恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

学習指導要領「密室修正」に踏み切った「愚かな権力者」

2008年03月30日 | 教育基本法・教科書
■ 密室の暴挙

 先日28日付で、小中学校用の学習指導要領が告示されました。
 これに先立つ15日に公表された改定案は、3年間にわたって中央教育審議会が公開の下で審議を進め、まとめられた案でしたが、告示までの十数日間という「土壇場」で一転、密室での修正が加えられたのです。正に前代未聞の暴挙と言わざるを得ません。
 では、このような不透明で強引な修正によって、一体政府は子どもたちに何をさせようとしているのでしょうか。
 そこには「復古主義」、すなわち「天皇制国家主義」への回帰、そして国際貢献という名で進められてきた「海外派兵」への志向があります。

■ 踏み込んだ「愛国心」

 修正された点として、まず「道徳教育」の目標の中の、「愛国心」規定が挙げられます。
 現行の指導要領から、中教審の改定案、そして改変後の新指導要領を見比べると、次第に表現が強化されていることが分かります。

《現要領》 「豊かな心をもち、個性豊かな文化の創造・・・伝統と文化の創造・・・道徳性を養う」

《改定案》 「伝統と文化を継承し、発展させ・・・道徳性を養う」

《修正後》 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し・・・道徳性を養う」

 そもそも、安倍政権下で改定された教育基本法の国会審議においても、「子どもたちの内面にまで踏み込むべきではない」という理由から、国や郷土を愛する「態度」を求め、「心」までは求めないとされてきましたが、今回「愛し」という直接的な表現が盛り込まれました。
 これは、復古的国家主義的色彩が強い教育基本法の枠をさらに踏み越えて、学校現場で「国を愛せ」と子どもたちに迫ろうとするものと見るべきです。

■ 毎年の「君が代」強制

 こうした志向は、小学校の音楽でも見られます。これは「君が代」についての規定です。

《現要領・改定案》 「『君が代』はいずれの学年においても指導すること』

《修正後》 「『君が代』はいずれの学年においても歌えるよう指導すること」

 これについても政府答弁では、「口をこじあけてまで歌わす、これは全く許されない」とされてきました。これは子どもたちだけでなく、親や先生も当然「そんなことまでさせたくない」と思うでしょう。しかし、この修正は「教える」だけでなく、「歌わせる」ことを重視しました。
 音楽が採点をともなう教科である以上、「歌えるよう指導する」というのは、「歌えるか確認し、点数をつけて評価する」ことになります。しかも「いずれの学年においても」です。学年が変われば次の歌を指導するのに、子どもたちは「君が代」だけ毎年歌わされ続け、評価の対象とされ続けるのです。
 小学校の音楽という、子どもたちが基礎的な芸術的素養を身につける絶好の機会も、国家主義者たちにとっては、ただ「君が代」を歌わせるための時間としか捉えていないのかもしれません。

■ 「神話」のすり込み

 次に、小学校の国語に新たに盛り込まれる規定を見てみましょう。

《改定案》 「昔話や伝説などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりする」

《修正後》 「昔話や神話・伝承などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりする」

 こだわりが見えるのは「神話」です。
 「神話」の元となるのは、古事記・日本書紀などですが、そもそもこの「記紀」は、「大和朝廷=天皇による支配を正当化する」という政治的意図をもって、「天皇を神々の子孫」であると信じ込ませるために、8世紀以後、当時の権力者たちによって作り出されたものです。
 こうした「神話」を、科学的検証もできない幼い時期から子どもたちの心にすり込み、「天皇=神々の子孫」という「無意識の意識」を植え付けるというのが、戦前の「皇民化教育」の手口だったわけです。全く同じ手口は、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史の教科用図書にも見られます。
 正に「馬鹿の一つ覚え」と言うべき姑息な手口ですが、戦前の「皇民化教育」によって育った子どもたちが、先の「愛国心」教育と相俟って、成長した後もどれだけ多く命を捨てさせられたかを思えば、その脅威を感じずにはいられません。

