玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

雑感:新しい経済学

2017-11-19 17:02:26 | Weblog


最近、ずっと読み続けている本やテーマがあります。一通り読み終えたら、わかった事を書きたいと想いながら、なかなか読み終えられず、また別の本にあたったりと、それはそれはとても理解も認識も広がる良き時間を過ごしています。

今の自分自身について、はっきり言って社会的には埋もれているし、何をしているのかさっぱりわからないと思われている節があります。確かにそうです。隠れるようにして生きているともいえるし、そうせざるを得ない状態にあるというのも本当の事。ある意味この10年近く、ずっと変化・変革・変容の時期に入ったままです。ただ、どうもここにきて、この大変な時期は今とこれからのためにあったのだよ、と誰かに言われているかのような感覚になっています。厳しい状況にあっても、ある時間だけは確保できていた。いや、その時間だけは何とかして作り続けたともいえます。何を言ってるのかよくわからないでしょう。けど、それが何なのかこれから現わしていける気がしています。こういう状況にあったからこそ、追っかけているテーマがやたらによくわかってくるというのが、何かの計らいだったのかもしれないと、今になって思えてくる不思議な今の時を過ごしています。

それにしても教育や常識とは恐ろしいものだなとおもいます。いわゆる普通に学校教育を受け、普通に生活する中で、どんどん失われていってることがいかに多いかに気づかされます。根本的に現状を疑う事、根本的に変えるという事につながる学びが、それがそのままに学べる機会がほとんどないことに気づきます。変えることを許さない社会なのでしょうか。大変革の時代であり、社会が根本的に変わる時代といいつつも、教育そのものは従順になるための教育でしかない現実を目の当たりにします。

とはいえ、ありがたい事に、いわゆる教育のメインストリームにいなくとも、大事な事をずっと伝え続け、または書物にして残してくれている人が日本にはいます。そういう人との出会い、そういう書物との出会いほど、自分を高ぶらせるものはありません。その当時理解されず、評価されずとも本当に地道に、後世にとって大変重要な研究されている人がいます。そういう人を正しく評価していくこともこれから大事ですね。時代によっては出せない思想や学問があったのは歴史からわかります。そういった意味で、今の時代だからこそ出せる本、再評価される学者もこれから多く出てくるのかもしれません。そのうち書きますが、ある分野で最先端にいる研究者の帰結した結果が、日本人の学者により既に半世紀前に答えが導き出されていたということがわかりました。どちらもとっても素晴らしい研究で、これからの経済社会において要にしていかなくてはいけないことと考えます。

ちょっと書くとそれは一方は社会学ジェンダー論から導き出されたこと、もう一方は経済学の分野から導かれたことです。キーワードは”生命”さらにいえば”人間”です。ジェンダー論をベースにこれからの経済社会にとって最も必要な事は”思いやり”であるとしたリーアン・アイスラーと、経済学による重要な”生産”において、それは”商品”の生産を中心に概念規定がされ、そこで見落としたのは”人間”の生産についてであり、そのことを実はマルクスの初期論考から導き出し、それを”生命再生産理論”として独自の展開を見せられた大熊信行先生。どちらもキーは”生命”であり、”人間”であり、”女性”の存在です。これからの経済社会の中心は女性であり、生命中心であることをリーアンアイスラーはその著書『ゼロから考える経済学』において示したのが2009年。かたや人間中心の思想として”生命再生産理論”をベースに生活経営学を提唱したり、家政学の本質について論考された大熊信行先生は戦中派の人で、1977年に亡くなられています。ジェンダー論からみたこれからの経済社会の未来と、近代経済学とマルクス経済学を総合しようと画策した古くて新しい大熊・経済学の志向する方向が同じであることに、驚きと感動を覚えました。この方向で日本は新しい経済学の最先端になるべきではないかという思いに駆られます。
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悪魔のささやき

2017-11-03 10:04:53 | Weblog

(”大アントニオスへの誘惑”wikipediaより)

