昨日、兄玄から最近読んでいたという本についての話を聞く。それは聞こえない音と見えない光についてのことで、この自然界には意識化できなくても、多くの音と光に充ちており、そういった働きがどれだけ重要であるかということが、予防医学の分野でも提唱されているといいます。
この話を聞いていて、最近読んでいた若松英輔さんの岡倉天心の”茶の本”についての批評書のある一節が思い起こされた。それは天心による茶道についての解説から、染織作家の志村ふくみさんが自著で引用されていたという18世紀ドイツのロマン派の作家であるノヴァーリスの言葉である。その引用までの文章を抜粋します。
「狭義の意味における宗教がしばしば、非日常的世界での出来事を語るのに対し、茶道は、どこまでも俗事を離れない。むしろ、日常にこそ美は伏在していることを明示する営みである、と天心はいう。純粋も調和もすでにこの世界にある。茶道は互いに愛することを教える。
「「ローマン主義 romanticism」との記述も、いわゆる「浪漫派」とは異なる次元の記述であることはすでに見た。ここでロマン主義を説明するよりも、それを端的に想起できる言葉を引いてみたい。染織作家であり、散文家でもある志村ふくみが、自著に引いている、ノヴァーリスの言葉である。
すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
きこえるものは、きこえないものにさわっている。
感じられるものは感じられないものにさわっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。(『一色一生』)
「十八世紀ドイツのロマン派の作家として語られるノヴァーリスの世界観は、『茶の本』を貫く天心の哲学に近い。」(『岡倉天心「茶の本」を読む』若松英輔著 岩波現代文庫)
現代はここで語られるロマンが失われていってると感じる。何もかもが無味乾燥で、何て事のない日常が時間と共に過ぎていく毎日。こうやって心は荒廃し、生きる意味を見失っていく。が、本当はそうではない。見えているものは見えているものだけでなく、それ以上のことにさわっている。聞こえているものも、実はそれ以上にはるかに豊かな世界をも現している。
何も特別なことでなく、常にふれている、日常を超えた世界がそこにはある。そういったことを天心は茶を通して、志村さんは染織を通して語ってくれる。さらにこれらのことを紹介してくれている若松さんは言葉を通して、はるか彼方、言葉の彼方に存在するある”もの”について語ってくれている。
聞こえない音に見えない光。そういったことをあえて、ロマンを感じる詩的な言葉で表現する事。同じ事であっても、どういった言葉で表現するかはとても大事な事です。だからこそ、自分は詩的な表現の崇高さに惹かれ、忘れられているロマンをこの日常に取り戻したいと感じるのです。