玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

アントレプレナー

2020-06-20 12:00:00 | Weblog





自粛要請も解除が進み、少し社会全体が緩み始めてる中、この3カ月で明らかになってきた事が多くなってきました。

それは社会的な事よりも自分自身において考えざるを得ない事が多くなってます。今までやってた仕事が1つは完全にストップしてしまいました。そういう状況の中でそもそも自分はそれがやりたかったのか、また生活上のために続けてる仕事においても、そもそも、、と考え直したい気持ちに、今、とても強くなってます。

まだ具体的なことは何にもありません。ただ最近家の中でふと目にした本が気になり、パラパラめくってるうちに、これはちゃんと読まなくてはという気持ちになり、一挙に読み進んでしまいました。その本は14年前に出版された「起業家の本質」です。アントレプレナーについて、アントレプレナーとして生きてきた方が、その気質、成功にいたるプロセス、傲慢による失敗、さらには国の制度の影響など、内面的な事から、外的環境までそれこそストレートに書かれた素晴らしい本です。色々感銘を受けた言葉に出会いましたが、その中でも一番はっとさせられたのは、何故アントレプレナーになりたいのか、アントレプレナーでいたいのか、の所で、それは「自分自身である自由」こそが自分にとって最も大事な事であるからというところです。「自分自身である自由」のために、安泰とは程遠くても、人に使われないで、自分で仕事をつくり、果敢に挑戦していくことがどれだけ大事か、そしてそれをやり遂げたご褒美として報酬がやってくるといいます。

何か久しぶりにはっとしました。知らず知らずに自分も日常に埋没して、勝手に自己自粛をしていたのかもしれないと、どこか目が覚めてきました。

そして面白いことに本屋にいくと、日本のアントレプレナーといえるホリエモンさんの本が並んでいます。この方こそ、評価は分かれるでしょうけど、好きな事やって、自分自身として生きてる象徴的な人です。ユーチューブでも時事的なことを発信されてますが、久しぶりに色々見ていて感じたのは、以前より自信に満ちてるのに嫌味がなくなってきていること、より健康的に見えることです。もしかしたらとっても良い彼女がいるのかもしれません。健康については120歳まで生きたいので、最新医学について取材された本まで出ています。ホリエモンさんは好き嫌いは別としても、これからの時代、これからの未来についての大事な考え方、仕事の仕方を現す象徴的な方だなと改めて感じました。

ユーチューブには若い学生向けに、これからどう生きていけばいいのかの講演があり、とても素晴らしいものでした。この自粛期間でより明らかになった古い体質と未来への在り方をわかりやすく話されてます。

若い世代だけでなく、本当はあらゆる世代の大人も求めてやまない「自分自身である自由」。そういう一人ひとりが生きていける社会、制度の構築。先の「起業家の本質」の著書はアメリカにおいて、大多数のアメリカ人の雇用を生み出してるのは起業家が起業した会社であり、しかし制度はその起業家がむしろ活動しにくくなっており、大企業有利になっていると大統領に訴えております。今のアメリカの現状はわからないけど、この状況は日本でも全く変わらないと思います。

いつの時代も時代を切り拓くのは起業家、アントレプレナーです。今改めてその存在の重要さ、誰でもがアントレプレナー気質を持つことの重要さに気付かされました。さて、ぼけた自粛頭になっていた頭を叩き起こして、アントレプレナー頭に変えていくとします。
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「思いやり」の社会を創る

2020-05-23 17:17:13 | Weblog


世界は良くなっているのだろうか。
いや、誰もがそうは感じていないでしょう。何か世界が行き着くとこまで行ってしまい、ふとした瞬間に、ぽっと湧き出てきたのが、コロナウイルスであり、それがこの世界を根底から変えようとしているのではないかと考えてしまう今の時。ここから人類はどうしていくのか。管理社会の強化なのか、それとも人々がお互いを思いやり、助け合う社会なのか。

こういうことを考えるにうってつけの本が『ゼロから考える経済学』である。著者はジェンダー論を人類史的な視点から考察されている有名なリーアン・アイスラーである。この本はリーマンショックのあった2009年に書かれたものであり、ジェンダー論の著書が経済学の本を書くという意外とも感じるが、これが今こそ、読み直したい優れた著作なのである。これからの未来を、どう創っていくのかの土台となる基本図書と言ってもいいと自分は考えてます。

