極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

読書事始め

2018年01月04日 | 時事書評

   

 

        離婁(りろう)篇    /    孟子  

 

                                 

   ※  一人一人渡してやるよりも橋を架けよ:子産は宰相として鄭の政治を司っ
     たが、溱水、洧水を渡る人たちを自分の車で渡してやった。 孟子はそれ
     をこう批評した。「思いやりはあるが、政治のなんたるかを知らない。八
     月に、飛び石をおいて人が通れるようにし、九月になって大きな橋を架け
     て車も遥れるようにしてやれば、人災は水の中を渡る苦労をせずにすむ。
     政治さえ公平周到に行なえば、道を行くとき、人々をよけさせてもかまわ
     ない。一人一人自分の車で渡してやることなど愚の骨頂だ。為政者が一人
     一人を喜ばせていたのでは、どれだけ時間があっても足りるものではない」

     〈子産〉春秋時代の部国の宰相。当暗部国は帽を争う百と楚の問にはさま
     れて苦しい立場にあったが、かれは内政、外交に手腕を発祥して、数十年
     も外国の侵略を許さなかったという。
     〈八月、九月〉 原文は十一月、十二月。陰暦の九月、十月にあたり、陽
     暦では八月、九月ごろになる。寒くなる前に、長閑期を利用して橋をつく
     っておけというわけである。

     【解説】個人的な道徳律を集団に及ぼすのが儒家思想の一つの特徴である
     が、孟子はそれを機械的に解釈しているのではない。政治の対象とするも
     のがマス(衆)であり、個人でないことをこの一節で強調している。つま
     り、個々の現象ではなく、基本的なものに着眼しなければならぬとする。
     そうでなければ、真の解決はあり得ないし、第一、非能率である。安価な
     ヒューマニズム、あるいは一時的な人気とりは、本当の政治ではない。こ
     れはまた、あらゆる場合にあてはまる。目前の現象にとらわれ、原則を忘
     れては、何事も成功しない。





【読書日誌:カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』】

 

  丘の連なりが鋸歯のような影を落とす大きな沼地の縁に、年老いた夫婦が住んでいた。名前
 をアクセルとベアトリスという。ほんとうの名前ではないかもしれない。もっと長い名前のI
 部だったかもしれないが、ここでは呼びやすいその名で呼んでおくことにしよう。夫婦二人だ
 けで暮らしていた。こう言うと、二人だけで孤独に暮らしていたように聞こえるかもしれない
 が、そうではない。そもそも、当時の村の形からして、孤独な暮らしなどはありえなかった。
 村人の多くは暖かさと外敵からの保護を求め、丘の斜面に深い横穴を掘って住み、その穴どう
 しを地下通路や覆い付きの廊下で結んでいた。だから、村は家の立ち並ぶ集落というより、む
 しろ兎の巣穴にでもたとえたほうが実際に近かったかもしれない。アクセルとベアトリスも、
 人口六十人ほどのそういう村にいて、そういう穴の一つに住んでいた。村を出て丘沿いに二十
 分ほど歩くと、別の村かおる。そこも外見はやはり菟の巣穴で、最初の村とたいして違わな
 い。だが、住んでいる村人の目には違いが歴然とあって、その一つ一つが自慢の種だったり、
 恥ずべき汚点だったりした。

  当時のブリテン島はその程度の島だったのか、と思われるかもしれない。世界のどこかでは
 壮麗な文明が花開いていたのに、イギリスはまだ鉄器時代を引きずっていたのか、と。そんな
 印象を与えたとしたら本意ではない。気ままに田古道を歩いていけば、不意にお城や修道院が
 出現することもあったろうし、そのお城では音楽が奏でられ、おいしい食事が出て、武術試白
 なども行われていたかもしれない。修道院では憎たちが学問に没頭していただろう。だが.....


 そう、現実をありのままに言えば、仮に天気のよい季節に頑丈な馬に乗って旅をしたとして
 も、縁一色の風景の中に城や修道院を目にすることなど、数日に一度もあったかどうか。通り
 過ぎる集落のほとんどは、いま述べたような村たったはずだ。しかも、たまたま贈り物にでき
 るような食糧や衣服を待ち合わせていないかがり-あるいは恐ろしげに武装してでもいない
 かぎり-旅人は歓迎されなかったはずだ。当時のイギリスをこんなふうに描写するのは不本
 意だが、そこはそれ、やむをえないところもある。

  アクセルとベアトリスに戻ろう。言ったとおり、この老夫婦は巣穴のような村の外縁に住ん
 でいた。当然、それだけ外界の影響を強く受けたし、夜、村人全員が大広間に集まって火を焚
 いていても、暖かさのかこぼれに恵まれることが少なかった。昔はもっと大の近くに住んでい
 たような気がする、とアクセルは思った。それはまだ息子らと一緒だったころではなかろう
 か………夜明け前の何もない時刻、ぐっすり眠る妻を横に感じながらベッドに横たわるアクセ
 ルの心に、しきりにそんな思いが忍び込んできた。その思いは正体不明の喪失態をともない、
 アクセルの胸をいらだたせて、眠りに戻ることを許さなかった。

  だから、この朝、アクセルはそっとベッドを抜け出し、音を立てないよう注意して外に忍び
 出ると、村の入り口のわきに置いてあるベンチに腰をれろした。古いベンチで、ゆがみが出は
 じめている。ここで夜明けの最初の光を待とうと思った。季節は春。だが、まだ寒い。出しな
 に手にとってきたベアトリスのマントを体に巻きつけ、ひとしきり物思いにふけった。やが
 て、肌を刺す空気にあらためて寒さを意識したとき、ふと見ると空の星はすでに消え去って、
 いま地平線上に明るさが広がりつつあった。薄明りの中で、鳥のさえずりも聞こえはじめてい 
 少し長く外にいすぎたか………アクセルは後悔しながら、ゆっくり立ち上がった。もうすっか
 りよくなったとはいえ、熱がひくまでにしばらくかかって、それからまだ間がない。脚が冷た
 く湿っていろ感じがする。ここでぶり返しでもしたら大変だ,だが、中に戻ろうと振り向いた
 とき、アクセルの心には多少の満足感もあった。ここしばらく忘れていたことをいくつか思い
 出せたから。それに、もうすぐ重大な決定を-長く引き延ばしてきた決断を-するという予感
 があった。アクセルは少し興奮し、この興奮を早く妻と分かち合いたいと思った。

