極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

石舞台と鎌倉殿

2022年10月17日 | 時事書評


彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救っ
たと伝えられる"招き猫"と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。
(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編
のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクタ。愛称「ひ
こにゃん」



1.ベロニカ 2.ホダシカモツケ 3.ホウセンカ 
4.ホテイアオイ

【時折園芸日誌】

16日、来年の春に向け、グランドカバー用として芝桜の苗植を
はじめる。その他ガーデンシクラメン、アネモネ、水仙、ロー
ズマリー、スノードロップなども時宜をみて植え予定。







【明日香村の石舞台と威徳院】
9月15、午前7:15、叔母と従兄弟の墓参に明日香村尾曽の威徳院へ向
かう。これは予定を一週間前倒しでの出張り。現地で従兄弟と合流す
ることになる。ご承知の通り空海開祖とする真言宗で吉野を地元とす
る母方(桐井家)の浄土真宗とも、父方の有山家の浄土宗(知恩院)
とは宗派は異なる。寺は最寄りの駅は近鉄飛鳥駅で降り、石舞台古墳
より東に車で約10分。山道約5分上りきる山の頂上付近にあり、寺
境内からは奈良盆地見通せ、遠くは二上山右よりに天気良く靄が掛か
らない日には、阿倍野ハルカスが見える。商売繁盛、学業成就の毘沙
門を本尊とする。この寺院は、毘沙門天を秘仏本尊とし、飛鳥時代に
日羅上人が、紫の雲をまとって感得されたと伝えらており、境内には
ミニ四国八十八カ所お砂踏み道場があり、参詣者は踏んで帰ることが
習わしと言う。また空海の生誕1250年を記念し空海が、中国に渡り修
行した空海が、中国に渡り修行した青龍寺の「お砂」で明日香の地に
お砂踏み場を建立。さらに、四国八十八箇所、四国にある空海(弘法
大師)ゆかりの88か所の仏教寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な
札所である。他に「八十八箇所」「お四国さん」「本四国」などの呼
称がある。また四国八十八ヶ所霊場会では「四国巡礼」といい、俳句
では春の季語となり、地元の人々は巡礼者を「お遍路さん」と呼び、。
札所に参詣することを「打つ」(「納札」)、巡礼に親切にすること
を「お接待」と言う。本尊でお勤めを済ませ、お砂踏み道場にある合
同慰霊碑を参拝を済ませ、
当日、合流した母方の従兄弟は、明日香村
石舞台古墳----6世紀の築造。巨石30個を積み上げて造られた石室古
墳。その規模は日本最大級を誇る。盛土が失われて、露出した天井石
の上面が平らなことにちなんで、石舞台と呼ばれる。墳丘は1辺50m
の方墳で、周囲には幅8.4mの濠がめぐる。石室の長さは19.1m、玄室
は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6m。石の総重量は推定 2,300t、
古墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t、北側約64tもあると
いう。この巨大古墳が誰の墓なのかは不明であるが、馬子墓説が有力
とか----を案内(観光客が多く、山手側から撮影(巻頭フォト参照)。



 
【威徳院とお砂踏み】
ところで、「お砂踏み」とは、1200年以上の歴史がある四国八十八ヶ
所霊場巡りは、昔は今のように交通の便も発達しておらず、遍路の旅
を願いながらも様々な事情で叶える事ができなかっため、約400年前、
各霊場のご本尊様の写し仏をお祀りし、持ち帰った八十八ヶ所霊場の
お砂を踏みながら礼拝することで、お四国を巡ったことと同じ功徳を
いただけると考えられた。帰りは、そのまま、近鉄橿原神宮前で橿原
神宮前ホテルで会食ランチを頂き午後5時に京滋バイパス経由ではな
く西阪名道経由でゆっくりと帰宅する(往路とも今後このルートの変
更することにする)。


威徳院の桜 




【概説】中世期最大の詩人のひとりであり、学問と識見とで当代に数
すくない実朝の心を訪れているのは、まるで支えのない奈落のうえに、
一枚の布をおいて坐っているような境涯への覚醒であった。本書は、
中世初期の特異な武家社会の統領の位置にすえられて、少年のうちか
らいやおうなくじぶんの〈死〉の瞬間をおもい描かねばならなかった
実朝の詩的思想をあきらかにした傑作批評。

