玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

ジェンダー

2021-04-03 16:41:01 | Weblog
(イヴァン・イリイチ)

ジェンダーギャップ指数2021において日本は120位。G7中最下位。

日本は男社会というより、誰だったかが言っていた”親父社会”というのが妙に的を得ていると思うのは自分だけではないでしょう。”親父社会”の弊害はジェンダーギャップにとどまらず、あらゆる組織社会に蔓延している。

そもそもジェンダーとは何なのか。
それをこのジェンダーという言葉を世界中に喚起させたイリイチの言葉から探りたい。

その厖大な注釈からあまりにも読みにくく、さらには言葉の使い方が独特で難解で知られたイリイチの『ジェンダー』という本は1984年に出版されたようです。37年前です。この本の解説をされた玉野井芳郎先生が引用されていたイリイチの言葉から引用させて頂く。

「ジェンダーというのは、セックスとは異なるだけでなく、はるかにそれ以上のものなのである」

「男であるということは、男が知らない事柄を女が知っており、またそれらを指すことばとそれらにはたらきかける力を彼女たちがもっているということを、自覚することである。」


男と女は生物学的な差異を超えた、まったく違う世界で生きているということを示すこれらのことば。同じ空間にいるからといって、そこで存在している男と女は実は感じ方も働きかける力も全く違うのである。そのことを難しくいうと”両義的補完性”といい、ジェンダー研究の課題を「非対称的な男と女という相互補完の関係性について、歴史的、経験的な探求を進めることである」と謳われています。

ここで解説の玉野井先生は補足していいます。
「ジェンダーの二元性を、近代思想における対称的な二元主義と混同してはならないということである。右/左、聖/俗、南/北、雄/雌といった一群の二元性とジェンダーにおける非対称の根源的二元性が混同されてはならないのである」

非対称による相互補完性ということは単純に二つに分けて分類するようなことでない、どちらかというと存在的なことで認識する必要があるということ。

そして社会をシステムとして一つの原理で説明しようとする近代以降の分析思考で、単純に男と女という人間一般を扱おうとするのではなく、あくまでも非対称として存在する男と女の世界について、イリイチの話は進みます。

「ジェンダーは、それが形づくる社会の組成ないし形態に制限を設定するものであり、そしてその組成・形態はライフスタイルのあらゆる側面においてあらわされる」

「ヴァナキュラー(その土地に根ざした)な話しことばや、ジェンダーや、生活の自立・自存は、コミュニティの生活における組成・形態学上の閉じた系の特徴といえる。そうしたコミュニティの生活は次のような前提に立脚している。すなわち、コミュニティというものは、肉体と同じように、みずからの大きさ=規模の限界を越えて成長することはありえないという前提である」

「ジェンダーは、からだを形づくる。それはちょうど、からだが空間を形づくり、また空間の配列によってからだが形づくられるのと同様である」


それぞれの土地土地に固有の文化を育んでいくものは、男と女のそれぞれの体であり、そこからうまれる話し方であったり、仕事の仕方であったり、生活そのものが育まれて文化となっていくのである。そしてこういった理解を前提とした上であくまでもジェンダーの視点は男にない女の独自の世界に光をあてる。

「ジェンダーの世界では、文化の物的要素ばかりか、その文化の認知とシンボル的推論にさえもジェンダーが存在しているという点を重ねて強調しなくてはならない。女が観察し把握するその広がり、展望、色合い、そして対象物は、男によって観察され把握されるものとは異なっている」

たとえば
「生活の場としての家を、ねぐらやガレージからひきはなす独自の空間(それに照応する時間)は、女のよってのみ生じさせられるものなのだ。なぜなら、生きた身体を産むものは、まさしく女だからである」


今、ジェンダーフリーが言われ、機会平等の事ばかりに議論が行きがちであるが、そもそものジェンダーについて、今一度考えるにあたって、こういった議論の原点に戻る事で、かえって見えてくる事があるのではないだろうか。なぜジェンダーギャップを生まないための施策が必要なのか、それは引用した最後の言葉に全て現されている。すなわち、”生きた身体を産むものは、まさしく女”という真理があり、だからこそ、何を中心に社会を作っていくかの答えがここにあるということである。

