恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

「従属」に走る新政権

2010年06月06日 | 外交・国際
■ 「期待」

 菅直人氏の首班指名後、新政権への期待が高まっているようです。
 共同通信の世論調査でも、菅氏に「期待する」が57.6%、約20%だった民主党の支持率も36%まで上昇しています。
 この「首相交代」劇は、「新し物好き」と言われる日本の国民性もあってか、かなりの政権浮揚効果をもたらしたようです。
 一方、「期待しない」は37.2%ありました。きっと私は、その中に入るでしょう。

■ 「発端」

 そもそも鳩山首相の辞任の「発端」は、何だったでしょうか。
 米軍普天間基地の移設問題で、「地元」「連立与党」「米国」との合意を条件にしていたにもかかわらず、「基地はいらない」という沖縄や徳之島の声、さらには「国外移設」を追求してきた連立与党・社民党の思いを無視して、米国との協議だけを優先し「辺野古」移設を盛り込んだ「日米共同声明」を結んだことが最大の原因でした。
 そして、最後は「米国言いなり」になって再び「辺野古」への基地の押し付けを強行する鳩山首相の姿勢に、社民党が反発して連立政権から離脱し、国会運営に行き詰まったのです。
 では、菅氏はどうでしょう。

■ 「ポチ」

 菅氏は首班指名からわずか1日半後の6日未明、首相官邸で米国のオバマ大統領と約15分間の電話会談を行いました。
 その中で菅氏は、鳩山首相辞任の発端となった「日米共同声明」について、その「順守」を約束したのです。
 つまり、基地や訓練を押し付けられる沖縄や徳之島の人々が、「絶対に受け容れられない」と言っている内容を、全く見直すことなく「押し付ける」ことを米国に約束したのです。これで、鳩山首相と何が違うと言うのでしょうか。
 かつての小泉純一郎氏に代表される「米国言いなり」「従属」的な外交姿勢は、飼い主に忠実な飼い犬に例えて「ポチ外交」と呼ばれていますが、鳩山首相・菅氏とも、それに勝るとも劣らぬ「ポチ」ぶりです。

■ 「越権」

 さて、衆参両院の首班指名を受け、首相官邸から電話会談を行ったとはいえ、菅氏はこの時点では、日本の「内閣総理大臣」ではありません。
 日本国憲法6条を読めば分かりますが、「国会の指名」に基づいて「内閣総理大臣」を任命するのは「天皇」です。その任命を受けるのは8日の予定であり、彼は6日の時点では「任命権者」である「天皇」から、任命されていません。正確に言えば、菅氏が任命を受けるまでは鳩山内閣は存続しているのです。
 まだ「内閣総理大臣」にも任命されていない菅氏が、一体どのような権限で、首相官邸を使って、日本の他国の首脳と外交的な約束をする権限があると言うのでしょうか。
 確かに、鳩山内閣の「副総理」「財務大臣」という肩書きはありますが、その役職にこれほどの外交上の権限があるでしょうか。
 
 米国の「ポチ」に徹するあまりとはいえ、日本国憲法も「天皇」の任命権も無視するとは、「越権行為」も甚だしい、菅氏の行動に対してそう言わざるを得ません。

■ 「留任」

 そんな「菅内閣」の閣僚の布陣が少しずつ明らかになっています。
 前述の通り、鳩山内閣の「致命傷」となったのは普天間基地移設問題ですが、その「日米共同声明」を結んできた岡田克也外務大臣・北沢俊美防衛大臣など、この問題の「A級戦犯」が、そのまま「留任」の方向です。
 さすがに、首相の「女房役」と言われる「官房長官」は、「超A級戦犯」である平野博文氏ではなく、菅氏に近い仙石由人氏が就任するようですが、外相・防衛相に岡田氏・北沢氏を選ぶようでは、菅氏は「日米共同声明」の「押し付け」を続けるだけの存在です。

