玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

死について

2018-04-24 10:51:11 | Weblog



人間のことを人間といわず、現存在と表現するハイデガーの存在論。
おそらく、まったく違う観点から人間を捉えることなくして、人間のことがわからないことを見抜いたからでしょう。

魚には水が見えないといいます。水の中で生きているから当然です。しかし水の外の世界があるのです。魚はこんなことを考えないでしょうけど、人間にとっては、人間とは何なのか、こういう問いが生まれるのは、あまりに色んな事が現実に起きるからでしょう。

人間。絶対に起こる事で、そして誰に取っても個人的で確実に未来に起きること。それは死です。ハイデガーはこういった人間のことを”死に臨む存在”と表現しています。誰もが確実に死にます。しかしその絶対的な個人的な死という経験を、生きてすることはできない。他の人が死んで、はじめて死という現象に遭遇するのです。当たり前にいた人が突如としていなくなる。いなくなっているのだが、その人の存在はなくなっているわけでない。しかし肉体としてのその人はいない。痕跡は遺骨などとして残りますが。ハイデガーは過去の事を過去と言わず、既在と表現し、既に在ったことというのです。過ぎ去ったとは表現しないのです。いなくなっているのに存在する。どこかに過ぎ去っていなくなっているわけではないと考えることもできます。

一人の人間が死ぬ。突如としていなくなる。なぜ死んでしまったのか。この現実の人間、肉体を持つ人間は様々な事に影響を受けながら生きています。それは人間関係だったり、社会環境だったり、また自分自身のもつ考え方により、様々な現象を起こしながら生きています。

一人の人間が死ぬ。その死には必ず死に至る何かがあるはずです。自分はどうしてもそういう事を考えてしまいます。まして、ちょっと早いなと感じる死においては尚更です。こういった事に思いっきり正面から考えていく。それがその死に対する礼儀でもあり、一人の人間が生き、共に時間を共有した人に対する敬意でもあります。ハイデガーはこの人間存在を考える本の題を『存在と時間』としました。時間を考える事なくして存在を考えることはできないということです。

その人の生きた時間、共に生きた時間。

共に生きた時間、特に思いっきり正面からぶつかり合い、共に何かを成そうとぶつかり合った時間はかけがえのない時間です。そういう時間や経験は色あせる事なく、今のこの瞬間にも生々しく在り続けます。こういった時間を永遠とでもいうのでしょうか。

いつ何時、何が起きるかわからない時代です。
今日会った人に次また会える保証は実はないのです。だからこそひとつひとつの出会い、共有する時間を大事にしていくのです。日常の惰性に埋没する事なく、今のこの時という時間を掛け替えのない一回性の出来事として、日々生きていくのです。
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”結工房”

2018-03-11 10:53:12 | Weblog
今日は2018年3月11日。
東日本大震災から7年。

長いようで短い時間。
大震災というだけでも大変な事なのに、原発事故という、これまたとんでもない事故が重なり、この東日本大震災は本当に複雑であり、世界的に見てもとんでもない災難が続いていることを自覚する事が大事と、7年目の今、強く感じます。

今、仙台に来ています。
あの震災の年に、導かれるように訪れた山元町。その周囲の凄まじい情景に言葉を失った事を思い出します。その山元町の中心地に当たる山下駅周囲は昨年電車も開通し、復興が形となっていることは、いろんな状況がある中でも、とても喜ばしいことです。

その山下駅からすぐのところに本日、カフェや直売所が入った新しい施設”結工房”がオープンします。地元のイチゴ農園の方と我々がよく知るNPO高麗との共同での開設です。オープンに至るまで、様々な困難を乗り越え、7年目の今日、いよいよ実現の時を迎えます。この”結工房”への思いはひとつ、”復興”から”発展”へ。その象徴としての”結工房”です。

聞くところによると、震災においては人と人との”絆”が象徴的に語られていましたが、山元町の地元では”絆”ではなくその事を”結(ゆい)”と表現するそうです。とても良い言葉ですね。今日はこれからその”結工房”に行ってきます。