間違いなく日本の古代にはこういった意味で女性を中心にした”くに”が、”国造り”があった形跡がある。
ジェンダーギャップ2021、日本120位。これからの100年、1000年先を見据えた取り組みは今のこの時からスタートする。全てのスタートは自覚から始まる。

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庵野とバタイユ

2021-03-23 18:51:08 | Weblog
(庵野さん)

 (バタイユ)

今日もツラツラと書きます。

昨日(3/22)のNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』はあのエヴァンゲリオンの作者の庵野さん。いやーとっても面白かった。もともと自分はエヴァンゲリオンにはあまりはまらず、庵野さんといえば、最近では「シン・ゴジラ」の監督さん、そしてジブリ作品の「風立ちぬ」の主人公の声役に抜擢されたドキュメンタリーを見た時の印象が強く残っています。さらに昨日知ったのは、「風の谷のナウシカ」の最後の方で巨神兵が立ち上がり砲撃するシーンは庵野さんが描かれたシーンだったようで、このシーンはかなりインパクトがあって自分の中でも強烈な印象が残っていたので驚きました。庵野さんはかなり独特な人だろうと予測はして昨日の番組を見たのだが、予想以上の不思議な人である。

ここ最近、これはやられたなと思うほどに参ってしまっているのがフランスの思想家のジョルジュ・バタイユ。自分が漠然と感じていて言葉にならないことが見事に表現されていて、特にバタイユの翻訳者で研究者でもある酒井健さんの批評からあまりに多くを学ぶ最近なのです。その思想についてパッと言える事で言うなら、理性で作り出したものを信じていない。理性や知性を超えた非・知と言われる「聖なるもの」の経験をいかにするかを考えている。経験したら言葉にする。しかしその言葉にした途端に、その経験は固定化されてすでに違うものになっている。常にこの今の瞬間、どうなのかということだけ。要は意識的にできることの限界をわかっていて、それを超えた状態をいかに経験するかを考え続けている。

バタイユは人間の理性を超えた情念というか、フロイトのいう無意識の世界の暗い深い深淵な世界が人の内面にあり、その情念の働きにいかに向かい合うかということを重要視しています。その情念は死を強烈に意識した時に凄まじい力となって現れる。そしてその状態の事をエロティシズムともいい、人間はこのエロティシズムにより生きているともいえるという。

こういうバタイユに最近触れていることもあって、昨日の庵野さんの作品そのものが何かバタイユ的と感じてしまいました。そもそもにしてエヴァンゲリオンの碇シンジの内向的な叫びにしても、人がそれぞれ持ち合わせる負の側面へのダイレクトな向き合い。そこに触れた聴衆が自己の内面の何かに触れたので、あれだけの熱狂的な人気を得たのではないでしょうか。バタイユのエロティシズムにおいても、ある本において、エロチックな婦人の絵だけでなく、ある強烈な死の儀式の写真を見せる事で、自己の内面へ強烈なインパクトを喚起することをしているのも何か似ている気がしました。

また庵野さんの新作において、何度打ち合わせしても、あるとこまでうまくいっても、ストーリーをボツにしてしまったり、何か意識的でない、何か降りてくるまで、作品は進められないというような在り方は、何かバタイユのいう「聖なるもの」の経験をひたすらに待っているかのようでした。何においても作品ありきであり、自分自身はそのあとである、というようなことを言っておられていたのも、この人ならうなずけます。

さらに似ているなと思ったのは、お父さんの存在です。庵野さんのお父さんは不運な事故により、片足を失ってしまい、それからどこか社会を恨んでいるような状態で生き続け、それは息子である庵野さん本人にも向けられていたという。バタイユはさらにひどく、バタイユ本人が自覚した時にはすでにお父さんは梅毒に犯されており、その病状は悪化の途。神経を病み、自分で排泄などはできず、息子のバタイユが面倒をみていたという。さらには精神を病み、奇声を発したりと、家族では手に負えない状態になっていたところで、戦争が起き、それを機に家族はお父さんをおいて、疎開し、そのままそのお父さんはお手伝いさんの看病の甲斐なく、亡くなられたという。そのお父さんを捨てたという思いはその後の人生に大きく影響したと言われています。庵野さんもバタイユも父親からの影響がその後の作品や思想にどれだけ現れているのか、何か胸にくるものがあります。