■ 「卑怯」

 私は以前、「菅直人」についての人物評を、「公安」警察官僚出身で初代の内閣安全保障室長を務めた佐々淳行氏から聞いたことがあります。
 「70年安保」の、東京工業大学の「闘士」たちの指導者だった菅氏は、いつも「4列目」から指揮を執っていたことから「4列目の男」と仇名されていたそうです。
 その理由を佐々氏は、こう教えてくれました。

 「前列から3人目までは『盾』や『棍棒』で撲るし、安全靴で蹴り倒して踏みつけて逮捕する。そのギリギリ手前の自分の身の安全だけは確保できるところに、いつも菅直人がいた。だから彼は『逮捕歴ゼロ』だった。彼が『扇動』した仲間が痛めつけられ、逮捕されていくのを見ているだけ。いつも菅は卑怯な指導者だった…」

■ 「交差」

 もちろん「諜報」や「扇動」をも行う「公安」出身の人物の言葉ですから、、この佐々氏の言葉をそのまま信じるほど愚かではないつもりですが、今回の彼の行動にはある意味、佐々氏の人物評が当てはまる気がしないでもありません。

 彼が「指導」してきた「安保闘争」の仲間である人々への「裏切り」は、沖縄・徳之島の人々への「裏切り」と交差します。彼が否定していた「日米安保」の矛盾の多くがいま、その地に集中しているのです。
 それを、「越権行為」に及んでまで米国に「忠誠」を誓い、歴代自民党政権や鳩山政権に続いて住民の思いを踏みにじり、まだ「負担」を押し付けようとしているのです。

■ 「反菅」

 要するに、あの「安保闘争」を闘った菅直人氏は、自分の前の「1列目」に沖縄を置き、「2列目」に徳之島を置き、「3列目」に政府や国民を置き、自分は相変わらず「4列目」にいるのです。
 向こうに回すのは、あの頃と同じ米国ですが、まだ正式に「内閣総理大臣」になる前に首相官邸から公然と米国に「忠誠」を誓うところなど、単なる「変節漢」の域を超えています。

 正式な発足の前ではありますが、このような「従属」的な菅政権を、私は真っ向から「否定」させて頂きます。

社民党の兵法

2010年06月02日 | 国会・政党・選挙
 鳩山首相が2日、辞意を表明しました。
 その裏側で何が起きていたのか、その流れを考えるとき、私は軍事ジャーナリストの神浦元彰氏が昨年暮れに書いておられた文章を思い出していました。

■ 「社民党切り」

 「今、自民党議員に対して地下で民主党からの切り崩しが進んでいるという。…それらを民主党が取り込めば社民党との連立は必要がないという考えだ。」
 「社民党は小沢幹事長の自民党切り崩し手腕の凄さを理解すべきだ。来年の参議選で民主党単独過半数獲得も十分に可能性がある。自民党が切り崩されて民主党に加わるからだ。」

 さらに神浦氏は、12月24日付けの自衛隊機関紙「朝雲新聞」の、「田村(耕太郎参院)議員の自民党離党で、来年夏の参院選を待たなくても、民主党が社民党を切れる可能性がでてきた」という記事を引用して、「戦国時代の日本史で、敵を切り崩すことが最善の勝つ戦術であった。社民党は孫子に学ばなくてはならない。」と説いていました。
 (以上引用 http://www.kamiura.com/whatsnew/continues_271.html)
 
 そしていま、全く逆のことが起きています。

■ 米国内の「切り崩し」

 確かに、神浦氏や「朝雲」の主張どおり、民主党は参院選前に社民党を切りました。
 神浦氏や自衛隊の期待どおり、日米合意を優先させ、社民党や沖縄県民を裏切ったのです。
 しかし、神浦氏が説いた「切り崩し」は、社民党の方が一枚上でした。

