玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

現代の弓の名人

2018-05-27 10:43:06 | Weblog



ある時代において、矢を射る能力が高い人ほど、武力に長け、そういう人がリーダーとなり、国を率いていったことは、歴史や伝説が伝えるところ。

では現代において、矢を射る能力とは、文字通りのまま受け止めて良いのだろうか。銃がある時代において、銃のようなものを的に的中させる能力が高いだけで、リーダーとなれるだろうか。そんなことを考えていたら、最近読んでいた神話学者のジョセフ・キャンベルの『宇宙意識』に引用されていたトマス・マンの芸術家に関する言葉にハッとさせられました。曰く、

「芸術家の感じやすい性質に与えられている唯一の武器は、表現であり、描写であって、心理的過激主義をいささか混じえて言えば体験に対する芸術家の高尚な復讐である表現というこの反応は、知覚がぶち当った感じやすい性質が繊細であればあるほど、ますます激しくなる。これこそは描写のあの冷静で仮借ない正確さの源であり、言葉ーひゅうと鳴って飛んでいって命中し、的の真中につきささって慄える、鋭い、羽のついた言葉ーを射出する、ひきちぎられんばかりに張られた弓である。

 そして、この厳しい弓もまた、甘美な音を出す7絃琴と同じく、アポロ的な道具ではあるまいか。冷静と情熱は互いに斥けあうという誤謬ほど非芸術的なものはないのだ。表現の批評的簡潔さを根拠にして、人間的な意味での悪意や敵意があると推論するほど大きな誤解はないのだ。」

そして「正しい言葉は傷つける」とも書きます。言葉が矢となり、敵の心臓を射る。その射られた矢が正しければ正しいほど、つまりはその言葉が正しければ正しいほど、敵にとっては傷となり、打撃となる。正しく、簡潔で的にはまった表現に人は慄き、恐れを抱く。しかしそこに悪意はなく、あるのは正しいという真実のみ。

そう、言葉は矢そのものなのだ。

現代の弓の名人とは言葉の名人である。言葉という矢を正確に射ることができる人、つまりは正確な言葉を表現できる人こそが、現代の弓の名人である。さらにその資質として芸術家のような感性がある人こそがリーダーとなるのである。

これは正に詩人のことを別の角度から捉えた表現ともいえる。

そういった意味で言葉の名人である詩人の存在を考えることは、歴史や伝説が伝える、国を率いたリーダーの存在を現代的に考えることに繋がると感じ、何とも面白いと感じます。
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広前と弘前

2018-05-09 09:39:17 | Weblog
”広前”。

一般的には”ひろまえ”と読むのでしょうか、実はこの言葉、神の御前という意味があることをはじめて知りました。

また、古神道の大本の開祖である出口ナオの生い立ちを調べていたら、こんな記述がありました。大本のHPより抜粋させて頂くと、曰く、

「初めは金光教の神さまと一緒に艮の金神を祀っていましたが、その後、独立した広前(神さまを祀る布教所)を開きました。」

ここにも”広前”の言葉が出てきます。艮の方角とは東北です。最も恐れる神様が封じ込められたことから、艮の方角を鬼門とするようになったと言われています。

ちなみに艮の金神とは国之常立神(クニトコタチノカミ)の別称とも言われてます。

この艮の方角、東北地方には”弘前”があります。”ひろさき”と読みますが、この神の御前という意味や、艮の方角、そして津軽の地という事から考えても、さらに津軽には古い神様としてアラハバキの存在もあり、この”弘前”も”広前”と同じ意味があったのではないかと考えられます。というよりも、何かとてつもない神様に関わる地という意味から弘前は”弘前”という地名になったのかもしれません。
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神が消失しお金が現れる(?)

2018-05-04 16:07:52 | Weblog


聖書とは何か。
それは神が人類の前から消えていく軌跡が描かれている書物であるという説があります。さらにニーチェに至り、哲学的に神は死んだと言われ、現代に至っては宇宙論の最先端において、神なる者の存在を想定しないと、宇宙の起源から現代に至るまで説明がつかないというところまで来ていると言われています。

確かに旧約聖書時代においては、アブラハムの前に神は直接現れ、ヤコブに至っては格闘までします。そしてモーゼを前にしてはじめて名を名乗ります。そこから先、エゼキエルのような預言者時代においては夢やお告げのような間接的な形での働きかけに変わっていきます。イエスの時代においては、聖霊の働きかけや、イエスの存在そのものが神の間接的な現れと言えなくもありません。旧約、新約聖書において、神の直接的な現れ、働きかけから間接的な現れへの軌跡が描かれていると言えるのも頷けるものがあります。

さらにニーチェの時代に至っては、近代の極致でもあり、それは人間理性が神のようになり始めた時代であったともいえます。このあたりから科学技術が時代の中心となっていきます。神なる働きかけよりも、人の理性によって確立された技術によっては世界は創られていく始まりとも言えます。

そして自分はさらに神の消失と共に現れ出たものを思い起こします。
それはお金です。ニーチェの時代、神は死んだと言われた時代にまさしく社会の中心となっていったのは資本主義であり、お金を中心とした時代の始まりと見ることもできるとおもいます。神は消失し、神の代わりになったのがお金である。そのお金が神のようになった時代こそ、現代であるともいえます。

このお金についても、誰もが疑わずにいる前提として、共通の価値基準を想定するための交換価値として歴史的に展開してきたものとされています。しかしこの交換価値には何の根拠もないと言います。それは太平洋にあるヤップ島に今でもあるフェイというとてつもない大きな石の貨幣の研究からもわかってきているといいます。そもそもあまりにも大きすぎて交換などできず、そこにあったのは債権・債務を記載するだけの機能であり、人と人との信用が前提とされていたということで、資本主義の影響をほとんど受けていないとされたヤップ島において、高度な貨幣に対するシステムがあったことが大きな驚きであったといいます。

過去の時代において、お金はどのような仕組みで運用されていたのでしょうか。実は歴史的には現存する貨幣、多くは硬貨からしかわからないといいます。残っているものを根拠に類推するしかなく、もし残らない何らかのお金の仕組みがあったとしたら、それは現代においては全くわからないといいます。残っていないから”ない”とはいえないのです。まさしく現代のデジタル通貨や銀行の預金システムなどを後世からみたら、形としては何も残らないので、この時代のお金の仕組みのことが理解されないかもしれません。

神が消失し、お金が現れる。ではお金は神になったのでしょうか。いや、古代や場所によってはお金は神のように振る舞うことはなかったことは歴史が教えてくれています。むしろ、現代がお金を神のようにしてしまい、お金そのものの前提を疑わせることないように仕向けられたのかもしれません。よく世界の支配者とは、お金の支配者であるといいます。ある時代にそのことに気づいた一部の人間が、お金とはこうであると、思い込ませたのかもしれません。現代の貨幣観はその時代時代において権威とされた学者などによって、現実のお金の動きとは違う規定がされてしまったことを言う研究者もいます。

現代のお金は明らかに今を生きる人間を規定しています。管理してるともいえ、疎外してるともいえます。その振る舞いはまさしく神のようです。その構造上のおかしさはずっと指摘されてはいても、変わらずにいるおかしさ。それは一人一人が直接、お金に向き合い、その前提を疑い、考えることがないことからくるのかもしれません。お金を考えることは、神について考えることにつながる。人類を支配するひとつの存在者たるお金であり、神です。

思索は続きます。
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