地元の新聞、河北新報にも取り上げられたようです。その記事を以下転載します。
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<震災7年>イチゴで結ぶ客との絆 山元町の新市街地に初のカフェ

11日にオープンする「結工房」


 山元町の新市街地「つばめの杜」に11日、カフェや直売所などが入った複合施設「結(ゆい)工房」がオープンする。町の農業生産法人「山元いちご農園」と、東日本大震災の被災地で支援活動を続けている東京都のNPO法人「高麗(こうま)」が共同で開設する。JR常磐線山下駅前にあり、イチゴ狩りなどで訪れた観光客らの利用を見込む。

 木造平屋で延べ床面積約300平方メートル。つばめの杜地区で初となるカフェは約40席で、町産のイチゴやリンゴ、イチジクなどを使ったグルテンフリーのスイーツを提供する。コーヒーは、エチオピア産の野生の豆を使用し、店で焙煎(ばいせん)する。直売所では農園のイチゴやイチゴの加工品などを販売する。
 NPOの高麗恵子代表は「町での活動を通して感じた住民同士の絆を店の名に込めた」と話す。農園の岩佐隆社長は「イチゴ狩りで訪れた人にゆっくりと過ごせる場所を提供し、町での滞在時間を延ばしてもらいたい」とPRする。
 営業時間午前10時~午後5時(11日は午前11時営業開始)。火曜定休。連絡先は結工房0223(35)7430。
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女性の体

2018-03-07 19:50:23 | Weblog
(”縄文の女神”wikipediaより)

あるニュースを見ていて、気になったことがあります。

それは元マラソン女子日本代表選手が万引きをして捕まったという記事です。これは執行猶予中の犯行で、同じ犯行を繰り返してしまったということで、何とも言えない気持ちになりましたが、よくよく考えてみると、その背景にはとても大事なこと、とくにこの社会全体で大事な視点が抜け落ちているのではないかという事を感じました。それはこの記事を読んでいて思い出したのが、整体の野口晴哉さんの『女である時期』に書かれていたことです。

女性は生理の波や生殖器の状態が体や心理状態へ影響が出やすく、その視点から行動や言動を見ないと、何が本当に起きていることなのか見誤ると言います。生理のある時期の女性、つまりは生殖可能な時期においては、より体の波の影響を受けやすく、その波の状態によっては目を覚ましてはいても、まるで酔っ払ったような状態になることもあるといいます。この本ではその体の反応が頚椎に出た人のことで、こういう記述があります。

「頚椎部に故障がある場合、生殖器に関係のある度合いが強いという場合には頭のはたらきが変わってきます。昔の話ですが、歌人で美人で有名だったK夫人が万引きしたという話が伝説のように伝わっていますが、そういうことがあったとしても不思議ではない。それは、より女的だったと言えるだけのことです。写真で見てもきれいな人とは思えませんが、動いてるときはきれいに見えた人かもしれない。としたならば、多分に女的な分子があると言える。

そういう面から考えると、頚椎の三番四番を中心に生殖器の影響が強く出てくる人だと考えれば、月経の時期に往来を歩きながら居眠りをしたとしても不思議はないのであって、万引きしたからといっても必ずしも盗癖があったとは考えられないものがあります。やはり生理的な一つの現象と見るべきだと思う。」(『女である時期』全生社 野口晴哉著)

マラソン選手に限らず、女性アスリート達は過酷なトレーニングにより、生理不順だけでなく無月経など、生殖器そのものに深刻な影響が出ている人が多くいることが最近わかってきています。今回のニュースの元マラソン選手は現役時代の厳しい体重制限で暴食しては吐く「摂食障害」となっていたことを明らかにしています。

今回の一件、万引きそのものはもちろん、社会的、法律的には問題のあることです。しかし、それだけの事で終わらせてはいけない、象徴的な一件に思えてなりません。女性のことを理解するとは、何も男女平等という権利の問題だけで終始してはいけず、女性の体の事、生理の事など全体的・総合的に考えていかなくてはいけないと改めて感じます。女性が女性として生きやすい社会を創らなくてはいけない、実はそのモデルは古代社会にあるのだよ、、と、その事を”縄文の女神”は伝えてくれてるのかもしれません。
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超人