 「国外移設」を追求してきた社民党は、米国への「切り崩し」から始めました。
 米自治領の北マリアナ諸島では知事もテニアン市長も、単なる基地移転の歓迎ではなく「ぜひ誘致したい」と表明しました。議会は上下両院で「誘致決議」を採択しました。

■ 民主党内の「切り崩し」

 この「テニアン移設」案が、単なる「夢物語」ではないと現実味や説得力を強める中、鳩山内閣は「辺野古」移設を盛り込んだ「日米共同声明」を結び、その政府方針の閣議決定を行おうとしましたが、これに対し与党内から180名が「テニアン」を例示して、「国外移設を追及すべき」という声明文を、内閣に突きつけました。
 与党議員が「反旗」を翻す180名は、社民党議員の15倍の人数ですが、これはわずか数日で集まりました。既に民主党内にも「切り崩し」が進んでいたのです。

■ 参議院の「切り崩し」

 さらに、連立を離脱した社民党は、参議院の民主党への「切り崩し」に取り掛かりました。
 まず、あえて「選挙協力」の可能性に含みを持たせることで、「逆風」に喘ぐ改選議員を動揺させました。

 加えて、鳩山内閣への不信任・問責の決議案に「賛成」する意向を表明することで、内閣を揺さぶりました。参議院で首相に対する問責決議案が提出されれば、わずか数名の「造反」で通ります。その動揺を衆議院に持ち込めば、民主党が圧倒的多数を占める衆議院でも、不信任決議案が通る可能性は十分にありました。

■ 国民新党の「切り崩し」

 また、鳩山内閣は社民党の福島党首を「罷免」した日、同じ連立パートナーである国民新党に対しては、彼らの「一丁目一番地」である郵政改革法案を、わずか1日の審議で採決を強行しました。
 しかし、この法案は参議院の総務委員会で審議中です。25名の委員のうち民主・国民新の会派は12名、社民は1名です。社民党が他党と結束して反対すれば委員会で否決されますし、欠席すれば委員会そのものが成立しなくなります。
 「切り崩し」は、民主・国民新両党との関係にも及んでいたのです。

 もう既に「切られた」側の社民党の「切り崩し」は、「切った」側の鳩山内閣を、そこまで追い詰めていたのです。

■ 「社民党の兵法」

 さて、冒頭ご紹介した通り、神浦氏は「社民党は小沢幹事長の自民党切り崩し手腕の凄さを理解すべきだ」と説き、さらに「戦国時代の日本史で、敵を切り崩すことが最善の勝つ戦術であった。社民党は孫子に学ばなくてはならない」と説いていました。
 しかし、その小沢幹事長は、「切り崩し」に敗れた鳩山首相の「道連れ」で、幹事長職を辞任することが決まっています。
 あえて「孫子」で言うならば、「始めは処女のごとくして敵人戸を開き、後には脱兎のごとくして敵防ぐに及ばず」という「社民党の兵法」に敗れ去ったのです。

 軍事や政治を語る人々には、今回の「社民党の兵法」こそ学んでもらう必要があるように思います。

■ 「民意」

 さて、その社民党の「戦術」の強みは、決して「奇策」にあったわけではありませんでした。
 一つは「絶対に沖縄県内に新基地は作らせない」という「信念」「執念」であり、もう一つは徹底的に「筋を通す」ということでした。

 沖縄・徳之島などの「米軍基地はいらない」という「民意」を、それこそ「体を張って」守りぬく姿勢、そして「テニアンが歓迎してくれている」という強い説得力への「共感」こそが、日本の政治史を塗り替える原動力となったのです。

 もうすぐ、次の日本の首相が決まります。
 その真価は、「今度こそ『民意』を大切にしてほしい」という国民の願いに応えるのかどうか、そこで判断されるべきだと思います。

副大臣の涙

2010年06月01日 | 国会・政党・選挙
■ 「高揚感」

 普天間基地移設問題をめぐって「5月末決着」を唱えた鳩山内閣では、その「期限」である31日、辻元清美国土交通副大臣が辞表を提出し、社民党の「連立離脱」が完了するという、実に寒々しい「決着」を迎えました。
 