〈目次〉
1 実朝的なもの
2 制度としての実朝
3 頼家という鏡
4 祭祀の長者
5 実朝の不可解さ
6 実朝伝説
7 実朝における古歌
8 〈古今的〉なもの
9 『古今集』以後
10 〈新古今的〉なもの
11 〈事実〉の思想
実朝における古歌 補遣
実朝年譜

    あの戦争のころ、できたらその一言一句もききもらすまいとね
 がっていた文学者のうち、太宰治と小林秀雄とは、もう最後の戦
 争にかかったころ、それぞれの仕方で実朝をとりあげた。太宰治
 は『右大臣実朝』をかき、小林秀雄は、のちに『無常といふ事』
 のなかに収録された「実朝」論をかいた。大宰の『右大臣実朝』
 は、ひとくちにいえば太宰の中期における理想の人物像を実朝に
 托したものといっていい。「駈込み訴へ」にはっきりと描かれて
 いるように、太宰の中期の理想像はキリスト・イエスであった。
 そして実朝にはキリスト・イエスにあたえた人物像をほとんどそ
 のまま再現したといってよかった。聡明で、なにもかも心得てい
 ながら口にださず、おっとりかまえているといった人物像は安定
 期の太宰のあこがれた理想像であった。こういう人物はかならず
 現実では敗北するのだが、その敗北はよく心得た敗北であり、も
 し人間性に底しれない深い淵のようなものがあるとすれば、真に
 それを洞察できる人物は、こういう敗北を、あるいは敗北と感じ
 ないかもしれない。そこにいわば太宰治の人間にたいする祈願の
 ようなものがあるといってよかった。実朝がじっさいにそういう
 人物であったかどうかはべつとして、北条氏執権の陰謀のうえに
 のりながら、暗殺されるまで耐えて、けっしてぼろをださなかっ
 た『吾妻鏡』の実朝から、太宰はそういう実朝像をこしらえあげ
 たのである。もちろん太宰治の実朝像は『吾妻鏡』からうかがえ
 る実朝像を極度に拡大してみせたものであった。だから実朝と北
 条氏時政あるいは義時とはじっさいは反目などはなく、よく心得
 え了解しあったものどうしの主従であった、というところまで解
 釈を拡げてみせなければならなかった。陰険な策謀のできる北条
 氏にたいして、いささかでも冷たい暗黙の反感をしめす実朝を描
 くとすれば、おそらく実朝の実像にはちかくなったかもしれない
 が、太宰治の理想の人間像にはかなわなかったのである。心得て
 だまされながら悠然としていられる人物、裏切られても憎げかえ
 らないで、平気で滅亡できる人物が、太宰のひそかに願いつづけ
 た自我像であったといってよい
  小林秀雄の描いた実朝像は、陰惨な暗殺集団のうえにのっかっ
 た無垢な詩人の孤独といったものに重点がおかれていた。しかし
 なによりも小林の実朝論がわたしを驚かしたのは、古典を身近に
 呼びよせてしまうその手腕であったといってよい。かれの実朝像
 がじっさいに叶っているか、学問的にいってどうかというたぐい
 のことはあまり問題ではなかった。ただ、かつてどのような批評
 家も研究者も、これだけ鮮やかに古典のなかの人物を蘇えらせた
 ものはないようにおもわれた。小林の描いた実朝はべつに小林の
 理想像ではない。むしろ戦乱のなかで、ある意味で孤独であった
 小林秀雄自身が、実朝に移入されているとみてよかった
  そのころわたしの傾倒していた数少い文学者のうち二人までが、
 どうして〈実朝〉をとりあげたのだろうか。これにはべつに共通
 の理由はないのかもしれない。極端な復古主義的な風潮のなかで、
 じぶんなりの〈古典〉をしめしたかっただけであったのか。
  けれど、読者のほうはいつもわがままである。そこに〈実朝的
 なもの〉ともいうべきものがひとりでに形成されてくる。〈実朝
 的なもの〉とは、外観からいえば第一級の詩心の持主であるとい
 うことであり、また、暗殺によって夭折したものであるというこ
 とである。そしてもしかすると〈貴種〉であるということである
 かもしれない。しかし、その生涯の曲線にこれだけの条件があれ