2018-02-18 11:36:45 | Weblog


天才達が現れている。

冬季オリンピックでメダルを取っている選手達。さらには将棋の棋士。そして卓球の選手など。スポーツを中心に今までと全く違う感覚、感性で取り組み、結果を出している若い世代達。本当に凄いです。大げさに言うならば、新しい人間が現れていると言ってもいいのかもしれません。

彼らに共通して感じるのはその取り組みに対しての言葉。好きだからやっていて、とにかく楽しんで取り組んでいることが印象深いです。古い世代にありがちな、苦労を乗り越え、忍耐をしてこそみたいな、”巨人の星”の星飛雄馬型の選手では結果が出なくなっている気がします。また、妙な緊張もなく、いつもの自分のままでいる。

それを特に感じたのはスキーモーグルで初めてオリンピックに出場し、見事銅メダルを取った原さん。楽しくて楽しくて、早く滑りたくてしょうがなかったとの言葉が印象的でした。さらにはフィギアスケートで銅メダルを取った宇野さんはオリンピックだからという気負いが全くなく、あっけらかんとしていました。もちろん凄まじい練習やトレーニングをされていることでしょう。しかしそのことを全く感じさせないことの爽やかさは一体何なのでしょう。その象徴がやはりフィギアスケートで金メダルを取った羽生さんでしょう。あの怪我からよくぞここまでの短期間で回復し、結果を出されました。その集中力は凄まじいものがあります。

またこの新しい世代の人たちは本当にまわりへの感謝を忘れていません。はっきりとそれを言葉にして伝えます。こういった動きは一流選手だけでなく、普通に若い世代に多く見られてきている傾向であると感じています。

天才を超人と言い換えてもいいかもしれません。最近ずっと読んでいるハイデガーによる『ニーチェ』講義。その中にこういう記述があります。

超人。
「ニーチェがこう名づけるものは、もはや人間ではなくなった者のことではない、《超越》を意味する《超》は、或る明確な人間に関係して言われている。われわれがこの人間を超えて、変化した人間へ到達したときに、その人間の明確な姿がはじめて見えてくるのである。そのときはじめて、従来の人間をその従来性において回顧することができ、そのときにのみ、それがあらわになる。

この克服さるべき人間とは、今日の人間であり、同時にーー彼を克服する人間、すなわち新しき始まりから数えればーー《最後の人間》である。最後の人間とは《ほどほどの幸福》をめざす人間であり、きわめて抜け目なく全てを心得、すべてを営んでいるが、そうしながらすべてを無難化し、中位のもの、全面的平凡の中へ持ち込んでいく。この最後の人間のまわりでは、すべての物事が日毎に小さくなる。こうして、彼がまだ偉大だと思っているものも、彼にとってもっとも小さく、いよいよ小さくならざるをえない。」(『ニーチェ』ハイデガー著 平凡社ライブラリー)

新しい人間の登場が今までの古い人間の姿を明確にするのである。新しい人間の登場。そのことが今、10代、20代の人たちの活躍によってはっきりと現象化している。この人たちがもっともっと活躍し、それがあらゆる世界で現れていくのであれば、この世界は何とかなるのかもしれません。大事な事は天才達が育つ環境や状況をつくっていくこと、そして古い世代は邪魔しないことです。この天才、超人のことはこれからもっと注目し、考えていきます。
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存在恢復

2018-02-11 17:39:12 | Weblog
プラトン


恢復:かいふく
①一度悪い状態になったものが,元の状態になること。
②一度失ったものを取り戻すこと。
(三省堂 大辞林より)

