恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

「子どもたちのための教育」を守ろう

2006年04月28日 | 教育基本法・教科書
 今日28日、教育基本法の改定案が午前に閣議決定され、午後には国会に提出されます。
 私は、この改定案の問題点の一部をご紹介し、今の政府・与党が、私たちの子どもたち・孫たち、そしてまだ生まれていない「将来の国民」に、何をさせようとしているのかをご理解いただきたいと思います。

■ 「国民全体に対し直接に責任」を負う教育から、「法律の定めるところによる」教育へ

 「国民全体」は子どもたちを含みます。もちろん親も含みます。
 子・親、そのどちらにもなったことがない人はいないと思います。
 現行の教育基本法は、教育というものを、そのどちらに対しても直接に責任を負うものと定めています。つまり、責任をもって「子どもたちのため」かつ「親たちのため」の教育を行うことを掲げているのです。
 今こうした教育を廃止し、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」教育に変えられようとしています。
 では、その「法律の定めるところ」の教育、とはどのようなものなのでしょうか。

■ 「伝統と文化を尊重し、・・・我が国と郷土を愛する」

 国や郷土は「当たり前」だ、という主張がありました。「当たり前」であれば自由で自発的な意思に任せておけば良いのです。
 しかしこれを敢えて条文化することには特別な意味があります。
 学校で「国を愛する」ことが求められ、子どもたちの「心」に権力が踏み込もうというのです。
 学校で「どの子が、どれだけ愛国的か」が評価・競争の対象となり、画一的な「国への愛」つまり「忠誠」が子どもたちの間で比べられます。
 しかも、子どもたちには、その「忠誠」を「態度」で示すことが求められます。
 これをはじめ、改悪案を見渡してみると、子どもたちの「心」に踏み込もうとする部分が20箇所以上もあります。
 それほど本腰を入れて子どもたちの「心」を支配しようとしているのです。

■ 「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」

 一見、「愛国心」は排他的ではない、他国への尊重とバランスを取った、と見える表現です。
 戦前も「修身」で「他の国家や民族を軽んずるやうなことをしてはならぬ。」と教えていましたが、実際には「他の国家や民族」に何をしていったか、ご存知の通りです。
 ただし、この規定の設置についての、政府・与党、とりわけ自民党の思惑は、もっと別のところにあります。

 近年の外交政策はどのようなものだったか思い出して下さい。
 「日米関係がうまく行けば全ての国との関係がうまく行く」と小泉首相は言い続けました。
 確かに米国との関係はある程度うまく行っているのかもしれませんが、その他の国とは最悪の状態です。
 また小泉首相は「国際貢献のため」と言って、自衛隊をインド洋やイラクに派遣しましたが、それは米軍のアフガン戦争の後方支援や、イラク占領政策のための派遣に過ぎませんでした。
 つまり、彼らが言う「他国」とは、ほぼ米国に限定されたものと言って良いでしょう。
 彼らが推し進めようとする憲法改悪案は、「集団的自衛権」、つまり「他国(米国)との共同作戦権」の行使に主眼が置かれています。
 彼らは、「政府のため」だけでなく「米国のために寄与する態度」も、子どもたちに求めようとしているのです。

■ 現行「真理と平和を希求し」から「真理と正義を希求し」へ

 一見「平和」を「正義」に置き換えただけに見えるかもしれません。
 しかし、この違いはとても大きなものです。
 3年ほど前、米国や英国、日本などでは、イラクを攻撃することを首脳が「テロとの戦い」と呼ぶと同時に「正義の戦い」と呼びました。
 日本でも多くの人々が、その「正義」にだまされましたが、真実が明らかになるにつれ、その「正義」を本気で信じる人々は、かなり減りました。「真理」は別のところにあったのです。
 しかし、ブッシュ大統領やブレア首相、そして小泉首相らが唱えた「正義」によって、「平和」が壊され、計り知れない命が失われたのは、紛れもない事実です。
 歴史上のあらゆる侵略戦争は、例外なく「正義」を唱え、国民を駆り立てていきました。