昨日の「プロフェッショナル 仕事の流儀」も今までのものとはかなり異例で足掛け4年。そして最後のプロフェッショナルとは、という定義に対して、結局何も言わないというところが、いかにも庵野さんらしいと感じました。何か時代にインパクトをもたらす作品を作るクリエイターはやはり変わっています。常軌を逸しているというか、下手すると狂人との境をギリギリ行き来している、それが創造に向かえば作品となり、破壊となれば死に至る、、。このギリギリがリアルである限り、作品はある意味、ある存在となって勝手に一人歩きしていく。それが彼の作品なのだなと理解しました。が、まだおそらく完璧に納得してできたものはまだないのでしょう。そしてそれはどこまでいっても出来ないのかもしれません。
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筋肉鍛えろよ

2021-03-21 14:57:57 | Weblog


またまた前回書いてからしばらく時間が過ぎてしまった。
筆不精といいますか。まわりの状況ばかりみていると筆が進みません。
というのも何か日本は来るところまできてしまった気がしてならないからです。

結局全てはお金を基準にしてやってきたことによる退廃した状況が明らかになっただけではないか、と感じるのです。お金だけもらって結局仕事をしていない。号令は出しても結局それは誰がやるの、どうやってやるの、が出来ていない。やる側にしても時間も人も足らない、挙げ句の果てお金は中抜きされて利益相当の仕事がつくれないという状況。

国のために働いてるはずの人が、どこかタガが外れている状況。口ばかりで手を動かしていない人ばかり。どの社会を見ても、組織をみても、末端はひーひー言ってる。ピラミッドの頂点から下に向けて号令出す組織形態の勘違い。逆ピラミッドにして、多くの台座にいる人たちが働けるように末端で支点にいるお偉いさんたちは努力しなくてはいけない。そうでないと大きな仕事は動きません。兵站という最前線支援を重視しない組織観は結局敗戦時から全く変わっていない。

新しい動きはもちろんある。ただ残念なのは、ある程度若くて成功した人たちは組織を離れて投資家になってお金転がしで終わってしまっていること。より大きな組織の枠内に入って、分離させられ、多くのお金を手にはしたが、よく考えると、牙を抜かれただけ。どうもそこに気づいていない気がする。何か現役を離れると勢いがなくなって、後に残った組織は無難な大企業化していくだけ。何かいつももったいないと感じてしまう。

80年代に来日したイリイチがその当時の日本を社会心理が破綻していってる最前線の国をみたというような事を言っていた気がするが、今、まさに来るところまできてしまっている。かといって、ただ暗澹たる気持ちでいてもしょうがない。必ず抜け出し口はあるはずである。危機的状況の際には必ず抜け出す人たちが出てきて、新しい状況を作ってきたのもこの国である。

そういう人はどこから出てくるのでしょうか。何かお金や名誉ばかりある人たちからはそういう人は出てくるとは思えない。というよりもそういう人たちが何かしたところで共感できないのである。求めるのは古臭いけど、本当に人間らしい人。暑苦しくてもいい。情け深くてもいい。今ぱっとしなくてもいい。でも何かキラリと光る、これもまた古臭い言葉だが、魂を感じる人に出てきもらいたい。

心身一如という言葉があるが、心をある意味、意識的と捉えるなら、近代から現代においてはこの意識的な人が成功してきたといえる。成功は結局経済的成功のことである。身の人はどこか不器用というか、経済には無頓着。ただどちらだけが長けていてもこれからの時代ではダメかもしれない。心身一如、あえていうなら、身体の方が今は大事かもしれない。身体の感覚よりも意識的な事が優先させられて現代はできている。いわばつくりものの世界である。ましてネットやバーチャルの時代である。しかし、それによって結局、心の病、意識状態が混濁していく病気が増えている気がする。

