玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

国家について考えること

2017-12-28 18:19:36 | Weblog


12月は本当に不思議です。
12月に入ったなと思っていたら、あっという間にもう年末です。”師走”とはよくいったもので、師匠も走るほどの慌ただしさといいますか。12月は自分の誕生日もあり、たくさんのコンサートを経験もし、また集中して本を読み続けていました。

最近ずっと熱中しているのが、前回ほのめかして少し紹介した大熊信行先生のことです。理論経済学の専門家でありながら、実は国家論についても多くの論考があり、それはそれは、ここまで目からウロコ、はたまた感動した思想家との出会いはなかなかありません。自分が感じていながらも言葉にできないでいたことや、その時代に生きていないけれど、本当の所はどうなのか、本当はこうだったのではないか、とうすうす感じていたことが、やはりそうか!といわんばかりに言葉にされており、今、熱中しているところです。国家論に関しては、今の日本の正体みたり、いや世界の正体をみた気がします。そしてこれから何が必要なのかもわかってきました。本気で言葉にしている、自分の言葉に責任をもっている、もっと大袈裟に言えば、言葉に命をかけている。だから気迫が伝わってくるし、論理は明快。まことの学者の姿、ここにあり。真の言葉は魂の栄養になる、そのことを改めて感じています。内面がハッキリする、何か柱が立ったといいますか。

自分自身に起きているこの半年以来の変化は、内面的なことの多くはコンサートの経験によることは確信しています。その経験をさらにハッキリさせるプロセスが自分にはさらに必要で、それが自分にとっては言葉であり、多くは本からその力を得ています。

大熊先生の国家論にふれ、この国の現状のこと、あらゆる問題の元は敗戦にあることがわかりました。さらに平和運動が起こり、平和思想が形成され、平和憲法ができたというプロセスを踏むことなく、いきなり敗戦により平和憲法ができたことにより、思考がストップしてしまっている、ストップし続けていることがあらためてわかりました。根本的に戦争を起こすのは国家であり、生活に根ざした人間が起こすのではない。人間は生命を生み、国家は死へ向かっている。核兵器の時代に生きている現実は今も変わらない。その核兵器を動かすのも国家である。現代に生きる人間全てが「国家とは何か」という問いに向き合うことなくして、あらゆる問題の解決はないことがわかってきます。

来年は1月10日に奈良、11日に京都で「高句麗伝説コンサート」もあります。国家論について考えが深まる中で、年明けすぐにこのコンサートがあることは自分にとっては嬉しい巡りです。国家論からみた時に、古代国家である高句麗とはどういう国であったのか、興味は尽きません。現代の国家は核兵器に連なる以上、死の臭いがするのです。高句麗に感じる国家には全く別の質を感じるのです。これは「高句麗伝説コンサート」という経験により、わかってきた高句麗という国に対しての感覚です。時代背景も歴史もまったく違うとはいえ、現代において、あらためてこの古代国家について考えることが、結局、人が活き活き生きれる社会を創るにはどうしたらいいのか、の答えへと導かれると感じ、問題だらけの現国家を超えるビジョンとして高句麗を考えることが、何よりの道しるべとなると感じるのです。日常的な意識では捉えられないことも音と詩の言葉と映像により、さらにはそのビジョンまでもがコンサートで経験できるのです。経験し続けているから、ある意味大熊先生の国家論が、その言葉が、腑に落ちてくるといえるのです。こういった経験は本当に何にも代えがたい、充実の瞬間です。

来年は今までと全く違う年となる。そのことだけは、今、来年に向かう心持ちが今まで経験したことのないほどの充実感と、挑戦していく気概にみちていることから実感しています。来年は玄音のライブも増えて行く予定ですし、言葉にすることに関してはもっともっと磨いていきたいです。

また書くかもしれませんが、あらためまして、今年一年、自分のブログをお読み頂き、真にありがとうございました。継続して注目して頂いてる方の存在は本当に力になっております。心より感謝申し上げます。来年も宜しくお願いします。
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