 この法案を推進する人々は、「正義」とさえ言えば、進んで自他の「平和」を捨て、破壊することを求める子どもたちを作ろうとしているのです。

■ 「個人の価値をたつとび」から、「公共の精神を尊び」へ

 「個人の価値」は、「子どもたち一人一人の価値」です。
 子どもたちはもちろん国民には、憲法によって「生命権」をはじめ数十の権利・自由が一人一人に保障されています。
 判例などで派生して認められている権利も含めれば、より多くの権利・自由が約束されています。
 しかし政府・与党、とりわけ自民党は、その憲法改悪案で、このような権利・自由の全てを「公益」「公共」の下に置いて、まとめて制限してしまおうとしています。

 「公益」「公共」は誰が決めるのでしょうか。それは政府です。
 彼らが教育現場に求めているのは「君たちの価値、命や権利・自由はどうでもいい。それより政府の利益のための精神を大切にしろ」という教えです。

■ 教育行政は「公正かつ適正に行われなければならない」

 一見、問題がないような文言ですが、現行法では「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」という義務が、これに書き換えようというのです。
 「公正」「適正」という曖昧な基準は、誰が決めるのでしょうか。これも政府です。
 これまで「子どもたちのための教育」の条件を整備するという義務が、国や自治体に課せられていたのが、「政府が決める基準の達成」の義務に変えられようとしているのです。
 では、「政府が決める基準」とは何でしょう。
 これまで書いてきた、「子どもたちが、国家・政府、そして米国を大切に思い、正義への寄与のために、自分の命や権利を進んで投げ出す教育」に他なりません。
 このような教育を行うことが、都道府県・市区町村にまで義務化されようとしているのです。

■ 「国は、…教育に関する施策を策定し、実施」

 冒頭、ご紹介したように、今まで教育は、まがりなりにも「国民全体」すなわち「子どもたちのため」でもあり、「親たちのため」でもあるものとして行われてきました。
 しかし、これからは「国」が教育に関する「施策」の策定、そして「実施」と介入してくることになるのです。
 それがどういう教育か、それは言うまでもなく、これまで書いてきたような「国のため」の教育、つまり「国家主義教育」です。
 しかも今度は、この法律(法案)の「お墨付き」を得て「国」が、教育姿勢や、その具体的な内容、教え方にまで「公然と介入してくる」ということを意味しています。

 条文に残されることになった「不当な支配に屈すること」がない、という規定は、そもそも教育内容を、国家や権力による「不当な支配」から守ることを意味していましたが、以後は国の「支配」に対して、国民が口を出すことを禁じる規定に変えられていこうとしているのです。
 これは、たとえ親でも、国が、自分の子どもたちに対して教えることに、何も言えなくなる、ということを意味しているのです。
 しかも、それは学校だけにとどまりません。
 
■ 「家庭教育」の新設

 現行の教育基本法は、国民の負託を受けた教育に関して、その条件整備など国がしなければならいことを定めたものです。これは、子どもたちの「教育を受ける権利」を保障するために設けられた法律です。
 しかし、今回の改定案は、国が、子・親を問わず国民の上に立って「こうしなさい」と命令するものです。
 国が踏み込もうとする、その領域は「家庭教育」にまで及んでいくことになるのです。

■ この改悪の可否が大きく左右する、子どもたちの「未来」

 この改悪が国会を通過すれば、戦後になって子どもたちが初めて手に入れた「自分たちのための教育」を受ける権利は再び奪われてしまいます。
 学校は「子どもたちのための教育」から、「国家権力のための教育」の場へと変えられてしまいますし、家庭での教育にまで国が干渉することになります。

 与党は、この改悪を特別委員会を設けて、連休明けから国会会期末までの約40日間で、一気に成立させてしまおうとしていますが、私はこのような教育を許す訳にはいきません。
 これからの数十日間は、現在・将来の子どもたちの「未来」を大きく左右するものとなります。
 私たちが守りたいと願う「子どもたちのための教育」か、政府・与党の権力者が求める「国家のための教育」か、という分岐点と言うことができるでしょう。

 どうか、一人でも多くの方々がともに「子どもたちのための教育」を守るため、改悪に反対する声を上げて下さいますよう、心からお願い致します。

教育基本法の改悪、「国家と国民」

2006年04月25日 | 教育基本法・教科書
■ 両与党が法案を了承

 「愛国心」教育などを盛り込んだ教育基本法「改悪」案は今日、自民・公明の両与党内の手続きを終えました。同法案は28日には閣議決定を経て、国会に提出される予定だと報じられています。
 与党内からは、今国会で成立させるため会期延長も辞さない考えが示されており、大変危険な状況にあると言わざるを得ません。
 私は、以前から書いてきた通り、この教育基本法の「改悪」には絶対に反対します。

