16日、いわゆる「高校授業料無償化法案」(「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律案」)が衆議院を通過しました。
ご存知の通り、この法案については様々な批判があります。
しかし、その中には多くの誤解もあるようですので、少し私なりに整理してみたいと思います。
■ 「国際人権規約」
まず、良くある批判が「選挙目当てのバラマキだ」という批判がありますので、これについて考えてみましょう。
国際人権規約という条約があります。1979年に批准しています。
その中の「A規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)」には、「高等教育の無償化」が盛り込まれています。
この「高等教育の無償化」について日本は長い間、留保してきました。もちろん国々にはそれぞれ様々な国内事情もありますので、この「A規約」を批准したからといって直ちに国内法の整備を行う義務があるわけではありませんが、批准から約30年もの間放置されてきたこと自体、少し放置し過ぎたようにも思います。
それが今回、ようやく着手することになった、これが今回の「高校無償化法案」だというわけです。
こうした経緯から考えれば、本質的には子どもたちの人権(「教育を受ける権利」)の問題であって、「バラマキ」などの類いの問題ではないのです。
■ 国どうしの「仲」の良し悪しと「人権」は別物
さて、もう一つ問題になっているのは、朝鮮学校などに通う生徒さんたちも対象にするのか否かということです。
例えば、閣僚の中では国家公安委員会の中井洽委員長が、拉致問題と経済制裁を理由に朝鮮学校を除外するよう求めたことがありました。
前述の通り、そもそも法案の本質は「子どもたちの人権」の問題です。人権を論ずるのに国どうしの「仲」の良し悪しが判断基準になるようでは、お話にもなりません。
もちろん北朝鮮による拉致も、重大な人権侵害ですし国家犯罪ですが、日本が北朝鮮や韓国の国籍を持つ人々、まして子どもたちを「差別」や「人権侵害」を行なっても良いとするならば、逆に北朝鮮などが日本人に対して「差別」や「人権侵害」を行なうことに、「日本もやっているだろう」と根拠を与えてしまうことになります。
「子どもたちの人権」の問題だという本質を見誤らない限り、中井氏のような主張はできないはずです。
■ 「教育を受ける権利」
さて、批判の中には憲法の条文を根拠にしたものもあるようです。
その一つは、憲法26条の定める「教育を受ける権利」は「すべて国民は」としており、日本国民だけが対象だというものです。
残念ながらこうした批判は誤解に基づくものであり、妥当とは言えません。有名な最高裁判所の判例をご紹介します。1978年10月4日に出された、いわゆる「マクリーン事件判決」です。
「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ。」
「権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるもの」が、どの程度の範囲かという議論もあるでしょうが、例えば外国籍の子どもたちが普通の小学校に入学しようとしたとき、外国籍であることを理由に入学や転入が拒否されるでしょうか。「教育を受ける権利」が保障の対象外だとすれば、拒否されて当然となるわけですが、実際はそうではありません。
「教育を受ける権利」の保障も、「わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ」と考えるべきでしょう。
■ 「公の支配」
また、中には憲法89条を根拠にした批判もあります。
89条は、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」と定めていますが、朝鮮学校は「公の支配に属しない」存在であり、これに公金を支出するのは憲法違反だという主張です。
これも一見、かなりの説得力があるように見えますが、繰り返し述べてきた通り、ことの本質は、「子どもたちの人権」を支援するものであり、学校を支援するのではありません。
これは一般の公立高校や私立高校でも同じで、学校が受け取る授業料を「子どもたちから取るのか」「国から受け取るのか」の違いだけで、学校からしてみれば変わりません。あくまで、支援を受けるのは学校ではなく、そこに通う子どもたちなのです。
すなわち、89条の規定をもって憲法違反だという批判も全くの「的外れ」なのです。
■ 「学校法人」への「支配」は絶大
ついでに余談ですが、朝鮮学校が「公の支配」に属していないかというと、そうとも言い切れません。
朝鮮学校は他の私立学校などと同様「学校法人」が運営していますが、この設立に当たっては日本国政府(文部科学省)の認可が必要です。
また、その管理や寄付行為の変更などについて定められた日本の私立学校法に服しており、法令や所轄庁の処分に違反した場合、文部科学省は私立学校審議会の意見を聞いた上で「解散命令」を出すこともできます。
