【遺伝子組み換え作物論 23】
第6章 バイテク産業の汚れた策略 そのⅠ
インドネシア
インドネシアでスハルト大統領が権力を握っていた1960〇年代には、国家による殺人や暴力
が広がっていた。ところが2001年2月に、害虫抵抗性「Bt縮」の種子を、モンサント杜の子
会社社である「モナグロ杜」によってインドネシアに輸入した時にも軍隊が支援し、報道管制が敷
かれる事態となった。新聞『ジャャカルタ・ポスト』は次のように報じている。
「環境保護団体の激しい抗議の中、南アフリカから空輸されてきた遺伝子組み換え綿の種子40ト
ンが、マカッサル空港に到着した、巨大な機体は厳重に警備され、報道陣やカメラマンも近づけな
かった。警護にあたったインドネシア空車は、安全上の理由で報道関係者を遠ざけたと語る」
さらに環境保護の運動家たちを驚かせだのは、政府が点検・管理することもなく、この種子をそ
のまま流通させたことである。しかも運搬用のトラックには、「コメ輸送中」と記されていた。
インドネシアは、東南アジア諸国の中で最初に「Bt綿」が商業栽培された国だが、その認可を
めぐってはさまざまな疑惑があった。「インドネシア森林山然保護分団協議会(NCPIFN)」
の事務局長テージョ・ワヒューは、一法律にのっとれば、農務人口の認旺を得るためには、モンサ
ント杜の子会社であるモナグロ社が環境影響評価を行なう必要があった。ところが、その手続きも
経ずに、なぜ農務省が認可たのか大いに疑問が残る」と指摘する。
「2001年9月には、インドネシアのNGO連合が「甫スラウェシ州における遺伝子組み換え
綿の商業栽培は、法的手続きを欠いているし、環境に対する影響評価も不十分でノ認可を取り消
すべきである」と主張し、最高銃に告訴した。
こうした事件が起きた経過について、後になって英国紙「フィナンシャル・タイムズ」は次のよ
うに維じている。
2005年1月、米国政府に刻してモンサント杜は、罰金150万ドルを支払うことが決定され
た。その理由は、回杜がインドネシアにおいて、新たな遺伝子組み換え綿の審査を回避するため賄
賂を用いたことによる,米国司法貨の刑事告発によると、同社は2002年に、環境政策を担当す
るインドネシアの高級官僚に5万ドルを渡して、環境影響評価を必霞とする規則を修止するか、廃
止させようとしか金銭の受け渡しは、インドネシアの了会社で働く人物を介して行なわれたが、米
国にあるモンサント本社の上級役員もその行為を承認していた。なお同杜は、1997年から20
00年にかけてもインドネシアで、多数の官僚に70万ドルを超える賄賂を贈っていたことを認め
ている」
NGO「GMウオッチ」は次のように指摘する,
「収益全体のわずか1%にもならないインドネシアで、モンサント杜がこの8年間に.140人
以上の役人とその家族に賄賂を階るという犯罪を実行したのはなぜだろうか。そこには、もっと重
大な題点が潜んでいるのではないだろうか。
つまり、モンサント杜がこうした手段を使って規制から逃れようとしているのなら、安全性評価
の際に提出するデータも改ざんしている可能性があるのではないか。モンサント杜が作成した資料
について、誰も内容を点検せずに認可した場合には、何か問題が起こるのではないだろうか」
インドネシアでモンサント杜は、害虫抵抗性「Bt綿」の収穫量について当初、楽観的な数字を
掲げていたが、干魃や害虫の被害にあって初年度から問題を起こした。それにも関わらず、翌年
になるとモンサントの子会社は種子価格を倍に上げ、綿の買い取り価格は15%引き上げた。しか
し、農民はこの条件を拒否できなかった。すでに農民は同社と同意契約書を交わしており、同社は
収穫された綿の購入を拒否することもできたからである。農民の一人は次のように語っている。
「農民に他の選択肢はなかった、モンサント杜は、農民の生活を向トさせたいと願っていたわけ
ではなかった。農民は借金の罠にはまって自立することもできず、永久的な奴隷にされてしまった
企業は、種子や肥料、販売先だけでなく、私たちの生命に至るまで、すべてを独占しようとしてい
るのだ」
しかし結局、多くの農民が借金の返済を拒んだことで、モンサント社はこの地方から撤退するこ
とになった。
それでも2003年3月になると、モンサント杜は何としても雅業を継続するため、インドネシ
アの農務大臣に文書を送った。同社が利益を出せるよう、さらに規制を緩和することを要請したの
である,文書の中でモンサント社は、「事業を持続させるために、Bt綿の種子の使用権を無料に
