ロシア文学やロシア精神について、そのロシア精神がなぜ生まれたのか、培われていったのかの理解が進んでいく中で、改めてこれからの時代の要としての胎動をロシアに感じます。
それはどういうことか。現代はインターネットが進んだこともあり、とても個人的な感覚を活かして生きていける時代になっている。それは個人の主張、個人の表現が自由にでき、その個人個人の集まりが容易にSNSを介してなされていく。それはそれでとても便利で自由な時代になったと感じるのだが、その反面、その個人の世界の狭さがそのまま現れているに過ぎず、世界がより矮小化されていってるように感じるのです。その流れと呼応するかのように、世界全体がグローバル化している割に、動きとしては個々の利益優先の保護主義的な様相を呈しているのが残念でなりません。
またこういったSNS等の流れにより人目を気にした自意識過剰な人が増え、意識がどんどん肥大化していって、肝心要の身体の感覚がどんどん希薄になっている人が増えていってるのも気になっています。
こういった社会の流れ、世界の状況に対して、何かロシア的プリミティブといいますか、原始的エネルギーの鬱積が爆発するような胎動を感じるのです。こういった事を最近読み進めている井筒先生の『露西亜文学』の言葉が的確に現していると感じるので一部抜粋させて頂きます。
「露西亜人は或る意味で永遠の原始人である。彼等は所謂原始人(未開人)よりもっと本源的、本質的に原始的である。存在の窮極の太古の源に彼等は直接つながっている。それは「原始的」primitiveというような言葉がもはや全く通用しないほど深い根源的な原始性だ。primitiveというより寧ろprimordialなのである。
だから露西亜人の歓喜は大自然の本源的な生の歓喜であり、その怒りは大自然そのものの怒り、その憂鬱は大自然そのものの憂鬱なのである。このような人間は実に恐ろしい。宇宙的な自然そのものが恐ろしいからである。凡そ生ある一切のものに生命を賦与し、人間に限りなき豊饒の喜びと美の祭典を与えながら、一たび荒れ狂うときはあらゆる秩序を破壊し、罪なき無数の生き物を虐殺して顧みない自然の力がそこに働いている。」
現代文明が意識的に構築したものを、一切破壊し尽くしてしまうような恐ろしい大自然の力を、現実的に直面せざるをえない昨今の日本、いや世界全体がその自然の猛威に畏怖せざるをえなくなっている。人間中心、特に利己的な人間中心に作り上げていったこの現代に対して、大自然そのものがいい加減にしろ!と言わんばかりの様相を程しはじめている。
このような状況の中でも我々は生きていかなくてはいけない。その生きていくためには人間が真の人間、真っ当な人間に目覚めなくてはいけないと強く感じるのです。そのためには目覚めるべき気質、いや魂があると感じ、それは矮小化した現代的な、西洋文明的な意識ではなく、人間が人間として自然の猛威にも打ち勝ち、生き残ってきた原始的な感覚の目覚めが必要と感じるのです。その気質こそ、井筒先生が伝えるロシア人にみるのです。
ただ、ここで表現されるロシア的気質、ロシア的人間は現代ロシア人のおいて体現されているのだろうか。その胎動として、世界情勢において、西洋一辺倒にならない動きにその芽をみることもできよう。要はアメリカ・ヨーロッパの主流と違う世界の流れをロシアは作り続けているともいえる。ただ、ここでいうロシア精神はそういったことをも遥かに凌駕する根源的な感覚である。こういった気質はまだ現代ロシア人に目覚めていないのかもしれない。何かの拍子で一気に目覚める可能性は高い。それはあの広大な大地に、過酷な自然環境の中、生き続け、その極端な気質は健在であるからである。
これからロシアは要注目である。それは国際情勢的な意味だけに限るのではなく、もっと根源的な意味においてである。今までと違う自然の動きは顕著に現れており、このことが今までと同じように生きてはいけないことを示していることからも、今、人間そのものが変わらなくてはいけない時を迎えていることは確かなことである。ロシア的人間への目覚めが起きた時、それは世界全体へと一挙に拡がる可能性をも同時に感じ、そのことがロシア文学、ロシア精神が常に追い求めてきた人類そのものの”救済”の実現のはじまりとなるのかもしれない。その目覚めへのきっかけは何によるのだろうか。その動きはもう始まっているのかもしれません。