ある時代において、矢を射る能力が高い人ほど、武力に長け、そういう人がリーダーとなり、国を率いていったことは、歴史や伝説が伝えるところ。
では現代において、矢を射る能力とは、文字通りのまま受け止めて良いのだろうか。銃がある時代において、銃のようなものを的に的中させる能力が高いだけで、リーダーとなれるだろうか。そんなことを考えていたら、最近読んでいた神話学者のジョセフ・キャンベルの『宇宙意識』に引用されていたトマス・マンの芸術家に関する言葉にハッとさせられました。曰く、
「芸術家の感じやすい性質に与えられている唯一の武器は、表現であり、描写であって、心理的過激主義をいささか混じえて言えば体験に対する芸術家の高尚な復讐である表現というこの反応は、知覚がぶち当った感じやすい性質が繊細であればあるほど、ますます激しくなる。これこそは描写のあの冷静で仮借ない正確さの源であり、言葉ーひゅうと鳴って飛んでいって命中し、的の真中につきささって慄える、鋭い、羽のついた言葉ーを射出する、ひきちぎられんばかりに張られた弓である。
そして、この厳しい弓もまた、甘美な音を出す7絃琴と同じく、アポロ的な道具ではあるまいか。冷静と情熱は互いに斥けあうという誤謬ほど非芸術的なものはないのだ。表現の批評的簡潔さを根拠にして、人間的な意味での悪意や敵意があると推論するほど大きな誤解はないのだ。」
そして「正しい言葉は傷つける」とも書きます。言葉が矢となり、敵の心臓を射る。その射られた矢が正しければ正しいほど、つまりはその言葉が正しければ正しいほど、敵にとっては傷となり、打撃となる。正しく、簡潔で的にはまった表現に人は慄き、恐れを抱く。しかしそこに悪意はなく、あるのは正しいという真実のみ。
そう、言葉は矢そのものなのだ。
現代の弓の名人とは言葉の名人である。言葉という矢を正確に射ることができる人、つまりは正確な言葉を表現できる人こそが、現代の弓の名人である。さらにその資質として芸術家のような感性がある人こそがリーダーとなるのである。
これは正に詩人のことを別の角度から捉えた表現ともいえる。
そういった意味で言葉の名人である詩人の存在を考えることは、歴史や伝説が伝える、国を率いたリーダーの存在を現代的に考えることに繋がると感じ、何とも面白いと感じます。