し、一般の柚子と同じ価格にして、急務大臣に提供すること。そして、急務大臣の販売網や個人的
な協力者を通じて、農民に販売すること」を提案してきた。
最終的には2003年12月に、モンサント杜は利益が出ないことを理由にインドネシアから事
業を撤退した。
タイ
タイでは2002年1月に、遺伝子組み換え食品の表示を義務づけたが、それと同時に、遺伝子
組み換え作物の承認f続きを一時、中止した。すでに前年の四月から国内における遺伝子組み換え
作物の試験栽培も串良していたため、米国は、タイ政府の貿易政策に対して強い圧力をかけていた。
2001年2月には、タイの食品医薬品局長官が、「米国の通商代表から、貿易制裁を実施する
と脅された」と明らかにした。「もしもタイが遺伝子組み換え食品の表示を実施すれ
ば、年間87万ドルにのぼるタイから米国への輸出に影響するだろう」と脅されたのだ。それでも、
2000年6月にタイの環境大臣は、「もしも米国とタイの二国間で"自由貿易協定(FTA)を
結んだとしても、遺伝夕組み換え作物の輸出入については条件をつけるべきだ」と公に批判した。
ところが、大方の予想通り2004年8月になると、タイの首相は米国からの強引な圧力に屈服
して、遺伝子組み換え作物の商業栽培を承認すると発表した、農民、輸入業者、消費者団体、環境
保護運動家からは、強い抗議の声があかっか。しかも他方では、タイ国内の研究所で行なわれた遺
伝子組み換えパパイヤの試験栽培において、種子が在来種と交雑する事件が起きた。タイ産パパイ
ヤの輸出先である欧州が輸入を拒否したため、タイ企業は30万八ーツもの損失をこうむった。し
かも、そもそもこの試験栽培自体が、当時の禁止今に違反して行なわれたものだったのである。こ
うした状況に背中を押されたタイの関係当局の大臣たちは、首相が認めた遺伝子組み換え作物の商
業栽培に反対し、遺伝子組み換え作物の栽培を三年間、一時停止することを決定した。
ところが、すでにバイテク企業は、いつものような策略を進行させていた。たとえば、フィリピ
ンと同様にタイの農家は、遺伝子組み換えであると知らされずに、害虫抵抗性トウモロコシの種子
を提供されていた。
また、1999年9月にバンコクのNGO「バイオ・タイ」は、法令に違反して遺伝子組み換え
綿の種子を流通したバイテク企業を訴えていた。当時、この種子は販売されていなかったのに、タ
イの中央と北東部の畑で栽培されているのが発見されたのである。バイテク企業は容疑を否認した
が、NGO「バイオ・タイ」は、「証拠から判断して、同社がタイの法律と主権を軽視していたこ
とは明らかだ」と批判した。さらにNGO「バイオータイ」は、「同社は、客観的な記事を装った
広告をタイのマスコミに掲載することで、遺伝子組み換え作物を擁護し、その危険性については知
らせなかった」と告発する。
2003年11月に、タイの新聞「ザ・ネイション」は次のように報じている。
「バイテク企業は、貧しい農民を使って遺伝子組み換え作物を生産させた。商業栽培を禁止した
タイ政府の方針に違反して、害虫抵抗性トウモロコシをタイ北東部の農家に栽培させていたのであ
る。バイテク企業の役員と広報部は。農民に新しい技術を伝え、新たに開発された種子を使えば、
すべての問題を解決できることを知らせたかった・と語っている。しかし彼らはこのプロジェクト
を通して、同社が販売する桂子や農薬を宣伝し、種子を使った農民には、無料で傘やTシャツ、プ
ラスチックのバケツなどを提供していたのである」
2004年9月、タイの「全国バイオセーフティ委員会(NBC)」の委員長は、「禁止されてい
るはずの試験栽培が海外の多国籍企業の指示によって秘密裏に実施されているのは、タイの法令に
抜け穴があるためだ」と指摘している。
パキスタン
パキスタンでは、密輸によって侵入した遺伝子組み換え種子が全国に広まっている。そのため、
2002年9月には、他国で認可された遺伝子組み換え種子については同国でも承認することを決
定した。その目的は、どの種子が入ってきているのか監視する体制をつくることにあるとされた。
すでにバイオセーフティに関する規則が制定されていたため、逆にそれが言い訳として使われた
のである。
しかし、すでに1999年8月には、モンサント社がパキスタン政府に特許法の制定を要求し
て激しいロビー活動を展開していることを、政府高官が非難していた。「モンサント社は自社に