ハイデガーによるニーチェ哲学の講義である『ニーチェ』より、プラトンの読み解きから存在恢復への道が示されている。曰く、

「人間の本質には---すなわち人間が人間として存在する事ができるということには----存在への視向が属している。〜この存在視向が人間に付帯する備品のひとつのように眼につくものではなく、むしろ深奥の所有として人間に属しており、それがもっとも損なわれやすく、きわめて容易に歪められ、それゆえに、いつも反復して取り戻されなくてはならないものだということを心得る必要がある。」

「ここからして、存在視向の恢復と不断の更新と保持とを可能にする特別のものの必要性が明らかになる。この特別のものとは、もっとも身近に出会うものごとの映現の中で同時にもっとも遥かな存在をもっとも容易に映発させるものにほかならない。これがプラトンによれば、美しいものなのである。」

存在への視向は歪められやすく、何もしないでそのままでいること事態が存在忘却になっていくという現実。しかし存在への視向を恢復する道はあり、それは身近のものに対して、遥かなものを想起することであり、それが美しいものとの出会いがきっかけになりうるということである。さらに、プラトンの言葉により具体的に現されていく。

「正義と思慮、そしてそのほかに人間たちが根本において何よりも重んじなくてはならないもの---、これらすべては、映現として出会うところでは、いかなる輝きをも宿していない。」「むしろ、われわれが存在をとらえるのは鈍い器官によってであり、したがって辛うじて不鮮明にとらえるにすぎない。そして、それに該当する目撃証拠をめざす人々も、その由来の源泉、すなわち映現の中で呈示されるものの本質的根源を目撃することは稀である。」

本質的なものは、気づかれる事がもっとも少ないということである。しかし、

「ところが美はこれとちがう」

とプラトンは言う。続けて、

「ところが(---すなわち存在の閃現の本質的秩序においては---)ひとり美だけが、もっとも顕著に輝き、しかもまたもっとも人の心を奪うものであるという持ち分を授かったのである。」

これらの言葉を受けてハイデガーは次のようにまとめる。

「美しいものとは、もっとも端的にわれわれを訪れ、われわれを魅了するものである。美しいものは、存在者としてわれわれに触れることによって、同時にわれわれを存在への視向へ転位させる。美しいものとは、もっとも身近な感性的現象に参入しながら、しかも同時にわれわれを存在の中へ高め去っていくという、内的に背馳(合わないこと)するもの---魅惑しつつ超脱させるもの---なのである。こうして、美しいものはわれわれを存在の忘却から引き立て、存在への視向を授けるものである。」

美しいものとの出会いこそが、存在忘却から存在恢復への道。美しいものに惹かれる心の動きこそ、存在恢復への大きな導きとなる。同じものを見ていても、そこに遥かな世界を感じ、美しいものを見出す人こそ、存在現し生きている人といえる。

殺伐とした状況の中に何とかして美を見出す動き。「美は世界を救うか?」というドストエフスキーの問いかけに対して、「美は世界を救う」とその著書により答えたロロ・メイ博士の言葉が思い起こされます。

美しいものとの出会いは、単に美しいという感動以上のこと、それは存在忘却の状態から存在恢復ということの生成であり、それはそのまま真の自分との出会いへと導かれるのかもしれません。以上、『ニーチェ』(ハイデガー著 平凡社ライブラリー)より抜粋。
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4000日

2018-02-10 17:52:13 | Weblog


昨日の2月9日で、このブログを開始してから何と、4000日経ちます!

毎日書いてるわけではないですが、4000という数字にちょっと感動しました。全く違うけど、何だか4000本安打を打ったような、凄い記録を打ち立てような気持ちに勝手になっておりますw 

継続は力なり。ちょっとした表現でも継続していることで、何かの力になっているかもしれない。そう信じてここまで不定期ですが、書き続けてきました。誰かのためになっていたら嬉しいし、何かの理解の深まりにちょっとでも貢献できていたら、なお嬉しいです。