しかも、この「解散命令」は絶大で、「行政不服審査法による不服申立てをすることができない」と定められています。
これだけの絶大な「支配」が朝鮮学校にも行き届いていることは、知っておいた方が良いのではないかと思います。
■ 反対政党の「付け焼き刃」
ここまで述べてきたことを知らなかった人々を、批判するつもりはありません。
今まで知らなかったことが多かったのは、ある意味、提案者側の「説明不足」の責任でもあります。
ただし、今回法案に反対した自民党や、その「亜流」みんなの党に対しては、その「説明不足」の責任も含めて「軽蔑」を禁じ得ません。
ここまで書いてきた「批判」も、すべて自民党・みんなの党の、言い分です。
日頃から、憲法にも人権にも見向きもしない政党の「付け焼き刃」では仕方ないかもしれませんが、いかにも中身が「薄っぺら」です。
■ 人種差別撤廃に動いたはずの「保守」
具体的に言うならば、前述の1979年の「国際人権規約」の批准は、自民党政権の大平正芳内閣のときです。大平氏といえば、自民党総裁の谷垣禎一氏の「宏池会」の大先輩です。なぜ内容を理解できないのでしょうか。
また、自民党が最大与党として、社会党・新党さきがけと連立を組んでいた1995年に批准した「人種差別撤廃条約」には、国や自治体など公共機関が人種や民族などで差別する行為や、差別の扇動や助長を行わないことが定められています。
この「人種差別撤廃」を国際会議で最初に提案したのは日本です。第一次大戦後に作られようとしていた「国際連盟」の規約に「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざること」という文言を入れるべきだと主張したのは、1919年当時の日本なのです。
しかも、そのときの全権大使だった牧野伸顕氏は、麻生太郎前首相の「ひいお爺様」です。なぜ、それさえも無視するのでしょうか。
■ 「恥ずかしい歴史」を刻む「保守」
もちろん、それだけ立派な主張を国際社会に訴えた日本も、その頃は国を挙げて他のアジア諸国やその民族を「差別」していたのですから、お恥ずかしい限りです。
それでも、先人が尽力してきたことや、世界に誇れるような功績を受け継ぐべきなのに、逆に負の「差別」だけを受け継ぐ良識なき末裔が「保守」を僭称し、まだこの日本に蔓延っていることは、やはり嘆かわしいことです。
「人権」や「教育」を思うとき、他者への「差別」を1世紀近くにわたって引きずるためだけの「保守」。「人権」と「外交」の区別もつかない「保守」。
すなわち今の自民党・みんなの党などは、「恥ずかしい歴史」を刻み続ける「恥ずかしい」存在なのではないか、私にはそう思えてなりません。
ご存知の通り、この法案については様々な批判があります。
しかし、その中には多くの誤解もあるようですので、少し私なりに整理してみたいと思います。
■ 「国際人権規約」
まず、良くある批判が「選挙目当てのバラマキだ」という批判がありますので、これについて考えてみましょう。
国際人権規約という条約があります。1979年に批准しています。
その中の「A規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)」には、「高等教育の無償化」が盛り込まれています。
この「高等教育の無償化」について日本は長い間、留保してきました。もちろん国々にはそれぞれ様々な国内事情もありますので、この「A規約」を批准したからといって直ちに国内法の整備を行う義務があるわけではありませんが、批准から約30年もの間放置されてきたこと自体、少し放置し過ぎたようにも思います。
それが今回、ようやく着手することになった、これが今回の「高校無償化法案」だというわけです。
こうした経緯から考えれば、本質的には子どもたちの人権(「教育を受ける権利」)の問題であって、「バラマキ」などの類いの問題ではないのです。
■ 国どうしの「仲」の良し悪しと「人権」は別物
さて、もう一つ問題になっているのは、朝鮮学校などに通う生徒さんたちも対象にするのか否かということです。
例えば、閣僚の中では国家公安委員会の中井洽委員長が、拉致問題と経済制裁を理由に朝鮮学校を除外するよう求めたことがありました。
前述の通り、そもそも法案の本質は「子どもたちの人権」の問題です。人権を論ずるのに国どうしの「仲」の良し悪しが判断基準になるようでは、お話にもなりません。
もちろん北朝鮮による拉致も、重大な人権侵害ですし国家犯罪ですが、日本が北朝鮮や韓国の国籍を持つ人々、まして子どもたちを「差別」や「人権侵害」を行なっても良いとするならば、逆に北朝鮮などが日本人に対して「差別」や「人権侵害」を行なうことに、「日本もやっているだろう」と根拠を与えてしまうことになります。
「子どもたちの人権」の問題だという本質を見誤らない限り、中井氏のような主張はできないはずです。
■ 「教育を受ける権利」
さて、批判の中には憲法の条文を根拠にしたものもあるようです。
その一つは、憲法26条の定める「教育を受ける権利」は「すべて国民は」としており、日本国民だけが対象だというものです。