  中に入ると通路はまだ完全な闇に沈んでいて、自宅のドアまでのほんの短い距離を手探りで
 進んだ。村を構成する各戸の戸口は、粗末なアーチーつだけのものが多い。つまり、アーチを
 くぐれば、そこはもう家の中だ。じつに簡単な構造だが、村人はそれをプライバシーの危険と
 は考えず、むしろドアなどないほうが都合がよいと思っていた。大広間では焚き火が燃え、村
 内の許されたあちこちでも小さな火が燃えている。せっかくの暖気が通路を伝わってくるのに、
 ドアで締め出したらもったいないではないか………ただ、アクセルとベアトリスの家はどこの
 焚き火からも遠すぎた。だから、この家には実際に「ドア」と呼べるものがあった。大きな木
 枠をはめ込み、そこに小枝や蔓を縦横に渡して、中にアザミなどを編み込んである。出入りの
 際には、このドアを片側に寄せる手間がかかるが、その代わり、冷たい隙間風は防がれる。ア
 クセルとしてはドアなどないほうが好ましかったが、ベアトリスは違う。ドアを作りつづけて
 いるうち、しだいにそれが自慢の腫になってきているようだ..アクセルが外出から戻ると、
 よく、しおれた枝や蔓を引き抜き、日中に築めておいた新しい材料で置き換えていた。

  この朝、アクセルは体がぎりぎり通るほどにドアを寄せ、できるだけ音を立てないように中
 に入った。外壁の小さな隙間から夜明けの光が部屋に漏れていて、前に伸ばした手がぼんやり
 と見えた。草のベッドには、厚い毛布にくるまれて横たわる人の姿が見える。ベアトリスはま
 だぐっすり眠っているようだ。

  妻を起こしたい気持ちに駆られた。いま、この瞬間、妻が目覚めてくれて、話し合うことが
 できれば、なすべき決断への最後の障壁、この身に残るためらいが完全に払拭されるような気
 がする-アクセルの一部はそう確信していた。だが、村全体が起き出して今日の仕事を始め
 る時刻までに、まだしばらく間かおる。だから、妻のマントを体にきつく巻きつけたまま部屋
 の隅に行き、そこの低いスツールに腰をおろした。
  今朝の霧の濃さはどうだろうか、と思った。この闇が薄れるとき、外壁のひび割れから霧が
 部屋に侵入してくるさまが見えるだろうか………だが、思いはしだいに霧から離れ、さっきま
 で心にあった疑問に戻っていった。それは、自分たちはいつもこうして暮らしてきたのだろう
 か、ということだ。いつも二人だけで、この村の端っこでこんなふうに暮らしてきたのか。そ
 れとも、以前はまったく違っていたのだろうか。さっき外にいるとき、記匪の断片がいくつか
 戻ってきた。その中に、村の長い中央通路を歩いていく一瞬があった。片腕を子供の背に回
 し、やや前のめりの姿勢で歩いていた。あれは老いて背が曲がったのではなく、通路の薄賠さ
 の中で、天井の梁に頭をぶつけないよう用心する歩き方だった。それとも子供が何か話しかけ
 てきた直後だったろうか。子供が何かおもしろいことを言い、それでニ人して笑っていたのか
 もしれない、だが・・・・何をどう考えても、どこか落ち着かない気分が残る。さっき外にいると
 きもそうだった。集中して考えようとすればするほど、記憶はしだいにぼやけていく。ぼけた
 老人の頭に根拠もなく浮かんだ妄想なのだろうか。そもそも、神様は二人に子供を授けてくだ
 さったのか………

  過去を確かめたければ周囲に問うてみればよい、と思うかもしれない。なぜ尋ねてみないの
 か、と。だが、それは言うほどやさしいことではない。まず、この村では過去がめったに語り
 合われない。タブーというのではなく、ただ、過去を語り合うことに意味が見出されない。村
 人にとって、過去とはしだいに薄れていき、沼地を覆う濃い霧のようになっていくもの。たと
 え最近のことであっても、過去についてあれこれ考えるなど思いもよらないことだった。
  たとえば、ここしばらくアクセルが頭を悩ませている問題かおる。そう遠くない昔、この村
 には赤い髪を長く伸ばした女がいて、村の宝物のように扱われていた。その赤毛の女はすぐれ
 た治療の技を持っていて、誰かが怪我をしたり病気になったりすると、真っ先に呼ばれてい
 た。アクセルはそう確信しているが、その女はいまいない。不思議なのは、いなくなったこと
 を残念がる者がいないことだ。いや、それどころか、その女がどうしていなくなったのか、い
 ぶかる者さえいない。ある朝、霜の降りた畑に鍬を入れながら、一緒にいた三人の村人にその
 疑問をぶつけてみた。だが、三人からは、何のことか見当もつかないという反応しか返ってこ
 なかった。一人は仕事の手をとめてまで思い出そうとしてくれたが、結局、首をひねり、「そ
 りゃ、ずいぶん昔のことだったに違いないな」と言うだけで終わった。
 
                 カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』第1部/第1章




本の題名の「巨人」は15章の最後の方に、ウィスタン――6世紀ごろ、いまはイングランドと呼
ばれるブリトン人の居住地区にサクソン人が侵入し、ブリトン人は伝説上アーサー王の下で勇敢に
戦い、彼の死後も小康状態を保っている時代に、ブリトン人の老夫婦アクセルとベアトリスが村に
いづらくなり、息子と一緒に住むために旅に出る。サクソン人の村に一夜泊まり旅を続ける。アー
サー王の甥のガウェイン、サクソン人のウィスタン騎士とエドウィン少年に会い一緒に旅をしてい
る――が「かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人が動き出します」。「二つの民族の間に結ば
れた友好の絆など、強さはありません。国が一つ一つ、新しいサクソンの国になります。あなた方
ブリトン人の痕跡など … 羊の群れ一つ二つくらいしか残りません」というところに記述されてい
る。この小説の時代の後、ブリトン人、ピクト人などケルト人はアングロ・サクソン人にほぼ完全
に駆逐され、数少ない文化的遺産が残るのみとなり、サクソン人のキリスト教化もほぼ完成する。
その後11世紀に「ノルマン・コンクエスト」を経て"イギリス原国家"が形成される。第一の読手
イギリス人)はこうした歴史をわきまえ、作者(イシグロ)が記録が乏しい時代の老人夫婦の旅
路をどのようにファンタジーとして読む解く意図をもち展開していくという(Wikipedia)。ともあ
れ、各部・各章の主な話題が分かりづらく、霧と森と鬼とファンタジーと不確かな追憶の世界へい
ざなわれることとしよう。

                                     この項つづく 

【「食」の図書館:『トリュフの歴史』】

  トリユフとはなにか

  哺乳類なのに卵を産むカモノハシや、光合成だけでなく虫を食べて栄長を得るハエトリグサ
 はどの分類に当てはめようとしてもしっくりこない動植物だが、トリユフにも同じことが言え
 る。だからこそ、何世紀にもわたってトリユフの定義は迷走を続けてきたのである。たとえば、
 古代ローマの植物学者、大ブリニウスは1世紀にまとめた博物誌にこう記している。

  なによりも驚嘆すべきことは、植物のなかには根を持たずに発生し、しかも枯れずにいる
  ものがあるということだ。トリユフないは秋雨と頻繁な雷雨により発生する。発育にとり
  わけ影響をおよぼすのは雷だ。この不完全な大地の植物――そうとしか表現のしようがな
  い――は果たして正常に生育するのか、そもそもこれは生物なのかそうでないのか、とい
  う疑問に私は容易に
答えられない。