■ 「神話」から「信仰」「宗教」へ

 さらに、中学の社会を見てみると、国家主義者たちが愛する「もう一つのもの」が見えてきます。
 歴史的分野の縄文・弥生時代について、こういう修正がありました。

《改定案》 「日本列島における農耕の広まりと生活の変化・・・を理解させる」

《修正後》 「日本列島における農耕の広まりと生活の変化や当時の人々の信仰・・・を理解させる」

 また、公民的分野では、より露骨な修正が加えられています。

《改定案》 「生徒の公正な判断力の育成を目指す」

《修正後》 「政治及び宗教に関する教育を行うものとする

 先に述べたように小学校の国語で「神話」をすり込まれた子どもたちです。
 元々8世紀以後の政治的創作である「記紀」の中の「神話」ですが、書かれていることをその通り信じれば「皇紀」などという非科学的な数え方があるように、紀元前数百年、つまり弥生時代にまで遡ります。
 つまり、物語として教え込まれた「神話」を、中学生になった子どもたちは、初期に学ぶ縄文・弥生期の「歴史」として「復習」させられるのです。
 行き着くところは「天皇=神々の子孫」を、間接的に歴史として「誤解」させることにあります。実際、文部大臣を経験したこともある森喜朗氏が、首相として「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく」と大真面目に語ったのは、わずか8年前のことなのです。
 こうした「神話」に基づく「国家神道」、そしてその頂点としての「靖国神社」への崇敬を、現代の公民的分野で、最後の仕上げとして子どもたちに教え込む、これこそがこの修正の意図なのでしょう。

■ 「国際貢献」の美名の下で

 中学校の公民的分野、しかも「世界平和と人類の福祉の増大」という小項目の中では、こうした修正が加えられました。

《現要領・改定案》 「我が国の安全と防衛の問題について考えさせる」

《修正後》 「我が国の安全と防衛及び国際貢献について考えさせる」

 政府が、この「国際貢献」と呼んできたものは何だったでしょうか。「専守防衛」をやめ、米国の言うがまま、米軍の戦争への「加担」や「後始末」のために自衛隊を海外に派遣するための口実こそ「国際貢献」という言葉だったはずです。これを、中学生に教えるだけでなく「考えさせる」というのです。
 新テロ特法案が参議院で否決され、一時は派遣部隊がインド洋から撤退したように、この米軍の戦争への加担は、今も賛否両論があります。「国際貢献」について「考えさせ」られる生徒の中には、否定的に考える人もいるでしょう。それこそが当然の姿です。
 しかし政府が推し進めてきたこの自衛隊の海外派遣を、敢えて政府によって学習指導要領に入れられて「考えさせる」とき、生徒の自由な考え方が押し潰されてしまうという危険性を考えなければなりません。

■ 教育の権利は誰に

 教育は権利であることは言うまでもありませんが、では「教育は誰の権利なのか」ということを考えなければなりません。
 憲法では「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」とあります。ここで「義務」を課されているのは「保護する子女」を持つ「国民」、つまり「親」です。その「親」に「普通教育を受けさせる義務」を負わせることにより、「子女」すなわち「子どもたち」の権利が保障されています。すなわち、あくまで「教育」に関しての権利は「子どもたち」にあるのです。憲法上、政府には何の権利もないのです。
 その「子どもたち」に対して、このような学習指導要領に基づいた教育が施されるならば、これほど不幸なことはありません。

 内面まで踏み込まれての「国を愛せ」、口をこじ開けられて毎年歌わされる「君が代」、すり込まれた「神話」で天皇は神々の子孫だという作り話を、その後「史実」のように誤解させられたかと思えば、自衛隊が海外で米軍の戦争に加担させられていることを「国際貢献」だと信じ込まされるわけです。
 憲法上、教育の権利主体である子どもたちが、同じく憲法上に何の権限も持たない政府の思惑によって、このように一方的で愚かな「不利益」を教え込まれるのですから、これほど馬鹿げた話はありません。 