 ば、作家や批評家の関心を惹くであろうか。どうもそれは疑わし
 いようにおもわれた。太宰や小林の 〈実朝〉から、わたしがう
 けとったものは〈実朝〉でなくてもよいような何かであった気も
 する。それを〈実朝的なもの〉と名づけておくとすれば、この〈
 実朝的なもの〉は、暗い詩心ともいうべきものに帰せられる。そ
 してこの暗い詩心は、そのまま太宰や小林の内面に帰せられるも
 のであった。太宰が「平家ハ、アカルイ」、「アカルサハ、ホロ
 ビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」と作
 中の実朝にいわせたものが心に響いたといいかえてもよい。また、
 小林が〈箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る
 みゆ〉を引用して「この所謂万葉調と言はれる彼の有名な歌を、
 僕は大変悲しい歌と読む。実朝研究家達は、この歌が二所詣の途
 次、詠まれたものと推定してゐる。恐らく推定は正しいであらう。
 彼が箱根権現に何を祈って来た帰りなのか。僕には詞書にさへ、
 彼のに孤独が感じられる。悲しい心には、歌は悲しい調べを伝へ
 るのだらうか。」とかいている心が問題であったような気がする。
 これについては、いくらか解説が必要である。
  実朝の在世中は、源平合戦の余殖がまだくすぶり、とくに南海
 道や西海道では不安な小競合いがつづいていた。また、実朝が将
 軍職におさまる前後から死ぬまで、地方の家人たちと律令国衛の
 官人たちとの争いや、社寺の反目、家人たちの領地あらそいは絶
 えなかった。そしてすぐ足元では頼朝以来の宿老たちと北条氏と
 の反目と内乱はあとをたたず、つぎつぎに梶原氏、畠山氏、和田
 氏は北条氏にたいして兵をあげて滅亡させられたのである。この
 宿老たちの内乱で、梶原氏のばあいをべつにすれば、実朝はいつ
 も北条氏にかつぎあげられて、愛すべき宿将たちを失わねばなら
 なかった。しかし、この全国的な戦乱は、けっして〈暗かった〉
 わけではない。戦乱も合戦も単純で直截で愚かでというように、
 人間の心の動きと行動を規制してしまう。むしろ健康で、〈建設
 的〉で痴呆でといったものが社会を支配する。これは戦乱をしら
 ないものにいくら強調してもたりないくらいである。かれらはも
 しかすると、健康で明るく〈建設的〉であることが平和の象徴だ
 と錯覚しているかもしれないから。そう教えこんだものたちが痴
 呆なのだ。実朝の生涯を世情として規定していたものは、こうい
 う明るい危うさであったといってよい。太宰も小林も戦争期のこ
 ういう明るさと、〈建設の槌音〉との健康さがもつ退廃に、ど
 こ
かでついてゆくことができなかった。それは文学の宿命のよ
 うな
ものであるといってよい。かれらの描いてみせた実朝像は
 〈暗い
もの〉のもつ内実であったとかんがえてよい。これは、
 〈明朗アジアの建設〉というようなスローガンのどこかに、かす
 かな疑念をいだいていたわたしの心に浸みこむだけの力をもって
 いたのである。明るいもの、健康なもの、建設的なものはすべて
 まやかしであり、疑いをもったほうがよいというかんがえを、大
 宰や小林の実朝像からうけとった。かれらにとって、戦争のただ
 なかにある自分という設定と、戦乱と合戦と武将たちの内乱のた
 だなかにのっかった実朝という設定とは、おなじことを意味して
 いたはずである。また、明るさ・単純さ・健康さ・痴呆・殺し合
 いのうえにのっかった実朝という設定と、建設的・単純・健康・
 鍛錬・戦争のただなかにおかれた自分という設定とは、おそらく
 おなじことを意味していたはずであった。わたしには、これが〈
 実朝的なもの〉の本質としてうけとられたのである。
 いまにしておもえば、大宰の『右大臣実朝』にも、小林の「実朝
 」論にも、べつの問題がなかったわけではない。実朝の作品に、

