玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

雑感:しらけた日本

2017-10-29 15:40:25 | Weblog


しらけた日本。

あまりにもとんでもない事が日々、起きすぎていて、逆に慣れてしまい、それがどうにもならないとなり、諦めから、しらけたムードが漂っている。選挙が終わり、与党が圧勝なのに与党自体がどこかしらけている。これだけ大変な状況にあると言われているのに、投票率がたったの50数パーセント。小選挙区制は3割くらいの投票で過半数以上の議席を取れる仕組みという。この制度を変えない限り、一強は続くのであろう。逆にこの制度を作った人たちの思惑どうりの社会になっているという事か。

さらに大企業と言われる企業の不祥事が最近あまりにも多い。これらはまだまだ氷山の一角なのかもしれない。不祥事はというより、問題は確実に現場で起きている。末端で起きている。こういう事がなぜ起きるのか。優秀な経営者が多くいるはずの大企業でなぜこういう事が起きるのか。経営者が現場を知らないからとも言われている。管理が甘いからという意見もある。デフレだからという経済状況に問題の原因を見る人もいる。これらの問題の原因は様々あるでしょう。ただこれだけはハッキリと言えるのは、これらの原因の大元は現場で働く人にそれ相応のお金を払っていない事にあるのではないか。派遣法が改正され、ある時期から非正規雇用や期間工と言われる人たちが現場に占める割合は相当高くなっている。こういった人たちのモチベーションはいかようなものだろうか。人件費が非正規雇用により抑えられ、会社にたまるお金がふえたのは確かでしょう。内部留保が過去最高と言われる昨今である。

本も出され、そのユニークな社風や経営で知られるある会社でこんな話が書かれていた。コストの効率をよくするために、その会社でも以前は非正規雇用の社員が多くを占めていた時期があるという。ただ彼らのモチベーションは低く、まして派遣会社から派遣された人の多くは業務だけはしっかりやっても、会社に対して愛着も責任もないから、どこかぶっきらぼうでしらけた人が多かったという。当然お客さんに対してもそういう態度が出ていて、営業にも影響していることに気づいたという。そこで非正規雇用をやめ、すべてを昔の日本の企業のように、正社員にし、さらには普通よりも少し多くの給与を出すことにした結果、その会社の営業成績は上がり、社員のモチベーションも上がり、雰囲気が全く変わったという。何よりも会社に対しての態度が変わり、現場でのミスが減り、コミュニケーションも円滑になり、風通しの良い組織になっていったといいます。これは極端な例かもしれないけど、一考に値する事例ではないでしょうか。

今、しらけてしまっているのは、目の前の問題や状況に対して諦めてしまっているからでしょう。今置かれている状況に対して、それは自己責任とするムードがこの社会に蔓延している。これは子供達に起きている問題にも言える事であるが、従業員として働く人たちと同様、今置かれている問題そのものはその当事者に責任はないのです。そういう仕組みや状況を作った人たちがいるということ、そういう問題に対して権利を行使できる人がそういった問題に向き合っていない、もしくは放置し続けた事が原因なのだと考えます。責任とは権利を行使できる立場にある人が負うものであって、そうでない人に責任はないのです。だから従業員や子供達に自己責任というものはあたらない、責任そのものはないのです。

また今の子供達をはじめとして、新しく仕事にあたる人に対して、即戦力的発想がいき過ぎており、育つ時間が考慮されなさすぎている。時間がなさすぎる。これは社会全体がそうなのかもしれない。すべてがインスンタントで、短絡的。じっくり、ゆっくり育てていく発想がないことは実はただ反応するだけの人間を育ててしまっているのかもしれない。その結果からか、読書する人の数は年々減り、まして分厚い本や難しい本を読む人はさらに減っているといいます。検索してすぐわかることと、思いつきを短い言葉で発することだけに終始する人が増えているのは、必要な時間をかけなくなってしまった結果なのかもしれません。

今、起きているあらゆる問題は、本当に必要な事に対して、時間もお金もかけていないことからくるのかもしれません。今から手を打たないと、さらなる先に待っているのはただ危機的状況ということになってしまいます。本当に必要な事は人に関わる事です。その基本を忘れては、どんな成果もあがらないことでしょう。今本当にすべてを見直す時にあると感じます。
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古都 ”奈良・京都”にて開催される「高句麗伝説コンサート」