■ 修正の「元凶」

 では、このような修正を行ったのは一体誰なのでしょうか。そこを考えるとき、修正に至る過程を一つ一つ遡って考える必要があるでしょう。
 
 学習指導要領を告示するのは、文部科学大臣であり、そこに持っていくまでに官僚がほぼ全ての修正を請け負います。彼らの責任は重大です。
 もちろん行政手続として一応、公開して「パブリックコメント」を国民から募っています。その意見が何らかの影響を与えたかもしれないことは否定できませんが、もともと政府が国民の直接的な意見をまともに取り入れることは現実的にほとんどありませんし、政府に対して意見を述べることは自由です。コメントを寄せた人々に責任はありません。
 国民の意見を取り上げることのない官僚も、今回の修正を行うまでに、懇切丁寧に説明を行い、お伺いを立てた人々がいます。それは「与党の国会議員」です。与党議員だけ、議員会館の事務所、ときには外の個人事務所まで足を運び、「いかがでございましょうか」とそのご意向を聞き、その意向を色濃く反映させたのが今回の「修正・学習指導要領」なのです。
 もちろんその中には、先に述べた森喜朗元首相や、幹事長時代に「改憲・教基法・教科書改定は不離一体」として全国の自民党都道府県本部に「つくる会」教科書の選定のために圧力をかけさせた安倍晋三前首相なども入っています。このような狂信的な天皇制国家主義者たちが、この修正の「元凶」と見るべきでしょう。

■ 「将軍様」と同じ「愚かな権力者」

 子どもたちに、笑顔で元気よく「君が代」を歌わせ「国を愛させて」喜ぶのなら、まるで子どもたちに「マスゲーム」を踊らせて悦に入る、どこかの「将軍様」と大差ありません。
 そして「神話」を、中学生になった子どもたちに「歴史」で「復習」させて「天皇=神々の子孫」と誤解させて喜ぶのなら、これも「偉大な革命指導者」の息子だからということだけで「総書記」として君臨する、どこかの「将軍様」と同じ手口です。
 しかし、「国際貢献」という美名で、子どもたちを対外戦争に加担させようというのであれば、どこかの「将軍様」以下である可能性もあります。その国は朝鮮戦争以後、我が国ほど露骨な「海外派兵」は行っていないのですから。

 我が国では、どこかの「将軍様」並みかそれ以下の「愚かな権力者」が、子どもたちの権利である教育の現場を、洗脳・調教の場として、今頃ほくそ笑んでいるのです。

■ 子どもたちの心と命のために

 「愚かな権力者」から子どもたちの心と命を守り抜くには、現場の先生方、そして親の皆様方のご理解とご協力が不可欠です。
 
 子どもたちに「幅広いものの見方」を教えてあげて下さい。「真実」を教えてあげて下さい。「自分たちの命を大切にすること」を教えてあげて下さい。
 そして「あなたたちのために教育はある」と子どもたちに教えてあげて下さい。

 その上で「愚かな権力者の責任を問い直し、権力の座から追い落とすこと」で、子どもたちを守ってあげて下さい。

中国のチベット弾圧事件に思う

2008年03月26日 | 外交・国際
■ 海外メディアと中国の「大本営発表」

 中国政府によるチベット弾圧事件が、国際世論の注目を集めています。しかし中国政府による報道管制が厳しく、正確な情報は伝えられていません。
 そのチベットの中心都市であり、今回の運動の中心地であるラサに、26日からようやく海外メディアの記者十数名が取材を許可されたと報じられています。
 このことにより多少は現地の情報が入ってくるかもしれませんが、どうも正確な情報は期待できそうもありません。
 この海外メディアの取材について、中国政府の当局者は、取材を認めるのは十数名、しかも破壊された建造物など政府が指定した場所でしか許可しないと語り、公然と事実を隠蔽すると宣言しているのです。
 これでは取材に当たる記者団は、言わば「大本営発表」の片棒を担がされるばかりであり、私たちはその「大本営発表」を聞かされ続けることになってしまいます。 
 半世紀近くに及ぶ抑圧への民衆の反発を、力で抑え込むばかりか、民衆の声や苦しみ、そしてその死さえも封じ込めようとする中国政府の行為は断じて容認できるものではありません。
 