悪魔は存在する。
人の姿をした悪魔。というよりも、人の中に入って行動している悪魔がいるということ。そこにはどんな動機も理由も存在しない。ただ悪魔が入って、生き血を吸うようにしてエネルギーを吸い取って存在する化け物がいるということ。そうしないと存在できない悪魔がいるとうことか。

餌食にされるのは人の良い、真面目で、または真面目に苦しみ、助けを求めている人。人の良さそうな言葉、人の良さそうな雰囲気、人の良さそうな姿にコロッとやられてしまう。悪魔は人間をよくわかっているかのようだ。

ある時から空間がきれいになってきている。その透明さや美しさは空を見ていてもわかるものがある。空間のきれいさにより明らかにされる正体。潜んでいるものが潜みきれなくなってきている。あらゆる事件、事故も潜んでいるものの表面化、現象化であるといえる。

悪魔など存在しない。そうあってほしい。しかし現実に起きている事は悪魔の存在なくしては理解のできないことだらけである。この事を考えるにあたって、精神科医の加賀乙彦さんが書かれた『悪魔のささやき』という新書を思い出しました。精神科医として多くの犯罪者や殺人犯に会い、研究してこられた加賀さん。そういった犯罪者に直接会って驚くのは、どうしてこんな普通の人が、普通に良い人がこんな犯罪を起こせたのだろうかという印象を抱けるということだそうです。そこから様々なやりとりと検証によりわかったのは、この本の帯にある言葉が明確に表します。

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「人は意識と無意識の間の、ふわふわとした心理状態にあるときに、犯罪を犯したり、自殺をしようとしたり、扇動されて一斉に同じ行動に走ってしまったりする。その実行への後押しをするのが、「自分ではない者の意志」のような力、すなわち「悪魔のささやき」である―。」
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人はなぜ勉強するのか。歴史は魔術の時代から科学の時代へとどんどん展開してきたのはなぜなのか。勉強するという事は理性的になることでもある。科学への道は真理探究の道と共に、理性の発達への道でもある。その道を求めてきた理由こそ、ここにあるのかもしれない。つまり、悪魔にやられないということである。理性的な状態とはある意味、冴えている状態であり、聡明な状態である。物事がハッキリした状態である。という事は理性が働く時、悪魔のささやきはない。もしくはささやかれても何かおかしいと気づく。上に書かれている「自分でない者の意志」に惑わされないということである。

要は”考える”人間になっていればやられないという事なのである。自分で考えるために人は勉強するのである。いつしか、受験勉強や資格取得など、功利的な要素が勉強とつなげられて、その本質を失い続けているのが現代である。さらにインスンタントな時代である。何でもかんでもスマホの時代である。何となくインスタを眺め、ツイッターを眺め、フェイスブックを眺め、そう眺め眺めしている内に、餌を探している悪魔はすぐ近くでほくそ笑んでいるかもしれない。眺めているうちはまだ良いのかもしれない。そこに感情が動き、寂しさ、苦しさが重なり、アクションとなった時。悪魔がすっと入り込む。そして手を貸すのである。

宗教、哲学の歴史は実はこの悪魔との戦いの歴史としてみる事も可能である。真理から、神様から外れた状態が悪魔にやられている状態である。そうならない、やられない為に、宗教では教会などの場をつくり、儀式をつくり、言葉を唱え、哲学では認識を変えることで、はまる状態から抜け出し、真実を理解するために考え続けていくのである。


さらに、それでもどうにもならない。そういう時があるのかもしれない。そういう時がくるのかもしれない。このどうにもならない状態に対して、人知を超えて起こることを”救済”というのである。宗教、哲学の悪魔との戦いの帰結にあるのはこの”救済”であるともいえる。ある意味、今の時代はどうにもならない状況にまで切迫し始めており、まことに今ほど”救済”が必要とされる時はないのかもしれない。
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