天才達が現れている。
冬季オリンピックでメダルを取っている選手達。さらには将棋の棋士。そして卓球の選手など。スポーツを中心に今までと全く違う感覚、感性で取り組み、結果を出している若い世代達。本当に凄いです。大げさに言うならば、新しい人間が現れていると言ってもいいのかもしれません。
彼らに共通して感じるのはその取り組みに対しての言葉。好きだからやっていて、とにかく楽しんで取り組んでいることが印象深いです。古い世代にありがちな、苦労を乗り越え、忍耐をしてこそみたいな、”巨人の星”の星飛雄馬型の選手では結果が出なくなっている気がします。また、妙な緊張もなく、いつもの自分のままでいる。
それを特に感じたのはスキーモーグルで初めてオリンピックに出場し、見事銅メダルを取った原さん。楽しくて楽しくて、早く滑りたくてしょうがなかったとの言葉が印象的でした。さらにはフィギアスケートで銅メダルを取った宇野さんはオリンピックだからという気負いが全くなく、あっけらかんとしていました。もちろん凄まじい練習やトレーニングをされていることでしょう。しかしそのことを全く感じさせないことの爽やかさは一体何なのでしょう。その象徴がやはりフィギアスケートで金メダルを取った羽生さんでしょう。あの怪我からよくぞここまでの短期間で回復し、結果を出されました。その集中力は凄まじいものがあります。
またこの新しい世代の人たちは本当にまわりへの感謝を忘れていません。はっきりとそれを言葉にして伝えます。こういった動きは一流選手だけでなく、普通に若い世代に多く見られてきている傾向であると感じています。
天才を超人と言い換えてもいいかもしれません。最近ずっと読んでいるハイデガーによる『ニーチェ』講義。その中にこういう記述があります。
超人。
「ニーチェがこう名づけるものは、もはや人間ではなくなった者のことではない、《超越》を意味する《超》は、或る明確な人間に関係して言われている。われわれがこの人間を超えて、変化した人間へ到達したときに、その人間の明確な姿がはじめて見えてくるのである。そのときはじめて、従来の人間をその従来性において回顧することができ、そのときにのみ、それがあらわになる。
この克服さるべき人間とは、今日の人間であり、同時にーー彼を克服する人間、すなわち新しき始まりから数えればーー《最後の人間》である。最後の人間とは《ほどほどの幸福》をめざす人間であり、きわめて抜け目なく全てを心得、すべてを営んでいるが、そうしながらすべてを無難化し、中位のもの、全面的平凡の中へ持ち込んでいく。この最後の人間のまわりでは、すべての物事が日毎に小さくなる。こうして、彼がまだ偉大だと思っているものも、彼にとってもっとも小さく、いよいよ小さくならざるをえない。」(『ニーチェ』ハイデガー著 平凡社ライブラリー)
新しい人間の登場が今までの古い人間の姿を明確にするのである。新しい人間の登場。そのことが今、10代、20代の人たちの活躍によってはっきりと現象化している。この人たちがもっともっと活躍し、それがあらゆる世界で現れていくのであれば、この世界は何とかなるのかもしれません。大事な事は天才達が育つ環境や状況をつくっていくこと、そして古い世代は邪魔しないことです。この天才、超人のことはこれからもっと注目し、考えていきます。