玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

書きコトバ

2020-02-02 17:37:49 | Weblog
書くということ。
コトバはまず話しコトバがあり、それからそのコトバを記述するという意味において書くという行為があると見なされている。しかし、書くというのはそういうものだけではなく、もっと別の次元の行為としての展開があることを、フランスの哲学者ロラン・バルトの言説から井筒俊彦先生は以下のように記します。

「”書く”といえば、昔流の考え方では、客観的に何かを文字で書きあらわすことだった。頭のなかにあらかじめ思想が出来上がっていて、それをコトバで再現する。内的リアリティとして、コトバ使用以前に確立している「自分」を表現する。あるいは、外的世界の客観的事態や事件をコトバで叙述し、描写する。このような客観的見解によれば、意味がコトバに先行する。言うべきこと、表現を持っている意味、が書き手の意識のなかに成立していて、書き手はそれを表現するのに一番適切なコトバを探し出してきて言語化する。〜」

これは端的に言えば、もともとあるもの、想定していること、意識化できていることに見合うコトバを探して表現するという、しごく当たり前に捉えられている常識的な”書く”ことである。しかし、ここで、バルトのコトバを引用して、こんなことは本物の書き手、作家のすることではないと、喝破する。曰く、

「真の書き手にとっては、コトバ以前に成立している客観的リアリティなどというものは、心の中にも外にも存在しない。書き手が書いていく。それにつれて、意味リアリティが生起し、展開していく。意味があって、それをコトバで表現するのではなくて、次々に書かれるコトバが意味を生み、リアリティを創っていくのだ。コトバが書かれる以前には、カオスがあるにすぎない。書き手がコトバに身を任せて、その赴くままに進んでいく、その軌跡がリアリティである。「世界」がそこに開現する。」

コトバがコトバを生み、意味を創り出し、そして世界を展開していく。あるものを出すのではなく、同時に生まれてくる。このちょっとした違いが実は大違いなのである。これはある意味、存在論で認識されていた、存在を了解することから存在が生起するという展開と似ている。コトバは湧き上がってくる。その湧き上がってくるコトバを現し、現わされたコトバがさらなるコトバを生むということ。さらに面白いのは「書く」行為の元は「身体」にあるという。

「書記行為においては、「身体」からじかに滲み出してくるコトバ、それだけが本物のコトバだ、という。無論、大多数の書き手、ー専門の作家でもーは「身体」で書かないで「頭」で書く。そんなコトバはいわゆる「紋切り型(ステレオタイプ)」であり、生命のない共同言語、真似ごととしての言語使用にすぎない。」

さらに辛辣にいう。

「「身体」で書くことをしない、あるいは、書くことのできない、このような贋物の書き手たちの特徴は、バルトによれば、先ず第一に、書き手としての主体性が固形化して、ほとんど実体的に意識されていること。つまり、書き手としての我(エゴ)が、コトバの外に存立していることだ。コトバから遊離して、その外に立つ我(エゴ)が、まるで道具でも使うようにコトバを使う。書く主体が確立しているのに対応して、書かれる客体も確立している。」

対象化、意識化されている主客二元論的な発想。それがそれぞれを固定化させる。そのもとは我。そして言う。

「一切の存在者の「本質」的実体性を徹底的に否定するバルトにとっては、「書く」現象において、主体も客体も実在しない。主体の側では、既に完全な自己解体が起っている。書き手としての自己(「我」)が解体しきったところで、深い身体感覚が、その全エネルギーをあげてコトバをつむぎ出す。書き手の実在は、ここではそっくりそのまま「コトバの脈搏」と化している。それこそ、唯一の、真正な書記行為。こういう真正の「書く」が生み出すものを、バルトは術語的に「テクスト」と呼ぶ。」(以上 井筒俊彦著 『読むと書く』 慶應義塾大学出版界 より抜粋)

こうなってくるとコトバとは一体なんなのだろうか。人の心を動かすコトバ、状況を動かすコトバ、そういうコトバになっている時は、バルト流に言うならば「テクスト」になっているというのだろう。その時、その場で生まれてくるコトバがあるということ。そういうコトバを生み出せるには我のない頭で、そういう身体であるということか。別の言い方をするならば、頭と身体がひとつの状態にあるということか。

こういった生み出されていくコトバの世界とは別の、何かと形式的になり、目的的であり、あるいは打算的でもある「書く」ということから生み出されたコトバが現れたことの結果が、何事も形骸化し、疎外していく現代社会になっていることを考えると、ここで言う本来的な「書く」ことによるコトバが現れていくことこそが、全く違う世界を展開させていく唯一の希望になると考えることもできる。

書くということ。ここのこの表現の場において、これからこういった意味で「テクスト」を紡ぎ出すことができるだろうか。これは自分にとっての問いかけでもある。認識の転換でもある。書くということ。コトバのこと。そしてその先にあるコトバが昇華された”詩”というカタチもある。コトバが世界を開き、創り、そして変えていくということを、「書く」というポイントから、これからもより深く考えていきたい。

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