恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

北朝鮮の「核実験」と自民党の「先制攻撃論」

2009年05月27日 | 外交・国際
■ 断じて容認できない「核実験」

 北朝鮮は25日に地下核実験を強行しました。
 その後も、国際的な非難の声をよそに、短距離ミサイルの発射を続けています。
 世界的な核廃絶の流れに逆行し、なお国際社会を挑発する北朝鮮の行為には一分の理も認められず、断じて容認できるものではありません。
 国連安保理も、追加の「制裁」措置を含む新たな決議の採択を目指すとしていますが、それは必要だと思います。

■ 「日米韓」と「6カ国協議」

 さて、問題はその「決議」の後です。
 国際社会の課題としては、どのようにして北朝鮮の核開発やミサイル計画を止めるのか、という一定の方針が必要になってきます。
 そこで気になるのは各国の「足並み」の乱れです。
 日本、米国、韓国は、25~26日にかけて相次いで電話会談を行ない、「日米韓の連携強化」を確認しています。
 一方、中国やロシアは、北朝鮮を「6カ国協議」に引き戻したい考えを示しています。
 もちろん、日米韓3カ国も、この「6カ国協議」を否定しているわけではありませんので、厳密には「日米韓」なのか「6カ国」なのか、という二律背反ではありませんが、いずれにせよこの5カ国による意思統一は絶対に必要だと思います。

■ 「結束」して対応を

 思えば、これまでの失敗の原因は、この「意思統一」や「結束」を欠いたことにありました。
 かつてのブッシュ政権下で、米国が「単独行動主義」「先制攻撃論」を掲げたことは、北朝鮮に「自衛のため」という軍拡の理由を与えただけでした。
 また、日本が行ってきた「独自制裁」強化は、もともと日朝関係が冷え切っていただけに効果は極めて限定的でしたし、北朝鮮に交渉を蹴る口実を与えました。
 さらに、こうした動きは、米国の軍事力に警戒感を抱く中国やロシアを、いっそう北朝鮮の側へ向かわせる「逆効果」をもたらしました。
 北朝鮮の「暴発」を止め、「ヒト・モノ・カネ」の動きを止めるためには、今も北朝鮮に少なからず影響力を持つ中国やロシアとの「結束」も保たなければなりません。
 あくまでも「5カ国が固く結束して対応していく」という姿勢を見せていかなければ、北朝鮮を抑えることなはできないと思います。
 だからこそ、26~27日に衆参両院において全会一致で採択された「抗議決議」では、「国際社会の理解と協力を得つつ、外交努力を倍加すべきである」と述べられているのでしょう。

■ 「先制攻撃論」を掲げる浅ましさ

 ところが自民党は、この機に「防衛計画大綱」に「敵基地攻撃能力」という、言わば「先制攻撃論」を盛り込もうと騒いでいます。
 これについて麻生首相も「法理上は攻撃できる」と肯定的な発言をしていますが、こうした言動は、北朝鮮のさらなる動きへの「口実」を与えるでしょうし、他の国々からも警戒感を持たれ「国際社会」の「結束」を乱すということも考えなければなりません。今回の問題解決には正に「逆効果」ばかりです。
 さらには、前述の「外交努力を倍加すべき」という「抗議決議」の趣旨さえ踏みにじる行為であり、この「抗議決議」に賛成しながらこのような行動を取る自民党の「二枚舌」には、あきれるばかりです。
 このように、機会あるごとに「戦争する国」づくりを行おうとする自民党の浅ましさは、難癖をつけては核実験やミサイル実験を行ってきた北朝鮮と酷似しています。

■ 「共同声明」に立ち返れ

 さて4年前、「6カ国協議」の「共同声明」には、次のような合意が盛り込まれました。

 「六者は、北東アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力を約束した。」
 「直接の当事者は、適当な話合いの場で、朝鮮半島における恒久的な平和体制について協議する。」
 「六者は、北東アジア地域における安全保障面の協力を促進するための方策について探求していくことに合意した。」
 今は各国がこの「共同声明」に立ち返るときです。

 「先制攻撃論」が、「平和と安定のための共同の努力」でしょうか。ブッシュ政権の失敗を忘れてはなりません。
 「先制攻撃論」が、「恒久的な平和体制」や、「六者」による「安全保障面の協力を促進するための方策」でしょうか。北東アジアに新たな緊張と対立を作り出し、ますます「一触即発」の危険をもたらすだけです。

