■ 「遺志」
アフガニスタンで住民への支援活動を続けてきたNGO「ペシャワール会」の伊藤和也さんの死亡が確認されたのは、今月27日のことでした。
翌28日、福田首相はメールマガジンで「(紛争や貧困に苦しむ)地域や人たちに少しでも手を差しのべていくことが、伊藤さんの遺志にもこたえ、平和協力国家としての日本の役割でもあります」と述べました。この一文に関しては、私も同感です。
しかし政府が、本当に「伊藤さんの遺志」に応えようとしているとは全く思えません。
同じ日、町村官房長官は「尊い犠牲が出たが、テロとの戦いに積極的にコミットする重要性を多くの国民が感じたのではないか」と語りました。
「テロとの戦い」は、7年前に米国と英国がアフガニスタンへの攻撃を開始して以来、米国が主導する戦争の看板として使われてきた言葉です。とりわけアフガニスタンやイラクでは、その名の下に、子どもたちや女性を含む多くの一般市民が殺されてきました。
政府や与党は、際限なく繰り返されるこのような殺戮に加担し続けることが、「伊藤さんの遺志」にこたえることだと思っているのでしょうか。もしそうだとすれば、これほど愚かな誤解はありませんが、もちろん町村氏がそこまで愚かだとも思いません。
■ 「テロの根」「テロの芽」
アフガニスタンでは、あれだけ叩きのめされたはずのタリバンが勢力を盛り返し、戦闘の激化と泥沼化が伝えられています。
米国などが叫ぶ「テロとの戦い」は、テロを根絶するどころか、「飢餓」や「貧困」という根をはびこらせ、「憎悪」という養分を注ぎ、「狂気」という芽をふくらませ、新たなテロリストを育て続けてきたのです。
例えば今回、伊藤さんを「我々が撃った」と供述している男性は24歳です。米国が戦争を始めた7年前は、17歳の少年でした。果たして彼はその以前から「テロリスト」だったのでしょうか。家族など周囲の人間を殺され、その憎悪によってテロ組織に身を投じていく人々の存在については、何度も報じられてきた通りです。
今回の事件で示されたように、彼らの憎悪は、米国や英国の人々だけでなく全ての国々、全ての外国人に向けられています。こうした憎悪こそ、世界中にテロを拡散させた大きな要因ではなかったでしょうか。
■ テロ「根絶」の努力と「笑顔」
伊藤さんや「ペシャワール会」をはじめ多くの団体こそ、本当にテロを根絶するために力を尽くしてきました。しかし、その「戦い」は決して武力によるものではなく、テロを生み出してきた飢餓や貧困、憎悪をなくそうという努力でした。
さらに翌30日、朝日新聞が伊藤さんが現地で撮影した写真を公開しました。そこには、眩しいほどのアフガニスタンの子どもたちの笑顔がありました。
伊藤さんたちの活動の成果だけでなく、現地の人々に心から受け入れられてきたからこそ、彼らは伊藤さんのカメラの前で笑顔を見せたに違いありません。
「戦乱の十字路」と呼ばれるほど、他国からの干渉と侵略を受け続けてきたアフガニスタンの人々に、伊藤さんたちの活動は、正に国境や民族の垣根を越えた喜びや笑顔をもたらしたのです。
■ 「戦争協力国家」
伊藤さんたちは、放って置けばテロ組織に身を投じるかもしれない人々に、その暮らしと心を豊かにすることで、テロの芽を摘もうとしたのです。テロの根を絶とうとしたのです。
その伊藤さんが亡くなられたことが本当に悔やまれてなりませんし、この犯行に対して心から憤りを感じます。
しかし、その憤りを利用して、戦争の首謀者である米国に協力し続けることが「平和協力国家」のすることでしょうか。「伊藤さんの遺志」にこたえることでしょうか。
政府が、「尊い犠牲」と言いながらその死を利用し、まだ殺戮に加担する「戦争協力国家」であり続けようとするなら、それは「伊藤さんの遺志」にこたえるどころか、踏みにじる行為に他なりません。
私は、そのような卑劣な詐術を用いる日本政府を心から恥ずかしく思いますし、そのような政府が、国民の意思を反映した存在だとは全く思いません。