病人に対する扱いからして、日本は逆だといえる。とにかく寝て、薬を飲んで治るのを待つという。治らないでしょう、ほとんど。悪化してばかり。欧米では、特にドイツだったかの病院は入院患者には必ず歩く事を進めているという。人間動きが止まったら終わってしまうのである。水の流れと同じで、滞ったら腐るのである。歩く事で筋肉を使い、そして足の裏が刺激されて脳にも刺激がいくので、頭は冴えていくのです。今、筋肉を鍛える事が注目されているのは、筋肉はいくつになってもどんな状態でも鍛えれば増えていき、それと同時にあるホルモンが分泌されて、それが生きる力に繋がっていることがわかってきているからという。あるプロレスラーがいじめられてる少年に、「少年よ!腕立て伏せをしろ!スクワットをしろ!筋肉を鍛えろ!友達は裏切っても筋肉は裏切らない!そしてついた筋肉は自分に自信をもたせてくれる!筋肉ついた自分に見惚れろ!かっこいい自分に見惚れろ!いじめなど気にならなくなるぜ!」ちょっともったけど、、こんな意味の事を言っていたのに感動したものです。

さて、ツラツラと書きました。たまにはこういうのも必要です。何かちゃんと書かなくてはという思いが強くて、少しこの場から遠ざかっていましたが、これからちょくちょくツラツラ書いていきます、、予定では。

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”マガイモノを排除せよ”

2021-01-10 14:10:30 | コンサート


日本の歴史には断絶がある。
それは敗戦となったことで、国の根幹となる憲法を他者から与えられたこと。そして古事記などの神話について全く伝えられなくなったこと。国の在り方、文化の根幹に関わる中心軸が失われたまま、今に至っているのである。

憲法については、あの碩学の小室直樹氏が、今と全く同じ内容の憲法でもいいから、一度国民投票にかけて、この憲法を採択するだけでも良いから、自らが選択して採択したという現実を作ることで、いわゆるアノミー状態が改善されると論ぜられている。本当にそうかもしれません。

そして古事記である。古事記は不思議な書物である。天皇に連なるアマテラスオオミカミに至る神代からの物語や、スサノオに代表される出雲の話があったり。また言霊として捉えて、その音(オン)そのものに力があるとする話や、当時、既に失われ始めた言葉を後世に残すために編纂させることを天武天皇が求めたとか、この古事記という不思議な書物が醸し出す、或る意味あやしき空気が日本人の不思議さを現しているともいえる。

自分個人の関心としては、昨年少し書いた出雲についてである。それはたまたまだけど、自分が初めて飛行機に乗って旅した先が出雲地方の熊野大社であったこと。また昨年読んでいた松本清張の壮大なるゾロアスター教と日本の奈良の遺跡を結ぶ考察としての「火の路」。拝火教とも言われる火を祀るゾロアスター教の影響を日本の奈良時代の斉明天皇にみたこの壮大なストーリーは、それはその学説を小説という形で発表した前代未聞の試みでもあった。この火を祀るという意味では熊野大社は「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)という火の発症の神社であり、拝火教との関係はないとも言えない。

また古事記に出てくる造化三神と言われる、アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カムムスヒのカムムスヒは出雲の祭神であるオオクニヌシの祖母にあたるとされる。最近、佐藤正英氏による「古事記神話を読む」という斬新な古事記解釈の本を読み、古事記の神様に対する見方が全く変わってしまったこともあります。それは造化三神にしてもそれは神そのものではなくて、神を祀る祭祀であったという説です。神そのものを見ることはできない。その神の名で現された祭祀を通してその神の働きが現れるという説である。こういった考えは井筒俊彦氏によるギリシア神秘哲学におけるプロティノスやイスラム神秘哲学のイブン・アラビーなどの考察がとても参考になり、佐藤正英氏の考察も的を得たものではないかと妙に納得しました。

憲法にしても神話にしても、日本の根幹に関わる中心軸である。その両方とも、様々な考えがあり、それこそ何が本当で真実なのかがわからない在り様である。ただずっと感じとしてあるのは、何かマガイモノがこの国の中心軸を覆って支配してしまっているという感覚であり、それによって何が正しいのかの軸がぶれてしまっているという感覚である。それもそのはずである。日本は敗戦によって歴史・文化の断絶があるのと、間違ったこと、もしくは偽りが教育され、伝えらえれていること。さらに悪いのはお金による価値観の横行で、お金があり、目立っているものが正しいかのような錯覚が植えついてしまっていることである。

