今日28日、教育基本法の改定案が午前に閣議決定され、午後には国会に提出されます。
私は、この改定案の問題点の一部をご紹介し、今の政府・与党が、私たちの子どもたち・孫たち、そしてまだ生まれていない「将来の国民」に、何をさせようとしているのかをご理解いただきたいと思います。
■ 「国民全体に対し直接に責任」を負う教育から、「法律の定めるところによる」教育へ
「国民全体」は子どもたちを含みます。もちろん親も含みます。
子・親、そのどちらにもなったことがない人はいないと思います。
現行の教育基本法は、教育というものを、そのどちらに対しても直接に責任を負うものと定めています。つまり、責任をもって「子どもたちのため」かつ「親たちのため」の教育を行うことを掲げているのです。
今こうした教育を廃止し、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」教育に変えられようとしています。
では、その「法律の定めるところ」の教育、とはどのようなものなのでしょうか。
■ 「伝統と文化を尊重し、・・・我が国と郷土を愛する」
国や郷土は「当たり前」だ、という主張がありました。「当たり前」であれば自由で自発的な意思に任せておけば良いのです。
しかしこれを敢えて条文化することには特別な意味があります。
学校で「国を愛する」ことが求められ、子どもたちの「心」に権力が踏み込もうというのです。
学校で「どの子が、どれだけ愛国的か」が評価・競争の対象となり、画一的な「国への愛」つまり「忠誠」が子どもたちの間で比べられます。
しかも、子どもたちには、その「忠誠」を「態度」で示すことが求められます。
これをはじめ、改悪案を見渡してみると、子どもたちの「心」に踏み込もうとする部分が20箇所以上もあります。
それほど本腰を入れて子どもたちの「心」を支配しようとしているのです。
■ 「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」
一見、「愛国心」は排他的ではない、他国への尊重とバランスを取った、と見える表現です。
戦前も「修身」で「他の国家や民族を軽んずるやうなことをしてはならぬ。」と教えていましたが、実際には「他の国家や民族」に何をしていったか、ご存知の通りです。
ただし、この規定の設置についての、政府・与党、とりわけ自民党の思惑は、もっと別のところにあります。
近年の外交政策はどのようなものだったか思い出して下さい。
「日米関係がうまく行けば全ての国との関係がうまく行く」と小泉首相は言い続けました。
確かに米国との関係はある程度うまく行っているのかもしれませんが、その他の国とは最悪の状態です。
また小泉首相は「国際貢献のため」と言って、自衛隊をインド洋やイラクに派遣しましたが、それは米軍のアフガン戦争の後方支援や、イラク占領政策のための派遣に過ぎませんでした。
つまり、彼らが言う「他国」とは、ほぼ米国に限定されたものと言って良いでしょう。
彼らが推し進めようとする憲法改悪案は、「集団的自衛権」、つまり「他国(米国)との共同作戦権」の行使に主眼が置かれています。
彼らは、「政府のため」だけでなく「米国のために寄与する態度」も、子どもたちに求めようとしているのです。
■ 現行「真理と平和を希求し」から「真理と正義を希求し」へ
一見「平和」を「正義」に置き換えただけに見えるかもしれません。
しかし、この違いはとても大きなものです。
3年ほど前、米国や英国、日本などでは、イラクを攻撃することを首脳が「テロとの戦い」と呼ぶと同時に「正義の戦い」と呼びました。
日本でも多くの人々が、その「正義」にだまされましたが、真実が明らかになるにつれ、その「正義」を本気で信じる人々は、かなり減りました。「真理」は別のところにあったのです。
しかし、ブッシュ大統領やブレア首相、そして小泉首相らが唱えた「正義」によって、「平和」が壊され、計り知れない命が失われたのは、紛れもない事実です。
歴史上のあらゆる侵略戦争は、例外なく「正義」を唱え、国民を駆り立てていきました。
この法案を推進する人々は、「正義」とさえ言えば、進んで自他の「平和」を捨て、破壊することを求める子どもたちを作ろうとしているのです。