都合のいい法律を制定させるため、政府当局に文書を送ったり、政治家と会合を開いたりして、
陰で積極的に影響力を発揮していた」と政府高官は語っている。
実は、WTO協定の一つである「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS)」で
は農民が種子を自家採取して、保管、交換、使用することを認めていたのである。したがって、遺
伝子組み換え作物を導入させても、農民が種子を自家採種する権利を許すことになることを危惧し
たモンサント杜が、特許法を制定させるためロビー活動を展開していたのだった。
スリラン力
スリランカでは2001年5月に、遺伝子組み換え作物の輸入を禁止した。人間への健康リスク
を検討するための時間が必要と判断したのである。同国の保険局長は、「消費者にとっては安全性
が最優先課題であり、その不安が取り除かれるまで、輸入禁止を継続する」と発表した。
ところが、米国はいつものように、米国流の民主主義を強要し、「禁止措置を撤回しなければW
TOに提訴する]と主張した。結局、米国の圧力に屈服して、決定からわずか二日後に、輸入禁止
措置は無期限に延期されることになった。スリランカのNGO「環境財団」は、新任の保険局長に
要請して、再度、禁止措置の実施を求めているが、今のところ成功していな。
アルゼンチン
アルゼンチンは、長年にわたって国際通貨基金(IMF)と世界銀行の方針に順応してきたモデ
ルであり、多額の債務を返済して経済を成長させるため、農業を輸出産業に転換してきた。そして
また、アルゼンチンは米国の遺伝子組み換え推進政策に従ってきたという点でもモデルであった。
ところがその結果、アルゼンチンの経済と社会は悲惨な状況に陥ったのである。
アルゼンチンで、除草剤耐性「ラウンドアップ・レディ大豆」が初めて栽培されたのは1996
年たった。遺伝子組み換え作物をめぐる国民的な議論はなかったし、情報も公開されなかった。
「実質的同等」という怪しげな概念を基礎にして遺伝子組み換え作物が承認されたが、「遺伝子組
み換え作物承認委員会」の科学者メンバーは、そのほとんどがバイテク企業に勤務しており、NG
Oの代表が議論に参加することもなかった。
モンサント杜は、自社の利益をアルゼンチンで実現するために積極的に活勤し、政府に圧力をか
けてきた。
モンサント杜の広報官によれば、2000年12月に、同社は「アルゼンチン政府が遺伝子組み
換え作物に関する規制を緩めないのなら、事業活動を停止する」と脅しをかけた。南米モンサント
杜の農業所長ミゲルーポトチユニックも、「ロイター通信」に次のように語っている。
「アルゼンチンは、EUが新たな遺伝子組み換え作物を承認すれば、アルゼンチンも承認すると
いう方針を実施しようとしていた。しかしそれでは、合弁事業として800万ドルもかけた遺伝子
組み換え綿の加工処理工場が、操業できなくなる可能性がある。投資が無駄になることを避けるた
めに、遺伝子組み換え綿を承認しないのなら、別の工場も閉鎖するかもしれない」
2003年10月にも、モンサント杜は脅しをかけた。「アルゼンチンには遺伝子組み換え作物
についての明確な中期戦略もないし、知的財産を保護するために必要な法も整備されていない。こ
のままではモンサント杜としては、4000万ドルの投資も延期することになるだろう」と主張し
たのである。
さらにモンサント社の担当者は、次のような問題も指摘する。
「アルゼンチンで栽培される遺伝子組み換え大豆の60%には、違法に販売された遺伝子組み換
え種子が使用されている。モンサント杜が投資を続けるためには、公平に競える条件・が必要だ。
アルゼンチン政府はモンサント社と共同して事業を展開すべきであり、違法な種子の販売を中止さ
せて品質が保証された種子を農民に販売すべき塔」
事実、2004年1月にモンサント杜は、「アルゼンチンには巨大な闇市場があるため、収益を
上げられない。この状況が変わらなければ、モンサント杜としては新たに開発した遺伝子組み換え
大豆の種子の販売や、地方の環境に適応した品種の開発を中止するだろう」と発言した。こうして
モンサント社は、農民を取り締まるようアルゼンチン政府に圧力をかけたのである。
2004年10月になるとモンサント杜は、「アルゼンチン政府が港で検査を実施して、輸出さ
れる遺伝子組み換え大豆に対してライセンス料を徴収する]ことを主張した。農務省の担当者は、
その時の状況を次のように語っている。