      太上天皇御書下預時歌
    おほ君の勅をかしこみちゝわくに
    心はわくとも人にいはめやも

    山はさけ海はあせなむ世なりとも
    君にふた心わがあらめやも

    ひんがしの国にわがをれば朝日さす
    はこやの山の影となりにけり

  大宰が作中の実朝につ叡慮ハ是非ヲ越工タモノデス」と云わせ
 
たところのものはこれらである。
  また、小林が〈山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わ
 があらめやも〉を引用して「この歌にも何かしら本らへるのに不
 適当な無垢の魂の沈痛な調べが聞かれるのだが、彼の天衆が、遂
 に、それを生んだ、巨大な伝統の美しさに出会ひ、その上に眠っ
 た事を信じよう。」とかいたものとおかしであった。当時のわた
 しに、これらをいささかでも否定するだけの力はなかった。もっ
 と、かれらよりも生々しく危ないところにいたからである。
  また、だから逆に敗戦後に〈実朝的なもの〉のうち、この問題
 はなにを意味するのかは、別個の生きもののように脳裏をさらな
 いできたともいえる。もし、いま、わたしが〈実朝的なもの〉と
 はなにかを問いかえすとすれば、ぜひともこの理由をさけてとお
 ることはできない。それはじぶんがじぶんにそれをゆるすことが
 できないからである。実朝はなぜこういう歌合諒まねばならなか
 ったか。また、そのことにはどんな人間的な、また制度的な必然
 があったか。この問題は、詩人実朝をとりあげるのとおなじよう
 に、わたしには不可避である。わたしの〈実朝的なもの〉は当然
 これを包括しなければならない。
  人間は病気で死ぬこともできるし、じぶんでじぶんを殺すこと
 もできる。また他人から殺されることもできる。ただ、他人から
 殺されるばあいには、その〈死〉はどこかで他人の〈死〉と交換
 される条件がなければならない。つまりかれが〈死〉ななければ、
 ほかのたれかが〈死〉ぬとか、かれが〈生きている〉ことは、他
 人が〈生きていること〉と相容れないとか、いうことが、公的に
 か私的にかどこかでかんがえられていなければならない。もちろ
 ん偶然の〈事故〉で殺されるということはありうるが、そのばあ
 いにも偶然性のかかにその〈死〉が他人の〈死〉と交換される条
 件がなければならない。だから、もしもかれが殺されなかったと
 したら、という仮定は言葉の戯れとしてしかなりたたないのであ
 る。

                             吉本隆明著『源実朝』
                                          Ⅰ 実朝的なもの
                          筑摩書房刊

 尚、引用文は本巻は、『吉本隆明全著作集(続)』の第6巻『作家
論Ⅰ 源実朝』であり、昭和四十六年(一九七一年)八月、筑摩書房
から刊行された『源実朔』、昭和四十六年十一月、雑誌『ちくま』に
発表された「実朝論断想」及び昭和五十三年七月に書下ろされた「実
朝論補遺」の三篇によって構成される(「解題」より)。

 以上、第39回の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022.10.16 HI-
STORY 『吾妻鏡』)を観て、実朝を取り巻く史実的描写の見事さに、
思わず鳥肌が立つおもいに憑かれ、本棚にある吉本隆明著『源実朝』
の本を取り出し読み返すこととなり、そのことを彼女に話し、暫し
意見交換厚く話し込み、再読観想を非連続連載することを決める。
 因みに、同ドラマ脚本家の三谷幸喜は「原作のつもりで書いた」と
語っている(特集 歴史 『吾妻鏡』 ~第39回より~、NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」より)。
                        この項つづく

 

時代はもはや
ダ!!!