本当のことを知ること以外に真に魂の覚醒はないと考える。この今のコロナ騒動において、まさにこの真実が問われているのである。マガイモノが騒いでるだけなのか。このマガイモノは強敵である。専門家というマガイモノかもしれない。権力者というマガイモノかもしれない。教育者というマガイモノかもしれない。宗教者というマガイモノかもしれない。いや普通の人という何ともやっかいなマガイモノかもしれない。今年の正直な気持ちはこの”マガイモノ”を排除せよ、である。

さて、そんな心境の中、このような事態の中で自分にとっては正に的を得たといわんばかりの、あの”高句麗伝説コンサート”の開催である。何か得体の知れない空気が醸成されつつある今の時において、それこそ清(きよ)く潔(いさぎよ)き高句麗の魂の風により、マガイモノを吹き飛ばすかの如く、この風に当たり、心身共に真の清らかさを得ることの必要性を感じざるを得ません。とにかく電子からアナログまで、あらゆる楽器による即興演奏と、その時その場で起こることが詩で表現される、音楽と言葉と映像の総合的芸術表現であるコンサートです。時代によっては神事として扱われたのではないかと考えられる程の場でありコンサートです。自分は単純に凄く楽しみにしているのです。上記、自分の関心も、今における不安も、全ては真の表現により培い、そして払われてもいくということ。大事な今の時です。心よりオススメ致します。

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"高句麗伝説コンサート

2021年1月13日(水)
新宿文化センター 大ホール
東京都新宿区新宿6-14-1
PM5:20開場 PM6:00開演
PM7:30終演予定
出演:高麗恵子(詩の朗読)・いだきしん(即興演奏・映像)
全席自由 10,000円
主催:特定非営利活動法人高麗
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新年明けましておめでとうございます

2021-01-01 16:56:43 | Weblog
新年明けましておめでとうございます!
世界も生活もまるで変わってしまった昨年から、さらに今年は変化の一年となるでしょう。

何が本当で、何が真で、何が正しいのか。
一人一人が常に問われ、一人一人がその決断の責を問われる。
それで良いとおもう。
何にも強制されず、自由に考え、行動する。
共有できる人とは共有し、共に生きて行く。

だからこそ正しく知識を得て、正しく考えていく。
これからより本質的な事が問われていく時代となる。

今年も考えてる事や発見した事など、いろいろと書いていきたいとおもいます。
本年も元気に駆け抜けていきましょう!
今年もどうぞよろしくお願いします。
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年の瀬に寄せて

2020-12-31 16:36:04 | Weblog
2020年も終わり。
今年は本当に大変な一年となりました。
今年ほど、いろんなことが明らかとなった年はなかったかもしれません。

今だに現れてる事象は”異常”の一言。

来年からは本当に正していかなくてはいけません。
何が真で何が偽りなのか。
目立ち、取り上げられていることだけが真だなんて、本当の意味では誰も感じていないでしょう。

さて、この2020年も終わりのこの一(ひと)月に、自分にとっては最も知りたくて、そして最も魂揺さぶられる発見がありました。それは日本の神様のこと。古事記のこと。そして自分がずっと関心を抱いていた神様や地域のことなどが、もしかしたら繋がるかもしれないという予感がしていて、ワクワクしています。まだ調べてる途上なので、それがわかったら、何かとんでもないことが起きる予感がしています。

実際、年末にある出来事があり、それがそれまで自分を押さえ込んできた性格の因子との関わりがわかり、自分の判断を優先させたことと、整理をちゃんとできた事で、それまでのモヤモヤした状態が一気にスッキリするという、長年の引っ掛かりが一気に晴れていったのです。こういったことが12月で一気に起こってることからも、来年は今までにない一年になりそうです。そうする一年にしていきます。

来年はさらに様々なことが正されていく一年となっていくでしょうし、正していく一年としなくてはいけません。

今年はあまり更新しない一年でしたが、それでもこのブログをたまにでも読んでくださり、本当にありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
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”小さき光を消せ”

2020-11-14 14:04:48 | Weblog
(”アテナイの学堂” Wikipediaより)

古代ギリシア哲学の系譜。ソクラテス以前の叡知。立場、観点は違っても辿りつく極致は同一。辿りつく先の極致は”一者”。

「クセノファネスによる「全体が視、全体が覚知し、且つ全体が聴く」と形容された「全一者」も、ヘラクレイトスが「全てを通じて全てを嚮導(きょうどう)する叡知」と呼んだ「ロゴス」も、また今やパルメニデスが「思惟と存在の一致」として定立せる「存在自体」も、いずれも存在至高領域の絶対的叡知性を表現せんとするものであった。」