2017-10-21 08:12:16 | コンサート
 
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくっているのである。」
 
これは今の日本の姿を見て語っているのではない、昭和45年7月7日に『文化防衛論』のあとがきに、その時の心境を語った言葉である。それから40年以上の月日が経っています。今の日本。どうでしょうか。この言葉を綴ったのは三島由紀夫さんです。誰よりも日本のことを考え、誰よりも日本を愛した、一人の大人の言葉である。まるで予言のようであり、その予言が今着々と成就してしまっていると感じるのは私だけではないでしょう。
 
今、日本という国の大きな変わり目、大変革期に入ったといえるでしょう。明日は衆議院の総選挙だし、2年後の2019年は天皇陛下が退位され、新しい天皇と共に元号も変わります。これからの日本を考える上で、どのようなことが必要であるのか。自分は大げさにいえば、魂を取り戻すことにあると考えてます。魂を取り戻す、または埋もれている魂を復活させ、覚醒させること。それには歴史を知ることであり、自分自身が歴史を体現する一人であるという自覚も必要です。魂があるかないかは、上の三島さんの言葉を読んで、どう反応するかに如実に現れるでしょう。
 
さらには魂覚醒の経験が必要です。それは普通に考えれば、歴史にふれ、それは古都に行ったり、場合によってはお寺などで修行したり、または古典に親しんだりと、そこには歴史が必ず介在します。ただ普通の意味でのこういった修養は何かを身につける、教えに従うような、覆いや枠をつくることに結果的になっていきます。本当の意味での修養とは、覆いをとること、枠を外すことにあります。精神の”精”の字が現すように、精米において、殻をどんどん磨いて磨いて、磨いた先に美味しい米となっていくように、どんどん殻を外した先にあるのが魂といえます。自分はこういった経験が今唯一できるのは、いだきしんコンサートではないかと考える一人です。それはこのコンサートの経験がまさにそうだからです。経験してみないとわからないことを言葉にすることは正直難しいです。あまりそれをごり押ししても、それはただの信仰にもなりかねません。が、自分はもうこのコンサートに参加して30年近く経っており、毎度、コンサート前と後の状態に変化に驚かされています。そして何より30年以上に渡り、一貫して同じ姿勢でコンサートが開催され続けていることが、ひとつの何かが成されていることの証明になるのではないでしょうか。
 
この度、10月23日に京都、24日に奈良で”高句麗伝説コンサート”が開催されます。このコンサートは何度も紹介してきましたが、まさに歴史の大ロマン、魂覚醒を謳った、今これほど必要なコンサートはないと考えます。日本の歴史を考える上で、高句麗のことは本当は外してはいけません。ほとんど表に出てこないか、または触れないようにされている。また高句麗は今の北朝鮮や韓国とはまったく違います。位置するところは同じでも人が全く違う。または魂が全く違うといえます。三島由紀夫さんもよく書かれていますが、人が歴史を体現するのです。そういった意味でもこの”高句麗伝説コンサート”にて詩を詠まれる高麗恵子さんは、高句麗王直系子孫としてその歴史を体現される貴重な方です。奈良時代、聖徳太子の時代は高句麗と日本は共に新しい国を創ろうとしていたふしがあります。日本のはじまり、日本の国のはじまりに関わる重要な地である奈良。最近ではなんとペルシャ人の役人がいたことがわかってきたといいます。正倉院にはペルシャのものが多くあり、この時代は今考えていたよりも国際性豊かだったことがわかってきています。
 
今必要なことは、日本の歴史の別系統の発見ではないでしょうか。隠され、埋もれていることに真実がある。魂は真実が明らかになることにより、覚醒していくのです。歴史を体現する人が啓示のようにして詠まれる即興詩と余計な覆いをどんどん剥がし、その先にある本質を表現される即興演奏。そしてその瞬間瞬間の場にふさわしい映像がおりなす壮大なコンサートである”高句麗伝説コンサート”。三島由紀夫さんの憂いを晴らしたい、いや、日本はまだ大丈夫ですと、言える一人になるためにも、自分は心してこのコンサートに参加し、その変化変容を愉しみたいのです。魂の目覚め、何よりの生きる力です。心より、このコンサートを紹介します。
 
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”高句麗伝説コンサート”
 
