宮城県の多賀城市に奈良時代のものとされる多賀城碑があります。

多賀城碑

多賀城碑の覆屋

多賀城碑文・安井息軒『読書余滴』より
多賀城碑文に記された文字。
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西
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷國界一百廿里
去常陸國界四百十二里
去下野國界二百七十四里
去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷國界一百廿里
去常陸國界四百十二里
去下野國界二百七十四里
去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日
(上記、全てwikipediaより)
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この多賀城碑は後世の偽作か等とかなり論争があったようですが、今は本物として認定されて、国の重要文化財に指定されているようです。この多賀城碑のある多賀城跡地にはかなり前に関心を持ち、何度か訪れたことがあります。このブログにも2008年にその時の気持ちを書いた事があります。
その当時は多賀城跡地の空間に関心が強く、歴史的背景についてはあまり調べてなかったのですが、その後、蝦夷と大和政権との戦い、アテルイ・モレと坂上田村麻呂との事など、色々わかっていくうちに印象もずいぶん変わってきました。
今改めて調べてはっとしたのは碑文に記されている"靺鞨國"です。これは多賀城からの距離か書かれている箇所ですが、なぜ"靺鞨國"とあえて書かれているのでしょうか。交流があったからか、"靺鞨國"から多くの人が来ていたからでしょうか。
この"靺鞨國"はツングース系民族で、そのルーツは"渤海国"。この"渤海国"はあの"高句麗"の遺民によって建国された国。という事は"靺鞨國"と"高句麗"は繋がりがあるという事になります。
盛岡には"高句麗"を現す"駒(こま)や""好摩(こうま)"という地名が多くあるので、"高句麗"との関わりがあることは知っていたのですが、まさか、多賀城にもその痕跡を感じられるものがあるとは驚きました。
どうやら、多賀城から日本海に向かい、ウラジオストック辺りを玄関口にして、古代東アジアは繋がっていたという古い話がありましたが、本当かもしれません。
これからどんどん歴史的の真実は明らかになっていき、今までの通説が180度変わるような事が起こるかもしれません。その時、人の意識も生き方も同時に変わるかもしれません。自分にとってはこういう繋がりの発見が面白くてしたかありません。さらに調べていきます。