玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

言葉

2015-02-26 17:45:15 | Weblog
今、言葉がとても重要な時代に入っていると感じる。
インターネットは映像など視覚のインパクトが強いけれど、やはり言葉の世界である。
今、その言葉自体が問題になっている。
繋がりがなくなってきているから絆が声高に叫ばれ、その意味する所は言葉の意味の共有が出来ていない事態に陥っているということ。
要は言葉が伝わらないのである。
言葉とはその意味を伝える以上の遥かな何かでもある。だから直接人と会って発した言葉ならその意味がわかり、理解しあえることであっても、ネットなどの言葉だけだと、受け手の捉えている言葉の意味の範囲での理解となり、実はその本意が伝わっていないことが多い。
また政治家のように質問に対して、答えているようで、その内容には全く答えておらず、関係ない事柄をとうとうと述べる場面をよくみるけれども、このやりとりをずっと続けると思考は停止してしまい、これがずっと続くと分裂病のようになっていくと精神分析の分野からいわれている。
また子供は親からの言葉をそのまま受け止めるけど、美味しいと感じていないのに美味しいと言ったり、怒っているのに許していると言うことなど、言葉の意味と実際の感情が違う状態で言葉を発せられる状態にさらされると間違いなく自閉症や分裂気質になっていくという。
今子供の事件が子供だけでなくその親からのことでも多く起きているけど、どうも言葉の事が大きな問題として背景にあるような気がしてならない。

本当かどうかわからない、疑心暗鬼な状態がはびこっている今、何よりも大事なのは言葉を真っ当にする事であろう。
好きなら好き。美味しいなら美味しい。間違っていると感じているなら間違っているという。なぜそう感じるのかの言葉を受けとめ合う。間違ってもいい、間違ったなら直せば良い。嘘はダメ。嘘も方便ということもあるけど、根本は嘘はだめということから始めなくては何もはじまらない。

ちょっとしたことだが、あまりにも重要なことが蔑ろにされている。
危機に気付いていないことが最大の危機。

復興とはある意味、言葉の復興、再生以外にありえないのではないかと感じます。
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全集の皮肉

2015-02-23 18:08:19 | Weblog



今日もハイデガー。

ハイデガー理解にあたって、かなり大雑把に「存在と時間」~「形而上学入門」~「哲学への寄与」という流れがあると、ある解説で知りました。ハイデガー自体、存在への理解が深化し、その表現が変わっていっているといいます。

今書物になっているのは実際書かれた論文だけでなく、講義録を文字化し、ハイデガー本人がそれに注釈等を加えた中でも出来のいいのが本になっているそうです。ハイデガー研究者で有名な木田元さんは講義録の方が面白いと言い、特に何気なく本論から脱線して話してる事が実はそれまでの通釈や常識を覆すものだったり、難解で知られた哲学者の理解を深めることにあったりと、その凄さや面白さが凝縮されているといいます。

そして「存在と時間」を読み終えてから「形而上学入門」も最近読み終え、正に目から鱗でした。この事はいつか書けたらなとおもいます。さらに「哲学への寄与」にあたり、これはハイデガー全集という102冊に及ぶ大著の中の1冊にあり、図書館で目を通すことにしました。ページをめくってびっくり。この全集、ハイデガーの哲学で最も重要で一般的に知られた用語である「存在」という言葉が「有」に置き換えられているのです。「存在と時間」は「有と時」。。なんじゃこりゃ!とあまりの読みにくさに完全に読む気を無くしました。「存在と時間」の昔の翻訳の中で「有と時」としているのが確かにあり、なぜかその線で統一されてしまっているのです。全集全てが「存在」ではなく「有」。。

なぜハイデガーの「存在と時間」の翻訳が多く出されているのかの理由が分かった気がします。全集といえばその著者の著作、手紙など書かれたもの、記録として残されたもの全てをまとめてあるその人の人生そのものです。思想の全てがあるのです。それがあまり一般的でない言葉で統一されてしまったということ。ハイデガーの研究者で最も理解していると言われ、その解説も最も分かりやすいといわれる木田元さんがこの全集に対して「歴史的・文化的暴挙」とまでいわしめている始末。木田元さん翻訳の「存在と時間」が存在するのかしないのか知りませんが、熱望され続けているのは今でも変わらないでしょう。しかし昨年惜しくも鬼籍に入られてしまったのは残念です。この全集に納得しない多くの研究者が今でも「存在と時間」を翻訳し続けていることの気持がわかる気がします。

こういう事態にふれ、あまりに日本的な愚かさがこういう所に露呈していると感じ、本当に残念です。どのような経緯でこのような取り決めがされたのかはわかりませんが、国内で誰も読む気が起きない訳語をつけて、平気でいられる感覚が全くわかりません。誰がみても「存在」と「有」ではまったく受けるニュアンスが違います。木田元さんはおそらく「存在と時間」を道元の「正法眼蔵」の「有時の巻」と結びつけて考えようとしたことによるのではないかと言われています。確かにこういう表現があります。「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」この有は現れ出ると捉えれば、存在と同意に近いことはわかる。けれども理解の前提が仏教的であり、これは西洋哲学の翻訳としては根本的に合わないのではないかとおもいます。