この本のキーワードは一言でいうと「思いやり」です。そう、あらゆる仕事を「思いやり」を土台にして行うということ。それは仕事の仕方や組織運営、さらには経済社会においてでもある。一見、そんなあまい考えでは、この厳しい社会は乗り越えていけないと考えるでしょう。しかし実際の事例において、見事に「思いやり」中心にした仕事で、業績を上げた例をたくさん出されております。今、現在ここで取り上げられた事例がどうなっているかはわかりません。しかし、書かれた2009年から11年経った2020年の今ほど、よりここで書かれたことを求める人は多いのが実感です。自分自身はこの本に共感する人とこれから仕事をしていきたいし、ここで書かれている経済社会を実現してみたい。

どんな事が書かれているかは実際に本に当たってもらいたいけど、ここでは巻末で環境ジャーナリストの枝廣淳子さんという方の解説がとても端的に示されているので引用させて頂きます。

「本書は、目の前の問題に右往左往するのではなく、経済システムという構造を変えなくてはならない現在の社会に対し、そのためには、「経済システムだけに焦点を合わせていてはいけない。もっと深く踏み込む必要がある」と説き、社会には二種類の基本的なシステムがあることを教えてくれる。トップダウン型の管理による「支配のシステム」と、互いに尊敬し合い、思いやる関係を支援する「パートナーシップのシステム」だ。これらは異なるメンタルモデルに基づく異なる構造であり、したがって異なるパターンを生み、異なる事象をもたらす。

本書には、支配のシステムからパートナシップのシステムへの転換をはかりつつある事例も登場する。北欧のフィンランドのパートナーシップ教育のメリットや、パートナーシップのシステムに基づく思いやりの経営方針によって社員の離職率を大きく低下し、多額の費用を節約しているいくつもの企業、思いやりへの投資の利益率はとても高いものを示す調査や、そういった知見と実証に基づいて展開されているカナダの「健康な赤ちゃん、健康な子ども」というプログラムなど、読んでいるだけでワクワクしてくる。そう、変えれば変わるのだ。

このままの経済システムでは地球も私たちも破綻は避けられないとしたら、経済システムを変えるために、私たち一人ひとりに何ができるのだろう?

著者は「国内外の指導者たちが行動するのを待つのではなく、経済システムについての会話を変えることだ」という。「自由」や「民主主義」という言葉が新たな政治モデルの導入に役立つように、「思いやり」という言葉を会話に含めることが、新しい経済システムの導入の第一歩となる、と。何とわくわくすることではないか。

理論的な背景や歴史、現状をわかりやすく説明しつつ、氷山の一角の下に潜む最も大きな「取り組むべきもの」を明らかにし、すでに展開している試みをその枠組み上に位置づけながら、私たち一人ひとりが何を考え、何をすればよいかを考えるための導きと励ましを送り続けてくれる本書を、私はきっとこれから何度も読み返すことになるだろう」(『ゼロから考える経済学』 英治出版 解説より)

解説の枝廣さんも書かれてるように、何度も読み返す価値のある本です。特に今のような状況にあってこそ、根本的にこれからの社会をどう創っていくのかのヒントが満載です。しかもその背景にあるのはやはり女性の存在です。さすがに『聖杯と剣』や『聖なる快楽』を書かれた著書ゆえの、歴史的背景からくる考察はあまりに深く、的確であり、同時に見逃されてきたことです。この本がどれほどの位置づけで、評価されているのかあまり多くを知るわけではありませんが、少し過小評価されてるという印象があります。

もう世界は変わらざるをえないのです。そのことをこの度のコロナ禍ははっきりと示しているといえるでしょう。ではどう変わるのか、いや、どう変えていくのか、そのことをこの「思いやり」という言葉で、人が人として真っ当に生きれる社会、さらに言うならば、女性が女性として安心して生きていける社会を創るための考えが、この本にはハッキリと示されています。

これらの事は男性にとっても実は生きやすい社会であることを忘れてはならないとおもいます。
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原理原則

