さてではそこで自分は何を楽しみ、どういう快楽を貪ってきたのかって話になるのだけれど、勿論そんな大問題の答えなんて分からない。
分かるのは、何も考えずに済む手軽で知的なエンタメとして私の中で長いこと君臨してきた小説というメディアが、最近その王座を降りた、ということ、それだけだ。
一時期パソコンをいぢることが、趣味のようになっていたこともある。
そのパソコンを使って通信のホストを立ち上げるのに夢中になったこともある。
その延長で、毎月ローカルオフミを開いて片っ端から日本中のお酒を飲む会をやっていた時期もある。
仕事が面白くて、仕事がまるで趣味ででもあるかのように夢中になったことだってなかったわけではない。人並みには旅行も物欲を満たすお買い物もしないわけではなかった。
ソーユーことのすべてに、一旦外側から大震災が決着を着けてしまった。
大震災を主語にすると少しおかしい。
でも、「大きな主語としての大震災」の圏域の中に、私はまだ捉えられている。
そしてそのことに少し疲れ始めてもいる。
私は、空疎なことは百も承知で「私」を主語として立てて語りたいと思い始めているのかもしれない。
福島は、無条件には「私」が主語にはならないとこばの圏域、といっていいのもしれない。
無論年を取って目が悪くなっり、読むのが億劫になった、という面もあるだろう。
体力が下り坂になってきたところに大震災が重なり、慣れない状況が続いたせいもあるだろう。
端的に言って読書どころではない時期もあった。
しかし、夏休み近くなっても、読んだ小説は数えるほど。かといって物欲も高まってはいない。
大震災以後、記憶に残っているのは『日の名残り』カズオ・イシグロ
一冊だけだ。
その代わり、哲学はぐっと親しいものになった。
昔から小説と哲学書、それに社会学の本は好きで読み続けているが、バランスが明らかに変わったのだ。
他には、聖書とか、日本の古典とか、とっくの昔に死んだヒトの文章が読みたくなっている。
そして最近の口癖は
「山に穴掘って暮らしたい」
である。
かといって
「大震災が苛烈な現実をみせつけた」から小説なんてバカバカしくて、というのでもなさそうだ。
大震災と原発事故に圧倒的な衝撃を受けたのは確かなのだけれど、それと同時に極限的な空無感もそこには伴っていて、だから、いっぺん地面の底の底から思考を始めないと、フィクションが構成される事象界までたどり着き直せない、みたいな。
この半年は少なくても
「読めば読めてしまうような」小説の出る幕が、私にとってはなかった、のだ。
読めない場所としての福島に瞳をうばわれ続けている、ということでもあるのか。
12月には別の会合の小説レポートの分担になっている。
しかし、相変わらず小説は読めない。さて、どうしたものか。
小説なんて、たった今読むのを止めてもなんの不都合もない。
でも、読めないことが気になりだしたら、その読めない読めなさを、読んでみたくなつたりもする。不思議なものだ。
とりあえず、先週はエンタメを二冊読み、DVDを三本観た。
『下町ロケット』と『絆回廊』『Xメンファーストジェネレーション』『ウルヴァリン』『ハリー ポッターと謎のプリンス』
面白かった。
だが、その面白さを「今」と繋げる回路が見つからない。
そうか。
何かを読み、それを表象として論じるというのは、「今」「ここ」とどこかなにかで繋がっていなければ面白くないのか
「山で穴掘って一人で暮らしたい」
が最近の口癖になっているけれど、友人がいく人か、現状から隔離された「生」を暮らしていて、事情は様々異なるけれど、やっぱり私からみて幸せには見えない。
あくまでも、今とヒト、ここでおこっているコトに触れるための「ここより他」なのだと分かる。
だとすると、現実に触れ、その事象を分かるために担保していた小説という枠組が私にとって無効化しているということは、小説を追いかけてもしょうがないってことになる。
むしろ、小説から離れて事件=コトの現場をウロウロするしかないのかもしれない。
ヤレヤレ。
面倒はずっと続くということか。
さて、小説が「事件」であるための準備を、私が小説のためのためにする義理はないし、そんな能力もない。
だいいち何をすればいいのかわからない。
とりあえず小説を読まなければいいのか(笑)
意味が分からない。
しかし、最近受けた恩義を返すことは必要だ、とも感じてはいるのだ。
いつまでも元気なわけじゃないからね。
