玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

神が消失しお金が現れる(?)

2018-05-04 16:07:52 | Weblog


聖書とは何か。
それは神が人類の前から消えていく軌跡が描かれている書物であるという説があります。さらにニーチェに至り、哲学的に神は死んだと言われ、現代に至っては宇宙論の最先端において、神なる者の存在を想定しないと、宇宙の起源から現代に至るまで説明がつかないというところまで来ていると言われています。

確かに旧約聖書時代においては、アブラハムの前に神は直接現れ、ヤコブに至っては格闘までします。そしてモーゼを前にしてはじめて名を名乗ります。そこから先、エゼキエルのような預言者時代においては夢やお告げのような間接的な形での働きかけに変わっていきます。イエスの時代においては、聖霊の働きかけや、イエスの存在そのものが神の間接的な現れと言えなくもありません。旧約、新約聖書において、神の直接的な現れ、働きかけから間接的な現れへの軌跡が描かれていると言えるのも頷けるものがあります。

さらにニーチェの時代に至っては、近代の極致でもあり、それは人間理性が神のようになり始めた時代であったともいえます。このあたりから科学技術が時代の中心となっていきます。神なる働きかけよりも、人の理性によって確立された技術によっては世界は創られていく始まりとも言えます。

そして自分はさらに神の消失と共に現れ出たものを思い起こします。
それはお金です。ニーチェの時代、神は死んだと言われた時代にまさしく社会の中心となっていったのは資本主義であり、お金を中心とした時代の始まりと見ることもできるとおもいます。神は消失し、神の代わりになったのがお金である。そのお金が神のようになった時代こそ、現代であるともいえます。

このお金についても、誰もが疑わずにいる前提として、共通の価値基準を想定するための交換価値として歴史的に展開してきたものとされています。しかしこの交換価値には何の根拠もないと言います。それは太平洋にあるヤップ島に今でもあるフェイというとてつもない大きな石の貨幣の研究からもわかってきているといいます。そもそもあまりにも大きすぎて交換などできず、そこにあったのは債権・債務を記載するだけの機能であり、人と人との信用が前提とされていたということで、資本主義の影響をほとんど受けていないとされたヤップ島において、高度な貨幣に対するシステムがあったことが大きな驚きであったといいます。

過去の時代において、お金はどのような仕組みで運用されていたのでしょうか。実は歴史的には現存する貨幣、多くは硬貨からしかわからないといいます。残っているものを根拠に類推するしかなく、もし残らない何らかのお金の仕組みがあったとしたら、それは現代においては全くわからないといいます。残っていないから”ない”とはいえないのです。まさしく現代のデジタル通貨や銀行の預金システムなどを後世からみたら、形としては何も残らないので、この時代のお金の仕組みのことが理解されないかもしれません。

神が消失し、お金が現れる。ではお金は神になったのでしょうか。いや、古代や場所によってはお金は神のように振る舞うことはなかったことは歴史が教えてくれています。むしろ、現代がお金を神のようにしてしまい、お金そのものの前提を疑わせることないように仕向けられたのかもしれません。よく世界の支配者とは、お金の支配者であるといいます。ある時代にそのことに気づいた一部の人間が、お金とはこうであると、思い込ませたのかもしれません。現代の貨幣観はその時代時代において権威とされた学者などによって、現実のお金の動きとは違う規定がされてしまったことを言う研究者もいます。

現代のお金は明らかに今を生きる人間を規定しています。管理してるともいえ、疎外してるともいえます。その振る舞いはまさしく神のようです。その構造上のおかしさはずっと指摘されてはいても、変わらずにいるおかしさ。それは一人一人が直接、お金に向き合い、その前提を疑い、考えることがないことからくるのかもしれません。お金を考えることは、神について考えることにつながる。人類を支配するひとつの存在者たるお金であり、神です。

思索は続きます。
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