2020-05-23 16:21:58 | Weblog
日々、目まぐるしく情勢が変化している昨今。
何が本当で、何が真っ当なのか。それぞれがそれぞれの立場で解釈を織り交ぜてモノを言い合ってる状況。こういう時こそ、原理原則に戻ることが大事だと感じています。

ある施策を国民全体に強いる場合は、法治国家である限りは法的根拠が必要であり、その施策に対する科学的根拠を示すことが求められます。細かいことは言えることではないけれど、今のコロナウイルス感染症に対して、その根拠となるPCR検査は遺伝子検査といいますが、そのコロナウイルスとされる病原性遺伝子の根拠となっている遺伝子情報が、仮にもし間違っていたり、曖昧な情報であった場合、遺伝子の特定が果たしてできるのであろうかと、考えることもできます。前提となる情報が間違っている場合、その結果も当然、事実と異なることになります。今、果たして、その前提となる数々の情報の正確性は確実に担保されているのでしょうか。

今、自粛要請解除の動きが進んではいるものの、適切な人との距離をとることや、イベントなどの開催に対しては法的強制力はないが、自粛要請の継続が言われています。これらの根拠となっているのは症状の出ない人がウイルスを感染させる可能性ということです。これ、本当なのでしょうか。PCR検査で陽性とされる遺伝子が実はもともと誰もが持っている常在菌などの遺伝子であって、それは病気などで免疫力が落ちてる人に現れているということはないのでしょうか。

またある知見によるとコロナウイルスは血圧に関わる酵素にくっつき、そこから肺に侵入して悪さをするといい、日本人にはこの酵素が実は多く、その酵素が多いことで高血圧の人が多いといいます。そういう体質ゆえ、その酵素の働きを抑える食事が昔からされており、それが世界と比較して割と感染者や死亡者数が抑えられている要因ではないかといいます。その食事とは海藻類や麹菌など、腸内に良いとされるものや、大豆関係の食事です。岩手県が今だに感染者が出ていないのも、食文化の点から考えることができるのかもしれません。

ネットやテレビなどには玉石混交、様々な情報が日々更新されており、何が本当なのかわけが分からなくなります。なので、自分は先に書いた原理原則を大事にし、つまりは情報の発信者がどういう立場で、どういう人なのか明確な人の情報以外は信用していません。さらには発信者が科学的知見でモノをいえる立場にある人であること、さらには論理的に表現されていることを重視しております。とはいえ、誰もが経験したことのない状況に置かれているのは皆同じで、次々に正しいとされる知見も変化せざるえを得ないでしょう。

とにかく冷静に、そして原理原則からモノを考えること。こういう事は今だから大事なのではなく、実はずっと大事なことなのです。それはこれからも変わりません。
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1日1日

2020-04-30 11:56:25 | Weblog
前回書いてから1ヶ月半以上が過ぎました。

その間、今まで経験したことのない事態に直面しています。世界が、日本が、これから一体どうなるのでしょうか。一人一人がどう生きていくかが問われる事態になりました。同時に、この状況下において、その人、その組織、その国の実態が明らかになってきました。特に人。どういう人なのかが明確になってました。一見人の良さそうな人、真面目に考えてそうな人、そういう人の実態が明らかになる日々。うんざりすることが多いですが。

また国に関しての大原則として、この国は法治国家であり、民主主義の国です。危機的な状況下であろうとも、法的な原則を超えて、超法規的なことがまかり通ることは絶対にあってはなりません。どのような事態であっても原則を守ること。それを超えてなされることが、危機下であっても絶対に許容してはいけないことは、歴史が伝えることです。

しかし本当に不思議なウイルスです。まだわからないことが多いですが、ウイルスそのものは見えない。見えないからこそ、その見えないものに対しての反応がその人を明らさまにしていく。何か霊的なもにも通底するような反応。ある状態に反応して、とりついていくという要素を考えるとウイルスも霊も同じような性質と考えられなくもない。とりつかれないようにしていればいいということも似ている。要は自分の在り方がとりつかれないようであれば、霊にもウイルスにもかからないのかもしれません。心身ともにキレイであればいいだけなのかもしれません。心身とは心は内面、身は身体のこと。基本的に清潔にし、身体を整え、状態をよくし続けること。さらには冷静であること。結局、普段の在り方がそのまま自己防衛になっている人もいるということでしょう。子供があまりかからず、重症化もしないというのがずっと気になっています。