 16世紀のドイツの植物学者ヒエロニムス・ボヅクは、トリュフの発生について犬ブリニウス
 と同
様に誤った自説を展開している。トリュフは草でも根でも花でも種でもない 土や樹木、
 または腐っ
た木片の余剰水分から発生したものである」 19世紀初頭になると、トリュフヘ
 の理解はまだ完璧
なものではないにせよ、少ななくとも好ましいものとして受け止められるよ
 うになった フランスの
政治家で食通としても知られたジャン・アンテルム・ブリア=サヴァ
 ランは、トリュフを「台所の
宝石」と表現している……作曲家ロッシーニも同意見だったのだ
 ろう、トリュフを「キノコのモーツァ
ルト」と呼んだ。

 トリュフはキノコ――正確には
菌類の子実体――の一種だ、光合成はおこなわないが、大半の
 キノコは植物と同じく地上部と地下部で生育する。外皮膜とよばれる
保護層と基本体と呼ばれ
 る胞子
形成部分があり、その色や質感はさまざまだら こうした色や質感の違いが、厖大な種
 類のなかからあるひとつのキノコを特定する。最初の手がかりとなる。
 厳密に言えば、すべてのトリユフは「生殖体」、つまり胞子を生みは子嚢という小さな袋のな
 かにあり、じつに多様な形をしている(円形や梢円形、八面がでこぼこ
したものや滑らかなも
 の等)。トリュフの種類を特定する第犬段階は、顕微鏡での確認だ。外皮膜れ拡大してみれば
 子襄内の胞子の数や形自体が、かなり異なっていることがわかる。



 キノコは胞子が風や生き物によって繁殖する,子実体の大半は地上にて繁殖するが、孤独を愛
 するキノコ、繁殖するのは地下部分だ。氷と共生し(これはほかのキノコ類でも見られる)そ
 の根に寄生するのである。この関係は木にとってあまり得るものはないと考りえる菌学類者も
 いるが、いずれにせよ、木はトリュフが糸状の細胞を自分の根に巻き付けることを「容認する」。
 
 網の目の緩い手袋を想像してほしい。木の根っこと菌糸で編んだ手袋、つまり、ハルティニヒ
 ネット(外菌根)を通してトリュフの網を広げて水分とミネラルを土中から吸収し、木にそれ
 を取り込ませて大きく成長させるのだ。この共生関係によってトリュフは地下の闇の中でも生
 育でき、誰にも発見されずに枯れるまで地下に引っ込んでいられるのである。

 ただし、あらゆる生命体は繁殖して生息地を広げる必岑があり、植物の繁殖はその多くは植物
 の繁殖はその多くが動物を媒体としておこなわれる。トリュフと木の共生関係性に近いのは、
 種子植物とミツバチの関係だ。種子植物はミッバチに蜜を与え゛へツバチは花の蜜を吸うとき
 に脚についた花粉を別の花に運ぶことで受粉がおこなわれる。また、蜜だけでなく甘いごちそ
 う(果実)を動物がついばみ、その種を別の場所に運ぶ場合もある。種は勤物の内臓を通過し、
 排泄物という有機肥料に包まれて別の離れた場所で堆積する。

 トリュフもまた動物を媒体として繁殖する。あの有名な独特の芳香は、いわば動物を魅了する
 香水である 胞子が熟すとトリュフは香りを放ち、菌食性の生物を呼び寄せる 生物はトリュ
 フを掘り当てて食べ、数時間後に森の別の場所に胞子を堆積さぜるのだ。このような生物には
 ブタがいる。もっともでブタとトリュフという組み合わせはおなじみではあるものの、現在ト
 リュフ採集にはブタよりも犬が重宝されている。しっかり訓練すれば探し当てたトリュフを食
 べずに人間に知らせ、代わりのごほうびで満足するという点で、犬はブタよりもすぐれている
 からだ。犬は人間の親友だとよく言われるが、トリュフの親友は「ホモ・サビエンス」だ。ト
 リュフーの外来種は100年前には生息していなかった場所でも生育することがあるが、これ
 を可能にしたのは人類なのである。菌類を好むほかの生物と同じく、人間もその香りに惹きつ
 けられる。本書では、トリュフが単にキノコの一種――それも異彩を放つ――から高級食材へ
 と変化を遂げた過程を探っていく。トリュフの香りはありふれた品をごちそうに変え、その稀
 少性ゆえ今なお高値の食材だ。この特別な食材を味わう機会を得た人々は、自分が特別な人間
 だという気分にさえなるのである。

 世のなかの歴史書の大半は狂犬な戦いと突出した指導者を中心に描いたものだが、トリュフの
 本は一種類のスーバースター、フランスのペリゴール産トリュフ(学名:Tuber melinosporum )
  とイタリアのアルバ産白トリュフ(学名:Tuber magnaturm)を取りトげることが多い。しかし、
  トリュフ全体の歴史を紐解くならばあらゆる種を取り上げるべきだろう。本書ではふたつのス
 ーハースクー以外の種にも触れながらアメリカ大陸や第三世界に出会ったヨーロッバ化の変遷
 についても追っていく。

 フランス人はトリュフについて「大いなる謎(La grande mystique)」というと言葉をよく使う。
 トリュフの謎といえば、かつてはフ「トリュフとはなにか?、どうやって生育するのか?、な
 ぜ人工栽培ができないのか?」というものだった 今は科学が発達し、こうした疑問の大半に
 答えが出ている。すなわち、トリュフとは地下生菌類の子実体だ、胞子を成熟させて菌食性の
 生物を引き寄せ、胞子を拡散させて生育する、今では人工栽培可能なトリュフもある。

 現代ではトリュフにまつわる疑問は変化した そ典型はが、「われわれはトリュフをどう扱う
 べきか?」というものだぺ自然にまかせ、犬を連れた老人が晩秋に森で採集するにとどめるべ
 きなのか? それとも人工栽培の万法を精力的に開発するべきなのか? もし自然にまかせる
 のであれば、トリュフを食卓で拝めるのはごく一部のグルメだけという状況は変わらない。ト
 リュフはヨーロッバで誕生した種と――法的に――定義するべきか、それとも北アメリカとア
 ジアの地下生菌の子実体も「トリュフ」と見なしてよいのだろうか? なぜ地味でありふれた
 存在のはずのキノコが高級食材として需要が高まり、懐かしい農村と国際化する未来の両方を
 象徴する存在になったのだろ?本書『トリユフの歴史』ではこうした疑問ひと.つひとつにス
 ホットライトを当て.く謎に追っていく。 

              序章「台所の宝石」(雑貨リー・ノワク著『トリュフの歴史』)

第二の人生に入り、セイヨウオショロつまりトリュフ栽培に興味があり、この三が日にこの本に手
をつける。ところで、原書房
の『「食」の図書館』シリーズは数多くの食品が取り扱われており、
感想が良ければさらに愛読書に加えていくことも考えている。ともあれも、それも時間次第、体調
次第である。

 

   

