描く「良い先生」

2006年10月24日 | 教育基本法・教科書
■ 下村副長官の否定

 文部科学省の諮問機関である中央教育審議会(中教審)は、教員の資質向上のため、教員免許に10年の有効期間を定め、その期間満了までに講習を受けない場合は失効させるという制度を答申として出しています。自動車の運転免許に近い制度と言えば分かりやすいかもしれません。
 10月22日、官房副長官の下村博文氏はこれに対し、「これでは本当の改革はできない。だからこそ教育再生会議がある」と、この答申と中教審そのものを否定しました。
 確かに、教育再生会議の協議事項には「教員免許の更新制度」が挙げられていますが、安倍首相に極めて近いとされる下村氏のこの発言の意図は、どこにあるのでしょうか。

■ 思想調査・統制による排除

 安倍首相や下村氏らが描く制度は、徹底した「排除の理論」です。教員一人一人を評価し、「不適格」という烙印を押された教員は排除するというものです。
 では、どういう人物が「不適格」だというのでしょうか。
 今年の8月、すなわち安倍政権の発足前、下村氏自身が官房副長官になる前に、下村氏は都内で行われたシンポジウム(「全国教育問題協議会 教育研究大会 シンポジウム2006」)にパネリストとして出席し、「安倍政権が目指す教育」について、次のように語っています。

 「(文部科学省の)局長クラスは政治任用し、役人の思想信条はチェックする。」
 「『自虐史観』は官邸のチェックで改めさせる。」

 下村氏は、総裁選前から「思想調査・統制」を公然と掲げ、しかもその方法は徹底した「官邸」のチェックによる「排除」を掲げていたのです。まるで全てが国家統制下にあった戦前や戦時中を思い出させるような発言です。彼らの言う「自虐史観」とは、戦前や戦時中の日本の政治の否定を意味することから考えても、これこそが彼の「適格」「不適格」の判断基準なのではないでしょうか。

■ 「国民全体に対し直接に責任」を負う教育から、「法律の定めるところによる」教育へ

 安倍首相や下村氏らが改定に躍起になっている、現行の教育基本法には、第10条で「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。 」と定めています。つまり、戦後の日本の教育現場では、このような「国家統制」を否定してきました。
 「国民全体」とは当然、子どもたちやその親を含んでいます。
 現行の教育基本法は、そのどちらに対しても教育が直接に責任を負うものと定めています。つまり、これは責任をもって「子どもたちのため」「親たちのため」の教育を行わせるという私たち国民の決意です。
 安倍首相や下村氏は、こうした子どもたちや親という、「国民のため」の教育を廃止し、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」教育に変えようとしています。
 では、そのような教育の中で、どのような教員が「適格」、すなわち「良い先生」とされるのでしょうか。 

■ 子どもたちに対して無責任な教員ほど「良い先生」

 一言で言えば、法律にだけ従順で、余計なことを考えない教員が「良い先生」ということになります。
 安倍政権が推進している通りの教育基本法が出来れば、教員は、子どもたちにも、親にも責任は負いません。ただ法律に従い続ける教員が「適格」な「良い先生」というわけです。
 この教育基本法改定案には、「国を愛する態度」が盛り込まれていますが、「良い先生」は学校で次のように教えるかもしれません。

 「国を愛せ。そしてその愛を態度で示せ。いざとなれば国のために死んでみせろ。」

 このことを聞いた親御さんが、学校に抗議に行くとします。

 「先生、子どもたちに死ねとは何を教えるんですか。子どもたちの命を何だと思っているんですか。子どもたちに対して無責任じゃありませんか。」

 そのとき「良い先生」はこう言うでしょう。

 「私は、法律に従っているだけです。あなたや子どもさんに対して、私は何の責任もありません。」

 「子どもたちのことを思えば、国のために死ねとは言えない」 とためらうような教員は、「不適格」な「ダメ教師」の烙印を押され、「排除」の対象となっていくのです。

■ 子どもたちの将来、そして命のために

 戦争遂行のために全国民を駆り立て、しまいには「一億玉砕」として「国民の皆殺し」まで画策した、戦前や戦時中の体制を否定する人々を「排除」し、「国を愛する態度」を子どもたちに強要しながら、「私は国民に対して責任は負いません。」という教員を生み出す。安倍政権が進める「教育再生」とは、正にそういうことなのです。

 今週末、教育基本法改定案の審議が再開されます。この法案には、さらに多くの問題点が詰まっています。
 安倍内閣は一気呵成にこれを押し通そうとしていますが、子どもたちやその親たち、すなわち「国民のための教育」か、それとも権力者に都合の良い「国家のための教育」か、その分岐点に私たちはいます。そして、私たちが今どう動くかに、子どもたちの将来と命がかかっています。