こういう状況下においては、情報が錯綜としています。自分は基本的にはテレビのニュースはみません。新聞は読んでます。またネットでの情報は長らくいろいろ継続してみているページがあり、政治については政権寄り、または批判的なのの両方を見る様にし、ウイルス関係においては科学的なものをベースにしているのをみています。優れたページはいろんなところから情報をとって書かれているので、それがネットワーク理論のハブのような存在となり、多くの情報をとらなくても、そこだけ見ればある程度わかるということがあります。

さて、まだまだ大変な状況は続くでしょうし、油断はできません。でもとにかく周りがどうであろうとも、自分自身が明るい状態でいれるように、必要な情報はとり、身体は動かせる範囲で動かし、協力しあえる人とは協力し合い、お互い大事にしあっていくことが肝要です。人間が人間となれるか、また真っ当な人間に進化していけるか、そういった根本的なことを問う、いまの事態。1日1日が大事です。とにかく元気にいきましょう。
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9年〜真理に生きる

2020-03-14 09:06:56 | Weblog
東日本大震災から9年の今年。

今まで考えたこともない事態に日本は直面しています。いや、日本だけでなく全世界が直面しはじめている危機的な状況。まだ出口の見えない状況。新型コロナウイルスという見えない存在に呼応するかのように、これまた見えない不安が言葉に乗って伝播してしまっている。

今何が起きているのでしょうか。我々は東日本大震災という大災害に直面し、原発事故という今だに収束していない状況にあります。それ以降も熊本地震、そして昨年の秋の台風による水害。今まで築いた文明的なものをあざ笑うかのように、自然の猛威により簡単に壊れされてしまう現実。

こういう状況はそれまでの存在するもの全てに、その存在を問うてきます。どう生きているかが如実に露わにされ、生きていける者とそうでない者とに分かれてしまう。どういう街を作ってきたかもはっきりしてしまう。困窮している人に対してどのような支援をするかという、社会システム的なことも露わになります。

結局、残念ながら、この国は人が生きていけるシステムになっていないようです。この3月を過ぎても新型コロナウイルスが収束していなければ、おそらく今までに経験したことのない経済的な問題が起きてくるかもしれません。最悪の事態は想定しておいた方がいいのかもしれません。少なくともそういうことを考えておくことが、直面した時に落ち着いていられる要因になるはずです。

全世界が同じ状況に直面するはずです。資本主義という体制そのものが問われはじめています。しかし、今までどうにもならない、硬直しているかのような構造が壊れていくことは、はたして一概に悪いといえるでしょうか。具体的に言えば、働き方そのものが誰もこれで良いとは思っていないのに、続けざるを得ないからといって、ただ続けていたことが、揺さぶられているのです。誰もが見直さなくてはいけないことに直面している。ここから別の道を見つけれれば、ピンチはチャンスになるはずです。

これから本当にあらゆる場面でその人、その国、その会社、その組織の存在がそのまま露わになっていくはずです。見たくもない現実に直面するかもしれません。しかし、哲学の存在論的にはこれは真理の現れであり、真っ当になることにおいて、大変重要なことなのです。ギリシャ語で真理を表すアレーテイアという言葉。アが否定形で、レーテイアは隠されたモノ、覆われたモノのこと。つまり隠された・覆われたモノを否定すること、隠れたモノが露わになるということの状態が真理というのです。

今の今、最も必要なことは当然ウイルスの正体を露わにし、ワクチンへの道をみつけること。全世界の免疫学者が日夜、取り組まれていることであり、1日も早く見つけてほしいです。また日本の原発事故の解決の道もまだ見えていないことです。

何かとてつもない大きなことが起こりつつある今、”真理”という視点に立って、より大きく捉えていくことが何よりも重要です。モノ・カネ中心に作ってきた世界の思想の根本はデカルトによる”我思う故に我在り”にあり、その世界が壊れ始めているのです。本来は”我在り故に我思う”。存在が先にあって、思惟するはそのあとのことであり、それが逆になっていることが全ておかしくしてしまっていると指摘したのはあの20世紀最大の哲学者と言われたハイデガーです。今こそその本意を汲む時かもしれません。この理解があるか無しかで、この先全く違う様相を呈するかもしれません。