■ 共謀罪との連動

 今日、私は「共謀罪」法案について書きました。
 国民に広範な規制をかけ、国家が国民を弾圧するための「共謀罪」も、私は反対していますが、「教育基本法改悪」と「共謀罪」、この2つは決して無関係ではありません。
 それを解く鍵は「国家と国民のあり方」です。

■ 子どもたちに忠誠を強要し、大人たちの口を封じる政府

 教育基本法「改悪」の本質は、子どもたちに、国家に対する絶対的忠誠を叩き込むことにあります。
 そして「共謀罪」は、国家を批判する大人たちの口を塞ぐため、犯罪も行なわれず、その準備行為も行なわれていないのに罪に問えるというものです。
 これまで主権者であったはずの国民は、この2法案によって「国家」に隷属する立場になってしまうのです。

■ すべてが「有事」へ

 もちろん連動しているのは、この2つだけではありません。
 こうして国民の目を多い、口を塞いだ後、行く先は、憲法9条改悪による「戦争する国」づくりに他なりません。自民党改憲案が、国民の自由・権利を「公益」や「公共の秩序」の下に置いていることも先の2つと強く結び付いています。
 さらに、現在の防衛費約5兆円の大半は、人件費と維持費です。戦争するようになれば、もっと金がかかります。その捻出のために社会保障を切下げ、次々と増税を進めようとしているのです。
 言ってみれば、すべてが「有事(戦時)体制」に繋がっていくと考えることもできるでしょう。

■ 今こそ「不断の努力」を

 このように国民から主権を奪い、軍事・国家主義体制を築こうとする政府・与党の策動を、黙って見過ごす訳にはいきません。
 憲法97条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、…現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と定めています。
 また、憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と定めています。
 「将来の国民」に「永久の権利」であるはずの「基本的人権」を引き継ぐために、今こそ私たちが「不断の努力」を行なうべきときだと思います。

「共謀罪」についての石原伸晃委員長への手紙

2006年04月25日 | その他
衆議院法務委員会 委員長 石原伸晃様

謹啓 連日の国会活動に深甚の敬意を表します。
 さて、早速ですが、現在、法務委員会において「共謀罪」導入をめぐる審議が行なわれています。
 この法案の問題点は多くありますが、その一つに「密告の奨励」があります。

 石原委員長は、4年前の2002年3月25日、参議院予算委員会で行革担当大臣として次のように答弁なさいました。

 「内部告発は悪い言い方をしますと『密告』でございます」

 今年4月に施行された、いわゆる「公益通報者保護法」は、例えば「リコール隠し」「産地偽装」など企業・団体によって実際に違法な行為が行なわれているとき、内部からの告発によらなければ事実が発覚せず、多くの人々に被害が拡大する恐れがあることから、それを防ぐために不充分ながらも内部告発者の保護をうたった法律です。

 しかし、その「実際に違法な行為が行なわれているとき」であっても、石原委員長は「密告だから」と慎重視なさっていました。

今回の「共謀罪」はどうでしょうか。
 ご存知の通り「実際に違法な行為が行なわれている」どころか、その準備行為がなくても、ただ「謀議」したというだけで「共謀罪」は成立してしまいます。
 しかも、適用される罪状は619にものぼり、何とでも理由を付けて国民を逮捕することができます。

 今回、政府はこの「共謀罪」摘発のために「密告」の奨励を図ろうとしています。
 「公益通報者保護法」は企業の違法行為から国民を守るためのものですが、「共謀罪」導入は国民を弾圧するためのものです。

 どちらの「密告」が、国民にとって危険であるかは明らかです。

 この法案は2度、廃案になった、問題の多い法案です。今回の修正も形ばかりのものです。
 石原委員長におかれましては、「密告社会」に対する、4年前のご自身の慎重な姿勢をよく思い出して頂き、国民を守るために、同法案を廃案にして下さるよう強くお願い申し上げます。