アフガニスタンで住民への支援活動を続けてきたNGO「ペシャワール会」の伊藤和也さんの死亡が確認されたのは、今月27日のことでした。
翌28日、福田首相はメールマガジンで「(紛争や貧困に苦しむ)地域や人たちに少しでも手を差しのべていくことが、伊藤さんの遺志にもこたえ、平和協力国家としての日本の役割でもあります」と述べました。この一文に関しては、私も同感です。
しかし政府が、本当に「伊藤さんの遺志」に応えようとしているとは全く思えません。
同じ日、町村官房長官は「尊い犠牲が出たが、テロとの戦いに積極的にコミットする重要性を多くの国民が感じたのではないか」と語りました。
「テロとの戦い」は、7年前に米国と英国がアフガニスタンへの攻撃を開始して以来、米国が主導する戦争の看板として使われてきた言葉です。とりわけアフガニスタンやイラクでは、その名の下に、子どもたちや女性を含む多くの一般市民が殺されてきました。
政府や与党は、際限なく繰り返されるこのような殺戮に加担し続けることが、「伊藤さんの遺志」にこたえることだと思っているのでしょうか。もしそうだとすれば、これほど愚かな誤解はありませんが、もちろん町村氏がそこまで愚かだとも思いません。
■ 「テロの根」「テロの芽」
アフガニスタンでは、あれだけ叩きのめされたはずのタリバンが勢力を盛り返し、戦闘の激化と泥沼化が伝えられています。
米国などが叫ぶ「テロとの戦い」は、テロを根絶するどころか、「飢餓」や「貧困」という根をはびこらせ、「憎悪」という養分を注ぎ、「狂気」という芽をふくらませ、新たなテロリストを育て続けてきたのです。
例えば今回、伊藤さんを「我々が撃った」と供述している男性は24歳です。米国が戦争を始めた7年前は、17歳の少年でした。果たして彼はその以前から「テロリスト」だったのでしょうか。家族など周囲の人間を殺され、その憎悪によってテロ組織に身を投じていく人々の存在については、何度も報じられてきた通りです。
今回の事件で示されたように、彼らの憎悪は、米国や英国の人々だけでなく全ての国々、全ての外国人に向けられています。こうした憎悪こそ、世界中にテロを拡散させた大きな要因ではなかったでしょうか。
■ テロ「根絶」の努力と「笑顔」
伊藤さんや「ペシャワール会」をはじめ多くの団体こそ、本当にテロを根絶するために力を尽くしてきました。しかし、その「戦い」は決して武力によるものではなく、テロを生み出してきた飢餓や貧困、憎悪をなくそうという努力でした。
さらに翌30日、朝日新聞が伊藤さんが現地で撮影した写真を公開しました。そこには、眩しいほどのアフガニスタンの子どもたちの笑顔がありました。
伊藤さんたちの活動の成果だけでなく、現地の人々に心から受け入れられてきたからこそ、彼らは伊藤さんのカメラの前で笑顔を見せたに違いありません。
「戦乱の十字路」と呼ばれるほど、他国からの干渉と侵略を受け続けてきたアフガニスタンの人々に、伊藤さんたちの活動は、正に国境や民族の垣根を越えた喜びや笑顔をもたらしたのです。
■ 「戦争協力国家」
伊藤さんたちは、放って置けばテロ組織に身を投じるかもしれない人々に、その暮らしと心を豊かにすることで、テロの芽を摘もうとしたのです。テロの根を絶とうとしたのです。
その伊藤さんが亡くなられたことが本当に悔やまれてなりませんし、この犯行に対して心から憤りを感じます。
しかし、その憤りを利用して、戦争の首謀者である米国に協力し続けることが「平和協力国家」のすることでしょうか。「伊藤さんの遺志」にこたえることでしょうか。
政府が、「尊い犠牲」と言いながらその死を利用し、まだ殺戮に加担する「戦争協力国家」であり続けようとするなら、それは「伊藤さんの遺志」にこたえるどころか、踏みにじる行為に他なりません。
私は、そのような卑劣な詐術を用いる日本政府を心から恥ずかしく思いますし、そのような政府が、国民の意思を反映した存在だとは全く思いません。