「言葉は存在の家」と言われたハイデガーのこの言葉が、この全集の訳語の問題のお陰?で、「言葉」に対してより自覚し意識を高めることになるとは何とも皮肉なものです。



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挑戦

2015-02-21 18:07:49 | Weblog


今年はずっとやろうと想っていながらやっていなかった事に挑戦。
そのひとつにハイデガーの本を読むことがあります。
特に「存在と時間」。

この著作の翻訳本は何冊もあり、誰の翻訳本を読むかが重要です。
色々調べてみました。結局、渡辺 二郎/原 佑翻訳の中公クラシックス版にしました。
日本語として言葉の表現が秀逸なのはちくま学芸文庫版の細谷訳と言われています。
けど、この中公クラシックスにしたのは、ハイデガーがこの「存在と時間」刊行後かなりたってから、自身の自家用本に欄外注記として、様々な注釈を書き込んだものが後に発見され、「存在と時間」研究の精度が飛躍的に上がったことを加味しているからなんです。実際に欄外注記があった箇所は注意書きでその事が示されており、理解は深まります。

ただ、言葉遣いは本当に難しい。日本語的に意味がわからないこともたくさんあるけど、とにかくこの「存在と時間」という山を上り、通り過ぎるのだと決意。日常では使わない単語が多く、それでも何か大事な事を言っていることはわかり、特に漢字から伝わるイメージはとても助けになります。ハイデガー自身、この本は教授資格を獲得する為に急いで書いたらしく、言葉の使い方も少し乱れがあったり、さらにいえば未完の本なのです。当初の予定でこういう事を書きますよと宣言されたことが結局書かれずに終わっているんですね。自分の性能もさることながら、悪路につく悪路でしたが、先日何とか読了。はたして通り過ぎた後の風景はいかに。。

これは確かに風景が変わりました。
なんというか、富士山を静岡側からしか見ていない人が、山梨側からの富士山を見て、富士山の全体像がわかり、その上でやはり静岡側からの富士が素晴らしいといえるような感覚といいますか。全体が見えてきたので、他で言われていることの理解がたしかに進むのです。ただ読み終えて、漠然としたことが明らかにされたことで、さらに読み込まないとという気持になるのが不思議。知れば知る程、知らない事がある事を知り、さらに知りたくなるのです。

挑戦は続く。
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四股を踏め!

2015-02-04 19:38:23 | Weblog


貴重な映像を見つけました。
大正時代の大相撲!
戦前の日本人は身体が本当に強くて、その強さに世界中が驚嘆したといわれてます。
その強さの象徴的存在が正に力士。注目すべきは四股の踏み方。40秒と2分50秒辺りの土俵入りの力士から伝わる力強さ。昔の四股は今の様に大きく足を上げることはなく、映像の様な四股であったそうです。この四股の踏み方による鍛錬にはただ筋肉を鍛える以上の効果があるといわれてます。身体の内側が鍛えられるということ。さらに、ある武術の奥義に至る道は身体を強くすることにあり、その全ての基本は昔の力士の四股にあり、と説く達人がおられます。それにしても本当に貴重な映像で、昔の力士の表情の柔らかさ、身体の引き締まりは観ているだけで心地良いです。柔らかい引き締まりです。

最近日本で起きている妙な事の全ての要因は、身体の感覚を失っていることからきているといえる。とにかく身体が鍛えられていない。頭だけの世界になっている。頭の働きは足の裏の感覚が大事である事が忘れられている。頭だけで偏った発想、その発想からくる歪んだアクション。もう一度身体を鍛え直せ!!!と大正時代の力士は今我々に語りかけてくれてるようです。教育うんぬん、うんちくうんぬんいらぬ。四股を踏め!ただこれだけで、日本は変わる。本当にそうかもしれませんよ。
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大変な時代の中で

2015-02-03 19:27:10 | Weblog


大変な時代に入った。
ひとりひとりが問われる時代。
来る所まで来てしまっている時代です。
いつどこで何が起きるのか、その時、どう判断してどう決断して動いていくか。
一瞬の判断決断でその後が決まっていく。

何が大事か。
冷静にモノを観るチカラと身体そのものの強さ。
この二つが大事。

冷静にモノを観るチカラ。それは感情に流されないということ。ある情報に触れた時にその背景からモノを考え、真実は何か、見せかけていることの意図は何なのかを理解するチカラ。そのチカラは哲学と歴史の理解により育まれる。特に抽象してものを考えられる事は感情や具体的な事に流されない強靭な思考能力を育む。要は考える力。

身体そのものの強さ。動きの源。察知する感覚の源。力まず脱力してこそ身体の働きは十二分に働く。その根本は足腰にあり。足腰を鍛えること。これにつきる。特に日本の武術などで取り入れられている鍛錬法は日本人には特に有効なのではないか。特に四股。


存在の根拠を自分自身の行動で否定する。そこにある論理矛盾。行動により存在を否定する。否定されているのに別の存在が現れ出ている。それが本来の存在ではない在り方で現されていく。こういったことの背景には必ず否定的な意図が隠されている。存在Aを現すはずなのに、その存在Aの存在意義を否定し、存在A'、もしくは存在Bを出現させる。そこに現象されているのは存在Aを否定し別物にする意図。表象は同じでもその質を変えるという意図。こういう矛盾の先にあるのは創造ではなく崩壊。崩壊させた先に創造が起きるのか。いわゆる存在論では実は良心といった事が存在する意義において重要とされる。崩壊を導く良心などありえるのだろうか。幾重にも重なり合って現されている現実。その現実は矛盾を隠すように別の矛盾で覆い隠し、さらなる矛盾をよぶ。存在とは本質を暴露することにあるといいます。限界状況の中でこそ真の存在は現れるという説もあり。今、暴露の時代に入っている。本質を見極めること、死活問題。

まだ少し時間がある。やれること、やり続ける。

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