【再エネ革命渦論 054: アフターコロナ時代 253】
--------------------------------------------------------------
コンパクトでスマートでタフな①光電変換素子と②蓄電池及び③水電
解に④水素系燃料電池、あるいは⑤光触媒由来有機化合物合成と完璧
なシステムが実現し社会に配置されようとしている。誰がこれを具体
的に想定しただろうか。その旗手に常に日本や世界の若者達の活躍が
あった。
--------------------------------------------------------------
技術的特異点でエンドレス・サーフィング
   再生可能エネルギー革命 ➢ 2030 53



図1.
チップ上シリカ共振器で超狭線幅カーボンナノチューブ発光
慶應義塾大学の研究グループは,シリカから作製したトロイド共振器
を用いることで,これまでで最小の発光線幅を有する発光を得ること
に成功している。半導体のカーボンナノチューブ(CNT)は,光通信
で用いられる波長1.55µm帯の通信波長帯で発光することから,化合物
半導体に代わる次世代の光通信用材料やシリコンチップ上での集積光
デバイス用材料として期待されている。

近年,CNTは,量子光源用材料としても注目されており,同グループ
は室温かつ通信波長帯の単一光子源の開発に成功するとともに,高効
率で高純度な単一光子が室温・通信波長帯で発生可能なことも示して
いるが,CNTからの発光は,得られる発光をそのまま利用した場合,
発光ピークの線幅が数十nm程度と非常に広いことから,通信帯域や伝
送距離の低下を招いたり,波長多重化が困難であったりといった問題
があった。そのため,CNTは, 従来の半導体では得られない優れた特
性があるにもかかわらず,光通信や量子情報技術分野へは,実用化が
ほとんど進んでいない。

シリコンチップ上に形成されたシリカトロイド共振器に対してCNTを
形成し,トロイド共振器側面に近接させたテーパファイバを介して励
起光と結合した。その結果,励起光が共振器と共振する条件において
高輝度で狭線幅のCNTからの発光(フォトルミネッセンス)を得た。こ
の発光をテーパファイバを通して出射させて発光スペクトルを観測し
た結果,半値幅が74pmという極めて狭い線幅のCNT発光を得ることに
成功した。線幅を表すQ値としては,2万を超える極めて大きな値を
示し,これまで報告されてきたシリコンディスク共振器でのQ値(約
5千)を大きく上回る,CNT発光において最高のQ値を得た。また,
発光の偏光状態も励起光の偏光方向によらず,安定して基板と平行向
の偏光が得られることも明らかにした。


図 PPAサービスの市場予測 出典:矢野経済研究所
急成長する太陽光発電のPPAモデル
市場規模は2030年度に700億円
10月4日、矢野経済研究所は国内のPPA(電力購入契約)スキームによ
る再生可能エネルギー導入のサービス市場に関する調査結果を発表し
た。それによると、同市場は2021年度の38億円から、2022年度は94億
円と大きく拡大する見込み。また、2030年度には700億円に成長する
と予測。
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PPAとはPower Purchase Agreementの略称で、企業や家庭などの電力
需要家が発電事業者と再生可能エネルギーの発電電力を長期(通常10
~25年)に直接購入する契約を結ぶ再エネ導入スキーム。日本国内に
おいては年々FIT制度による買取価格が低下するとともに、 太陽光発
電システムの設備の維持・管理コストが下がってきた。そのためFIT
売電よりも自家消費して環境価値を保有し、二酸化炭素の削減につな
げる方がメリットがあるケースが生まれはじめたことを背景に、2017
~2018年度頃から導入が進み始める。
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PPAサービス事業者の提供する業務は、設計・エンジニアリング・施工
などのEPC(Engineering,Procurement,Construction)業務、設備の
保有・電力の供給・精算などの「サービス業務およびメンテナンスな
どのO&M業務で構成される。このうちPPA契約の主体として需要家に
対し提供するのは「設備の保有・電力の供給・精算などのサービス業
務」であり、矢野経済研究所ではこれを提供可能な事業者は現在国内
に50社以上あると推定している。PPAサービス事業者については、エ
ネルギーや商社、ファイナンス、再エネ、EPC、不動産などさまざま
な業界からの参入企業が相次いでいる。


