玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

聖なる存在を考えること

2017-08-18 18:32:37 | Weblog
(トマス・アクィナス wikipediaより)

今起きていること。
人間が人間を忘れて、ただ絶滅への道を歩んでいるようにも感じ、それは外側の破壊的なことだけでなく、内面的なこと、人間性が失われてしまっているのか、そもそも人間性が育っていないゾンビのような人間が生まれてしまっており、そういった人間の行動が目につくということなのか。

古来より、哲学、宗教などにみられる人間とは何かということ。その大まかな答えは人間とは聖なる存在であるということ、もしくは聖なる存在をわかる存在であるということ。そこから外れているからおかしな状況に陥るということ、そのことを悪といったり、頽落といったり。

中世は今から考えるととても面白い時代で、超越した存在について、時代そのものが取り組み、探求していた時代とみれる。神学が最も発展した時代とも言え、その代表格はトマス・アクィナスで、「神学大全」が有名である。その「神学大全」は大まかに三部に分かれており、その第一部は神について、神についての知識を述べたものであり、第二部は人間の神への運動、つまり神に似た者としての人間になることについて、人間の最高の創造は神に似た者としての自己を造り出すこと、表現することにあるということ、芸術の根源はここにありともいえ、第三部は神に向かうための道なるキリスト、神に近づくために神からの恩恵としてイエス・キリストが現れたということ、こういったことを「神学大全」は現わしているようです。

現代は神についての考えることは宗教家がやるのであって、普通と言われる人はほとんど考えたこともないでしょう。本来本質的なことである超越した存在や神について考えることを変なこととしてしまっているのが現代ともいえ、それゆえに中世の在り方は異様にみえてしまうともいえる。しかし、最近考えることに、中世にあって今ないもの、現代にあって中世にないものは何なのか、特に病気のことを考えると、現代はガンによって死ぬ人が多く、また高齢化に伴い、認知症のような病気なのか症状なのかわからない状態の人が増えている。中世においてはガンで死ぬ人はどれくらいいたのだろうか。認知症の人はいたのだろうか。ガンそのものは本来の細胞とは違う在り方となった細胞が本来の細胞を駆逐していく、取り込んでいくことで、様々な状態を生んでしまっているようだけど、これは何か中心を見失っている、一番大事なことを見失っているという状態がこういった病を作っているといえないだろうか。

一番大事なことを中心に生きるということ。その一番大事なことは何なのか。そういったことを実は中世が教えてくれるのではないか。こういったことを今更言うのは、現代ほど情報過多で、情報洪水に溺れ、何が何だか訳が分からなくなっている時代はないと感じ、それが様々な病気や事故、事象に現れていると感じるからです。一番大事なことは愛。これは誰でもがおもうことでしょう。中世においてはこの愛は神への愛。超越した存在を求める愛。自分を超える存在や関係を愛と表現したようです。男女関係も、本来は全く違う存在であるオトコとオンナ、その存在同士が惹かれ合うこと自体が自己を超えることになり、その関係を愛と表現したのではないか。

今一度、現象としての人間、現象としてのイエス・キリストのような存在を考え、古来より人間が宗教について考え、哲学によって考え続けてきたことを考えなおすことは、今のような時代を生き抜くには必至なのかもしれません。こういったことには少しの修練が必要です。こういった修練や探求があまりにないことで、ただ仕事をし、日常生活を送っているだけのことが、実は様々な病気や事故を生んでいるとは考えられないだろうか。

ある特定の宗教から考え始めてもいいでしょう。ある特定の哲学者から追っかけてもいいでしょう。ただ気をつけなくてはいけないのは、そういったことですら途中経過でしかない、プロセスの途中でしかないということです。中世の人たちからわかるのは、常に考え続けているということです。あるひとつの答えを見出したらそれで終わりということはなく、到達したら見えてきた世界があり、さらにその先をわかりたく、さらに探求していく。どこまでいっても答えといえることはないかもしれないけど、その求めている状態そのものがある力となり、ある存在となっているといえるでしょう。その時、気づいたら問題はなくなっているということです。

自分は出会っている人のことを考えることが結構好きです。その出会いはある歴史的な関係からくるのか、偶然なのか。また自分が凄いとおもっている人は本当にどれだけ凄いのか、どういった存在なのか、歴史的な現象としてどう考えたらいいのかなど、一見大げさともとれる程のことまで考えていくのが好きです。歴史や現象を考える時に大事なのは類比して考えること。だからどうも新しい人間、新しい存在として考えられているイエス・キリストについての思想や考えを知ることは、新しい発見が多く、とても興味深いです。

日本人はどうも大事なことを置き去りにしてしまい、仕事力と経済力だけで突っ走ってきてしまい、今大変な局面に陥っているといえそうです。今まで書いてきたことは当然、日本人だからこそあえて考え直さなくてはいけないこととして捉えています。もちろん現代においても宗教的な国や社会はあり、そういった社会においても当然様々な問題があることでしょう。そこまでいくと中心としていたことそのものが違うことになっている、もしくは変化変容していることに適応できていないことから起きているからと言えるかもしれません。

一つのことを考えると一つのことにおさまらないことが明らかになっていくことが、こう書き連ねててもわかってきます。だから大事なことは常に全体を考えることであり、目の前の一つ一つのことが全体に通じているということです。だからこそ一つ一つのことに出会っている一人一人のモノの捉え方が大事であり、それは一人一人の存在が問われるということにいきつくのです。聖なる存在を考えること、わかること、そしてできることなら聖なる存在になるということ。そこにこそ全体と通じる道があり、答えといえる状態があるのかもしれないと考える今の時です。
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