(庵野さん)
(バタイユ)
今日もツラツラと書きます。
昨日(3/22)のNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』はあのエヴァンゲリオンの作者の庵野さん。いやーとっても面白かった。もともと自分はエヴァンゲリオンにはあまりはまらず、庵野さんといえば、最近では「シン・ゴジラ」の監督さん、そしてジブリ作品の「風立ちぬ」の主人公の声役に抜擢されたドキュメンタリーを見た時の印象が強く残っています。さらに昨日知ったのは、「風の谷のナウシカ」の最後の方で巨神兵が立ち上がり砲撃するシーンは庵野さんが描かれたシーンだったようで、このシーンはかなりインパクトがあって自分の中でも強烈な印象が残っていたので驚きました。庵野さんはかなり独特な人だろうと予測はして昨日の番組を見たのだが、予想以上の不思議な人である。
ここ最近、これはやられたなと思うほどに参ってしまっているのがフランスの思想家のジョルジュ・バタイユ。自分が漠然と感じていて言葉にならないことが見事に表現されていて、特にバタイユの翻訳者で研究者でもある酒井健さんの批評からあまりに多くを学ぶ最近なのです。その思想についてパッと言える事で言うなら、理性で作り出したものを信じていない。理性や知性を超えた非・知と言われる「聖なるもの」の経験をいかにするかを考えている。経験したら言葉にする。しかしその言葉にした途端に、その経験は固定化されてすでに違うものになっている。常にこの今の瞬間、どうなのかということだけ。要は意識的にできることの限界をわかっていて、それを超えた状態をいかに経験するかを考え続けている。
バタイユは人間の理性を超えた情念というか、フロイトのいう無意識の世界の暗い深い深淵な世界が人の内面にあり、その情念の働きにいかに向かい合うかということを重要視しています。その情念は死を強烈に意識した時に凄まじい力となって現れる。そしてその状態の事をエロティシズムともいい、人間はこのエロティシズムにより生きているともいえるという。
こういうバタイユに最近触れていることもあって、昨日の庵野さんの作品そのものが何かバタイユ的と感じてしまいました。そもそもにしてエヴァンゲリオンの碇シンジの内向的な叫びにしても、人がそれぞれ持ち合わせる負の側面へのダイレクトな向き合い。そこに触れた聴衆が自己の内面の何かに触れたので、あれだけの熱狂的な人気を得たのではないでしょうか。バタイユのエロティシズムにおいても、ある本において、エロチックな婦人の絵だけでなく、ある強烈な死の儀式の写真を見せる事で、自己の内面へ強烈なインパクトを喚起することをしているのも何か似ている気がしました。
また庵野さんの新作において、何度打ち合わせしても、あるとこまでうまくいっても、ストーリーをボツにしてしまったり、何か意識的でない、何か降りてくるまで、作品は進められないというような在り方は、何かバタイユのいう「聖なるもの」の経験をひたすらに待っているかのようでした。何においても作品ありきであり、自分自身はそのあとである、というようなことを言っておられていたのも、この人ならうなずけます。
さらに似ているなと思ったのは、お父さんの存在です。庵野さんのお父さんは不運な事故により、片足を失ってしまい、それからどこか社会を恨んでいるような状態で生き続け、それは息子である庵野さん本人にも向けられていたという。バタイユはさらにひどく、バタイユ本人が自覚した時にはすでにお父さんは梅毒に犯されており、その病状は悪化の途。神経を病み、自分で排泄などはできず、息子のバタイユが面倒をみていたという。さらには精神を病み、奇声を発したりと、家族では手に負えない状態になっていたところで、戦争が起き、それを機に家族はお父さんをおいて、疎開し、そのままそのお父さんはお手伝いさんの看病の甲斐なく、亡くなられたという。そのお父さんを捨てたという思いはその後の人生に大きく影響したと言われています。庵野さんもバタイユも父親からの影響がその後の作品や思想にどれだけ現れているのか、何か胸にくるものがあります。
昨日の「プロフェッショナル 仕事の流儀」も今までのものとはかなり異例で足掛け4年。そして最後のプロフェッショナルとは、という定義に対して、結局何も言わないというところが、いかにも庵野さんらしいと感じました。何か時代にインパクトをもたらす作品を作るクリエイターはやはり変わっています。常軌を逸しているというか、下手すると狂人との境をギリギリ行き来している、それが創造に向かえば作品となり、破壊となれば死に至る、、。このギリギリがリアルである限り、作品はある意味、ある存在となって勝手に一人歩きしていく。それが彼の作品なのだなと理解しました。が、まだおそらく完璧に納得してできたものはまだないのでしょう。そしてそれはどこまでいっても出来ないのかもしれません。