図 パラジウム(Pd)とルテニウム(Ru)の二つの触媒が共同する新
  しい光学活性化合物合成
複雑な光学異性体化合物を合成する新手法
【概要】産総研らの研究グループは、連続する三つの不斉炭素をもつ
化合物を合成し、これまで不可能とされてきたそれらの構造を選択的
に制御することができる新しい有機合成手法を開発。この新手法の鍵
工程として、パラジウム(Pd)触媒とルテニウム(Ru)触媒を同時に用い
ることにより、通常では反応しないアセト酢酸エステルとアリルアル
コールを結合させることができる。これは、水以外の副生成物を排出
しない反応である。新手法は、二つの触媒の構造をそれぞれ使い分け
ることで、生成物の不斉炭素に結合する成分をそれぞれ右側あるいは
左側に選んで配置できる。これまでの合成法では、この成分が勝手に
左右で移動してしまい、必ず混合物として得られるため、一種類だけ
を選択的に作り出すことは不可能とされていた。新手法は不可能を可
能にした世界で初めての成功例です。酸・塩基を用いない中性条件で
進行することがこの反応の特徴です。さらに、還元反応で作られる成
分も左右に自由に配置できるため、8つの異性体を選択的に設計合成
ができるようになりました。このような、不斉炭素に結合する成分の
左右を選択的に合成することは、医薬品開発に重要な薬理活性獲得の
要とされており、創薬研究の発展に貢献できそうだ。
【要点】
1.非対称性構造をもつ二種類の触媒を共存させる新しい触媒的有機
 合成法の開発に成功
2.二つの触媒が二つの原料を別々に活性化する反応機序により、自
 在な異性体選択性の発現が可能
3.複雑な光学異性体への構造変換が可能となることで、創薬研究の
 加速に貢献
【関連論文】
掲載誌:Nature Communications
論文タイトル:Stereodivergent Dehydrative Allylation of β-Keto Esters
 Using a Ru/Pd Synergistic Catalyst

著者:Thien Phuc Le, Shinji Tanaka*, Masahiro Yoshimura, Kazuhiko Sato,
 Masato Kitamura*

図 「クローズドループ地熱利用技術」のイメージ 出典:中部電力

クローズドループ地熱利用技術
地熱発電のゲームチェンジャー、中部電力がカナダ企業に出資
10月14日、中部電力は同社の100%子会社を通じて、カナダの地熱技
術開発企業であるEavor社)と同社の株式引受契約を締結したことを
公表。 Eavor社は「クローズドループ地熱利用技術」の研究・開発を
行い、商業化を目指す2017年創業のスタートアップ企業。この技術は
地下にループを形成し、地上から水などを循環させることで地下の熱
を回収する技術。Eavor社は地上と地下約数千メートルをつなぐ網目
状のループを掘削し、その中で水を循環させることで水を介して地下
の熱を取り出す方式を採用している。地下の熱水や蒸気が十分に得ら
れない地域でも効率的に熱を取り出すことが可能であることから、幅
広いエリアでの開発が可能であり、掘削後に地下の熱水や蒸気の不足
により開発が中止となるリスクを回避できるメリットがある。 



 風蕭々と碧い時代


Jhon Lennon  Imagine    



曲名:三都物語 1992年   唄:谷村新司
作詞:多夢星人 作曲:谷村新司 ジャンル:ニューミュージック

胸さわぎの旅は いま始まって
時の流れのままに こころを遊ばせ
この私は誰を 訪ねるあてもなく
まるで詩人のように 景色に染って

ああ なんて 街
それぞれ 美しいの
ああ なんて 人
それぞれ 生きているの

昨日 今日 明日
変わりゆく 私
紅くいろづく ときめきを
誰に告げましょう

風そよげば ひとり 胸抱きしめて
愛の不思議を思う 吐息をもらして
この泪はきっと 感じるよろこびね
揺れる瞳に 映る季節に 恋して

ああ なんて 街
それぞれ 美しいの
ああ なんて
人 それぞれ 生きているの

朝に舞う夢
黄昏に出会い
ほんの一時のためらいを
誰に言いましょう

昨日 今日 明日
変わりゆく 私

「三都物語」(さんとものがたり)は、1992年 6月25日にリリースさ
れた谷村新司の楽曲で28枚目のシングル。JR西日本のキャンペーン三
都物語」のイメージソング。かつて運転されていたトワイライトエク
スプレスの大阪行きでは、車内放送にて札幌駅発車直後では1番を大
阪駅到着直前の車内放送では2番と最後のリフレイン部が流されてい
た。 
       

 


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