 私は動きます。子どもたちの将来、そして命のために。

ナショナリズム・パトリオティズムという「言葉遊び」

2006年05月27日 | 教育基本法・教科書
   ~ 「愛国」は「伝統」などではない ~

 教育基本法の改定案が「愛国心」教育の規定を盛り込んでいることは周知の通りです。
 しかし、この「愛国心」について、「ナショナリズム(nationalism)はいけないが、パトリオティズム(patriotism)ならば良い」という政治家や評論家・学者の方々の議論があります。
 では、その違いは何でしょうか。

■ ナショナリズムとパトリオティズム

 goo辞書によれば、両者は次の意味だそうです。

【ナショナリズム】
「一つの文化的共同体(国家・民族など)が,自己の統一・発展,他からの独立をめざす思想や運動。国家・民族の置かれた歴史的位置の多様性を反映して,国家主義・民族主義・国民主義などと訳される。」

【パトリオティズム】
「愛国主義。」

 どう違うのか、少なくとも私には、どうも釈然としません。
 特に「パトリオティズム」に関しては、耳慣れないためか、よく分かりません。
 果たして、子どもたちはこの違いをしっかりと理解できるのでしょうか。
 また、先生方はこの違いを理解した上で、子どもたちに適切に教えることが出来るのでしょうか。

 そこで私は、少し日本における「愛国」の「原点」について書いてみたいと思います。

■ 「愛国」は、西洋からの「借り物」

 「教育勅語」が作られた翌年、すなわち1891年に書かれた「尊皇愛国論」という文献に「パトリオチズム」について触れられています。これを書いたのは、西村茂樹氏という人物で、後に華族女学校の校長や、宮中顧問官を務めたバリバリの「御用」「保守系」の思想家ですが、その本には、こうあります。

「本邦にて用ふる愛国の義は…(中略)…西洋諸国にいふところのパトリオチズムを訳したるものなり…(中略)…本邦の古典を閲するに西人の称するが如き愛国の義なく、また愛国の行を顕したる者なし。」

 つまり「愛国」は、日本古来の伝統などではなく、植民地政策に血道をあげていた当時の西洋諸国からの「輸入品」あるいは「借り物」でしかなかった、ということです。しかも、これが草莽の思想家ではなく、西村茂樹氏のような「御用」「保守系」の人物が、日本の古典を引っくり返した上で出した得た結論であるということは特筆に値すると思います。

 「伝統と文化を尊重」という記述も法案に見えますが、この「愛国」と「伝統」の矛盾に、与党や民主党はどう答えるのでしょうか。

■ パトリオティズムも軍国主義と同根
 
 さて、この後「借り物」の「愛国」を政府主導で叩き込まれた日本人は、日清戦争・韓国併合・日露戦争・第一次大戦・シベリア出兵…など幾多の戦争に駆り立てられました。この「愛国」は後に「靖国神社に祀られた人々(戦死者)にならえ」「七生報国(七度死んでも七度生まれ変わって国に報いる)」など、「死」と隣り合わせのものとして国民に刷り込まれていきます。結果、数百万の日本人、数千万の他民族の、かけがえのない命を奪いました。

 この時代の「軍国主義」「国家主義」は、戦後「ナショナリズム」と呼ばれてきましたが、前述の西村茂樹氏によれば、それは「パトリオチズムを訳したるもの」であり、日本では「ナショナリズム」は同じものだということです。
 冒頭にご紹介した、「ナショナリズムは×、パトリオティズムは○」などという議論など、下らない「言葉遊び」に過ぎません。子どもたちや先生方が理解できないのは当然です。この意味するところは、初めから同じものだったのですから。

 何より、問題は政府が法律に条文化して子どもたちの「心」に踏み込むことは許されない、ということにあります。こう考えてみると、ナショナリズムとパトリオティズムは、両者とも「×」をつけなければなりません。

■ 子どもたちの「心」を守ることは、「命」を守ること

 いま与党と民主党は、改憲に躍起になっています。既に昨年、自民党は改憲案を発表し、民主党は提言という形で発表しています。どちらも「軍隊」「武力行使」の容認が盛り込まれていることは言うまでもありません。このような改憲を推進するために、与党と民主党は5月26日、改憲の手続きを定めるための国民投票法案を国会に提出しています。

 こうした権力者集団が、軍隊と武力行使の憲法上認めさせ、「戦争」を可能にしようと画策しているのと平行して、法律と権力を振りかざして教育に介入し、子どもたちの心に、踏み込んで「愛国」を求めようとする姿勢に、危険を感じずにはいられません。

 このような政府・政党・議員は、それこそ教育を受ける国民、すなわち子どもたちの将来に対して極めて無責任で、「反国民」的な存在だと私は思います。

 将来、子どもたちが自ら進んで命を投げ出すことを防ぐためにも、60年間近く、政府による「不当な心の支配」から、子どもたちを擁護してきたという実績を持つ、現行の教育基本法を守り抜く必要があるのではないでしょうか。