 さて、その辻元氏は、連立政権を去ることについて「さみしいし、つらい」と、目に涙を浮かべました。
 かつて「総理、総理」と20回以上も叫んだ「追及の鬼」による、正に「鬼の目にも涙」です。
 その涙ながらの「さみしい」「つらい」という言葉に、何も知らない方々は、単に「政権への未練」と思われるかもしれません。

 しかし私は、辻元氏が副大臣として取組んできたことを知っています。
 普通、大臣や副大臣の話など「催眠効果」しか実感できないものですが、辻元氏の行動には「わくわく」するほどの「高揚感」がありました。

■ 「視野」

 辻元氏の取り組みは語り尽くせませんが、最も力を注いでいたのは「交通基本法」の制定です。
 これまでの場当たり的な「街づくり」「道づくり」から脱却し、「移動」や「住まい」を人権と捉え、その人権保障のための環境を整備を行う「基本法」を作ろうとしていたのです。
 まだ着任から間もないとき、関西でこうした取り組みを行っているNGOのシンポジウムがあり、辻元氏も副大臣として出掛けたそうです。そこには、聴衆に紛れて地方整備局の「お偉いさん」たちが「偵察」に来ていたそうです。
 辻元氏はシンポジウム終了間際に彼らを壇上に呼び、「折角来たんだから挨拶を」と求めたところ、彼らの一言目は「こんな役人みたいな格好ですみません」と言ったそうです。NGOの集まりですから、会場でスーツ・ネクタイ姿は彼らだけ、「浮いている」ことを彼らも認識していたのでしょう。
 そしてその彼らは「恥ずかしながら、今までこんな話を聞いたことがありませんでした。本当に勉強になりました」と、心から「来て良かった」と語ったそうです。
 彼らの「視野」が広がった瞬間です。

■ 「静かな革命」

 その後、辻元氏は「霞ヶ関」にも、動きを広げていきました。
 「やる気のある人だけおいで」と全くの「任意参加」で、「交通基本法」のための勉強会を始めたのです。
 最初は、「何だろうか」と傍観していた官僚が、次々と新たな切り口を学ぶ中で「面白そう」に変わり、役職の上下を超えて「俺たちもやってみよう」と1人増え2人増え、ついに全部局から人が集り、立場を超えて自由闊達にアイデアを語り始めたのです。

 さらに、様々な審議会や、諮問機関は従来「御用学者」が占めていましたが、その人事には「政務三役」の同意が必要です。辻元氏は、女性や高齢者、障がい者の皆さん、あるいはその声を代弁するNGOの人々を積極的に登用し、政策の立案・決定にあたって、その意見反映に務めたのです。

 辻元氏はこうした一連の取り組みを「静かな革命」と呼びました。

■ 「不幸」

 思えば、それまで「霞ヶ関」やその出先、すなわち官僚の皆さんは「不幸」だったと思います。
 交通政策や住宅政策を考えるとき、御用学者や業界団体の代表、地域での政策の立案では、その地方の経済団体や地権者、首相、地元議員など、利害関係の絡む人々に惑わされ、利用者であり主権者である「国民」の声は置き去りにされがちでした。
 そこに、辻元氏は「活力」という風を吹き込んだのです。それは「脱官僚」ではなく、官僚を活かすという「活官僚」ではなかったでしょうか。

 その道半ばでの辞任は、やはり辻元氏には「さみしいし、つらい」ものだったことでしょう。
 そして、このような副大臣を失ったことは、「国民的な損失」であり、「不幸」と呼ぶべきでしょう。

 もし今の政権に心ある人がいるならば、あるいは今後、内閣の一員として政治に参画しようとする人がいるならば、辻元氏のように去り際に涙を流せるような人であってもらいたいと思います。