玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

疎外を超克するには

2022-07-07 09:49:49 | Weblog


最近、ある映像を見ていて感じたことがあります。

とても大事なことであり、本来は深遠な事柄であっても、あまりに表層的な反応の情報にしか触れていないと、大事なことがわからず、その表層的なことが本来的なことと思い込んでしまう。さらにはその表層的なことが感情にも体の反応にも起こってしまっており、本来性からどんどん外れていってしまっている。そしてそれが他者を意識してのことであると、その要求はどんそんエスカレートしていき、気づいた時は手遅れのような状態になっている。

こういったことを疎外といいます。

疎外は何かもっともらしく、そして魅惑的な姿をして現れます。良いことをしているように、楽しいことをしているように思い込んでいきます。しかも皆が同じように反応し、同じように要求していきます。そのいきつく先はどんな場合においても虚脱です。消耗と虚脱。

聖なることを考えること。本質的なことに触れること。これらのことが大事にされない社会を大衆社会、世俗社会といいます。大衆社会、世俗社会は疎外社会でもあります。こうならない仕組みとして人間は聖なる場所をつくってきました。見つけてきたともいえます。人間は大衆化しやすい。だからそれらに影響を受けない聖なる場所をつくり、時には結界をはり、誰をもよせつけない空間をつくってきました。

もし、この聖なる場所がなくなってしまったら、もしこの聖なる場所が壊されていったら、もしこの聖なる場所の意味をわからず、表層的なこととして捉え、その辺にあるものと同じように扱ってしまったら、どうなっていくことでしょう。

聖なる場所は土地や建物だけにあらず。人間の内面にもあります。いついかなる時も、絶対に犯してはいけない聖なる場所です。

時おり起きる災害や事件、事故。何かこの表層的な大衆社会で作ってきてしまった流れを断ち切るかのように、人の気持ちをハッとさせます。そして聖なる本来性へと流れを変えていきます。何かこの自然空間は常にこの聖なる空間を維持せよといわんばかりに、繰り返し繰り返し大衆社会の流れを壊すようなことが起きてきます。

常に忘れてはいけないことがある。大事にしなくてはいけないことがある。触れてはいけないことがある。それは場所でもあり、人の内面的なことでもあります。

今、この日本で起きていること。取り返しのつかないギリギリのところまできているように感じます。何気ないことですましてしまっている事の、事の重大さに気づいていない事柄が多すぎます。大事なことを伝える”大人”がいなくなってしまっていることでもあります。反応するだけの人は歳を重ねてはいても、そういう人のことを”子供”といいます。

聖なることを考えること。そして聖なるものに対する振る舞いをわかること。そこには誰でも平等ということはないのです。誰でもがわかりやすいということもないのです。大事なことをわかっている、その振る舞いをわかっているということに対して、わからない側は黙っていることも大事な振る舞いであることをわかる必要があります。

疎外の流れはどんどん進んでいっています。この疎外を超克するにはどうしたらいいのでしょう。何よりもまず、疎外されている現状をわかること、そして聖なることを考えることにつきます。こういったことを別の言葉で表現するならば、”愛”のことを考えることでもあります。疎外を超克するには”愛”よりないとも言われています。だから”愛”とは本来は聖なることであり、聖なる振る舞いでもあるのです。”愛”をわかり、そう振る舞っている人の事を”大人”というのです。そう、”大人”が社会をつくっていかなくていけないのです。今、大きな分岐点。
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