高橋洋一 著 『戦後経済史は嘘ばかり』
   

     第3章 奇跡の終焉と「狂乱物価」の正体

     第3節 固定相場を維持するには膨大なドル買い介入が必要になる

   今、述べてきたように、固定相場制についての最大の誤解は、相場を決めれば自動的に相場
 が維持されると思っている人が多いことです。何度もいいますが、固定相場制とは
、「為替介
 入をしない制度」ではなく、「常に為替介入をする制度」です。

  1ドル=360円という数字を決めただけでは相場は維持できません。実際には、相場を維
 持するために猛烈な介入が必要になります,
円安気味になりそうになったら、円を買い込んで
 1ドル=360円が保たれるように
します。円高に振れそうなときには、ドルを買いまくって
 1ドル=360円を維持しま
す。介入をし続けることで維持されるのが固定相場制です。

  詳しい仕組みを説明しますと、相場を維持する責任を負っているのは大蔵省(当時)です。
 大蔵省は特別会計で外貨を買うために、為券(外国為替資金証券)という政府短
期証券を発行
 します。為券を発行して資金を調達して、その資金で外債を買って、為替
相場を維持します。
 為券は大蔵省の発行する国債ですが、市中に為券を出してお金を調達すると、国債増発と同じ
 で金利が高くなってしまうことかあります。実体経済に影響が出てしまうとい
けないので、為
 券は日銀がすべて大蔵省から買い取っていました,

  固定為替相場維持のために、日銀は大蔵省に指示されるままに、円を発行し続けます。日銀
 からお金が出ていく形になりますので、その分だけインフレ気味になる現象が
起こりました,
  日銀の独立性などまったくありません。大蔵省が「為替介入する」といったら、インフレに
 なろうがどうなろうが、日銀は円を刷らなければいけなかったのです。「国際金
融のトリレン
 マ」で説明したように、固定相場を維持するために、独立した金融政策が
犠牲になっていたと
 いうことです。

 「為替政策」と「金融政策」を別のものと考えてしまう人が多いのですが、実際には表裏一体
 の政策です。

 1ドル=360円のときには、輸出産業は非常に高いゲタを履かせてもらって有利な取引をし
 ていました。そのゲタを維持するために、日本経済はインフレ基調を甘受せざるをえませんで
 した,それでも、高いゲタの恩恵のほうがけるかに上回っていたため、国民経済全体がうまく
 回っていたのです,

 第4節 1985年のプラザ合意までは、実は、実質的な「固定相場制」だった

  固定相場を続けている限り、独立した金融政策を打つことはできません。固定相場制から変
 動相場制に移行することで、初めて日銀は独立した金融政策をとることができるようになりま
 す,では、いつから変動相場制に移行したのでしょうか。
  社会の教科書では1973年2月から変動相場制に移行したとされています。しかし、国民
 には知らされていない裏があります。制度上は1973年に変動相場制になったのですが、実
 際には猛烈な為替介入が続いていました。「ダーティ・フロート」とい立畏の介入が続いてい
 たのです。もちろん国民にはわかりにくい形にされていました。
 「ダーティ・フロート」を完全にやめて、宣]の変動相場制に移行したのが1985年の「
 プラザ合意」です。1ドル=360円時代は、360円から上下への変動をまったく許さない
 為替介入をし、1973年2月からプラザ合意までは、上下への変動をある程度許す為替介入
 をしていました。プラザ合意以降は「クリーン・フロート」にして為替介入をやめました。

  日本が固定相場制から、為替介入しない変動相場制に移行したのは、1973年2月ではな
 く、1985年9月のプラザ合意です。ここを見誤ると、1973年から1985年までの日
 本経済を正しく理解できなくなります。為替介入をやめて変動相場制にすると、為替は計算上
 の均衡レートとほぼ一致した数値になります,下図1のグラフをもう一度見て下さい。グラフ
 の2つの折れ線が急激に近づいていくのは、1985年以降です。それまでは両者には開きが
 あります。これは介 入を続けていたことを意味しています。


  整理しますと、

 ・プラザ合意まで → 固定相場制(1973~1985年は実質的固定相場)
 ・プラザ合意以降 → 変動相場制

 となります,
 「国際金融のトリレンマ」に則していえば、1985年までは固定相場制だったため独立した
 金融政策をとることができず、1985年に変勤相場制になってようやく独立した金融政策を
 とれるようになりました。
 「マンデル・フレミング」を知れば、財政と金融のどちらが効果的かわか均衡レートは、19
 71年までさかのぼって計算することができます。1970年代における均衡レートは、1ド
 ル=140円程度です。それ以前の均衡レートは私の試算ですが、1970年代と大きくは追
 っていないはずです。グラフを見ていただくと、1ドル=360円時代が日本の輸出産業にと
 っていかに有利な為替レートだったかがわかります。1ドル=140円程度のところを1ドル
 =360円で取引できるなら、「楽勝レート」です。1960年代の高度成長期には、非常に
 有利なレートで輸出をすることができました。

 1ドル=360円のレートは、一九回九年に設定されて以来ずっと続きました。なぜアメリカ
 が日本にとって有利な為替レートにしてくれたのかはよくわかりません。かつて田中角栄が「
 円は360度だから、1ドル360円だ」と冗談めかしていったという話はありますが、1ド
 ル=360円に決めてくれた人に感謝するしかおりません。日本のことをアメリカがナメてい
 たのかもしれません。この有利な為替レートが戦後の高度経済成長の最大の要因です。196
 0年代の高度成長期は、高いゲタを履かせてもらっていましたので、輸出企業の競争力が圧倒
 的に高まり、高収益を上げることができました。 

    第4節 為替レートが有利なうえに、技術力がついてきた

  日本の輸出企業は圧倒的に有利な為替レートの恩恵を受けていました。もちろん、日本企業
 に基礎的な技術力があったのも事実です。いくら為替レートが有利でも、粗悪品をつくってい
 たのでは海外では売れません。昔は日本製品は低品質と見られていましたが、徐々に技術力が
 高まり、アメリカ製品と似たようなレベルの物をつくることができるようになりました,その
 過程で、海外から多くの技術を学んでいます。海外企業と提携して技術力を高めた企業もたく
 さんあります,

  もちろん、実力を超えた円安の時代ですから、海外から技術を導入する経費は大変なもので
 した。本田技研は、あまりに高額の工作機械を購入したことも響いて資金難に陥り、倒産しか
 かっています。松下電器がフィリップスと提携したときも、イニシャル・ペイメント(前払い
 実施料)55万ドル、株式参加30%、ロイヤルティー(技術指導料)7%を要求されました。松
 下幸之助が、この技術指導料に対して「経営指導料」を逆に要求したことは有名な話です。結
 果としてフィリップスの技術指導料4・5%に対して、松下電器の経営指導料3%で契約が成
 立しています。