敬白

岩国と沖縄の市長選に思う

2006年04月24日 | 国会・政党・選挙
■ 井原候補・東門候補の勝利

 昨日23日、全国各地で選挙が行なわれました。
 衆院千葉7区補選では、民主党の太田和美候補が、自民党公認(公明党推薦)の候補者を破り、世間の注目を集めていますが、この補選以上に私は、同じ日に行なわれた2つの市長選に注目していました。

 一つは山口県の岩国市長選です。ここでも米空母艦載機部隊の岩国基地への受け入れに反対する井原勝介候補が勝利をおさめました。
 もう一つ、沖縄県の沖縄市長選では、「米軍嘉手納基地の自衛隊の共同使用反対」を訴えていた民主・共産・社民・社大・自連の5党の推薦を受けた、東門美津子候補が当選を果たしました。

■ 米軍再編協議のさなかの選挙結果

 当日は、米軍再編について額賀防衛庁長官がラムズフェルド国防長官との協議のため、米国を訪れていました。
 このようなときに、岩国・沖縄という2つの重要な地域でこのような投票結果が示されたことを、政府も重く受け止めるべきだと思います。
 とりわけ「地元軽視」「基地たらい回し」の日米協議や、「数の暴力」とも言える強引な国会運営などは真摯に反省し、直ちに改めるべきです。

■ 平和のために力を尽くす

 余談ですが、私は2月に、今回当選された東門氏に偶然お会いしたことがあります。
 そのとき東門氏は私にこう語ってくれました。
 「もう一度国会に、という思いはありましたが、多くの方々が私を支えて下さり『頑張れ』と言って下さっています。私は常に自分の置かれた立場から、平和のために力を尽くしていきたい。そのためにも精一杯頑張ります。」
 私は、良い言葉だと思いました。
 「常に自分の置かれた立場から、平和のために力を尽くす。」
 私自身もそうしていきたいと思います。

子どもたちの自由な「心」を守るために

2006年04月20日 | 教育基本法・教科書
■ 「心」にこだわる保守系議員

 自民・公明の両与党は14日に教育基本法の改定案で合意しましたが、この表記をめぐり、自民党内からは「表現が生ぬるい。」「より保守色な内容にすべきだ。」などの意見が相次いで出されています。
 また、昨日19日には、自民党だけでなく民主党や無所属の一部などの超党派議員らで作る議員連盟「日本会議国会議員懇談会」が総会を開き、「公明党に配慮し過ぎだ。」「養うべきは、『国を愛する態度』ではなく、あくまでも『心』だ。」などの強硬的な意見が相次いで出され、今後は国会議員の署名を集め、「愛国心」表記など3点について与党案の修正を求めていくことを決めました。

■ 子どもたちに何をさせたいのか

 与党案の「愛国心」表記は、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」というものです。
 「愛する」という「心」の内面にまで踏み込んで、その態度すら強制されていくことが、いかに不当なものであるかは前回も書いた通りですが、「日本会議国会議員懇談会」は、これでもまだ不充分だというのです。
 これほどまでに、子どもたちの「心」に踏み込むことを求める彼らは、一体、子どもたちに何をさせたいのでしょうか。

■ 平沼会長、教育基本法と憲法の改定は「一体で推進」

 「日本会議国会議員懇談会」会長の平沼赳夫氏は、教育基本法改定について「自主憲法の制定と一体で推進」と掲げています。また、「自主憲法の制定」については、憲法9条を見直し「自衛のための戦力保持」を掲げています。しかも彼の言う「自衛権」とは、明確に他国と共同で戦争を行なう「集団的自衛権」を含むものです。
 要するに、戦争できるよう戦力(軍隊)を持ち、そのために憲法を改め、その軍に将来、身を投じるよう子どもたちに「愛国心」を植え付ける教育を施そう、ということです。

■ 彼らの求める「愛」の水準

 討論番組などを見ていると、「愛国心」教育について、推進派の人々から「愛国心というのは当り前の感情だ。」というような意見をにします。
 「当り前の感情」であれば、国家が余計な介入をせず、子どもたちに任せておくべきです。それをなぜ法律を改め、条文化し、公教育の場で子どもたちに押し付ける必要があるというのでしょうか。
 それは彼らの求める「愛」の水準が、「当り前」の領域である「好き」程度の感情では済まないからです。国家への絶対的忠誠と、進んで命を捨てる心を、幼い頃から徹底的に植え付けたいのです。

