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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン9の6 「三朝温泉にて」

2017年01月19日 | 倉吉巡礼記

 三朝温泉は、現在は三徳川をはさんで南北に街区が形成されています。昔ながらの温泉街は南側にあり、元湯を囲む広場の周辺に温泉旅館や関連施設が並び、細い路地にて結ばれています。その街区が満杯になって川の北側にも広がり、大型の宿泊施設やホテルなどが林立しています。
 江戸期には鳥取藩の湯治場としても栄え、三仏寺参詣の宿場町としての機能も果たしたため、南側の旧街区は近世までの町並みの風情が各所に残されています。
 上図は、元湯の広場を撮影するホシノ。 (画像はOさん提供)


 元湯の広場の一角には、温泉の護持仏として祀られてきた薬師を安置する小堂があります。この建物が、三朝温泉街の長い歴史を端的に示してくれます。


 堂内に安置される薬師三尊像です。左右の脇侍像は江戸期の追加なので、もとは薬師如来像が独尊として祀られてきた可能性があります。現状では左腕部および両膝部を欠いており、相当の衰微退転の流れを経てきたものと推察されます。
 ですが、仏像の中心部分である頭体の根幹部がほぼ原状をとどめており、それによって制作年代および造立背景もある程度おさえられます。


 20年前、鳥取市に住んで歴史研究団体「因伯古代寺院研究会」に参加していた時期、鹿野町の会員の方に「三朝温泉の薬師仏の年代を教えて欲しい」と言われ、案内してもらったのが、この像との出会いでした。
 当時は薬師堂も仮の粗末な建物で、庇が傾きかけて内部は仏像の他に色々なガラクタが押し込まれて物置のような状態でした。その際に、この薬師像を見て、すぐに藤原時代の造立、材は檜、11世紀末期頃の寄木造の遺品である、と鑑定しました。
 当時はまだ像表面に顔料の丹および下地の胡粉が僅かに残っていて、左頬には金箔の下地の漆がかすかに見えました。それで天台宗特有の朱衣金身の薬師像である可能性が強く推定されました。伯耆国は、平安時代には既に伯耆大山の天台宗大山寺、三徳山の天台宗三仏寺などの古刹を配置して天台宗の勢力圏でありましたから、三仏寺麓の温泉として古くに開かれた三朝温泉も、天台宗が管理していた時期があったと考えられます。

 そして、薬師というほとけは、名の通り医学、医術全般をつかさどる仏ですので、湯治も医療の一種、温泉水を薬の一種とみなしていた仏教においては、温泉の化身または護持仏として祀られることが多く、似たような効験を有する地蔵菩薩とともに、温泉地の二大尊像と呼ばれてきた歴史があります。
 三朝温泉の場合は、その護持仏の遺品が平安時代中期の藤原時代の作であるので、既にその頃には温泉街が形成されていて、その宗教的中心として薬師像が造立され、元湯の信仰拠点を担っていた状況が伺えます。

 つまり、三朝温泉が平安時代以来の古湯であることは、この仏像遺品の存在によっても明らかであるわけです。一般的な伝承では1163年に発見されたといい、それをふまえて開湯850年などと祝っていたりしましたが、三仏寺の整備年代とも考えあわせると、実際の開湯時期はもう少し遡るのではないかと思います。
 その場合、薬師堂薬師仏の推定年代が11世紀末でありますから、11世紀代に三朝温泉の開湯がなされた可能性も否定出来ません。
 ともあれ、私にとっては懐かしい仏像です。20年前の、学問研究に情熱をかけて各地を探訪していた自分に戻ったような気分になりました。


 三朝温泉の元湯のひとつで、「薬師の湯」と呼ばれる湧出地です。一般的には街区の東寄りにある「株湯」を三朝温泉の起源とみなして元湯と称していますが、湯の湧出地が異なるだけで水脈および泉源は同じですので、「薬師の湯」も、河原露天湯も「たまわりの湯」もみな元湯と呼んでさしつかえありません。


 ここでは足湯が楽しめるようになっています。三朝温泉に三ヵ所ずつある共同浴場、足湯、飲泉所のうちの一つです。


 熱い湯がこんこんと湧き出ていました。


 温泉街の射的場です。昔懐かしい昭和の遊技場のスタイルが残されています。観光客には外国人も少なく無く、射的に興じていた数人のグループをOさんが「中国人かな」と言っていました。Oさんは中国語を理解するそうですが、私はほとんどダメです。


 黄昏の三朝橋を河原から見上げました。


 三朝橋の脇にある共同浴場の一つ、「たまわりの湯」です。20年前によく行っていた頃は「菩薩の湯」と称していましたが・・・。


 かつては「菩薩の湯」の売店として大山ミルクや蒜山アイスを売っていた施設が、いまはNPOの事務所と観光土産店とに分かれていました。


 三朝温泉観光案内書のイルミネーションは「元気です」となっていました。地震があったけど大したこと無いよ、みんな無事で元気だよ、というメッセージの積りでしょうが、しかし余震は続いていました。


 何だ、このミササラドンという、Oさんみたいな怪獣は・・・。三朝温泉のラドンが元ネタですな。


 旅館に戻って、夕食をいただきました。


 鳥取の冬の味覚の代表格、松葉カニです。ズワイガニの成長した雄のことです。


 伯耆牛肉です。鳥取県は古来より牛の生産地として知られ、江戸期には鳥取藩が牛の購入資金を貸し付ける「牛銀制度」を設けて牛の飼育を奨励していました。現在は放牧地が岡山県側の蒜山エリアにも広がっていますが、大山西麓の牧場の生産品とあわせてひっくるめて伯耆牛と呼ばれます。


 打吹蕎麦です。鳥取県の蕎麦は、古くは大山麓の大山蕎麦が有名でしたが、江戸期に鳥取藩国家老荒尾志摩家が蕎麦職人を大山より招いて倉吉に置いたのが始まりとされています。十割蕎麦の特徴を生かした風味がウリです。


 「モサ海老」です。 鳥取県特産の黒雑魚海老の通称です。甘海老に近いですが食感や旨味は格上です。日本海では定番的な寿司ネタの一つでもあります。牛骨ラーメンと同じく、関東ではまずお目にかかれない食べ物です。 (続く)

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