  たしかに、当時の名経営者たちはこのような果断な判断を次々と下し、技術力を格段に向上
 させていったのです。1950年代は価格の安さが最大の売りだったのでしょうが、利益を上
 げながら品質を高め、一丸八〇年代には日本製品の品質は世界最高レベルになっています。
  それを端的に物語っているのが、アメリカの映画「バック・トゥ・ザ・フユーチャー」です。
 主人公が一九八五年から1955年にタイムスリップするストーリーですが、1985年のシ
 ーンでは、身の回りの家電製品は日本製ばかりです。主人公の少年があこがれる自動車もトヨ
 タのピックアップトラックです。

  ところが、30年前の1955年のシーンはまったく追います。シリーズ三作目で、195
 5年当時の人物が、「メイド・イン・ジャパンじゃ、壊れても不思議はない」というのに対し
 1985年から来た主人公が、「何をいっているんだい。日本製は最高だよ」というシーンが
 あります。1950年代の日本製品と1980年代の日本製品ではまったくイメージが追って
 います。
  ともあれ、果断な経営判断と、不断の努力で製品の品質を上げていったことが、日本製品の
 最終的な勝利を招来することになったわけですが、日本企業の躍進を支えた大きな要因は、や
 はり「1ドル=360円」の為替レートだったことは間違いないでしょう。有利な為替レート
 のおかげて、「品質の良いものを、割安の値段で売る」ことができたのです。おかげで、日本
 製品はどんどん海外で売れました。さらにいえば、当時の経営者たちが果敢に決断できた背景
 に、「1ドル=360円」という為替レートがもたらしてくれる高収益に対する安心感があっ
 たことも、間違いありません。


                                    この項つづく 

 ● 今夜のアラカルト

※ 春の海 宮城道雄

 

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調査事初め

2018年01月03日 | 時事書評

   

 

        離婁(りろう)篇    /    孟子  

 

                                 

      ※  リズム:仁の真髄は、親に孝行すること、義の真髄は、兄に従順なこ
     とである。智の真髄は、この二つをわきまえ、忘れないこと、礼の真
     髄は、この二つを折り目正しく行なうこと、楽の真髄は、この二つの
     情操を音楽化することである。その音楽を聞けば、仁義の心が湧いて
     来る。湧いて来れば、抑えておけない。抑えておけなければついリズ
     ムにのって踊り出すように、自然に仁義を行なうものだ。 

 

       No.125

【量子ドット工学講座 No.51:最新波長変換粒子技術】

今回は急速に普及しつつある太陽電池工学で、結晶シリコン系太陽電池セルの感度スペクトルと太陽
光スペクトルのミスマッチによる損失を改善できる、高効率化材料の太陽電池モジュールの封止シー
トに応用されている波長変換粒子(Wavelength Conversion Partide:WCP) の最新技術をとりあげる。

現在、太陽電池モジュール以外で、高色再現性向けの量子ドットを含む光波長変換部材を画像表示装
置に組み込みが行われている。量子ドットは、光を吸収して異なる波長の光を放出。主として量子ド
ットの粒子径に依存し、さらに、単一波長域光を投射する光源を用いながら、種々の色を再現できる
が光波長変換部材は以下の問題がある。

  1. 量子ドットは水分や酸素によって劣化し発光効率が低下する。このため、量子ドットを含む光
    波長変換層を備える光波長変換シートは、光波長変換層の両面に、水分および酸素の透過を抑
    制するためのバリアフィルムを設けている。
  2. このバリアフィルムは光波長変換層を挟むように設けられるので、従来の光波長変換シートは、
    バリアフィルム、光波長変換層、バリアフィルムの順で積層された構造形成する。
  3. しかし、光波長変換層の両面にバリアフィルムを設けた構造の光波長変換シートに、80℃の
    環境下に500時間放置する耐熱性試験や60℃、相対湿度90%の環境下に500時間放置
    する耐湿熱性試験を行うと、特に、光波長変換シートの周縁部、またはバリアフィルムにおけ
    るピンホールやクラック等の点状の欠点部で量子ドットが劣化し輝度が低下―――これは有機
    エレクトロルミネサンスと同じような―――する問題がある。
  4. また、光波長変換シート以外の形態の光波長変換部材においては、光源または光源に近い位置
    に配置されることもあり、光波長変換部材は、耐熱性向上や耐湿熱性向上が求められている。

そこで、下図「特開2017-201386 光波長変換粒子、光波長変換粒子分散液、光波長変換組成物、光波
長変換部材、光波長変換シート、バックライト装置、画像表示装置、および光波長変換粒子の製造方
法」のように、上記問題を解決するため、優れた耐熱性/耐湿熱性を有する光波長変換粒子――この
ような光波長変換粒子を含む、光波長変換粒子分散液、光波長変換組成物の提供あって、
光波長変換
粒子1であって、硫黄、リン、および窒素からなる群から選択される1以上の元素およびカルボン酸
の少なくともいずれかを含む光透過性の樹脂粒子2と、樹脂粒子2中に内包された1以上の量子ドッ
ト3とを含む、光波長変換粒子1が提供されている(詳細は下図を参照クリック)。



【符号の説明】

1…光波長変換粒子 2…樹脂粒子 3…量子ドット 4…被覆層 10、20、30、40、50、
60…光波長変換シート 11…光波長変換層 16…バインダ樹脂 17…光散乱性粒子 18…
塗膜 70…画像表示装置 80、130、140、160…バックライト装置 154、171…光
波長変換部 120…表示パネル


【図面の簡単な説明】

【図1】実施形態に係る光波長変換粒子の概略構成図
【図2】実施形態に係る光波長変換シートの概略構成図
【図3】実施形態に係る光波長変換シートの作用を示す図
【図4】実施形態に係る他の光波長変換シートの概略構成図
【図5】実施形態に係る他の光波長変換シートの概略構成図
【図6】実施形態に係る他の光波長変換シートの概略構成図
【図7】図6の光波長変換シートのI-I線に沿った断面図
【図10】実施形態に係る光波長変換シートの製造工程を模式的に示す図

● 光波長変換粒子の製造方法

この事例によれば、以下の方法によって作製している。

まず、量子ドット、特定の化合物およびカルボン酸の少なくともいずれか、および重合性化合物を含
む光波長変換粒子用組成物を硬化させ、光波長変換粒子用組成物の硬化物を得る。そして、この硬化
物を、例えば、ビーズミルによって、粉砕する。これにより、表面が樹脂粒子の表面となった光波長
変換粒子を得ることができる。光波長変換粒子用組成物は、重合開始剤を含んでいることが好ましい。
なお、被覆層を備える光波長変換粒子は、樹脂粒子の表面に被覆層を形成するこ
とで得る。

また、光波長変換粒子は、以下の方法によっても作製することもできる。

まず、量子ドット、特定の化合物およびカルボン酸の少なくともいずれか、および重合性化合物を含
む光波長変換粒子用組成物を、水等の貧溶媒中で粒状に分散させる。そして、光波長変換粒子用組成
物を粒状に分散させた状態で、光波長変換粒子用組成物中の重合性化合物を、例えば懸濁重合または
乳化重合などによって重合させて、表面が樹脂粒子の表面となった光波長変換粒子を得ることができ
る。ここで、「貧溶媒」とは、光波長変換粒子用組成物がほぼ溶解しない溶媒を意味し、水等の極性
溶媒が挙げられる。光波長変換粒子用組成物は、重合開始剤を含んでいることが好ましい。