■ 「強制」から始まり「自発性」へ

 こうした教育基本法の改定について、「教育改革国民会議」などで強く「推進」の意見を述べてきた曽野綾子氏はこう語っています。

「教育は程度の差こそあれ、強制から始まって自発性を目覚めさせる。」

 これを、「愛国心」教育で考えたらどうなるでしょう。まず「愛する」ことを「強制」するところから始まることになります。
 いま、子どもたちは絶えず「競争」にさらされています。「愛国心」が評価の対象になれば、競って身につけようとすることも考えねばなりません。進学に影響することも考えられるでしょうし、勉強の苦手な子どもが「イジメ」に遭うように、年端も行かぬ子どもたちの間で「愛国心が足りない」という新たな「イジメ」が、生まれることも予想されます。

■ 「愛国心」の強制の実態

 私は以前、戦前の植民地教育の実態についての論文を読んだことがあります。
 植民地の人々が最初から、日本政府が望むような「愛国心」を持つわけがありません。むしろ日本が最初に植民地化した台湾では、先ほどの曽野氏の考え方と同じような手法が取られました。
 当時の台湾の子供たちは、まず殴られ、逆らえば殴られることを当然のことと受け取るよう教えられた上で、天皇への忠誠を誓わされ、徹底的に皇民化教育・軍国教育を叩き込まれた、というのです。
 子どもたちは、やがて慣らされ、そして大人になり、「日本国民」として戦争に駆り立てられていきました。特に、いわゆる「優等生」達は、進んで軍に身を投じ、命を投げ出して行きました。

 正に曽根氏の唱える「強制から始まって自発性を目覚めさせる」という教育の結果と言えると思いますが、一歩間違えれば、こうした「被害」を子どもたちにもたらすことを忘れてはなりません。

■ 子どもたちの「心」への強制を許さない

 「愛国心」に限らず、すべての「心」は、自由な感情から生まれるもので、政府から強制されるものであってはならないと思います。
 子どもたちの「愛する」という「心」に、政府が法律を楯に、踏み込んでいこうとする今の教育基本法の改悪は、与党案、議員連盟案ともに、絶対に許せるものではありません。
 私は、子どもたちの自由な「心」を守るために、教育基本法「改悪」反対の声を上げ続けます。

教育基本法の改悪に反対する

2006年04月13日 | 教育基本法・教科書
■ 与党「愛国心」表現方法で一致

 自民・公明の両与党は12日、教育基本法の改定案に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度」という表記を盛り込むことで一致しました。
 政府・与党はこれを受け、改定法案の今国会への提出を急ぐと報じられていますが、私はこのような改定に全面的に反対します。

■ 国家が子どもたちの「心」に踏み込む

 まず、これまで行なわれてきた議論を振り返ってみますと、自民党は「国を愛する心」を主張し、これに対し公明党は「国のために死ね、とか、統治機構を愛せ、とかは言えない。」として、「国を大切にする心」を主張してきました。
 しかし、これはどちらも「公教育の場で、国家が法律によって子供たちの『心』に踏み込む行為であり、許されない。」との批判を受けました。
 この批判は当然のことです。憲法19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定めており、幼少期から国家が子どもたちの「心」を統制する行為は許されるものではありません。

■ 「心」から「態度」で、本質が変わったのか

 今回、こうした批判をかわすため、与党は求めるものを「心」から「態度」へ変更しました。しかし、「心」はともかくとして、国を愛する「態度」は要求されるのですから、これは大きくその本質を変えるものではありません。「私は国を愛し、国のために戦います。」という言葉を学校で求められれば、心の中に抵抗感があっても、それを口に出して言う「態度」は強要されていくのです。
 「愛する」の部分が既に「心」のあり方の問題であり、しかもそれを子どもたちは実際に「態度」で示さなければならないのです。これでは、何も変わっていないのではないでしょうか。