■ 「個人の価値をたつとび」から、「公共の精神を尊び」へ
「個人の価値」は、「子どもたち一人一人の価値」です。
子どもたちはもちろん国民には、憲法によって「生命権」をはじめ数十の権利・自由が一人一人に保障されています。
判例などで派生して認められている権利も含めれば、より多くの権利・自由が約束されています。
しかし政府・与党、とりわけ自民党は、その憲法改悪案で、このような権利・自由の全てを「公益」「公共」の下に置いて、まとめて制限してしまおうとしています。
「公益」「公共」は誰が決めるのでしょうか。それは政府です。
彼らが教育現場に求めているのは「君たちの価値、命や権利・自由はどうでもいい。それより政府の利益のための精神を大切にしろ」という教えです。
■ 教育行政は「公正かつ適正に行われなければならない」
一見、問題がないような文言ですが、現行法では「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」という義務が、これに書き換えようというのです。
「公正」「適正」という曖昧な基準は、誰が決めるのでしょうか。これも政府です。
これまで「子どもたちのための教育」の条件を整備するという義務が、国や自治体に課せられていたのが、「政府が決める基準の達成」の義務に変えられようとしているのです。
では、「政府が決める基準」とは何でしょう。
これまで書いてきた、「子どもたちが、国家・政府、そして米国を大切に思い、正義への寄与のために、自分の命や権利を進んで投げ出す教育」に他なりません。
このような教育を行うことが、都道府県・市区町村にまで義務化されようとしているのです。
■ 「国は、…教育に関する施策を策定し、実施」
冒頭、ご紹介したように、今まで教育は、まがりなりにも「国民全体」すなわち「子どもたちのため」でもあり、「親たちのため」でもあるものとして行われてきました。
しかし、これからは「国」が教育に関する「施策」の策定、そして「実施」と介入してくることになるのです。
それがどういう教育か、それは言うまでもなく、これまで書いてきたような「国のため」の教育、つまり「国家主義教育」です。
しかも今度は、この法律(法案)の「お墨付き」を得て「国」が、教育姿勢や、その具体的な内容、教え方にまで「公然と介入してくる」ということを意味しています。
条文に残されることになった「不当な支配に屈すること」がない、という規定は、そもそも教育内容を、国家や権力による「不当な支配」から守ることを意味していましたが、以後は国の「支配」に対して、国民が口を出すことを禁じる規定に変えられていこうとしているのです。
これは、たとえ親でも、国が、自分の子どもたちに対して教えることに、何も言えなくなる、ということを意味しているのです。
しかも、それは学校だけにとどまりません。
■ 「家庭教育」の新設
現行の教育基本法は、国民の負託を受けた教育に関して、その条件整備など国がしなければならいことを定めたものです。これは、子どもたちの「教育を受ける権利」を保障するために設けられた法律です。
しかし、今回の改定案は、国が、子・親を問わず国民の上に立って「こうしなさい」と命令するものです。
国が踏み込もうとする、その領域は「家庭教育」にまで及んでいくことになるのです。
■ この改悪の可否が大きく左右する、子どもたちの「未来」
この改悪が国会を通過すれば、戦後になって子どもたちが初めて手に入れた「自分たちのための教育」を受ける権利は再び奪われてしまいます。
学校は「子どもたちのための教育」から、「国家権力のための教育」の場へと変えられてしまいますし、家庭での教育にまで国が干渉することになります。
与党は、この改悪を特別委員会を設けて、連休明けから国会会期末までの約40日間で、一気に成立させてしまおうとしていますが、私はこのような教育を許す訳にはいきません。
これからの数十日間は、現在・将来の子どもたちの「未来」を大きく左右するものとなります。
私たちが守りたいと願う「子どもたちのための教育」か、政府・与党の権力者が求める「国家のための教育」か、という分岐点と言うことができるでしょう。
どうか、一人でも多くの方々がともに「子どもたちのための教育」を守るため、改悪に反対する声を上げて下さいますよう、心からお願い致します。