画像は京都二条城の石垣です。1つ1つの石が絶妙に重なり合いながら、強固な石垣が築かれていきます。同じ形でない石が重なり合うことで、かえって強度が増すといいます。この事は実際に人の集まる組織にも言えるのかもしれません。石は意志。目指すところが同じであり、それでいてそれぞれの資質が生きた”意志”が織りなす石垣こそ、その上のお城にとっても最高に安全な場を創造しているのかもしれません。そしてそのお城は目的を先導する殿様の存在そのものです。

自分の言葉もこの石垣の”いし”のような表現となるように、これからもひとつひとつ積みあげていきたいなと想っております。今後ともよろしくお願いします。

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琵琶湖の秘密

2018-01-20 14:29:35 | Weblog


ホツマツタヱが面白い。

古事記、日本書紀の原典ではないかとも言われ、様々に論議されている曰く付きの謎の書。真偽がどうであれ、このホツマツタヱにおいて、ある人達がこのクニのひとつの歴史を伝えようとして書かれたことは間違いない。特に惹かれるのはその文体が五七調で書かれていること。語呂が良く、また言葉そのものに格調があります。ホツマツタヱの他にミカサフミ、フトマニと言われる文献があり、それらを称してヲシテ文献と呼ばれてます。

このヲシテ文献に伝わるアマカミと呼ばれる天皇に連なるクニを治めるリーダー。その初代はクニトコタチ。以下は、

初代:クニトコタチ
2代:クニサツチ(トホカミヱヒタメ)
3代:トヨクンヌ
4代:ウビチニ・スビチニ
5代:オオトノチ・オオトマヘ
6代:オモタル・カシコネ
7代:イサナギ・イサナミ
8代:アマテル
9代:オシホミミ
10代:ニニキネ/ホノアカリ
11代:ホオテミ/ニギハヤヒ
12代:ウガヤフキアハセズ

ここまでがカミヨ(大昔の世)と言われ、それ以降がヒトノヨと言われます。

第一代:タケヒト(神武)
第二代:カヌガワミミ(綏靖)
第三代:タマテミ(安寧)
第四代:スキトモ(懿徳)
第五代:カヱシネ(孝昭)
第六代:タリヒコクニ(孝安)
第七代:フトニ(孝霊)
第八代:クニクル(孝元)
第九代:フトヒヒ(開化)
第十代:ミマキ(崇神)
第十一代:イクメイリヒコ(垂仁)
第十二代:ヲシロワケ(景行)

この第十二代のヲシロワケは日本武尊で知られるヤマトタケの父である。

クニトコタチが建国した当時の日本の名称はトコヨクニと呼ばれていたそうです。そして、その建国の中心地は、何と今の琵琶湖の湖岸だったようです。そのことをフトマニは以下のように記しています。元の字はヲシテ文献独特の字で、それをカナ表記で表すと、

「ハツニヲウミノ 
 ヱトノコノ ヱミコアニツギ
 ヲウミタス オトミコノスム
 トシタクニ コレイマハラノ
 ミヤノナモ トシタトイイテ」
 
(「クニトコタチの次代を継ぐものは、ヱトの子、すなわちヱノミコトとトノミコトの二人が秀でていた。ヱノミコトはクニトコタチ(ア)の後を継いでヲウミ(琵琶湖地方)を治めた。弟のトノミコトはトシタクニのトシタミヤにて治めた。のちのハラノミヤ(ハラミノミヤ)である。)

これらはヲシテ文献の研究者である池田満氏の著書『縄文人のこころを旅するーホツマツタヱが書き直す日本古代史ー』より抜粋しています。ずいぶん前に揃えたこれらの書物が今になって気になり始め、その内容が以前よりもよりわかるようになってきてます。何よりも琵琶湖が建国の中心地であると書かれていることの重要性はこれからさらに明らかになっていくことでしょう。また7代のイサナギ・イサナミは比叡山にある日吉大社にてクニを治めたと言われている事も気になります。