 もちろん、この「共同声明」に違反する行為を行ったのは北朝鮮ですが、その北朝鮮を「6カ国協議」に引きずり戻さなければ解決はあり得ません。
 そのときに、日本も北朝鮮と同じように「共同声明」を踏みにじり、「先制攻撃論」のような「軽挙妄動」に走れば、それこそ北朝鮮の「思う壺」だということを忘れてはならないと思います。

「二大政党」よ、その見苦しい政治姿勢を改めよ

2009年05月11日 | 国会・政党・選挙
 民主党の小沢一郎代表が11日、代表辞任を表明しました。
 民主党内でも、次期総選挙を「小沢代表では闘えない」という声が高まり、小沢氏は「挙党一致をより堅固に」するため、身を引くというのです。
 民主党議員は困惑しながらも内心ホッとしているようですが、私はこのような民主党に強い違和感をおぼえます。

■ 「泣き言」「無節操」「権力闘争」

 そもそも「小沢代表では闘えない」という言葉など、候補者たちの「泣き言」に過ぎません。
 少なくとも小沢氏の秘書が逮捕されるまで、自分の選挙区に小沢氏が来るといえば大喜びしていた人々が、今さら何を言っているのでしょうか。
 投票用紙に「小沢」と書くのは1選挙区の話であり、他の299選挙区で書いてもらうのは、あくまで自分の名前です。
 「小沢氏は嫌いだが、あなたには期待する」と言われるだけの人物になれば良いだけの話です。
 さらに、自分たちが選んだ代表に「NO」を突き付けるのであれば、それなりの場できちんと行うべきです。
 小沢氏の秘書逮捕から3週間後に開かれた緊急幹部会で、小沢氏が代表続投を表明したときは誰も反対せず、その後の両院議員による会合でも異論を唱えたのはわずか1人だけでした。
 幹部会、両院議員会の場で、ほぼ「挙党一致」で「続投」支持だった人々が、舌の根も乾かぬうちに声高に辞任を求めるなど、その「無節操」さにあきれるばかりです。
 まして、かつての「偽メール問題」で失脚した前原氏や野田氏らのグループの復権を狙った「権力闘争」の見苦しさには、吐き気さえおぼえます。

■ 民主党と自民党

 思えば、長く似たようなことをやってきた政党がありました。
 自民党です。
 最近だけを見ても、07年9月に福田康夫氏を総裁に担ぎ出しておきながら、すぐに「福田では闘えない」と「泣き言」をこぼし、福田政権の「投げ出し」を誘って、今度は福田氏に敗れた麻生太郎氏を担ぎ出し、つい先日まで「麻生では闘えない」として「麻生おろし」の大合唱でした。かと思えば、小沢氏の問題が起きた途端、その大合唱はピタリと止まるという「無節操」ぶりです。
 その間も、福田氏の前に政権を投げ出した安倍晋三氏がその復権を狙って活動したり、その前の小泉純一郎氏に近い人々が小泉氏の復活を模索したり、小池百合子氏らを担ぎ出そうとしたりと、慌ただしい「権力闘争」に明け暮れてきました。
 「権力」に近づいた民主党が、このような自民党に似てきたことを、つくづく実感させられます。

■ 「五十歩百歩」

 「選挙目当ての寄り合い所帯」「選挙互助会」という表現がある民主党も所詮、自民党同様、「国民」よりも「自分の権力」志向が優先される人々の集団なのでしょう。
 このような「二大政党」が多数を占めているからこそ、国民の「政治不信」や「政治離れ」が進んでいる、と言われるのではないでしょうか。
 思えば、麻生政権が発足した直後、読売新聞社と早稲田大学が共同で行った世論調査(10月4~5日)の結果の中には、次の結果がありました。

 これまでの、「自民党に満足」20%、「民主党に満足」17%
 これからの、「自民党に不安」82%、「民主党に不安」75%

 正に「五十歩百歩」です。
 この「二大政党」の内からどちらかを選べ、というのは国民にとって、あまりにも「酷」な話です。

■ 「自分」より「権力」より「国民」を見よ

 日本国憲法の前文には、こうあります。
 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」

 8割前後の国民が「不安」を感じる「二大政党」に、「国民の厳粛な信託」はあるでしょうか。
 「自分たちの権力」ばかりを志向する「二大政党」に、「(国政の)権威が国民に由来し」という意識はあるでしょうか。
 「政治を金で買う」問題ばかりを引き起こし、一部のお金持ちや大企業の利益ばかりを優先させていると言われる「二大政党」に、「(国政の)福利は国民がこれを享受する」という意識はあるのでしょうか。

