玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

四股踏み-以前の記事から

2019-12-22 17:33:00 | Weblog
以前、四股を踏む事について書いた事があるんだけど、その時のページに大正時代のお相撲の映像のリンクを貼っていました。長らくリンク切れになっていたのだけど、最近そのリンク元のページが再度アップされているのを知りました。改めてその大正時代の力士の映像を見ると、昔の日本人の逞しさ、その強靭な足腰の強さが伝わってきて、感動します。

昔の日本人、昔の力士、また今とは少し趣きの違う四股踏みなど、前の自分の記事と合わせて、見て頂けたらと思います。




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ロシア的原始性

2019-12-21 16:18:39 | Weblog


ロシア文学やロシア精神について、そのロシア精神がなぜ生まれたのか、培われていったのかの理解が進んでいく中で、改めてこれからの時代の要としての胎動をロシアに感じます。

それはどういうことか。現代はインターネットが進んだこともあり、とても個人的な感覚を活かして生きていける時代になっている。それは個人の主張、個人の表現が自由にでき、その個人個人の集まりが容易にSNSを介してなされていく。それはそれでとても便利で自由な時代になったと感じるのだが、その反面、その個人の世界の狭さがそのまま現れているに過ぎず、世界がより矮小化されていってるように感じるのです。その流れと呼応するかのように、世界全体がグローバル化している割に、動きとしては個々の利益優先の保護主義的な様相を呈しているのが残念でなりません。

またこういったSNS等の流れにより人目を気にした自意識過剰な人が増え、意識がどんどん肥大化していって、肝心要の身体の感覚がどんどん希薄になっている人が増えていってるのも気になっています。

こういった社会の流れ、世界の状況に対して、何かロシア的プリミティブといいますか、原始的エネルギーの鬱積が爆発するような胎動を感じるのです。こういった事を最近読み進めている井筒先生の『露西亜文学』の言葉が的確に現していると感じるので一部抜粋させて頂きます。

「露西亜人は或る意味で永遠の原始人である。彼等は所謂原始人(未開人)よりもっと本源的、本質的に原始的である。存在の窮極の太古の源に彼等は直接つながっている。それは「原始的」primitiveというような言葉がもはや全く通用しないほど深い根源的な原始性だ。primitiveというより寧ろprimordialなのである。

だから露西亜人の歓喜は大自然の本源的な生の歓喜であり、その怒りは大自然そのものの怒り、その憂鬱は大自然そのものの憂鬱なのである。このような人間は実に恐ろしい。宇宙的な自然そのものが恐ろしいからである。凡そ生ある一切のものに生命を賦与し、人間に限りなき豊饒の喜びと美の祭典を与えながら、一たび荒れ狂うときはあらゆる秩序を破壊し、罪なき無数の生き物を虐殺して顧みない自然の力がそこに働いている。」

現代文明が意識的に構築したものを、一切破壊し尽くしてしまうような恐ろしい大自然の力を、現実的に直面せざるをえない昨今の日本、いや世界全体がその自然の猛威に畏怖せざるをえなくなっている。人間中心、特に利己的な人間中心に作り上げていったこの現代に対して、大自然そのものがいい加減にしろ!と言わんばかりの様相を程しはじめている。

このような状況の中でも我々は生きていかなくてはいけない。その生きていくためには人間が真の人間、真っ当な人間に目覚めなくてはいけないと強く感じるのです。そのためには目覚めるべき気質、いや魂があると感じ、それは矮小化した現代的な、西洋文明的な意識ではなく、人間が人間として自然の猛威にも打ち勝ち、生き残ってきた原始的な感覚の目覚めが必要と感じるのです。その気質こそ、井筒先生が伝えるロシア人にみるのです。

ただ、ここで表現されるロシア的気質、ロシア的人間は現代ロシア人のおいて体現されているのだろうか。その胎動として、世界情勢において、西洋一辺倒にならない動きにその芽をみることもできよう。要はアメリカ・ヨーロッパの主流と違う世界の流れをロシアは作り続けているともいえる。ただ、ここでいうロシア精神はそういったことをも遥かに凌駕する根源的な感覚である。こういった気質はまだ現代ロシア人に目覚めていないのかもしれない。何かの拍子で一気に目覚める可能性は高い。それはあの広大な大地に、過酷な自然環境の中、生き続け、その極端な気質は健在であるからである。

これからロシアは要注目である。それは国際情勢的な意味だけに限るのではなく、もっと根源的な意味においてである。今までと違う自然の動きは顕著に現れており、このことが今までと同じように生きてはいけないことを示していることからも、今、人間そのものが変わらなくてはいけない時を迎えていることは確かなことである。ロシア的人間への目覚めが起きた時、それは世界全体へと一挙に拡がる可能性をも同時に感じ、そのことがロシア文学、ロシア精神が常に追い求めてきた人類そのものの”救済”の実現のはじまりとなるのかもしれない。その目覚めへのきっかけは何によるのだろうか。その動きはもう始まっているのかもしれません。
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ロシアについての学び〜井筒先生から