さて、クニトコタチが建国したというトコヨクニ。それがどういうクニであったのか。その事を池田さんの『縄文人のこころを旅する』から引用します。

「トコヨクニはヲウミを中心として建国された。現代での琵琶湖の湖岸地方である。トコヨクニの名称の意味は古いヤマトコトバを解きほどいてゆくと解り易い。古い言葉になるにつれて、一音一音がそれぞれに大きな意味を持つことになる。トコヨクニとはすなわち、(ト)トノヲシテに基づいて、団結(コ)してクニとなしゆくことが良き(ヨ)こと、の意にも解釈できそうである。〜」

「トコヨクニでの社会に充満する空気は、そこで流行していた踊りを知ると解りやすい。〜 つまりトコヨの踊りとは”ナガサキ”(汝が幸福・あなたのお幸せ)のためだったのである。他人の幸せを祈り、「何かお役に立つことができれば」この思いが”ナガサキ”である。そしてこの極まりの位置にトノヲシテが成立した。」

「トコヨクニ成立の当時、お祭りで諸人が集うときの踊りが”ナガサキ”であった、ということになる。祖先の人々は、楽しいとき、悲しいとき、事あるごとに集った際の踊り舞う主題が、相手の幸せを願うこと、この目的にあった。踊りであれ、歌であれ、原点としての人々の出会いの根本が”あなたの幸せのために、何かをどう、足しましょうか”

「百人のうちの三人がこんなお人好しの人だと、うまいように甘い汁だけ座れるのが落ちである。しかし、百人のうちの九十七人がこのお人好しのミヤビの心に溢れているとなると、社会のゆく先は一八〇度変わってくる。それがトコヨクニの建国当時の日本の姿だった。今から六千年ぐらい前のことになろうか、あるいはもっと古い次代である可能性もある。正確にトコヨクニ建国の年代を確定してゆく方法は、考古学との照合が不可欠となる。ともかく六千年ぐらい前かあるいはもう少し古い次代に、トコヨクニの建国はなされた。そこには”ナガサキ”の踊りに明け暮れる、ミヤビの心に満ちた社会が形成されていた。」

トノヲシテとはトコヨクニの建国の精神と伝えられます。これらの事は1つの仮説であり、解釈や思いも入ってることがわかります。それでも、こういった古代の建国についての仮説は、今に伝わる歴史とは違う別系統の歴史を伝えることもあり、そのことでとても注目しています。ホツマツタヱに関しては多くの方が言及されていますが、ホツマツタヱを初めて世に問い出した松本善之助さんへの偉業を讃え続け、その意志を継ぎながら、学術的に質を高めようとし続けている池田満さんの著書こそがヲシテ文献の基本図書と考えます。

縄文時代に対しての見方は昨今、どんどん変わってきています。今後、考古学的発見などがなされることで、歴史が180度変わってしまう、そのような事が起きるかもしれない時代に生きる今です。歴史の発掘、発見こそ、AI・人工知能の時代になっても人間にしかできない事ではないかと、これらの事を書いていて、ふと浮かんできました。まだまだ明らかになっていない、埋もれた歴史はたくさんあるはずです。全く思いもよらない歴史の真実、真相が明かされていく機運を今年は感じています。

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悪を超克

2018-01-07 10:42:28 | Weblog


現代の行き詰まりについて考えさせられることが多い年明けです。それは新聞や報道番組など見ていても明らかなること。

根本的な悪とは何なのか。それは生命を犠牲にすること、関係を断ち切ることにあると考えます。普通に生きていれば、誰もが仲良く生きていけるのに、そうならないのは、それ以外の要因の影響によるとしか考えられません。子供を見ていればそれはよくわかります。子供達だけならば、みんなで仲良く遊びます。その関係の良さを分断するのは親だったり、まわりの環境です。それはそのまま大人である我々の関係を悪くさせる要因がどこにあるかはわかってきます。ある番組で指摘しているのはこのお金を中心とした資本主義であり、戦争であるといいます。資本主義はこの世界的なお金をめぐる体制でもあり、戦争を起こす主体は国家です。

