玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

超人

2018-02-18 11:36:45 | Weblog


天才達が現れている。

冬季オリンピックでメダルを取っている選手達。さらには将棋の棋士。そして卓球の選手など。スポーツを中心に今までと全く違う感覚、感性で取り組み、結果を出している若い世代達。本当に凄いです。大げさに言うならば、新しい人間が現れていると言ってもいいのかもしれません。

彼らに共通して感じるのはその取り組みに対しての言葉。好きだからやっていて、とにかく楽しんで取り組んでいることが印象深いです。古い世代にありがちな、苦労を乗り越え、忍耐をしてこそみたいな、”巨人の星”の星飛雄馬型の選手では結果が出なくなっている気がします。また、妙な緊張もなく、いつもの自分のままでいる。

それを特に感じたのはスキーモーグルで初めてオリンピックに出場し、見事銅メダルを取った原さん。楽しくて楽しくて、早く滑りたくてしょうがなかったとの言葉が印象的でした。さらにはフィギアスケートで銅メダルを取った宇野さんはオリンピックだからという気負いが全くなく、あっけらかんとしていました。もちろん凄まじい練習やトレーニングをされていることでしょう。しかしそのことを全く感じさせないことの爽やかさは一体何なのでしょう。その象徴がやはりフィギアスケートで金メダルを取った羽生さんでしょう。あの怪我からよくぞここまでの短期間で回復し、結果を出されました。その集中力は凄まじいものがあります。

またこの新しい世代の人たちは本当にまわりへの感謝を忘れていません。はっきりとそれを言葉にして伝えます。こういった動きは一流選手だけでなく、普通に若い世代に多く見られてきている傾向であると感じています。

天才を超人と言い換えてもいいかもしれません。最近ずっと読んでいるハイデガーによる『ニーチェ』講義。その中にこういう記述があります。

超人。
「ニーチェがこう名づけるものは、もはや人間ではなくなった者のことではない、《超越》を意味する《超》は、或る明確な人間に関係して言われている。われわれがこの人間を超えて、変化した人間へ到達したときに、その人間の明確な姿がはじめて見えてくるのである。そのときはじめて、従来の人間をその従来性において回顧することができ、そのときにのみ、それがあらわになる。

この克服さるべき人間とは、今日の人間であり、同時にーー彼を克服する人間、すなわち新しき始まりから数えればーー《最後の人間》である。最後の人間とは《ほどほどの幸福》をめざす人間であり、きわめて抜け目なく全てを心得、すべてを営んでいるが、そうしながらすべてを無難化し、中位のもの、全面的平凡の中へ持ち込んでいく。この最後の人間のまわりでは、すべての物事が日毎に小さくなる。こうして、彼がまだ偉大だと思っているものも、彼にとってもっとも小さく、いよいよ小さくならざるをえない。」(『ニーチェ』ハイデガー著 平凡社ライブラリー)

新しい人間の登場が今までの古い人間の姿を明確にするのである。新しい人間の登場。そのことが今、10代、20代の人たちの活躍によってはっきりと現象化している。この人たちがもっともっと活躍し、それがあらゆる世界で現れていくのであれば、この世界は何とかなるのかもしれません。大事な事は天才達が育つ環境や状況をつくっていくこと、そして古い世代は邪魔しないことです。この天才、超人のことはこれからもっと注目し、考えていきます。
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存在恢復

2018-02-11 17:39:12 | Weblog
プラトン


恢復:かいふく
①一度悪い状態になったものが,元の状態になること。
②一度失ったものを取り戻すこと。
(三省堂 大辞林より)

ハイデガーによるニーチェ哲学の講義である『ニーチェ』より、プラトンの読み解きから存在恢復への道が示されている。曰く、

「人間の本質には---すなわち人間が人間として存在する事ができるということには----存在への視向が属している。〜この存在視向が人間に付帯する備品のひとつのように眼につくものではなく、むしろ深奥の所有として人間に属しており、それがもっとも損なわれやすく、きわめて容易に歪められ、それゆえに、いつも反復して取り戻されなくてはならないものだということを心得る必要がある。」

