玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

一新

2013-09-23 22:31:49 | Weblog


一新。
37年間、常に在り続けたモノをその位置から外す。
あまりにあまりに当たり前の日常のパーツを変えてみる。
空間は変わり、気付くと風の流れが変わっている。
そう、本当に風の流れが変わるのです。

そうしたら、何と、何とです!
とある場所から、60年近く埋もれていたモノが突如現れる。
しかもそれは要となりうる神聖なモノ。
なぜこんな所に、しかもなぜ今まで気付かずにいたのだろうか…。
突然の登場にいささか動揺は隠せず。
しかし、
この不思議な巡りを逃さず。
そのモノに対して丁重に丁重に心を込めて、それは本来在りうべき場所へ、運びたてまつるのです。
何か御魂を静めるようなその趣き。
いやそれは確かに御魂に対する礼儀、そして祀り、奉りであったのかもしれません。
今日、出会い、整理できて本当に良かった。

秋分の日である今日。
日の長さが半々の今日。
何かを二分する、そう、古きと新しさを二分する様な一日の出来事。
過去はとことん整理。そして新しき日へ。
一新。



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曼珠沙華

2013-09-22 17:49:00 | Weblog


うちの近くにひょっこり咲いている曼珠沙華。
元気に主張する姿が花火の様でもあり、深海にひっそり生きる生物の様でもあり、宇宙のニュースピーシーズの様でもあり。
不思議な姿ですが、何とも言えない絶妙さがあります。独特の存在感を感じませんか?

埼玉県日高市にある高麗郷の巾着田の曼珠沙華は通常100万本と発表していたのが、今年はさらにどーんと増えて500万本だそうです!!曼珠沙華はヒガンバナ、別名”死人花”とも言われ、どこか彼岸と現世を結ぶ象徴の様にも感じられます。500万本にも及ぶ曼珠沙華が咲いている高麗郷には高句麗王若光を祀る高麗神社があり。死後結婚という死後の魂とも共に生きた風習を伝えていた高句麗の文化が残る場に桁違いの曼珠沙華が咲いているのも、天の秘密を知るといわれた高句麗ならではと感じます。

秋の深まりを感じさせる曼珠沙華の満開。
秋は始まってます。
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みそぎ

2013-09-11 20:35:59 | Weblog


日本人が古来より大事にしてきたのは身を清める事。
それは身体を清める事だけに限らず、魂を清める事にその本質があったといわれます。
心身という表現が身体と魂をひとつとしてきた日本人の本質を現しているともいえます。

その身体と魂を清める事を古神道では禊ぎといいます。
その禊ぎについて。

たまたま紐解いていた本に気になる記述がありました。
著者は神道天行居の創設者の友清歓真。元は大本の出口王仁三郎に学んでいたが、その後その教義に失望して大本を脱会し、独自の研究研鑽を積みある域に達した人。

曰く
「また秘事にわたることでありますが実はみそぎにも表裏二義がありまして、表の義は世人周知の如く水行(みそぎ)でありますが、裏の秘義はみそぎは耳注ぎ(みそぎ)の約でありまして、音霊のことなのです。」

要は水で心身を清める水行(みそぎ)よりもその本質は耳、つまりは音による清め祓いにあるというのです。この友清歓真の独自性はこの音による禊ぎ、その本質である音霊の発想にあるようで、その瞑想法はとにかくひたすら音を聞く事にあるといいます。よく”聞くことは効くこと”と耳の感覚の調整こそが心身を調えるという考えがありますが、それはこういった古神道から考え出されてきた事に元があるのかもしれません。この事は今後さらに調べていきます。

友清歓真は日本の和歌にも注目しており、「言葉の秘密は宇宙の秘密であります」という言葉もあり、人間存在の本質を言葉と音にみていたようです。あらゆる哲学の究極は言葉にあり、ハイデガーも「言葉は存在の家」と表現してます。

禊ぎは耳注ぎ(みそぎ)。
自分の求め、現したい事へのヒントがこういう所にあるのかもしれません。
日本は奥深い。古神道は奥深い。
やはり音と言葉が全てに関わるようです。


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宮崎監督とオリンピック

2013-09-08 12:52:34 | Weblog


2020年のオリンピック開催が東京で決まった。
オリンピックの競技を見るのはとても好きなので、それはそれでとても喜ばしいことです。

ただ何だかとても象徴的なタイミングだなと感じました。
ちょうど数日前に宮崎駿監督は長編アニメ制作の舞台から引退すると表明しました。ここに至るまでのこの数年、宮崎監督は数々のインタビューにご自身の考えを述べておられます。ファンタジーを創れる世界にない、人間中心・経済中心のグロテスクな世界に対する悲しみ・怒り、自然と共に生き、見えない世界をも受け容れ共に生きた本来の人間の姿はどこへいったのか、そして何より、子供達にこの世は生きるに値するんだよという事を伝える為に作品を創り続けたという言葉がとても心に残ります。

人間として大事な事を伝え続けた宮崎監督の引退後に決定した東京オリンピック。
本来のオリンピック精神を体現するのはこの日本だからこそできると誰かが言っていたが、どこか虚しく感じてしまうのは私だけでしょうか。正直今の日本、2020年の日本にオリンピックは必要なのか。オリンピックの開催が決まったから福島原発事故に対して本腰を入れて取り組みますという姿勢が何かポイントがずれているというか、対外的なエエカッコしいに感じてしまうのは斜めな見方でしょうか。外からの力が働かないとこの国は本腰を入れて動けないのでしょうか。それでも、それでもこの福島原発事故を収束させてくれるのなら、それでもいいとはおもいます。が、やはり心中穏やかではいられないのが現実でしょう。

一部の人の馬鹿騒ぎに飽き飽きして、ニュース以外のテレビをほとんど見なくなっているけれど、このオリンピック誘致へ向けた動き、報道、お金の使い方など、やはりどこか浮き足立っており、何かバブル時代の実態のない虚像を追っかけて、最後には取り返しのつかない事態になっているという事を繰り返さないでほしいと願います。それと、この世界からの注目が何かのターゲットが日本へシフトした事の象徴でない事を同時に願うばかりです。

宮崎駿監督とオリンピック。
自分は宮崎監督が大事にし続けている事を大事に、これからいきたいと、心に決めました。
そして宮崎監督が一番気に入ってると言う、魔女の宅急便のポスターのキキの表情が全てを語っている様に感じ、改めて、宮崎作品に心を馳せるのでした。
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荘厳

2013-09-02 15:47:31 | Weblog


荘厳。
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