東日本大震災から9年目の今、本当に様々なことを深く考えることが必要になってきました。生き方も問われています。大事な大事な今の時です。

※この文章は玄音オフィシャルブログ”玄論”に書いた記事と同じです
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人間として、

2020-03-05 14:26:00 | Weblog
もしかしたら、人類は人類史的な変化の局面に入ったのかもしれない。

このまま、今までと同じには戻らないのかもしれない。ちょっと今までに経験したことのない事態になりつつある。

いろんなモノやコトが壊れていくかもしれない。しかし、逆に今までこれでやってこれたことの方が異常だったのかもしれない。

人間として、だけが問われる社会へと変われるチャンスなのかもしれない。あまりに人間として、の大事なことが失われてきたのである。このピンチをチャンスに変える根本は人間として、だけである。

その人間として、とは、要は生命、精神、魂、そして愛。こういう言葉が何においても大事にされる社会を創ること。肝心要の今の時。
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書きコトバ

2020-02-02 17:37:49 | Weblog
書くということ。
コトバはまず話しコトバがあり、それからそのコトバを記述するという意味において書くという行為があると見なされている。しかし、書くというのはそういうものだけではなく、もっと別の次元の行為としての展開があることを、フランスの哲学者ロラン・バルトの言説から井筒俊彦先生は以下のように記します。

「”書く”といえば、昔流の考え方では、客観的に何かを文字で書きあらわすことだった。頭のなかにあらかじめ思想が出来上がっていて、それをコトバで再現する。内的リアリティとして、コトバ使用以前に確立している「自分」を表現する。あるいは、外的世界の客観的事態や事件をコトバで叙述し、描写する。このような客観的見解によれば、意味がコトバに先行する。言うべきこと、表現を持っている意味、が書き手の意識のなかに成立していて、書き手はそれを表現するのに一番適切なコトバを探し出してきて言語化する。〜」

これは端的に言えば、もともとあるもの、想定していること、意識化できていることに見合うコトバを探して表現するという、しごく当たり前に捉えられている常識的な”書く”ことである。しかし、ここで、バルトのコトバを引用して、こんなことは本物の書き手、作家のすることではないと、喝破する。曰く、

「真の書き手にとっては、コトバ以前に成立している客観的リアリティなどというものは、心の中にも外にも存在しない。書き手が書いていく。それにつれて、意味リアリティが生起し、展開していく。意味があって、それをコトバで表現するのではなくて、次々に書かれるコトバが意味を生み、リアリティを創っていくのだ。コトバが書かれる以前には、カオスがあるにすぎない。書き手がコトバに身を任せて、その赴くままに進んでいく、その軌跡がリアリティである。「世界」がそこに開現する。」

コトバがコトバを生み、意味を創り出し、そして世界を展開していく。あるものを出すのではなく、同時に生まれてくる。このちょっとした違いが実は大違いなのである。これはある意味、存在論で認識されていた、存在を了解することから存在が生起するという展開と似ている。コトバは湧き上がってくる。その湧き上がってくるコトバを現し、現わされたコトバがさらなるコトバを生むということ。さらに面白いのは「書く」行為の元は「身体」にあるという。

「書記行為においては、「身体」からじかに滲み出してくるコトバ、それだけが本物のコトバだ、という。無論、大多数の書き手、ー専門の作家でもーは「身体」で書かないで「頭」で書く。そんなコトバはいわゆる「紋切り型(ステレオタイプ)」であり、生命のない共同言語、真似ごととしての言語使用にすぎない。」

さらに辛辣にいう。

「「身体」で書くことをしない、あるいは、書くことのできない、このような贋物の書き手たちの特徴は、バルトによれば、先ず第一に、書き手としての主体性が固形化して、ほとんど実体的に意識されていること。つまり、書き手としての我(エゴ)が、コトバの外に存立していることだ。コトバから遊離して、その外に立つ我(エゴ)が、まるで道具でも使うようにコトバを使う。書く主体が確立しているのに対応して、書かれる客体も確立している。」