こういったことに対して、昨年末からずっと読み進めている大熊信行先生の『国家悪』から、深く考えさせらる言葉に多く出会いました。

〜国家悪という以前に人間悪の問題があり、国家悪とても人間悪を根元とする以外のものではあるまい。国家悪はわれわれの外にあるのではなくて、われわれの内にある。

悪の問題は外にあるのではなくて、人の内面にあると指摘され、それではどうその状態を解決していくかという思索によりひとつの答えが導かれます。

それは人間が真に人間らしくあることだ。

そして次のように言います。

われわれは自分のなかに人間悪を断たなければならない。それを断つことによって国家悪を断たなければならない。

われわれは国家に対する恐怖を断たなければならない。それを断つことによって国家の存在を超えなければならない。

悪の問題を自分自身の事として捉え、国家の起こす問題も自分のこととして捉えるこの考え方について、現代の問題について指摘する人達はどう考えるでしょうか。この『国家悪』は戦後すぐの1948年くらいから書かれた論文が集まった本です。敗戦後の現実にふれ、そこから日本のこと、国家について真剣に考え、向き合ってきたひとりの学者の言葉が、今ほど深く考えさせれることはありません。

こういったことを踏まえ、国について考え、さらには国をも超えることを考え、人間存在そのものについて考えることが、どれだけ大事なことなのかがわかってきます。悪を超克。ひとりひとりがそれについて考え、また何によってそれを成し遂げるのか、そのことを良く考える時に来ていると考えます。それはこの世を、この社会を終わらせないためにあるのは言うまでもありません。

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元旦

2018-01-02 18:18:13 | Weblog


新年明けましておめでとうございます。
2018年の幕開けは京都から。

京都全貌が見渡せる東山頂上、将軍塚へまずいってきました。ここはあの新田義貞公が足利尊氏との戦いで陣を敷いたところ。その戦いには勝利したとされ、また、多くの偉人達がここから京都全貌を見渡し、日本の将来について考えた場所と言われています。

 
将軍塚。


京都全貌が見渡せる高さにあり、空も近いです。


この東山山頂はあの青不動の絵で有名な将軍塚青龍殿。この青龍殿と京都全貌が見渡せる大舞台は圧巻でした。青龍殿の左奥に見えるのは比叡山です。ここは京都全体を考える、すなわち歴史を考え、日本を考えるに最適な場所です。

元旦の朝は人もあまりおらず、自分にとってはとても最適な場でした。あの新田義貞公はこの地から京都全体を眺め、どのようにその戦いを考え、または日本を考えていたのでしょう、歴史に思いを馳せる良い時間となりました。

そして下山して、毎年恒例で高麗ギャラリーカフェにて開催されるいだきしん先生のお餅つきに参加して、搗き立てのお餅が入ったぜんざい、その先生が焙煎されたエチオピアコーヒーを頂きました。ぜんざいは絶品。コーヒーはすっと身体に入ってきて、体全体を浄化してくれてるように、深く心地よい味わいでした。ぜんざいとコーヒーがこんなに合うとは毎年ながら驚いてます。

そしてここに来たら必ず立ち寄る通称八坂の塔。いつも京都に来る度に撮影してますが、今年はどうでしょうか。少し周囲を歩き、いろんな角度から撮ってみました。今年はいつもとその姿が違います。なんとも凛々しく清々しい。塔ながら惚れ惚れしてしまいました。












今年も始まりました。今日2日はスーパームーンだそうです。凄まじく明るく、存在感のあるお月様を見ながら、この文章を書いてます。夜の闇を眩いばかりに照らす月光。その光の元は太陽からくるものですが、この月光あってこそ闇夜をも動くことができます。この世はある意味闇。自分の気付きやわかっていくことを表現していくことがこの月光のようになっていったらいいなあと、ふと感じました。この太陽、月、そして月光の関係はある意味、象徴的です。昨年末から、なぜか、ふと見上げると昼間でもお月様を見つけるのです。見られているかのようです。昨夜の京都からの帰り、新幹線からもずっとお月様が見えていました。とても不思議な感じでいます。今年はこういう感覚を大事にしていきたいですね。今年もいろいろ書いていきますので、どうぞよろしく!
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国家について考えること