なお、この場合も、被覆層を備える光波長変換粒子は、樹脂粒子の表面に被覆層を形成することで得
ることができる。この
樹脂粒子の表面に被覆層としてバリア層を形成する場合、バリア層はゾルゲル
法を用いて作製することができる。

具体的には、まず、樹脂粒子に、適量の例えばテトラエトキシシラン等の金属アルコキシド(1)を
添加して、適度に加水分解させることで、樹脂粒子の表面を金属アルコキシド(1)の加水分解物で
置換する。このような液体を有機溶剤Aとする。一方で、水溶液中に例えば3-メルカプトプロピル
トリメトキシシラン等の金属アルコキシド(2)を分散させ、部分的に加水分解することで水溶液B
を得る。ここで、金属アルコキシド(2)は金属アルコキシド(1)よりも加水分解速度が遅いもの
を選択する。そして、有機溶液Aと水溶液Bを混合することで、金属アルコキシド(1)が覆われた
樹脂粒子の表面にさらに金属アルコキシド(2)の層が形成される。樹脂粒子は、水相に沈殿する。
表面付近にある金属アルコキシド(2)は金属アルコキシド(1)よりも加水分解の速度が遅いので、
水相に沈殿したときに樹脂粒子の表面のアルコキシドが一気に脱水縮合し、大きな塊となることを防
ぐ。水相中の樹脂粒子にさらにシリカガラス層等の無機酸化物層を堆積させる。これは、通常のスト
ーバー法により、アルカリ性領域でわずかな量の金属アルコキシド(3)を、大量の水とアルコール
で加水分解し、核となる樹脂粒子に堆積させることで行える。これにより、バリア層を形成すること
ができる。

● 量子ドットが耐熱性試験や耐湿熱性試験で劣化しやすい原因

まず、上記したように、量子ドットの表面には硫黄系化合物やリン系化合物等からなるリガンドが配
位しているが、このリガンドは光や熱で脱離しやすい。リガンドが量子ドットから脱離すると、量子
ドットに水分や酸素が付着しやすくなるので、量子ドットは、酸化され、劣化してしまう。これによ
り、量子ドットが耐熱性試験や耐湿熱性試験によって劣化してしまうものと考えられる。これに対し、
量子ドット3を包む樹脂粒子2が硫黄、リン、および窒素からなる群から選択される1以上の元素お
よびカルボン酸の少なくともいずれかを含んでいるので、量子ドット3の近傍に硫黄成分、リン成分、
窒素成分およびカルボン酸の少なくともいずれかを存在させることができ、これにより優れた耐熱性
および耐湿熱性を有する光波長変換粒子1を得ることができる。

これは、リガンドが量子ドットから脱離した場合であっても、樹脂粒子2中に存在する硫黄成分、リ
ン成分、窒素成分およびカルボン酸の少なくともいずれかがリガンドの役割を補助するような機能(
例えば、リガンドの代わりに量子ドットに結合して、リガンドを代替する機能および酸素を捕捉する
機能の少なくともいずれかの機能)を発揮するので、量子ドットの劣化が抑制されるためであると考
えられる。

この様に、量子ドット3を包む樹脂粒子2が硫黄、リン、および窒素からなる群から選択される1以
上の元素およびカルボン酸の少なくともいずれかを含むので、このような元素やカルボン酸を含まな
い樹脂粒子に比べて、量子ドット3の劣化を抑制することができるが、量子ドットの中には、量子ド
ットの表面の一部が樹脂粒子の表面に露出しているものも存在する。被覆層4が、水分や酸素の透過
を抑制するバリア層である場合には、量子ドット3の一部が樹脂粒子2の表面に露出している場合で
あっても、バリア層によって樹脂粒子2から一部が露出している量子ドット3と水分や酸素との接触
を抑制することができるので、量子ドットの劣化をより抑制できる。これにより、より優れた耐熱性
および耐湿熱性を有する光波長変換粒子1を得ることができる。

量子ドットを直接ガラス粒子に内包させた場合には、水分や酸素の浸入を抑制できるものの、脆いの
で、製造時や加工時、または耐熱性試験や耐湿熱性試験の際にクラックによる欠陥が発生しやすく、
安定な品質を有する光波長変換粒子が得られにくい。これに対し、本実施形態においては、量子ドッ
ト3を樹脂粒子2に内包させているので、優れた柔軟性を有し、クラックによる欠陥を抑制すること
ができる。これにより、安定な品質を有する光波長変換粒子1を提供することができる。被覆層4が
バリア層である場合、量子ドットを直接ガラス粒子に内包させた場合よりも、柔軟性を有し、クラッ
クによる欠陥を抑制することができる、と。このように記載されている。


                                      この項つづく



【米国太陽発電の最前線:「単結晶」が「多結晶」を抜く】

「単結晶」が「多結晶」を抜く、2017年の太陽光パネル市場 - 日経テクノロジーオンライン(2018.1.03)

米太陽光発電市場のリサーチ・コンサルティング会社・SPV マーケットリサーチが2017年12月に発行
した太陽光発電市場レポートによると、2000年初頭、シャープ、京セラ、三菱電機といった日本企業
が太陽光発電市場のトップ企業として君臨していた当時、モジュール(パネル)の主流は多結晶シリ
コン型だった。当時、単結晶シリコン型は高効率だが高価なため、安価な「多結晶型」が価格競争で
優位性を示していたが、「単結晶型」が徐々にシェアを上げ、ついに首位を奪回したという。同レポ
ートによると、2017年における太陽電池セルの世界での生産容量は97.7GW、このうち出荷量は93.8G
W
、設置容量は95.1GWと予測している。モジュールタイプ別シェア分析では、93.8GWの出荷量のう
ち、単結晶シリコン型のシェアは49%で、多結晶シリコン型は46%、化合物型のカドミウムテルル(
CdTe)タイプは3%である(上図)。

2016年における多結晶シリコン型のシェアは54%で、単結晶よりも13ポイントも多く、首位を保って
いた。しかし、2017年には、単結晶シリコン型のシェアが、多結晶型よりも3ポイント多くなり、初め
て逆転。その背景として同レポートでは、単結晶シリコンがシェアを増加させた要因として、モジュ
ールメーカーがプレミアムモジュールに移行したことを挙げている。その一つが、2016年にモジュール
メーカーが生産を本格化し始めたp型単結晶シリコンを使った「裏面不動態型セル」(PERC: Passiva-
ted Emitter and Rear Cell
)である。2017年にはPARCの商業生産が拡大し、高効率化と共に価格が低下し
てシェア増加に貢献。このように、2015年には、米サンバワー社の「バックコンタクト(IBC)」、
パナソニックのヘテロ接合 (HIT)、韓国LG社の太陽電池パネルが市場でプレミアム価格を発揮。ま
た高変換効率のn型の単結晶シリコンを使ったパネルへの期待が高り、2016年に入ると、p型単結晶と
多結晶シリコンを使った「PERC」を使った太陽光パネルへの移行が顕著になり、2013年第3四半期に起
こった価格下落は、n型太陽電池のプレミアムをはぎ取り、太陽電池メーカーの方向性をp型単結晶シ
リコン型を促す。