「彼らの要求はほとんど脅迫だった。これまで我々は、遺伝子組み換え種子の販売についての法
的枠組みを整備するために何度も協議し、意思の疎通をはかってきた。ところが残念ながら、モン
サント社の態度はまるでギャングのようで、ビジネスの交渉とは呼べない状況だった」
それでも担当局は、モンサント杜との協議の結果、遺伝子組み換え種子の輸出入を管理する新た
な法を整備することに合意した。
しかし結局、アルゼンチンの人々にとっては最悪の事態になった。バイテク企業や最も裕福な地
主たちの出資によって新たな組織が設立され、この種子販売会社が強引な手法を用いて農民に大豆
の種子を販売することになったのだ。消費者に対しても、補助金を利用して、もっと大豆製品を食
べるように大々的な広告宣伝を行なった。2002年にアルゼンチンは、通貨危機に陥って経済が
破綻し貧しい人々は肌えに苦しんでいた。それ以来、現在も多くの人々が遺伝子組み換え大豆を食
べるようになっている。しかし、その大豆は人間に対する安全性試験を行なっていない、家畜の飼
料用として開発された大豆なのである。
リーズ、アンディ 著 『遺伝子組み換え食品の真実』
この項つづく
● 箱庭と盆栽と借景の融合
19世紀末期、欧州没落を背景とし「キリスト教的理想」に代わる「超人思想」が――山に篭もたツァラ
トゥストラが神が死んだことを知り、絶対者がいなくなった世界で超人を教化しようとするが失敗し、
彼は自分の思想を理解する人を探すも挫折し山に帰郷する。山中で何人かの特別な人々と会い交流し歓
喜する。最後には再び山を降りることで結末するという展開で語られる――ニーチェは、この神の死、
超人、そして永劫回帰の思想を散文的な文体で論じた。このの時代、ザラスシュトラの思想は一つの流
行となっていたが、その著作『ツァラトゥストラはかく語りき』は、彼自身の思想をザラスシュトラに
仮託し書き表したものであるが、ゾロアスター教を誤認し書かれたもので、ザラスシュトラの教えには
永劫回帰はなく、全ては無から生じ無に還るの記述は、ヴェーダのガーターなどヒンドゥー起源の書物
に引用されているが、ガーターにはニーチェほどのラディカルな回帰性はないとされる。
ところで、映画『2001年宇宙の旅』のイントロでヒャルト・ゲオルク・シュトラウスの交響詩『ツァラ
トゥストラはかく語りき』が使われている。シュトラウス(Richard Georg Strauss,1864.06.11 -1949.09
.08)はドイツ後期ロマン派を代表する交響詩とオペラの作曲家。モーッァルトを崇敬、「『ジュペター
交響曲』は私が聴いた音楽の中で最も偉大なも、終曲のフーガを聞いたとき、天国にいる思いがした」と語った
という。シュトラウスが新しい音楽に興味を持つきっかけとなったのは、ヴァイオニスト奏者のアレク
サンダー・リッターと出会いによりる。このとき、交響詩『ドン・ファン』が生まれ、1896年、『ツァ
ラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra)が生まれる。また、シュトラウス第二次世界大戦
終結後、ナチスに協力したかどうかで連合国の非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となったが、
1940年にナチスの求めに応じて、日本のために「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」を書く。
1948年、時間をもてあましていたシュトラウスは家族に薦められ最後の作品のひとつになる『4つの最
後の歌』を作曲――この時代、すでにシュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノ、ケージなどの前衛作
曲家達が登場し、彼の作風は古色蒼然の時代遅れなものであったが――人気を博したといわれている。
晩年、庭の花を観てよく、「私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」と呟いたという。1949年9月8
日、イツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンにて没する。享年85。遺言により、葬儀では『ばらの
騎士』第3幕の三重唱が演奏された。
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