2017-12-28 18:19:36 | Weblog


12月は本当に不思議です。
12月に入ったなと思っていたら、あっという間にもう年末です。”師走”とはよくいったもので、師匠も走るほどの慌ただしさといいますか。12月は自分の誕生日もあり、たくさんのコンサートを経験もし、また集中して本を読み続けていました。

最近ずっと熱中しているのが、前回ほのめかして少し紹介した大熊信行先生のことです。理論経済学の専門家でありながら、実は国家論についても多くの論考があり、それはそれは、ここまで目からウロコ、はたまた感動した思想家との出会いはなかなかありません。自分が感じていながらも言葉にできないでいたことや、その時代に生きていないけれど、本当の所はどうなのか、本当はこうだったのではないか、とうすうす感じていたことが、やはりそうか!といわんばかりに言葉にされており、今、熱中しているところです。国家論に関しては、今の日本の正体みたり、いや世界の正体をみた気がします。そしてこれから何が必要なのかもわかってきました。本気で言葉にしている、自分の言葉に責任をもっている、もっと大袈裟に言えば、言葉に命をかけている。だから気迫が伝わってくるし、論理は明快。まことの学者の姿、ここにあり。真の言葉は魂の栄養になる、そのことを改めて感じています。内面がハッキリする、何か柱が立ったといいますか。

自分自身に起きているこの半年以来の変化は、内面的なことの多くはコンサートの経験によることは確信しています。その経験をさらにハッキリさせるプロセスが自分にはさらに必要で、それが自分にとっては言葉であり、多くは本からその力を得ています。

大熊先生の国家論にふれ、この国の現状のこと、あらゆる問題の元は敗戦にあることがわかりました。さらに平和運動が起こり、平和思想が形成され、平和憲法ができたというプロセスを踏むことなく、いきなり敗戦により平和憲法ができたことにより、思考がストップしてしまっている、ストップし続けていることがあらためてわかりました。根本的に戦争を起こすのは国家であり、生活に根ざした人間が起こすのではない。人間は生命を生み、国家は死へ向かっている。核兵器の時代に生きている現実は今も変わらない。その核兵器を動かすのも国家である。現代に生きる人間全てが「国家とは何か」という問いに向き合うことなくして、あらゆる問題の解決はないことがわかってきます。

来年は1月10日に奈良、11日に京都で「高句麗伝説コンサート」もあります。国家論について考えが深まる中で、年明けすぐにこのコンサートがあることは自分にとっては嬉しい巡りです。国家論からみた時に、古代国家である高句麗とはどういう国であったのか、興味は尽きません。現代の国家は核兵器に連なる以上、死の臭いがするのです。高句麗に感じる国家には全く別の質を感じるのです。これは「高句麗伝説コンサート」という経験により、わかってきた高句麗という国に対しての感覚です。時代背景も歴史もまったく違うとはいえ、現代において、あらためてこの古代国家について考えることが、結局、人が活き活き生きれる社会を創るにはどうしたらいいのか、の答えへと導かれると感じ、問題だらけの現国家を超えるビジョンとして高句麗を考えることが、何よりの道しるべとなると感じるのです。日常的な意識では捉えられないことも音と詩の言葉と映像により、さらにはそのビジョンまでもがコンサートで経験できるのです。経験し続けているから、ある意味大熊先生の国家論が、その言葉が、腑に落ちてくるといえるのです。こういった経験は本当に何にも代えがたい、充実の瞬間です。

来年は今までと全く違う年となる。そのことだけは、今、来年に向かう心持ちが今まで経験したことのないほどの充実感と、挑戦していく気概にみちていることから実感しています。来年は玄音のライブも増えて行く予定ですし、言葉にすることに関してはもっともっと磨いていきたいです。

また書くかもしれませんが、あらためまして、今年一年、自分のブログをお読み頂き、真にありがとうございました。継続して注目して頂いてる方の存在は本当に力になっております。心より感謝申し上げます。来年も宜しくお願いします。
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