ロームシアター京都 メインホール
 
京都市左京区岡崎最勝寺町13
PM6:00開場 PM6:30開演
PM8:00終演予定
出演:高麗恵子(詩の朗読)・いだきしん(即興演奏・映像)
全席自由 7,000円
主催:特定非営利活動法人高麗
 
 
奈良県文化会館 国際ホール
 
奈良県奈良市登大路町6-2
PM5:30開場 PM6:00開演
PM7:30終演予定
出演:高麗恵子(詩の朗読)・いだきしん(即興演奏・映像)
全席自由 7,000円
主催:特定非営利活動法人高麗
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真の学者

2017-10-09 17:54:00 | Weblog
(wikipediaより)


昨日、TBSの番組「世界遺産」を見ました。
内容は修験道の修行で、吉野から熊野への山駆けの密着取材。中々迫力がありました。

その時に、世界にある他の巡礼地としてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼についての紹介がありました。このサンティアゴ・デ・コンポステラは聖ヤコブの遺体が安置されている大聖堂を目指す巡礼の道。この番組を見ていたからか、今朝、なぜかふと新約聖書学者の田川建三さんのことが気になり、調べてみました。

しばらく遠ざかっていて知らなかったけど、田川建三さん、なんとあのライフワークとされていた『新約聖書 訳と註』全七巻八冊をついにこの8月に完成されていました。これはすごい!2004年から始められて、今年2017年に完成。足掛け13年。しかもこの仕事を開始されたのが69歳で、今年82歳です!田川建三さんのこの新約聖書の訳するスタンスは一語一句原文に直接あたり、可能な限り正確な日本語にするというものです。さらにはその時代の歴史的背景にあたり、著者とされる人の言葉の使い方、またその単語の使われ方や時代背景まであたり、その一語一句を日本語にする執念みたいなものに真の学者の姿を見ます。漢字に独自の見解を見出され、世界的にも評価されている白川静さんと重なるものがあります。こういう真の学者、仕事をやり遂げる姿に心から尊敬し、日本人として誇りにおもいます。

それで田川建三さんのウェブサイトを見ていて、感動したのが『新約聖書 訳と註 第6巻 公同書簡とヘブライ書』の中のヤコブ書の記述の中にある日本語の訳です。田川訳と新共同訳の違いがあまりの大きいことに驚きます。

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人間には生得のロゴス(理性)が与えられている。それを素直に受け入れて、ロゴスを行なう者として生きようではないか」(1,21-22) 田川訳

だから、あらやる汚れやあふれるほどの悪を素直に棄て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉はあなたがたの魂を救うことができます。 御言葉を行なう人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(1,21-22) 新共同訳
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ここではヤコブ書の著者は実はパウロ批判を展開もし、さらにはそれだけではなく、もっと大きな視点をもっていることが指摘されています。端的に田川さんは言います。「新約聖書の文書は何でもかんでも宗教的説教だと思って読むからいけない。ヤコブ書の著者はむしろ、宗教の水準なんぞふっとばして、素直に人間の普通の姿を生きていこう、と呼びかける。それが「ロゴス」というものだと。」

ここからロゴスについての解説がありますが、「御言葉」と言われるのと「ロゴス」と言われるのではその意味するところや、印象が全く変わってきます。ロゴスはギリシア哲学でも重要な概念でそれは理性とされたり、言葉とされたり、時には存在として捉えられることもあります。イエス・キリストをロゴスとして捉える神学もあることから、とても重要な概念であることがわかります。新約聖書も今に伝わるものの多くはギリシャ語訳といいます。自分にとっては新共同訳の「御言葉」より「ロゴス」と訳された方が意味がすんなり入ってきて、同じ文章かと思うほどの違いにある意味感動したのです。

田川建三さんに一貫して流れている体制批判的な在り方。その線で捉えられるイエス像。さらには聖書の中にも同様のものを読み解くその洞察。その根拠が全て原典にあたり、その言語から直接導き出すという一貫した姿勢。高齢ということもあり、病気などもされたこともあり、この仕事を完成させられるのか一時期不安もあったといいますが、何とかやり遂げられたことに本当に脱帽です。そして今後、純粋に田川訳としての『新約聖書』が登場するのを心待ちにしております。いや〜本当にすごい仕事をなされました!


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