■ 「統治機構」は含まないと言うが

 また、この表現に使われる「国」の意味として、与党は「(政府など」統治機構は含まない。」としていますが、実際の運用ではどうなるか分かったものではありません。
 99年の国旗国歌法制定時も、政府は強制を否定していましたが、実際には教育現場で起立・敬礼が強制され、それに従わなかった200名余りの教職員が処分を受けています。
 今度は、法律が「国を愛する態度」を子どもたちに求めるのであれば、子どもたちがこの強制の対象になり、それに従わない子供たちが処分の対象になるという危険性も考えなければなりません。
 実際、最近の教科書検定では、首相をはじめ大臣の答弁や政府見解と異なる記述は全く認められませず、結果として、政府という「統治機構」の考えが色濃く反映された教科書になってしまっています。

■ 教育は国家のためか、子どもたちのためか

 子どもたちに対してこのようなことを課そうとする与党の目的は一体何なのでしょうか。それを探るためには、「教育権」の歴史をたどる必要があります。
 先の大戦まで、国家は公権力が学問の内容にまで介入し、徹底した教育の統制を行なってきました。このとき「教育を行なう権利」は国家にありました。国家が国家のために子どもたちに叩き込むその内容は、天皇への絶対的忠誠、そして「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。」すなわち、何かあれば天皇をお助けするために命を投げ出すことを迫る教育勅語を中心とするものでした。
 しかし戦後、進められた「教育の民主化」により、現行の日本国憲法と教育基本法が制定され、国家から国民に「教育を行なう権利」を移し、とりわけ親に「子女に教育を受けさせる義務」を課すことによって、子どもたちに「教育を受ける権利」を保障したことは特筆すべきことです。
 これにより、子どもたちは「権利主体」となり、それまでの「国家」や「天皇」、「家」のためではなく、教育は子どもたち自身のために行なうべきものとなったのですが、それを今、与党は再び「国家が国家のために行なうもの」に戻そうとしているのです。

■ 「戦争する国」づくりとの連動

 こうした法改定を支持する発言もあります。「愛国心を教えることを否定する国など、日本以外にない。」とは読売の社説ですが、こうした主張は「愛国心」教育を必要とする国の大部分が軍隊を持ち、戦争に国民を動員しなくてはならない国だということを見逃しています。
 いま教育基本法を変えようとする根本的な理由は、正にそこにあるのではないでしょうか。
 一方で憲法を変えて「戦争する国」を作ろうとし、これと連動する形で教育基本法を変えて「戦争する人」を作ることこそ、この教育基本法改定の本質であり、これは国民にとって、特に子どもたちにとって「改悪」であると言わざるを得ません。
 現実に、既に制定された有事法、とりわけ武力攻撃事態国民保護法に基づき、有事、すなわち戦争状態を想定し、千葉県などで小学生をも動員した訓練が行なわれるなど、この「改悪」を先取りした意識付けが行なわれています。
 2002年には福岡市の小学校69校で、通知表の評価項目に「愛国心」を挙げ、子どもたちを競わせようとしました。

■ 「指導者」が「愛国心」を求めるとき

 「愛国心」と言うと私は、ナチスを裁いたニュルンベルグ裁判での、ヘルマン・ゲーリングの言葉を思い出します。有名な言葉ですので、ご存知の方も多いと思いますが、あらためて紹介します。

「もちろん国民は戦争を欲しない。…(中略)…普通の人間たちが戦争を望まないのはあたりまえだ。…(中略)…しかし、結局のところ、政策を決定するのは指導者なのであり、…(中略)…声を上げるか無言かに関わりなくつねに、国民を指導者の命令に服させることができる。容易なことだ。国民には、攻撃を受けていると言ってやり、平和工作者たちは“愛国心”が欠けていて国家を危険にさらしていると非難しさえすればいい。いかなる国でも同様に、これでうまくいく。」

 「9・11テロ」の後の米国の政権を見ても、現在の日本の政権を見ても、全く同じ手法が使われていることに、あらためて戦慄を覚えます。
 国民の自発的な感情ではなく、「指導者」の側が国民に求める「愛国心」とは正にこういうことなのです。

 ゲーリングは、「声を上げるか無言かに関わりなく」と言いましたが、しかし声を上げなければ何も変わりません。私は国民として、親として、声を上げ続けます。
 大切な子どもたちの命を黙って差し出すことなど、絶対に出来ません。