対象化、意識化されている主客二元論的な発想。それがそれぞれを固定化させる。そのもとは我。そして言う。

「一切の存在者の「本質」的実体性を徹底的に否定するバルトにとっては、「書く」現象において、主体も客体も実在しない。主体の側では、既に完全な自己解体が起っている。書き手としての自己(「我」)が解体しきったところで、深い身体感覚が、その全エネルギーをあげてコトバをつむぎ出す。書き手の実在は、ここではそっくりそのまま「コトバの脈搏」と化している。それこそ、唯一の、真正な書記行為。こういう真正の「書く」が生み出すものを、バルトは術語的に「テクスト」と呼ぶ。」(以上 井筒俊彦著 『読むと書く』 慶應義塾大学出版界 より抜粋)

こうなってくるとコトバとは一体なんなのだろうか。人の心を動かすコトバ、状況を動かすコトバ、そういうコトバになっている時は、バルト流に言うならば「テクスト」になっているというのだろう。その時、その場で生まれてくるコトバがあるということ。そういうコトバを生み出せるには我のない頭で、そういう身体であるということか。別の言い方をするならば、頭と身体がひとつの状態にあるということか。

こういった生み出されていくコトバの世界とは別の、何かと形式的になり、目的的であり、あるいは打算的でもある「書く」ということから生み出されたコトバが現れたことの結果が、何事も形骸化し、疎外していく現代社会になっていることを考えると、ここで言う本来的な「書く」ことによるコトバが現れていくことこそが、全く違う世界を展開させていく唯一の希望になると考えることもできる。

書くということ。ここのこの表現の場において、これからこういった意味で「テクスト」を紡ぎ出すことができるだろうか。これは自分にとっての問いかけでもある。認識の転換でもある。書くということ。コトバのこと。そしてその先にあるコトバが昇華された”詩”というカタチもある。コトバが世界を開き、創り、そして変えていくということを、「書く」というポイントから、これからもより深く考えていきたい。

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ユーラシア大陸〜3つのロード

2020-01-20 18:28:35 | Weblog


世界と一言で表現する時、一般的にどこをまずイメージするかで、その人がどういう志向の人かがわかるとも言えます。アメリカ、中国、ヨーロッパ、アフリカ、中南米、オーストラリア、、どこをイメージしましたか?

自分は最近の関心からするとロシアなのだけれど、ロシアだけでない、広大なユーラシア大陸にも思いを馳せています。もともと広大なユーラシア大陸で生きる人とはどういう人達だったのか、そしてどんな歴史があったのかという興味があり、さらにここには埋もれている重要な歴史がかなりあるのではないかという疑問がずっとありました。

さらに最近のNHKの特集でアイアンロードという、シルクロードとは別に、”鉄”の伝わったルートがあることが最近発見され、見直されているというのを知りました。そこで紹介されていた古代民族のヒッタイトやスキタイという名を聞き、何とも不思議な感じになりました。それというのも、昭和50年頃の本で、日本のルーツを辿る研究がかなりなされていた先に、少しとんでも系でその日本のルーツはヒッタイトと言ってる研究者がいたのを思い出したからです。

さらにあの松本清張さんがずっと研究されていた古代史の中で、イランの”ペルセポリスから飛鳥へ”というムックがあり、古代大帝国であったペルシアの文化が日本の奈良・飛鳥にも見出せるということで、かなり大胆な仮説を提示されています。その中で特にイランの古代宗教であるゾロアスター教の影響を見られており、このゾロアスター教は別名拝火教とも言われていることもあり、イランから奈良・飛鳥へのルートを”火の路”として小説にもされております。

東へ東へと、古代の人達はなぜか、東を目指したといいます。あのアレキサンダー大王もマケドニアから出発して東を目指していたといいますし、その東の先に何があるのかというと、まさに私たちの日本があるのです。日本を目指してきたのかはわかりません。ただ”東”という方向に何か神秘的な源流を見ていたのか、最果てに”天”の世界でもみていたのでしょうか。

このユーラシア大陸には元々知られているシルクロードに、鉄のルートであるアイアンロード、そして拝火教の伝わった道である火の路であるファイアロードの三つがあるといえ、どれも西から東へ向かうルートであったといえます。当然その東の終着地である日本においては、様々な人達が古代、訪れたであろうし、実際にイランの人は日本にいたことがはっきりとわかっています。奈良時代、奈良の地は実はとてもインターナショナルな国際都市だったという説もあるくらいです。

今、世界情勢として目が離せない、ロシア、イラン、中国などはこれらのルートと関わる地にあります。表向きの政治的な動きだけではない、何か見えない世界というか、魂の世界というか、埋もれた大地を何か触発するものがあり、それによりこれらの表も裏も大地そのものが動き出しているのではないかと考え、では元々この地には何があったのだろうかと、関心の幅が広がっています。これから少し、色々と探ってみたいなと考えている今の時です。
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明けましておめでとうございます!