「ここからして、存在視向の恢復と不断の更新と保持とを可能にする特別のものの必要性が明らかになる。この特別のものとは、もっとも身近に出会うものごとの映現の中で同時にもっとも遥かな存在をもっとも容易に映発させるものにほかならない。これがプラトンによれば、美しいものなのである。」

存在への視向は歪められやすく、何もしないでそのままでいること事態が存在忘却になっていくという現実。しかし存在への視向を恢復する道はあり、それは身近のものに対して、遥かなものを想起することであり、それが美しいものとの出会いがきっかけになりうるということである。さらに、プラトンの言葉により具体的に現されていく。

「正義と思慮、そしてそのほかに人間たちが根本において何よりも重んじなくてはならないもの---、これらすべては、映現として出会うところでは、いかなる輝きをも宿していない。」「むしろ、われわれが存在をとらえるのは鈍い器官によってであり、したがって辛うじて不鮮明にとらえるにすぎない。そして、それに該当する目撃証拠をめざす人々も、その由来の源泉、すなわち映現の中で呈示されるものの本質的根源を目撃することは稀である。」

本質的なものは、気づかれる事がもっとも少ないということである。しかし、

「ところが美はこれとちがう」

とプラトンは言う。続けて、

「ところが(---すなわち存在の閃現の本質的秩序においては---)ひとり美だけが、もっとも顕著に輝き、しかもまたもっとも人の心を奪うものであるという持ち分を授かったのである。」

これらの言葉を受けてハイデガーは次のようにまとめる。

「美しいものとは、もっとも端的にわれわれを訪れ、われわれを魅了するものである。美しいものは、存在者としてわれわれに触れることによって、同時にわれわれを存在への視向へ転位させる。美しいものとは、もっとも身近な感性的現象に参入しながら、しかも同時にわれわれを存在の中へ高め去っていくという、内的に背馳(合わないこと)するもの---魅惑しつつ超脱させるもの---なのである。こうして、美しいものはわれわれを存在の忘却から引き立て、存在への視向を授けるものである。」

美しいものとの出会いこそが、存在忘却から存在恢復への道。美しいものに惹かれる心の動きこそ、存在恢復への大きな導きとなる。同じものを見ていても、そこに遥かな世界を感じ、美しいものを見出す人こそ、存在現し生きている人といえる。

殺伐とした状況の中に何とかして美を見出す動き。「美は世界を救うか?」というドストエフスキーの問いかけに対して、「美は世界を救う」とその著書により答えたロロ・メイ博士の言葉が思い起こされます。

美しいものとの出会いは、単に美しいという感動以上のこと、それは存在忘却の状態から存在恢復ということの生成であり、それはそのまま真の自分との出会いへと導かれるのかもしれません。以上、『ニーチェ』(ハイデガー著 平凡社ライブラリー)より抜粋。
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4000日

2018-02-10 17:52:13 | Weblog


昨日の2月9日で、このブログを開始してから何と、4000日経ちます!

毎日書いてるわけではないですが、4000という数字にちょっと感動しました。全く違うけど、何だか4000本安打を打ったような、凄い記録を打ち立てような気持ちに勝手になっておりますw 

継続は力なり。ちょっとした表現でも継続していることで、何かの力になっているかもしれない。そう信じてここまで不定期ですが、書き続けてきました。誰かのためになっていたら嬉しいし、何かの理解の深まりにちょっとでも貢献できていたら、なお嬉しいです。

画像は京都二条城の石垣です。1つ1つの石が絶妙に重なり合いながら、強固な石垣が築かれていきます。同じ形でない石が重なり合うことで、かえって強度が増すといいます。この事は実際に人の集まる組織にも言えるのかもしれません。石は意志。目指すところが同じであり、それでいてそれぞれの資質が生きた”意志”が織りなす石垣こそ、その上のお城にとっても最高に安全な場を創造しているのかもしれません。そしてそのお城は目的を先導する殿様の存在そのものです。

自分の言葉もこの石垣の”いし”のような表現となるように、これからもひとつひとつ積みあげていきたいなと想っております。今後ともよろしくお願いします。

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