当然、”一者”を追い求めていく中で辿りつくのは自然神秘の領域。それは自己の意識を否定に否定し去っていく道であり、その先にこそ”一者”そのものの覚知へと極致する。そしてかくの如く語られる。

「…自然神秘主義の一者とは、かくの如き平面的集合ではなくして、立体的なる超越即内在の一者である。それはあらゆる個物が集合するところに成立する一ではなくして、あらゆる個物が窮極するところに突如として顕現する形而上的一である。従ってかかる窮玄の一者を意識する意識は、個物的相対的人間の意識ではあり得ない。絶対者を意識するのは絶対者のみ。人間は如何にこれを瞻望(せんぼう)し、これに向かって拮据(きっきょ)勉励するとも、決して絶対者を意識することはできない。絶対者の現成は、絶対者の自己意識としてのみ可能である。

「自然神秘主義の主体は人間の実存にあらずして、神の実存である。絶対者の超意識的意識が照々と自己自らを映すことがすなわち一者の顕現なのである。されば自然神秘主義に関しては、神秘的体験を日々することすら既に一種の比喩に過ぎぬ。強いて言うならば、体験の主体は神であって人間ではない。人間は何かを体験するではなくして、絶対的に無に帰するのである。

「人間の相対的意識が完全に棄揚され、内外ともに点埃をもとどめぬ空無に没入し去る時、茲(ここ)に漂渺(ひょうびょう)として絶対意識が露現する。人間意識が否定に否定を重ねつつ遂に否定的緊張の極致に至って厘毫(りんごう)の光だになき暗闇に陥没する時、この寂寥たる超越的虚空裡、絶対者の意識が煌々と点火されて全宇宙を照徹するのである。

「或る一つの光源から、あらゆる方向にむかって放射される光は、光源より遠ざかるに従って漸進的に弱化し、次第に薄れつつ遂に四周の闇に呑まれ消融するところの一つの円光をなすであろう。日常的人間意識は譬えばかかる光の円である。人間はかかる自己照明に依って僅かに自己の周囲を照らしつつ、無限なる宇宙的闇黒の只中に投げ出されているのである。

「無限に深く無限に広き暗黒の無気味な沈黙の中にあって、危げに風にはためく此の燈火ただ一つが彼の頼りである。

灯りを消す勿れ。この灯が消えるとき、全ては黯惨たる死の闇に消え去るであろう…。

併し(しかし)乍ら(ながら)実は人間が自らの照明を有するが故に、却って周囲は無限の闇黒なのである。自ら小さき光を抱く故に、大なる光が見えないのである。

小さき光を消せ。

その時、大なる光は全宇宙に赫奕(かくえき)と耀き出ずるであろう。」

人間の意識を小さき光と現し、その小さき光が強ければ強いほど、大なる光、つまりは大いなる意識、絶対意識を見えなくさせているという真実。絶対意識、”一者”への道と自己の意識との関係が明かされる。そして、いう。

「霊魂の中核より四方に発出しつつ、謂わば意識の全平面に渉って拡散している精神の光を、次第にその光源に向かって収摂し、全ての光力を一点に凝集して行くならば、遂に密度の極限に達した光が忽然として、逆に密度の極限に於ける闇に転ずる不思議な瞬間が来る。この時、人間的意識の光は剰すところなく湮滅(いんめつ)して蹤跡(しょうせき)なく、それと共に、今まで此の意識を取りかこんでいた宇宙的闇黒は煌了たる光明に転成するのである。人間的意識なき処に顕現し来る此の超意識的意識こそ、「存在」そのものの霊覚であるに外ならぬ。」

小さき光を消し、四方に拡散する光をある一点に凝集し続けることで、突如変転し、大なる光と一つとなる。自己の光が大なる光と一つなったその時、実はそれが最も自己らしくなるということであり、”存在”現ることと同一である。その時、最も自由で豊かであり、そして何よりも内から湧き立ち力漲る。内面的な充実がそこにはあるのである。

古代ギリシア哲学、”一者”への道。古代でありながら未来への指針、道標。

以上、『神秘哲学』(井筒俊彦著 慶應義塾大学出版会)より引用。

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ああ、アメリカ、、

2020-11-08 21:48:00 | Weblog
あ、あ、アメリカよ、、、
どこに向かう、、?