■ 権力の暴走と民衆の悲劇

 「大本営」がなくなった戦後においても、こうした政府・権力者による民衆への弾圧事件は数多くありました。
 このアジアだけを見ても、昨年のミャンマーでの武力弾圧事件、80年代の韓国の光州事件、中国の天安門事件などは、ご記憶の方も多いでしょう。また、ロシア・プーチン政権の高支持率の裏には、野党など反対勢力への弾圧があり、北朝鮮では弾圧事件がニュースにならないほど常態化し、ここでは人権という概念の有無さえ疑問です。
 中国によるチベット侵攻は今から49年前ですが、ちょうど同じ頃、日本ではいわゆる「60年安保」が巻き起こっていました。デモを行う学生や市民らに対して、当時の岸信介首相は右翼や暴力団を使って襲撃させ、挙句の果てに自衛隊を出動させようとしたのです。防衛庁長官の猛反対によって、この岸氏の暴走は食い止められましたが、危うくこの日本でも大変な悲劇が起こるところでした。
 つい先日のことのように思い出される20世紀、そして21世紀の現在においても、今回のチベットの弾圧事件のように、政府や権力者の暴走が悲劇を生み続けています。
 日本でも、かの岸信介氏の思想と遺伝子を色濃く受け継いだ安倍晋三氏が、つい半年前まで首相の座にあり、「安倍政権下では人権という言葉は口にもできなかった」と与党の国会議員が言っていたことに、背筋が凍る思いがします。

■ 日本国民だからこそ

 人類史を振り返れば、それこそ数え切れぬほどの弾圧によって、幾多の民衆が血を流し、命を奪われてきました。
 人権は「天賦人権」という通り、天から賦与されたもの、生まれながらにして持っているものであり、政府や権力者の存在以前の「前国家的」なものだというのが、近代以後確立された概念であり、それこそ民衆が血を流しながら必死に勝ち取ってきた「人類の財産」です。
 その「財産」たる人権を保障し、そのために権力を縛るのが憲法の最大の役割であり、この人権保障の面において世界最高水準にあるのが日本国憲法です。民衆が権力と闘いながら勝ち取ってきた「結晶」が、日本国憲法に詰まっていると言っても過言ではないでしょう。
 その日本国憲法は前文で、全世界の国民に「平和のうちに生存する権利」を確認した上で、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」としています。
 過去には血を流してきた先人たちを裏切ることなく、現在では流血の悲劇に襲われている人々を救うため、そして将来において子孫に血を流させないために、私たち日本国民は「全力をあげて」この誓いを世界に発信しながら、あらゆる国の政府・権力者たちによる弾圧を断罪し、彼らに毅然たる抗議の態度を示さねばならないと思います。
 生まれながらにして天から与えられた人権と、その拠り所である日本国憲法を、私たち日本国民が、世界に、そして未来に広げていくために。

米軍犯罪と日本人

2008年03月07日 | 基地・有事体制
■ 岩国基地の暴行犯4名、軍法会議へ

 2007年10月に広島市内に住む当時19歳の少女を集団で暴行したとされる、岩国基地所属の米兵4名が軍法会議にかけられることが決まりました。この4名については、性的暴行・共謀・窃盗・命令不服従などの容疑について2月中旬に基地内の法廷で予備審問を受けており、審問に際しては被害者の女性も証言に立ちました。
 軍法会議の模様は報道陣にも公開される予定だということですが、日程は未定となっており、今後の行方について注目したいと思います。

■ 広島と沖縄の「不起訴」

 さて、こうした在日米軍兵士による卑劣な犯行は後を絶ちません。2月に起きた沖縄での事件で被害者となったのは、わずか14歳の少女でした。屈強な米兵の暴力にさらされた少女の恐怖と苦痛を思うと、言葉を失います。

 この二つの事件に共通しているのは、双方とも日本では「不起訴」となっているということです。
 広島の事件では、検察側が被害者と容疑者の供述に食い違いがあるとして起訴を見送りました。容疑者4名が口裏を合わせている可能性などについて、どこまで考慮されたかは明らかではありませんが、この「不起訴」処分については、極めて疑問が残ります。だからこそこの4名は軍法会議にかけられることになったのです。