読めなくなった小説に、かつての恩義を返すには何をすればいいのだろう。
分かるのは、何も考えずに済む手軽で知的なエンタメとして私の中で長いこと君臨してきた小説というメディアが、最近その王座を降りた、ということ、それだけだ。
一時期パソコンをいぢることが、趣味のようになっていたこともある。
そのパソコンを使って通信のホストを立ち上げるのに夢中になったこともある。
その延長で、毎月ローカルオフミを開いて片っ端から日本中のお酒を飲む会をやっていた時期もある。
仕事が面白くて、仕事がまるで趣味ででもあるかのように夢中になったことだってなかったわけではない。人並みには旅行も物欲を満たすお買い物もしないわけではなかった。
ソーユーことのすべてに、一旦外側から大震災が決着を着けてしまった。
大震災を主語にすると少しおかしい。
でも、「大きな主語としての大震災」の圏域の中に、私はまだ捉えられている。
そしてそのことに少し疲れ始めてもいる。
私は、空疎なことは百も承知で「私」を主語として立てて語りたいと思い始めているのかもしれない。
福島は、無条件には「私」が主語にはならないとこばの圏域、といっていいのもしれない。
無論年を取って目が悪くなっり、読むのが億劫になった、という面もあるだろう。
体力が下り坂になってきたところに大震災が重なり、慣れない状況が続いたせいもあるだろう。
端的に言って読書どころではない時期もあった。
しかし、夏休み近くなっても、読んだ小説は数えるほど。かといって物欲も高まってはいない。
大震災以後、記憶に残っているのは『日の名残り』カズオ・イシグロ
一冊だけだ。
その代わり、哲学はぐっと親しいものになった。
昔から小説と哲学書、それに社会学の本は好きで読み続けているが、バランスが明らかに変わったのだ。
他には、聖書とか、日本の古典とか、とっくの昔に死んだヒトの文章が読みたくなっている。
そして最近の口癖は
「山に穴掘って暮らしたい」
である。
かといって
「大震災が苛烈な現実をみせつけた」から小説なんてバカバカしくて、というのでもなさそうだ。
大震災と原発事故に圧倒的な衝撃を受けたのは確かなのだけれど、それと同時に極限的な空無感もそこには伴っていて、だから、いっぺん地面の底の底から思考を始めないと、フィクションが構成される事象界までたどり着き直せない、みたいな。
この半年は少なくても
「読めば読めてしまうような」小説の出る幕が、私にとってはなかった、のだ。
読めない場所としての福島に瞳をうばわれ続けている、ということでもあるのか。
12月には別の会合の小説レポートの分担になっている。
しかし、相変わらず小説は読めない。さて、どうしたものか。
小説なんて、たった今読むのを止めてもなんの不都合もない。
でも、読めないことが気になりだしたら、その読めない読めなさを、読んでみたくなつたりもする。不思議なものだ。
とりあえず、先週はエンタメを二冊読み、DVDを三本観た。
『下町ロケット』と『絆回廊』『Xメンファーストジェネレーション』『ウルヴァリン』『ハリー ポッターと謎のプリンス』
面白かった。
だが、その面白さを「今」と繋げる回路が見つからない。
そうか。
何かを読み、それを表象として論じるというのは、「今」「ここ」とどこかなにかで繋がっていなければ面白くないのか
「山で穴掘って一人で暮らしたい」
が最近の口癖になっているけれど、友人がいく人か、現状から隔離された「生」を暮らしていて、事情は様々異なるけれど、やっぱり私からみて幸せには見えない。
あくまでも、今とヒト、ここでおこっているコトに触れるための「ここより他」なのだと分かる。
だとすると、現実に触れ、その事象を分かるために担保していた小説という枠組が私にとって無効化しているということは、小説を追いかけてもしょうがないってことになる。
むしろ、小説から離れて事件=コトの現場をウロウロするしかないのかもしれない。
ヤレヤレ。
面倒はずっと続くということか。
さて、小説が「事件」であるための準備を、私が小説のためのためにする義理はないし、そんな能力もない。
だいいち何をすればいいのかわからない。
とりあえず小説を読まなければいいのか(笑)
意味が分からない。
しかし、最近受けた恩義を返すことは必要だ、とも感じてはいるのだ。
いつまでも元気なわけじゃないからね。
読めなくなった小説に、かつての恩義を返すには何をすればいいのだろう。