2020-01-05 14:05:05 | Weblog
2020年、新年明けましておめでとうございます。
今年は子年。子年は干支でいう一番始まりの年まわり。新しい年のめぐりのはじまりです。

年末年始は割とゆっくりする時間があったこともあり、それまで気になっていた本、特にある宗教に関わる本をひたすら読んでいました。それこそ500ページ以上の厚さの本です。世間的にそれほど知られているものではないのだけれど、そこで伝えられる因縁や体質のこと、遺伝のこと、歴史のことはある真実の断片を伝えていると感じ続けていたこともあり、また、それはそれで今となっては前の世界、旧世界の話に感じながらも、人によっては今でも影響され続けている状態もわかっていたので、何とか整理してみたいとおもい、それに関わる本をひたすら読んでいました。

昨年内には何とか読み終え、やはりこれは前の時代の人間の歴史の話だということがはっきりしました。時代は大きく変わり、空間も大きく変わっています。だからそこで言われていることはこれからは通用しなくなると感じました。ただ、それでもその影響というか、そういう状態・体質・心の状態のままで生きている人が大多数というのも事実。でもそれ以上に人間の因縁以上にこの自然が大きく変わっていることの方が大きいので、これからはきっと、全く新しい状況になっていくはずです。

ただ何となく前の年に遣り残した感覚があり、それに取り組め、やり終え、気付いたら全く新しい干支の始まりが今年と気づき、何とも全く新しい気持ちで新年を迎えました。

今年はまだ5日しか経っていないけれど、日本はもちろんのこと、世界中は大混乱の様相を呈しています。今日の朝の報道特集でやっていたけど、世界は”幼児化”しているという指摘は今までの大人の常識・生き方が通用しなくなっているから、幼児返りしていると感じ、大人のバージョンアップ、いや全く新しい秩序・理念で生きる大人が現れれば、世界は変わるとかんじます。全く新しい大人、全く新しい人間にバージョンアップすること。それに尽きます。ただその新しい秩序や新しい人間のビジョンがないところには不安と混乱と幼児化が待っているということ。それで世界は大混乱となるのは予想がつきます。そうならないためにも、また一人でも多く新しい大人のこと、新しい人間の生き方の実現ができていれば、それは世界の希望となるのでしょう。

今年は今までとは全く違う、大きな変化に全ての人が直面するのでしょう。ただ自分は不安はありません。まだ成っていないから現せきれていないことだらけで、時には沈黙してるような状況でした。今年はそういうことも気にしないで、どんどん表現して、表現していく中で自分が気がつくような、そんな空間をここで作っていこうかと考えています。

○+○=⭐︎
その⭐︎は人によってそれぞれ違うかもしれない。
ただ自分はひたすらにその⭐︎について実は表現していると言っていいかもしれない。
ここで書いてるのは○+○の部分のこと。
その⭐︎がわかるとこの空間も少しは力になるのかもしれません。
そうありたいですが。

というわけで、今年もすでに始まって5日経ちますが、今年一年、元気にいきましょう。
今年もよろしくお願いします!


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四股踏み-以前の記事から

2019-12-22 17:33:00 | Weblog
以前、四股を踏む事について書いた事があるんだけど、その時のページに大正時代のお相撲の映像のリンクを貼っていました。長らくリンク切れになっていたのだけど、最近そのリンク元のページが再度アップされているのを知りました。改めてその大正時代の力士の映像を見ると、昔の日本人の逞しさ、その強靭な足腰の強さが伝わってきて、感動します。

昔の日本人、昔の力士、また今とは少し趣きの違う四股踏みなど、前の自分の記事と合わせて、見て頂けたらと思います。




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