2019-12-20 18:19:59 | Weblog


思想・哲学的なことの重要なことはいつも井筒先生の書物から多くを学んでいるが、最近読み進めているロシアについての『ロシア的人間』や『露西亜文学』についても目がウロコが落ちる様な発見が多く、というよりも、井筒先生によって明らかにされていくロシア的人間の魅力に完全に魅了されています。

この二つの本はかなり前に買った本なのだけど、今だからこそ読み深めていけるのが何とも嬉しく、そして楽しい。『ロシア的人間』の刊行は1953年、『露西亜文学』は1948年に書かれたそうです。半世紀以上まえに書かれたものではあるが、『露西亜文学』の解題で最近のドストエフスキーの翻訳で知られる亀山郁夫先生も驚きと共に次のように描かれている。

「本書の魅力を一言でいうとしたら、随所に示される著者の鋭い直観力だろう。ロシア文学といより、ロシア的理念、ロシア精神のエッセンスをその直観力でわしづかみする自信にあふれた書きぶりには、ロシア文学への全身的な同化からしか結晶し得ない輝きがある。」

井筒先生はロシア文学を正に世界文学としたのは詩人プーシキンであると明らかにされているが、そのプーシキンのことを全人と呼び、それは対象と一体となり、自己の内面がその対象そのものとなり、自分の事としてわかっていく資質をもつ人のことで、だからあらゆる階層の人、あらゆる時代の人、あらゆる国のことがそのままわかり、表現されていることに驚くと言われています。少なくとも、ロシア文学についての本を読む限り、井筒先生こそ、全人そのものであり、だからこそ、これほど個性豊かなロシア文学者の本質を簡明な言葉で表現されていることに感動すら覚えます。

井筒先生はロシアの文学よりもイスラムの哲学の研究でその名を知られる方で、そこからギリシアまでも含めた神秘思想的なフィールドを”東洋”と表現し、内面探求の哲学を一貫して探求された方です。ただの研究者にしてはその本質的な表現があまりに的確と感じ、なぜこれ程多岐にわたる分野を一貫した視点で理解していけるのか不思議に感じていました。おそらく、井筒先生ご自身が神秘体験をされており、その体験を表現されている哲学、思想、言語、宗教を探していく中で、学問として整理されていったのかもしれないと感じております。

全ての著者に当たったわけではないけれども、井筒先生において重要とされる、イスラム存在論のイブン・アラビー、ギリシアのネオプラトイズムと言われるプロティノス、そしてロシア文学におけるプーシキンなど、どの偉人たちも共通した神秘的フィールドに達した存在として現されており、それはご自身も同じ経験をし、または同じフィールドに達しておられるからこそ哲学的、学問的に整理することができたのではないかと考えております。日本において、とても稀有な存在と感じますし、それはイスラム哲学研究の中心地であるイランでも、今だに特別な方として、若い研究者がドキュメンタリー映画”シャルギー(東洋人)”を作る程なのです。


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google以降

2019-12-09 08:47:00 | Weblog
インターネット検索において、googleで検索するのは当たり前になっている。が、しかし、googleのサービスを無料で利用できるのは、検索やサービスについてまわる、うっとおしくて、時には見たくもない広告があるから、無料で利用できるのである。

それが当たり前となっているが、今googleとは別の、もはや世界システム化しているgoogleとは別のインターネットの動きが起きているのである。

そういった動きを『テレビが消える日』で有名なジョージ・ギルダーが『グーグルが消える日』で詳細に描いている。詳しくは直接本を当たってほしいが、その中で紹介されていた、新しいブラウザアプリはなかなか興味深く、今後の動きに注目しています。

それはあのウェブブラウザの「firefox」の開発者でモジラの共同創業者のブレンダン・アイクが新たに開発したブラウザの「Brave」です。これはgoogleによって当たり前にされているインターネットや、インターネットを閲覧するブラウザをもう一度見直し、本来のインターネットとは、また、より良いインターネットとは、を今一度問い直し、設計しなおした新しいブラウザアプリです。簡単に言って、必要のない広告は省くブラウザです。それ以外にもプライバシーを守るために様々な取り組みがされています。

見たくもない広告を見せられる事で失われている個々人の時間は実は膨大です。現代は時間こそ価値であり、それはお金にもなります。当たり前が当たり前とされている事は実は枠組みにはまっているだけで、さらには時間もお金も搾取されている事に気がつかないといけません。ただ程高いものはない、とは昔から言われている事です。

今一度、こういった動きからインターネットや、ブラウザアプリを見直すことは自分の人生や時間を見直すことになるといえそうです。是非、チェックしてみてください。
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