■ 被害者への心ない攻撃

 沖縄の事件では、被害者が「これ以上事件に関わり、注目を集めたくない」として告訴を取り下げました。捜査当局や検察当局も「精神的打撃を受けた被害者から事情を聞くことは困難で容疑者を起訴する十分な証拠を集められなかった」とし、「不起訴」を余儀なくされました。これは検察当局より、むしろ「基地」そのものへの批判を嫌い恐れる、産経新聞などの一部メディアや一部の国会議員、そしてネット上のブログや掲示板における、被害者やその家族への心ない攻撃が大きな原因の一つとしてあると思います。

■ 米軍犯罪根絶を阻害するもの

 その中でも、嘆かわしいのが「危険な米兵に近付いた少女に非がある」「教えなかった家族に非がある」などという論調です。では彼らは日頃「在日米軍は危険だ」「米兵は危険なので近付くな」という情報を発信してきたとでも言うのでしょうか。
 米兵による犯罪の根絶を阻害している要因に、日米地位協定の問題があり、在日米軍が関係した犯罪における日本の捜査当局の無力さや「及び腰」があることは言うまでもありませんが、犯罪者である米兵を庇い、被害者の日本人少女を貶めるという、卑屈で「恥ずかしい」日本人の存在もまたその一因でしょう。
 在日米軍による事件・事故は、累計で二十数万件にも及びます。これには返還前の沖縄で起きたものや、犯行後に基地に逃げ帰り「うやむや」にされたものなどは含まれていません。実際には三十万件になるのか四十万件になるのか分かりませんが、その度に飛び交う「遺憾」「再発防止」「綱紀粛正」の言葉とは裏腹に、今日もまた米兵による犯罪のニュースが流れています。
 そのニュースの数だけ被害者が存在し、犯罪と攻撃という二重の苦痛を味わっていることに、私は情けない思いで一杯です。

■ 緊張感と危機感

 こうした被害者を救うために、私たちは何をしなくてはならないのか、もう一度、真剣に考える必要があると思います。
 もちろん在日米軍に日本から出て行ってもらうことが最も効果的なのですが、残念ながら今はそれを望める状況にはありません。
 いま最も重要なことは、日本側にも米軍側にも高い緊張感を持たせることだと思います。外国に駐留する米軍がその国々で事件・事故を起こし、そのために抗議行動や排斥運動に遭ってきたことが思い出されます。このように「下手なことをすれば、自分たちが追い出されるかもしれない」という危機感を米国側に持たせることだと思います。
 また、日本政府や与党にも「対応を誤れば、自分たちの立場も危うくなる」という危機感を持たせなければなりません。

■ 基地容認派の過ち

 基地容認派や親米保守派の人々は今回、基地反対の声が高まることや、米軍再編への影響を恐れる余り、被害者を攻撃するという過ちを冒しました。これは米軍や政府・与党に、緊張感・危機感どころか「何をしても擁護してくれる日本人がいる」という意識を、植え付けかねません。
 それで再発防止が望めるでしょうか。再び被害者が出ることを防げるでしょうか。そうなれば再び基地反対の声が高まるのではないでしょうか。それとも、再発防止策も全て「米国任せ」で良いと言うのでしょうか。
 日本に米軍がいてほしいと思うならば、真摯に再発防止を行わせ、「米軍は安全だ。パートナーだ。日本を守ってくれているのだ。」と宣伝すべきでしょう。私のような基地反対派との議論はそれからでも良かったはずです。

■ 真の再発防止のために

 今回の二つの事件の加害者の処断は、どちらも米軍の手に委ねられました。
 日本国内での犯罪の追及を、日本という国家が諦めてしまったのです。その犯罪による、日本人の被害者を、日本という国家が救うことができなかったのです。
 これ以上の「国辱」があるでしょうか。

 今回のような悲しい事件を少しでも防ぎ、新たな被害者を出さない、真の再発防止のために、基地容認・基地反対を問わず、多くの日本人の皆さんが、米軍や政府に緊張感と危機感を持たせるためのご協力をお願いしたいと思います。