 前文は、「これは人類普遍の原理」だと説いています。
 この「二大政党」に対し、この「人類普遍の原理」を読み直し、「その見苦しい政治姿勢を改めよ」、そして「国民を見よ」と求めるのは、「酷」なことなのでしょうか。

「無法者」から守り抜くべき日本国憲法という「砦」

2009年05月03日 | 憲法
 日本国憲法が施行されてから62年、今年も憲法記念日がめぐってきました。
 新聞・テレビなど多くのメディアが憲法について取り上げ、各地でも、憲法をめぐる様々なイベントや取り組みが行われました。
 私も地元での取り組みに参加した一人ですが、そこでふと思ったことがありました。
 「彼ら」は何をしているのだろう、と。

■ 憲法を邪魔者扱いする「権力」

 憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と定めています。
 「この憲法を尊重し擁護する義務」を負っている「彼ら」が、この憲法記念日に何をしているのか全く見えてこなかったのです。

 「法律は国民を縛るもの。憲法とは国民を守るために権力を縛るもの。」

 これが近代以後の「憲法」の位置づけを最も的確に表現した言葉だと思いますし、99条もその証ですが、その「尊重擁護義務」を負っている側が、この憲法記念日に「何もしない」のです。
 「権力」の側は、それほど自分たちを縛る「憲法」が邪魔なのでしょう。

■ 「最高法規」すら守らぬ「無法者」

 しかも、これは露骨な行動となって表れています。
 この憲法記念日、多くの自民党や一部の民主党の議員などは、「この憲法」を否定する立場で行動していたのです。
 「権力」を預かる与党議員、「権力」を預かろうとする一部の野党議員が、国内の「最高法規」によって自らに課せられた「義務」さえ遵守できないような「恥ずかしい」有様です。
 国の「最高法規」さえ守れないような人々は「無法者」と呼ばざるを得ませんが、そのような「無法者」が定めようとする「新憲法」とは、一体どのようなものなのでしょうか。果たして「憲法とは国民を守るために権力を縛るもの」という「最低条件」を満たすようなものなのでしょうか。

 そのような「無法者」や、憲法を「邪魔者」扱いする「権力」が牽引するような「改憲論」に、そのような期待が持てないことは、火を見るより明らかです。

■ 「無法者」による「開き直り」

 「憲法は現実に合わない。」
 これは彼らの常套句ですが、「冗談ではない」と言いたくなります。
 「現実」が示すものとは、「権力」が憲法を守ってこなかったという、「恥ずかしい」実態だけではありませんか。

 9条は「解釈改憲」が続けられ、自衛隊が作られ、その自衛隊にしても「専守防衛のための実力組織」だったはずが、日本の領土を「ほったらかし」にしてまで、中東やアフリカにまで送り出される始末です。

 「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 」という25条の規定が守られていれば、「高齢者切捨て」「障害者切捨て」「医療切捨て」「公害被害者切捨て」などは起こりえなかったはずですし、「ワーキングプア」など「貧困」の問題もかなり解消されていたことでしょう。

 「憲法が現実に合わない」などという主張は、「無法者」に「権力」を預け過ぎ、その「無法者」たちが好き勝手を続けた挙句、「開き直っている」だけではありませんか。

■ 憲法という「砦」を子どもたちに引き継ごう

 このような「無法者たち」の「開き直り」を許さず、「憲法とは国民を守るために権力を縛るもの」という近代憲法の原点に立ち返ることこそ、いま何よりも重要なことだと思います。

 私には自由があります。権利があります。誰かを殺すことも、また死ぬことも強制されませんでした。まだ自分自身が「生きる」という主張もできます。このように何とか「権力」「無法者」に蹂躙されない人生をおくることができたのは、ひとえに「無法者たち」の「開き直り」を許さなかった先人たちのおかげです。

 その「砦」を「無法者たち」に、やすやすと明け渡すことはできません。

 憲法という私たちの「砦」を「無法者」たちから守りぬき、次の世代である子どもたちに引き継ぐことこそ、いまを生きる私の使命だと考えます。
 その使命のために今後も力を尽くすことをお誓いし、今年の憲法記念日にあたっての私の決意と致します。