●世界太陽光発電市場における太陽光パネル・タイプ別シェア推移(2006~2017年)

さて、n型の単結晶シリコン型の生産には高品質の材料と銀ペーストが必要で、そのため生産コスト
が他の技術より割高になる。太陽光発電産業における競争は、一貫して価格ベースであり、積極的な
価格設定が一般的な競争手段とされている。「高変換効率のn型単結晶シリコンのシェアはさらに増
加するものの、トップシェアを占めることはないとの予測がある。因みに、単結晶シリコン型におけ
るn型モジュールの出荷量シェアは38%で、残りの62%は「p型」となっている。現在2017年の「
n型」 対「 p型」のシェアはまだ公開されていないが、「p型」のシェアが大幅に拡大した予測され
ている。 

現在、n型の単結晶シリコン型パネルの生産量で、トップ企業は米サンパワー社だが、韓国勢がシェ
アを拡大している。p型の単結晶シリコン型パネルの生産量でトップとなるのは、中国のジンコソー
ラーとみられている。同社は昨年11月8日、PERC構造のp型の単結晶シリコン型太陽電池セルで、世界
最高となる変換効率23.45%を達成したと発表した。同社の広報担当者によると、PERCは成熟した技
術になりつつあり、2018年には量産規模がさらに拡大すると予測している。残念ながらここでも日本
メーカの名前はない。

  

【冬の味覚:日本の蟹鍋と造里】



冬といえば蟹鍋。蟹の殻向きは慣れないものはやっかいだが鍋も良し、焼きも良し。加えて刺身、に
ぎり寿司といえば豪華絢爛である。


 

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金への執着

2018年01月02日 | 時事書評

   

        離婁(りろう)篇    /    孟子  

                                 

      ※  行動の基準:孟子が楽正子に面とむかって言った。「お前が子敖のお伴
     で斉に帰って米たのは、飲食のためだったとはな。聖人の道を学ぶ身で
     ありなが
ら、飲食のために行動するとは。私には考えられないな」

     孟子謂楽正子曰、子之従於子敖来、徒餔啜也。我不意、子学古之道、而
     以餔啜也。

 

 Jan. 1, 2018

【金神社初詣記】

恒例通り、白山神社から北野神社の参拝をすませ、SNSで昨年話題となっていた岐阜市金町5丁目の
金神社に参拝。生憎、伊吹-関ヶ原-美濃-大垣は小雨――雪でないのが不思議――なのだが正午ま
でに参拝をすませ帰ってくる。さて、金神社の起源は、成務天皇(景行天皇の第4皇子)の時代(1
35年)に物部臣賀夫良命が国造としてこの地に
赴任、国府をこの高台に定めて金大神を篤く尊崇さ
れた。
金神社の主祭神 渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)は景行天皇の第6皇女で、伊奈波神社の
祭神
五十瓊敷入彦命(いにしきいりみこと)の妃。伊奈波神社に伝わる縁起によれば、五十瓊敷入彦
命の成功をねたんだ部下の策略でこの地で命を落とす。
悲しみに暮れる渟熨斗姫命は夫の死を悼みこ
の地で御霊を慰めながら生涯を終えた。
後世の人々は命を慈悲深い神として慕い、いつしか財宝をも
たらす神として信仰変遷する。その後幾度に亘って本殿等が建立されたが、1945年07月09日の岐阜空
襲で焼失。1958
年に復興、1983年から開始された大造営は1988年に完成に至る背景をもつ。

  ● 我が家の特別金神符

 
早速、特別金神符を購入し神棚に飾り今年一年荒神とともに「願うこことが道をつくる」を秘めお祈
りを続けることになるが、それはまたこのとしを「金」執着し生きていこうという内なる表明も意味
する。

 

 【樹木トレッキング 18:ハイマツ】  

ハイマツ(這松、学名:Pinus pumila)はマツ科マツ属の常緑針葉樹。和名は漢字で這松と書き、おそ
らく形態的特徴(樹形)に由来する。種小名pumilaは「小さい」という意味。シベリア、カムチャツ
カ、中国東北部、朝鮮半島、日本にかけての寒冷地に分布する。日本は分布の南限に当たる。氷期に
北方から南下してきて、温暖化とともに日本に取り残されて高山に逃げ込んだ氷河遺存種である。日
本国内では北海道から中部地方の高山帯に分布し、その南限は赤石山脈の光岳、西限は加賀の白山で
ある。日本では高山の高木限界より上部(中部山岳地帯でおよそ海抜2,500メートル以上、北海道で
およそ海抜1,000メートル以上)に自生することが多いが、北海道東部ではまれに海岸近い低地にも
自生している例がある。道東、屈斜路湖の近くにあるアトサヌプリ(硫黄山)は山の標高は512メー
トルに過ぎないが付近の平地までハイマツや高山植物が見られる。これはこの山が常に硫黄の蒸気を
噴出する活火山であるため土壌が酸性化しており、平地に通常生育する植物が育つことができないた
めである。

 Wikipedia

  Nov.3, 2017

ところで、 これまで木々は光や場所を求めて生存競争をしていると考えてきたが、近年の研究では、
木々はハ
ブとネットワークから構成される複雑な社会生態をもち、互いにコミュニケーションを取り
協力しあって生きていることがわかってきたという驚くべき報告がなされているという。さらに、木
々が使う「言葉」とはどういうもので、どうすれば人間が理解することはできるのかを科学者や専門
家らにより研究がすすめられているというのである。

例えば、『ミクロの森――1平方メートルの原生林が語る生命・進化・地球』」の著者のデヴィッド・
ジョージ・ハスケルは木々のネットワークつながりはコミュニケーションを必要とし、言葉を生み出
せる。自然のネットワークを理解するにはまず、木々のおしゃべりに耳を傾ける必要があると語る。
つまり、エクアドル・アマゾンに住むワオラニ族には、自然のネットワークの特性や生きとし生ける
ものはコミュニケーションを取っているという発想は自然なことと認識しており、ワオラニ族の言葉
の中にも木々と周囲のものとの関係が反映されているという。

例えば、多くの人は「セイボの木」を見た時に「セイボの木」として表現するが、ワオラニ族は「セ
イボの木が枯
れている」という使い方をおこなわず、あのツタに覆われているセイボの木、「黒いキ
ノコと藻が多いセイボの木
という言葉使いをし、単なる「セイボの木」という言葉遣いはなく、周囲
の草木との関わりあいなど、生態学的な
背景なしに名前を呼ばばい。ある言語学者によれば、ワオラ
ニ族の言葉を翻訳する時に苦労すると語る。このように、木々が生き物として周囲の人間や他の生き
物たちと関わっていると認識しているワオラニ族は木は切られる時に叫び声をあげる、木々を痛めつ
けると人類によくないことが起こる表現する
また、森について30年間研究し続けてきた生態学者のス
ザンヌ・シマードも「木々は言語を持つ」という考え方を踏襲する。2016年6月にシマードはユーチュ
ーブで25万回、「TED Talk」の公式サイトでは250万回再生された(下図参照)。