今更ながらにどハマり、、ドイツは東ドイツ出身のラムシュタイン"Amerika"★



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テクノロジーの進化

2020-10-28 18:14:03 | Weblog


菅政権になってから、現実的にどんどん改革が進み始めているようです。

そのひとつにデジタル庁の創設が言われています。縦割り行政の弊害や行政手続きの煩雑さなど、行政手続きを本当に効率的にしていくには当然必要なことであろう。マイナス面としてよく言われる、個人情報の取り扱いや国家の個人に対する管理が強化される懸念というのは確かにあることだけれども、今世界で起きているテジタルの流れは止めることはできないでしょう。

デジタルトランスフォーメーション、通称DXと言われるデジタル技術によるビジネスや業務の変革。この手の本をいくらか目を通してみたけれど、このDXの思想的、技術的発想、そのビジョンの背景にもあるのは2045年に人工知能は人類を超えるというあの特異点(シンギュラリティ)を提唱しているレイ・カーツワイルの未来予測を無視してはいけないというのがありました。『ポスト・ヒューマン』という未来社会を技術的な展開を元に描いている本を以前読んだ事があったのだが、その当時は本当にそこまでなるのかなあという感想を持ちました。

しかし、それが最近話題となっている、人間は120歳まで生きれる、老化そのものは病気であるということを医学の最先端から提唱する『ライフスパンー老いなき世界ー』を読んで、改めてカーツワイルの予測する未来の一部が本当に現実的になってきていることがわかり、これは人類史的に凄い事が起きていることを改めて納得しました。

この流れは止めることはできないし、この流れを『ライフスパン』の著書のデビッド・シンクレアのようにポジティブに受けとめていくことで、これからのことを考えるにあたってその発想は大きく変わるなと感じました。

とはいえ、デジタル技術や医療技術がどれだけ発展していっても人間は人間である。と同時にそこには人間とは何か?人生とは何か?ということが常に問われてくる。この生身の人間の身体についても、これだけ医学が発展し、CTやMRIのような体の中を透過して撮影できる技術があるのに、最近喉の奥に新しい臓器が見つかったという驚きの発見がありました。また心療内科という医学の分野において、生き方や在り方を根底的に変えたことで、末期ガンの人のガンが退縮したり、何年も生き延びたりと、いわゆる奇跡的なことが今でも起き続けています。つまりは人間についてはまだまだわからない事がたくさんあるという事です。

それでもデジタル技術の発展によって、こういう事の要因も明らかにされていくのかもしれない。今、カーツワイルの『ポスト・ヒューマン』を再読し始めています。分子・原子・量子、さらにはDNAですらコンピューティングする能力があり、さらには広大な宇宙までもがコンピューティングの対象として捉えていくその発想が夢物語ではなく、実は現実味を帯びてきていることに、今の時代は本当に凄いと感じるのです。

その先にあるのは、神話や奇跡と言われる世界が解明されることなのかもしれません。ただ、それでも、デジタル技術では計れない、再現できない能力が人間にあるとの認識は変わる事はありませんが。。

テクノロジーの進化と人間と何かという問い。新たな局面に入りつつある今の時。

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まこととうそとのはたしあい

2020-10-23 20:09:23 | Weblog


「 まこと と うそとのはたしあいー

時に、うそがまことを侮辱した。

まことは、天の高みへと行ってしまった。

うそが、湿った地上に残った。

正教徒のすべての民のもとに。

うそが、われらすべての胸の上に落ちてきた。

かくてわれらの世界にはまことがない。

あるのは、甚しい無法のみ。
」(『鳩の書』)


天の高みへと行ってしまった”まこと”を取り戻す”はたしあい”は始まってる。
世界にはびこる”うそ”を一掃する”はたしあい”。

無法の世を立て直す時。
世界に”まこと”を取り戻す時。
ひとりひとりの胸の上の”うそ”をはらい、清らかな地上にする時。

とてつもない事が起きている今。
ひとりひとりの自覚こそがこたえとなる。
”まこと”への自覚。
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