恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

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将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

「無血虫」たちの改憲手続法案

2007年05月12日 | 憲法
■ 国会は「無血虫の陳列場」

 明治時代、「東洋のルソー」と呼ばれ、自由民権運動の論理的支柱であった中江兆民代議士は、「立憲自由新聞」に「無血虫の陳列場」と題する一文を発表しました。
 これは当時の国会と国会議員の体たらくを皮肉った言葉として当時、大いに話題になりました。すなわち国会議員を「血の通わない虫けら」とし、その「陳列場」が国会だと断じたのです。
 その文章の中には、次の一節があります。

 「竜頭蛇尾の文章を書き前後矛盾の論理を述べ、信を天下後世に失することとなれり。」

 彼のこの言葉は、今の国会にも当てはまるのではないでしょうか。

■ 「竜頭蛇尾」「前後矛盾」の改憲手続法案

 11日、参議院の憲法調査特別委員会で「日本国憲法の改正手続きに関する法律案」が、与党の賛成多数で可決され、14日の本会議で成立することが確実となりました。
 ところが、この法案をめぐっては、全てにおいて「竜頭蛇尾」「前後矛盾」ばかりでした。

■ 「無血虫」の与党議員

 「憲法に改正条項があるのに手続きを定める法律がないのは立法府である国会の怠慢」などと、あたかも国民の人権が侵害されているかのように宣伝しながら、その改憲の具体的な中身である「新憲法草案」には、「生きる」という当然の権利をはじめとして全ての基本的人権を一律に「公益」や「公の秩序」の下に置き、広範な制限を行うことができる内容となっています。

 また、議員立法として提出されたこの法案に、行政府の長である安倍首相が「憲法記念日前に成立を」とまで唱え、国会で連日審議させ、総括質疑には自ら答弁に立つという明らかな矛盾を平然とやってのけました。しかも野党の鋭い質問にはまともに答弁せず、自民党新憲法草案の条文を読み上げて時間を稼ぎ、相手の質問時間を奪うという姑息な手法で対抗しました。

 さらに、前日まで「地方公聴会」を行いながら、そこで多数だった「慎重審議」を求める意見を全く無視したばかりでなく、「中央公聴会」さえ開かずに採決に及んだのも明らかに拙速です。

 加えて安倍首相は「十分に議論した」と語りましたが、この法案には18項目にも及ぶ「附帯決議」が上げられました。「附帯決議」とは法案の不備を補完するために決議されるものであり、それが前代未聞の18項目にも及ぶということは、その法案自体が「不備・欠陥だらけ」だということを如実に物語るものです。

 これほどまでに愚かな行為を「数の論理」だけで漫然と行うのですから、自民・公明の両与党の議員は正に「無血虫」の名にふさわしいと思いますし、こうした愚行こそ「信を天下後世に失する」行為にほかなりません。

■ 「無血虫」の民主党議員

 こうした「無血虫」は与党議員だけではありません。野党第一党の民主党も同レベルです。

 当初、民主・社民・国民新の野党3党はこの法案について「成立阻止」で一致していました。ところが衆議院段階で民主党はその舌の根も乾かぬ内に、与党との修正協議に応じました。これについては改めて「対案」提出へと軌道修正したものの、口を酸っぱくして主張してきた「最低投票率」の規定すら盛り込まれていないという、極めてお粗末で全くやる気の感じられない法案でした。

 さらに、5月10日になって民主党の参議院国対は与党に歩み寄り、翌11日の委員会採決に合意したと報じられました。
しかし、10日になってようやく合意したというのは明らかに偽りです。先に触れた18項目の附帯決議案は、与党側からではなく、民主党の主張によってなされた、いわゆる「落としどころ」であり、その文言の調整にかかる時間を考えれば、決して一日でできた合意などではありません。もっと前から、与党案の成立も見越した上でこの附帯決議でお茶を濁したというわけです。

 また、11日の委員会審議の模様はNHKで中継されましたが、NHKの審議中継を入れるかどうかについては公共放送である立場から全会派一致が原則です。民主党は共産・社民・国民新の他の野党を全く無視し、与党側に「寝返った」と見なければなりません。

 彼らが裏切ったのは、こうした他の野党だけではありません。そもそも改憲など全く必要もないし、手続き法案もいらないとする国民や、手続法として幅広い合意を得られるような中立・公正な制度と、そこへたどり着くまでの慎重審議を願った国民をも裏切ったのです。
 
 このような民主党の議員たちもまた「無血虫」の類だと言わざるを得ませんし、こうした裏切りもまた「信を天下後世に失する」ものだと言わねばなりません。

■ 「立憲主義者」であり「改憲論者」だった中江兆民
 
 冒頭ご紹介した中江兆民は、「立憲主義者」でした。
 ヨーロッパでの留学経験もある彼は、国民の権利を保障するために、国家権力を縛るシステムである「憲法」の重要性を最も良く知っていた政治家の一人だと思います。

 また中江兆民氏は「改憲論者」でもあったと言われています。
 彼らが起こし、広げてきた自由民権運動は、帝国議会の開設、大日本帝国憲法の発布という実を結びましたが、その帝国憲法はあまりにも「自由」と「民権」を軽視したものでした。そこで彼は本来の「立憲主義」、すなわち国民を守り、国家権力を抑制するシステムを作り直す意味での「新憲法」、いわば現行の日本国憲法のような憲法の制定を切望したのです。

 今の日本での「改憲論」は、全くの逆の立場です。自民党の「新憲法草案」には確かに「新しい権利」などは盛り込まれています。しかし、それも含めた全ての自由や権利が「公益」「公の秩序」という、権力者の都合の良いものの下に置かれてしまうのですから、全く無意味です。

 国民の視点に立った「立憲主義」さえも否定する「改憲論」が肩で風を切り、「憲法尊重擁護義務」を負うはずの総理大臣が公然と、「帝国憲法」の時代へと逆行する「新憲法」草案を内外に触れまわるという有様です。

■ 「過去と未来の狭間」で 

 中江兆民が生きた時代、「自由」や「民権」を獲得するために私たちの多くの祖先が声を上げ、そして弾圧を受け、涙を流し、血を流しました。

 そして幾多の戦争と弾圧による多くの犠牲のもと、ようやく60年前に国民が獲得した自由や権利さえ今、危うい状況にあります。
 危ういのは私たちの自由や人権だけではありません。それは私たちの子や孫、そのさらに子孫にも降りかかります。

 私たちは、そうした「過去と未来の狭間」に生きているのです。

■ 「信を天下後世に失する」ことのないように

 改憲手続法案は成立します。これは動かしがたい現実です。
 問題はその後です。この法案成立後、自民党はいよいよ改憲に向けて、次々と手を打ってくるでしょう。

 歴史に逆行する「改憲」に乗せられて、私たちやその子孫の自由や人権を、権力者に下げ渡してしまうのか、それともしっかりと守り抜き受け継いでいくのかが問われています。

 私は、私たちが今ここで対決していかなければ、かつて血を流してきた祖先と、これから血を流すであろう子孫の、双方を裏切る行為だと思いますし、それは今を生きる私たちが「信を天下後世に失する」ことになると思います。

 私は、今を生きる人間の責任として、これを見過ごすわけにはいきません。
 まずは今夏の参院選、できるだけ多くの「無血虫」を退治しなければならないと考えます。