シマードはカナダ・ブリティッシュコロンビア州の森の中で育ち、大学で森林学を学び、卒業してか
らは伐採産業で働いていました。しかし、木々を伐採することに抵抗を感じだしたことから大学に戻
って木々のコミュニケーションの研究を開始し、2017年現在はブリティッシュコロンビア大学で生態
学を教えつつ、「木々は地下の菌類によるネットワークを構築し互いにコミュニケーションする」と
の研究を続けている。シマードの研究で明らかになったのは、木々の根には特有の構造を持った菌根
との共生体が存在し、この菌根によりネットワーク形成し、同種の樹木だけではなく異なる樹木間で
もコミュニケーションを取っている。科学的には、木々は炭素・窒素・リン・水・防御信号・アレル
化物質・ホルモンなどを言葉として「会話」をしていると語る。木々が生存競争を行っていることは
明白だが、競争だけでなく「お手伝いしましょうか?」「少し炭素をわけてくれませんか?誰かが私
の上に布をかぶせて日陰になっているのです」といったような協力も行う。

 

また、木々の集合体にはハブとなる「母なる木」が存在し、ハブとネットワークによって森林は複雑
なシステムを形成しています。ほ乳類の母親と同じように、「母なる木」は子どもたちを自分の保護
下に置き、菌根ネットワークを広げ、自分の子どもたちには地下で多くの炭素を送る。また、自分の
根が広がりすぎないように子どもたちが根を伸ばせる場所を作ること(テリトリー)、この「母なる
木」が何らかの理由で痛手を負うと森は元に戻れなくり、森の複雑なシステム自体が崩壊する。シマ
ードは「
森の考え方を変えて欲しい、地下は別世界、木々をつなげ、コミュニケーションを可能にし、
森を1つの有機体のように活動させている。まるで知性を持った有機体みたいだと指摘する。

山林学の専門家で、ベストセラー『樹木たちの知られざる生活―― 森林管理官が聴いた森の声』の
著者でもあるペーター・ ヴォールレーベンはドイツの古いカバ森林を管理していて、シマードらと
同様のことに気づいたと語る。ヴォールレーベンも500年以上続く森を管理することで、木々が複雑
な社会生活を送っていることに気づき、樹木の根を介して砂糖液を隣の木に送っている様子を見て
『木々は光や空間を求めて互いに競争している』ことを学び、正反対のことを目にしている。樹木は
コミュニティーメンバーを生かそうとしていると語る。 食べ物を確保し、住む場所を提供し、きれ
いな水と空気を与えて、多様性を生み出しくれ、貧困を撲滅し、気候変動を緩やかにしてくれるなど、
数々の問題にとって森は重要な要素。ハスケルは木々のことを「生態学の哲学者」と呼び、複雑なネ
ットワーク管理するコミュニケーションと繋がりの達人の木々の会話に人々は耳を傾けるべきだとい
主張する。この様に、歴史的に文学や音楽は、マツの木のささやき、枝の落ちる音、木々のさざめき
などを反映し、多くのアーティストたちは「木々の言語」という言葉を使わずに根本的なレベルで木
々の会話を理解する。私たち人間が木々の言語を理解することは可能であり、もし理解することがで
きれば「自分のいる場所から動かずして地球上に種を繁栄させる方法」を木々から学べるはずと指摘
する。

 Jan. 2, 2018

EVgo と日産との提携により米国初の1,000機の高速充電器導入】

エゴゴは最近、ワシントンD.C.メトロエリアに1000回目のDC高速充電器を開設した。日産の北米との
提携により、2台の最新充電器が設置させた。この地区は、バズートグループが開発・運営するバ
ージニア州フォールズチャーチの最新アパート「ザ・ローレン(The Loren)」の1つにあるワシン
トンD.C.中心位置する。EVgoによれば、このネットワークは現在、新型電気自動車の90%が販売
される大都市圏をカバー、トップセールスのEV市場の66社で稼動。EVgoは、通常、CHAdeMO
CCSの両方のコンボプラグと、別のACレベル2ステーションが設置された50キロワットのマルチ
スタンダードDC高速充電器を使用。比較のため、ChargePointには656Expressスポットが、Tesla
480以上のSuperchargingステーションがある。



Dec. 11, 2017

図2  ROCKキナーゼによるNUP62のFG領域リン酸化修飾によるp63核内移行メカニズム  


【分子ナノゲート核膜孔複合体分子細胞の運命決定する仕組み解明】

金沢大学らの研究グループは核膜における「分子ナノゲート(核膜複合体)」が転写因子)p63
核内移行を調節する仕組みを明らかにしたことを公表。核を覆う核膜には分子輸送をするためのナ
ノポア(核膜孔,直径約100 ナノメートル)が存在し、この核膜孔は30種類の分子から成る核膜
孔複合体により形成。ます(下図1)。幹細胞が適切に性質を維持し、機能するためには,核膜孔
複合体による分子輸送が秩序立って進められることが重要です。転写因子p 63 は多層上皮組織幹細
胞や、これらに由来するがん細胞の自己複製・未分化維持に関わる遺伝子の発現を制御することが
知られているが、p63が核内へ移行するメカニズムの不明だった。

今回,本研究グループは,核膜孔複合体分子がp63を核内へ移行する過程を詳細に解析し、p63が核
内へ移行する過程で,フェニルアラニン-グリシン(FG)-ヌクレオポリンの一つであるNUP62の
FG領域が介在していることを明らかにしました。さらに,上皮分化を誘導することで知られるROCK
キナーゼにより、G領域のリン酸化を受けたNUP62は、p63を核内輸送する能力が減少することを見
いだす(上図2)。これらにより、核膜孔複合体は細胞内環境に応じて変化し,効率良く細胞の運
命を方向づける分子ナノゲート機能であることを解明に成功する。






 ● 今夜の一曲

『よーそこの若いの 』

竹原ピストル(1976年12月27日 - )は、日本のパンクシンガー、ギタリスト、俳優である。本名、
竹原 和生(たけはら かずお)の名で活動することもある。千葉県千葉市出身。道都大学社会福祉
学部卒業。京都府八幡市在住。元野狐禅のメンバーであり、解散後はソロとして活動。俳優として
は熊切和嘉監督作品を中心に映画に出演しているが、本人によれば、気持ち悪いほど几帳面な性格
で、マイクが1センチでもズレているとずっと気になるという。

紅白歌合戦は圧倒的に白組だとおもっていたがそうなった。勝因の印象として、竹岡ピストルと桑
田啓介、よしきが強く響いた。そのなかでも竹岡ピストルが今後が楽しみである。

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