私は、この改定案の問題点の一部をご紹介し、今の政府・与党が、私たちの子どもたち・孫たち、そしてまだ生まれていない「将来の国民」に、何をさせようとしているのかをご理解いただきたいと思います。
■ 「国民全体に対し直接に責任」を負う教育から、「法律の定めるところによる」教育へ
「国民全体」は子どもたちを含みます。もちろん親も含みます。
子・親、そのどちらにもなったことがない人はいないと思います。
現行の教育基本法は、教育というものを、そのどちらに対しても直接に責任を負うものと定めています。つまり、責任をもって「子どもたちのため」かつ「親たちのため」の教育を行うことを掲げているのです。
今こうした教育を廃止し、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」教育に変えられようとしています。
では、その「法律の定めるところ」の教育、とはどのようなものなのでしょうか。
■ 「伝統と文化を尊重し、・・・我が国と郷土を愛する」
国や郷土は「当たり前」だ、という主張がありました。「当たり前」であれば自由で自発的な意思に任せておけば良いのです。
しかしこれを敢えて条文化することには特別な意味があります。
学校で「国を愛する」ことが求められ、子どもたちの「心」に権力が踏み込もうというのです。
学校で「どの子が、どれだけ愛国的か」が評価・競争の対象となり、画一的な「国への愛」つまり「忠誠」が子どもたちの間で比べられます。
しかも、子どもたちには、その「忠誠」を「態度」で示すことが求められます。
これをはじめ、改悪案を見渡してみると、子どもたちの「心」に踏み込もうとする部分が20箇所以上もあります。
それほど本腰を入れて子どもたちの「心」を支配しようとしているのです。
■ 「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」
一見、「愛国心」は排他的ではない、他国への尊重とバランスを取った、と見える表現です。
戦前も「修身」で「他の国家や民族を軽んずるやうなことをしてはならぬ。」と教えていましたが、実際には「他の国家や民族」に何をしていったか、ご存知の通りです。
ただし、この規定の設置についての、政府・与党、とりわけ自民党の思惑は、もっと別のところにあります。
近年の外交政策はどのようなものだったか思い出して下さい。
「日米関係がうまく行けば全ての国との関係がうまく行く」と小泉首相は言い続けました。
確かに米国との関係はある程度うまく行っているのかもしれませんが、その他の国とは最悪の状態です。
また小泉首相は「国際貢献のため」と言って、自衛隊をインド洋やイラクに派遣しましたが、それは米軍のアフガン戦争の後方支援や、イラク占領政策のための派遣に過ぎませんでした。
つまり、彼らが言う「他国」とは、ほぼ米国に限定されたものと言って良いでしょう。
彼らが推し進めようとする憲法改悪案は、「集団的自衛権」、つまり「他国(米国)との共同作戦権」の行使に主眼が置かれています。
彼らは、「政府のため」だけでなく「米国のために寄与する態度」も、子どもたちに求めようとしているのです。
■ 現行「真理と平和を希求し」から「真理と正義を希求し」へ
一見「平和」を「正義」に置き換えただけに見えるかもしれません。
しかし、この違いはとても大きなものです。
3年ほど前、米国や英国、日本などでは、イラクを攻撃することを首脳が「テロとの戦い」と呼ぶと同時に「正義の戦い」と呼びました。
日本でも多くの人々が、その「正義」にだまされましたが、真実が明らかになるにつれ、その「正義」を本気で信じる人々は、かなり減りました。「真理」は別のところにあったのです。
しかし、ブッシュ大統領やブレア首相、そして小泉首相らが唱えた「正義」によって、「平和」が壊され、計り知れない命が失われたのは、紛れもない事実です。
歴史上のあらゆる侵略戦争は、例外なく「正義」を唱え、国民を駆り立てていきました。
この法案を推進する人々は、「正義」とさえ言えば、進んで自他の「平和」を捨て、破壊することを求める子どもたちを作ろうとしているのです。
■ 「個人の価値をたつとび」から、「公共の精神を尊び」へ
