妙な空気感というのがある。
昨日のように暖かく春の陽射しが眩しい日であっても、何かいつもと違う空気を感じる日がある。
昨日は正にそんな日でした。
自分の住まいのマンションに最初から入居され(44年)、今マンションの理事会の理事長として頑張っておられた方が突然亡くなられた。82歳だったかな。今、自分はその理事会に監事として参加しているのだが、輪番制での理事会参加をなんやかんやと理由をつけて逃げていた俺に、今回はとにかく若い人に参加してもらいたいし、全面的にサポートするからとあたたかい言葉をかけてくれた理事長さん。誰もが嫌がる理事長を高齢を押してでも引き受けられ(二期連続)、今年の大雪の際にも雪かきをしようと外に出てこられたのを、それは若い俺らがやるからと、何とか帰ってもらった程の責任感をお持ちの方でした。融通の利かない頑固さもちょっとあって、俺が大学生の時に融通がきかないある事で言い合いの喧嘩をしたこともあったなと、ちょっと思い出す。最近では早く嫁をもらえ!と会う度に諭され続けてました。。正に昭和の頑固親父な人で、この様な方、今ではあまり見かけなくなり、ちょっと寂しい気がします。
人の死はどんな方であっても何とも寂しいです。人が一人亡くなる。それは全てのバランスが変わる事を意味する。そしてその変化したバランスが落ち着くには3年くらいの時を必要とする。それは自分の母を亡くした時の強い実感です。昨日はその母が亡くなった時と同じ様な、陽射しが強いのだが、何かが動いてない、停滞というより動いていない、それでいてさらりとした空間というか、何とも表現しがたい動かなさと対照的な光の強さ、、こういう時は何かあるというのを一日感じていたのです。
昼過ぎ、ふっと窓から外を見たら救急車が到着し、だれかが運ばれていくのをたまたま見かけた時、もしや…という予感がよぎる。その予感は夜の副理事長さんからの電話で確実となる。でも同時に想いました。理事長さんはご自宅で亡くなられた。ほとんどの人が病院で亡くなる時代にご自宅で奥様も息子さんもいる中で亡くなる、しかも数日前まで普通に生活されていたのである。天晴れです。真に天晴れです。御年80を越えて、理事会の今年一番の仕事も既に手配済みで後は施行されるだけなのです。本当に天晴れな引き際です。
その理事長さんに最期に会ったのは先月。まさかもう二度とお話しすることもできない日が突然来ようとは、全く想像もしていませんでした。いや~俺自分の墓を去年建てたんだよ、いつお陀仏になるかわからないからなあ、いやいや長生きして理事長続けてくださいよ~とお互い笑ってお話しされていた事を昨日の様に思い出します。
人はいつ亡くなるかわからないし、かといって人は必ず死ぬのです。少し昔の時代、古典や文学が文学たりえている普遍性は、常に死と隣り合わせだった、死が常に身近にあるその儚さ故なのかなと感じます。今一緒にいても、次いつ会えるのかわからない。もしかしたら二度と会えないのかもしれない。じゃあまたね、の次はないのかもしれない。今共にいるという事の大事さを人はいつしか忘れているのかもしれない。文学が文学たりえているその本質がこういった儚さへの気づきにあるのかなとも想います。
桜咲く春のはじまりにひとつの時の区切りが訪れる
桜咲く、また今年も桜咲く
その当たり前が何とも嬉しい
春のはじまりはいつだって新しいはじまり
今年もまた春がやってきたようです