残念ながらこうした批判は誤解に基づくものであり、妥当とは言えません。有名な最高裁判所の判例をご紹介します。1978年10月4日に出された、いわゆる「マクリーン事件判決」です。
「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ。」
「権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるもの」が、どの程度の範囲かという議論もあるでしょうが、例えば外国籍の子どもたちが普通の小学校に入学しようとしたとき、外国籍であることを理由に入学や転入が拒否されるでしょうか。「教育を受ける権利」が保障の対象外だとすれば、拒否されて当然となるわけですが、実際はそうではありません。
「教育を受ける権利」の保障も、「わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶ」と考えるべきでしょう。
■ 「公の支配」
また、中には憲法89条を根拠にした批判もあります。
89条は、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」と定めていますが、朝鮮学校は「公の支配に属しない」存在であり、これに公金を支出するのは憲法違反だという主張です。
これも一見、かなりの説得力があるように見えますが、繰り返し述べてきた通り、ことの本質は、「子どもたちの人権」を支援するものであり、学校を支援するのではありません。
これは一般の公立高校や私立高校でも同じで、学校が受け取る授業料を「子どもたちから取るのか」「国から受け取るのか」の違いだけで、学校からしてみれば変わりません。あくまで、支援を受けるのは学校ではなく、そこに通う子どもたちなのです。
すなわち、89条の規定をもって憲法違反だという批判も全くの「的外れ」なのです。
■ 「学校法人」への「支配」は絶大
ついでに余談ですが、朝鮮学校が「公の支配」に属していないかというと、そうとも言い切れません。
朝鮮学校は他の私立学校などと同様「学校法人」が運営していますが、この設立に当たっては日本国政府(文部科学省)の認可が必要です。
また、その管理や寄付行為の変更などについて定められた日本の私立学校法に服しており、法令や所轄庁の処分に違反した場合、文部科学省は私立学校審議会の意見を聞いた上で「解散命令」を出すこともできます。
しかも、この「解散命令」は絶大で、「行政不服審査法による不服申立てをすることができない」と定められています。
これだけの絶大な「支配」が朝鮮学校にも行き届いていることは、知っておいた方が良いのではないかと思います。
■ 反対政党の「付け焼き刃」
ここまで述べてきたことを知らなかった人々を、批判するつもりはありません。
今まで知らなかったことが多かったのは、ある意味、提案者側の「説明不足」の責任でもあります。
ただし、今回法案に反対した自民党や、その「亜流」みんなの党に対しては、その「説明不足」の責任も含めて「軽蔑」を禁じ得ません。
ここまで書いてきた「批判」も、すべて自民党・みんなの党の、言い分です。
日頃から、憲法にも人権にも見向きもしない政党の「付け焼き刃」では仕方ないかもしれませんが、いかにも中身が「薄っぺら」です。
■ 人種差別撤廃に動いたはずの「保守」
具体的に言うならば、前述の1979年の「国際人権規約」の批准は、自民党政権の大平正芳内閣のときです。大平氏といえば、自民党総裁の谷垣禎一氏の「宏池会」の大先輩です。なぜ内容を理解できないのでしょうか。
また、自民党が最大与党として、社会党・新党さきがけと連立を組んでいた1995年に批准した「人種差別撤廃条約」には、国や自治体など公共機関が人種や民族などで差別する行為や、差別の扇動や助長を行わないことが定められています。
この「人種差別撤廃」を国際会議で最初に提案したのは日本です。第一次大戦後に作られようとしていた「国際連盟」の規約に「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざること」という文言を入れるべきだと主張したのは、1919年当時の日本なのです。
しかも、そのときの全権大使だった牧野伸顕氏は、麻生太郎前首相の「ひいお爺様」です。なぜ、それさえも無視するのでしょうか。
■ 「恥ずかしい歴史」を刻む「保守」
もちろん、それだけ立派な主張を国際社会に訴えた日本も、その頃は国を挙げて他のアジア諸国やその民族を「差別」していたのですから、お恥ずかしい限りです。
それでも、先人が尽力してきたことや、世界に誇れるような功績を受け継ぐべきなのに、逆に負の「差別」だけを受け継ぐ良識なき末裔が「保守」を僭称し、まだこの日本に蔓延っていることは、やはり嘆かわしいことです。
「人権」や「教育」を思うとき、他者への「差別」を1世紀近くにわたって引きずるためだけの「保守」。「人権」と「外交」の区別もつかない「保守」。
すなわち今の自民党・みんなの党などは、「恥ずかしい歴史」を刻み続ける「恥ずかしい」存在なのではないか、私にはそう思えてなりません。