「個人の価値」は、「子どもたち一人一人の価値」です。
子どもたちはもちろん国民には、憲法によって「生命権」をはじめ数十の権利・自由が一人一人に保障されています。
判例などで派生して認められている権利も含めれば、より多くの権利・自由が約束されています。
しかし政府・与党、とりわけ自民党は、その憲法改悪案で、このような権利・自由の全てを「公益」「公共」の下に置いて、まとめて制限してしまおうとしています。
「公益」「公共」は誰が決めるのでしょうか。それは政府です。
彼らが教育現場に求めているのは「君たちの価値、命や権利・自由はどうでもいい。それより政府の利益のための精神を大切にしろ」という教えです。
■ 教育行政は「公正かつ適正に行われなければならない」
一見、問題がないような文言ですが、現行法では「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」という義務が、これに書き換えようというのです。
「公正」「適正」という曖昧な基準は、誰が決めるのでしょうか。これも政府です。
これまで「子どもたちのための教育」の条件を整備するという義務が、国や自治体に課せられていたのが、「政府が決める基準の達成」の義務に変えられようとしているのです。
では、「政府が決める基準」とは何でしょう。
これまで書いてきた、「子どもたちが、国家・政府、そして米国を大切に思い、正義への寄与のために、自分の命や権利を進んで投げ出す教育」に他なりません。
このような教育を行うことが、都道府県・市区町村にまで義務化されようとしているのです。
■ 「国は、…教育に関する施策を策定し、実施」
冒頭、ご紹介したように、今まで教育は、まがりなりにも「国民全体」すなわち「子どもたちのため」でもあり、「親たちのため」でもあるものとして行われてきました。
しかし、これからは「国」が教育に関する「施策」の策定、そして「実施」と介入してくることになるのです。
それがどういう教育か、それは言うまでもなく、これまで書いてきたような「国のため」の教育、つまり「国家主義教育」です。
しかも今度は、この法律(法案)の「お墨付き」を得て「国」が、教育姿勢や、その具体的な内容、教え方にまで「公然と介入してくる」ということを意味しています。
条文に残されることになった「不当な支配に屈すること」がない、という規定は、そもそも教育内容を、国家や権力による「不当な支配」から守ることを意味していましたが、以後は国の「支配」に対して、国民が口を出すことを禁じる規定に変えられていこうとしているのです。
これは、たとえ親でも、国が、自分の子どもたちに対して教えることに、何も言えなくなる、ということを意味しているのです。
しかも、それは学校だけにとどまりません。
■ 「家庭教育」の新設
現行の教育基本法は、国民の負託を受けた教育に関して、その条件整備など国がしなければならいことを定めたものです。これは、子どもたちの「教育を受ける権利」を保障するために設けられた法律です。
しかし、今回の改定案は、国が、子・親を問わず国民の上に立って「こうしなさい」と命令するものです。
国が踏み込もうとする、その領域は「家庭教育」にまで及んでいくことになるのです。
■ この改悪の可否が大きく左右する、子どもたちの「未来」
この改悪が国会を通過すれば、戦後になって子どもたちが初めて手に入れた「自分たちのための教育」を受ける権利は再び奪われてしまいます。
学校は「子どもたちのための教育」から、「国家権力のための教育」の場へと変えられてしまいますし、家庭での教育にまで国が干渉することになります。
与党は、この改悪を特別委員会を設けて、連休明けから国会会期末までの約40日間で、一気に成立させてしまおうとしていますが、私はこのような教育を許す訳にはいきません。
これからの数十日間は、現在・将来の子どもたちの「未来」を大きく左右するものとなります。
私たちが守りたいと願う「子どもたちのための教育」か、政府・与党の権力者が求める「国家のための教育」か、という分岐点と言うことができるでしょう。
どうか、一人でも多くの方々がともに「子どもたちのための教育」を守るため、改悪に反対する声を上げて下さいますよう、心からお願い致します。