(バタイユ)
今日もツラツラと書きます。
昨日(3/22)のNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』はあのエヴァンゲリオンの作者の庵野さん。いやーとっても面白かった。もともと自分はエヴァンゲリオンにはあまりはまらず、庵野さんといえば、最近では「シン・ゴジラ」の監督さん、そしてジブリ作品の「風立ちぬ」の主人公の声役に抜擢されたドキュメンタリーを見た時の印象が強く残っています。さらに昨日知ったのは、「風の谷のナウシカ」の最後の方で巨神兵が立ち上がり砲撃するシーンは庵野さんが描かれたシーンだったようで、このシーンはかなりインパクトがあって自分の中でも強烈な印象が残っていたので驚きました。庵野さんはかなり独特な人だろうと予測はして昨日の番組を見たのだが、予想以上の不思議な人である。
ここ最近、これはやられたなと思うほどに参ってしまっているのがフランスの思想家のジョルジュ・バタイユ。自分が漠然と感じていて言葉にならないことが見事に表現されていて、特にバタイユの翻訳者で研究者でもある酒井健さんの批評からあまりに多くを学ぶ最近なのです。その思想についてパッと言える事で言うなら、理性で作り出したものを信じていない。理性や知性を超えた非・知と言われる「聖なるもの」の経験をいかにするかを考えている。経験したら言葉にする。しかしその言葉にした途端に、その経験は固定化されてすでに違うものになっている。常にこの今の瞬間、どうなのかということだけ。要は意識的にできることの限界をわかっていて、それを超えた状態をいかに経験するかを考え続けている。
バタイユは人間の理性を超えた情念というか、フロイトのいう無意識の世界の暗い深い深淵な世界が人の内面にあり、その情念の働きにいかに向かい合うかということを重要視しています。その情念は死を強烈に意識した時に凄まじい力となって現れる。そしてその状態の事をエロティシズムともいい、人間はこのエロティシズムにより生きているともいえるという。
こういうバタイユに最近触れていることもあって、昨日の庵野さんの作品そのものが何かバタイユ的と感じてしまいました。そもそもにしてエヴァンゲリオンの碇シンジの内向的な叫びにしても、人がそれぞれ持ち合わせる負の側面へのダイレクトな向き合い。そこに触れた聴衆が自己の内面の何かに触れたので、あれだけの熱狂的な人気を得たのではないでしょうか。バタイユのエロティシズムにおいても、ある本において、エロチックな婦人の絵だけでなく、ある強烈な死の儀式の写真を見せる事で、自己の内面へ強烈なインパクトを喚起することをしているのも何か似ている気がしました。
また庵野さんの新作において、何度打ち合わせしても、あるとこまでうまくいっても、ストーリーをボツにしてしまったり、何か意識的でない、何か降りてくるまで、作品は進められないというような在り方は、何かバタイユのいう「聖なるもの」の経験をひたすらに待っているかのようでした。何においても作品ありきであり、自分自身はそのあとである、というようなことを言っておられていたのも、この人ならうなずけます。
さらに似ているなと思ったのは、お父さんの存在です。庵野さんのお父さんは不運な事故により、片足を失ってしまい、それからどこか社会を恨んでいるような状態で生き続け、それは息子である庵野さん本人にも向けられていたという。バタイユはさらにひどく、バタイユ本人が自覚した時にはすでにお父さんは梅毒に犯されており、その病状は悪化の途。神経を病み、自分で排泄などはできず、息子のバタイユが面倒をみていたという。さらには精神を病み、奇声を発したりと、家族では手に負えない状態になっていたところで、戦争が起き、それを機に家族はお父さんをおいて、疎開し、そのままそのお父さんはお手伝いさんの看病の甲斐なく、亡くなられたという。そのお父さんを捨てたという思いはその後の人生に大きく影響したと言われています。庵野さんもバタイユも父親からの影響がその後の作品や思想にどれだけ現れているのか、何か胸にくるものがあります。
昨日の「プロフェッショナル 仕事の流儀」も今までのものとはかなり異例で足掛け4年。そして最後のプロフェッショナルとは、という定義に対して、結局何も言わないというところが、いかにも庵野さんらしいと感じました。何か時代にインパクトをもたらす作品を作るクリエイターはやはり変わっています。常軌を逸しているというか、下手すると狂人との境をギリギリ行き来している、それが創造に向かえば作品となり、破壊となれば死に至る、、。このギリギリがリアルである限り、作品はある意味、ある存在となって勝手に一人歩きしていく。それが彼の作品なのだなと理解しました。が、まだおそらく完璧に納得してできたものはまだないのでしょう。そしてそれはどこまでいっても出来ないのかもしれません。