龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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小説が読めなくて(4)

2011年10月15日 12時57分14秒 | 大震災の中で
さてではそこで自分は何を楽しみ、どういう快楽を貪ってきたのかって話になるのだけれど、勿論そんな大問題の答えなんて分からない。

分かるのは、何も考えずに済む手軽で知的なエンタメとして私の中で長いこと君臨してきた小説というメディアが、最近その王座を降りた、ということ、それだけだ。

一時期パソコンをいぢることが、趣味のようになっていたこともある。
そのパソコンを使って通信のホストを立ち上げるのに夢中になったこともある。
その延長で、毎月ローカルオフミを開いて片っ端から日本中のお酒を飲む会をやっていた時期もある。
仕事が面白くて、仕事がまるで趣味ででもあるかのように夢中になったことだってなかったわけではない。人並みには旅行も物欲を満たすお買い物もしないわけではなかった。

ソーユーことのすべてに、一旦外側から大震災が決着を着けてしまった。

大震災を主語にすると少しおかしい。

でも、「大きな主語としての大震災」の圏域の中に、私はまだ捉えられている。
そしてそのことに少し疲れ始めてもいる。
私は、空疎なことは百も承知で「私」を主語として立てて語りたいと思い始めているのかもしれない。

福島は、無条件には「私」が主語にはならないとこばの圏域、といっていいのもしれない。

無論年を取って目が悪くなっり、読むのが億劫になった、という面もあるだろう。

体力が下り坂になってきたところに大震災が重なり、慣れない状況が続いたせいもあるだろう。

端的に言って読書どころではない時期もあった。

しかし、夏休み近くなっても、読んだ小説は数えるほど。かといって物欲も高まってはいない。

大震災以後、記憶に残っているのは『日の名残り』カズオ・イシグロ
一冊だけだ。

その代わり、哲学はぐっと親しいものになった。
昔から小説と哲学書、それに社会学の本は好きで読み続けているが、バランスが明らかに変わったのだ。

他には、聖書とか、日本の古典とか、とっくの昔に死んだヒトの文章が読みたくなっている。

そして最近の口癖は
「山に穴掘って暮らしたい」
である。

かといって
「大震災が苛烈な現実をみせつけた」から小説なんてバカバカしくて、というのでもなさそうだ。

大震災と原発事故に圧倒的な衝撃を受けたのは確かなのだけれど、それと同時に極限的な空無感もそこには伴っていて、だから、いっぺん地面の底の底から思考を始めないと、フィクションが構成される事象界までたどり着き直せない、みたいな。

この半年は少なくても
「読めば読めてしまうような」小説の出る幕が、私にとってはなかった、のだ。

読めない場所としての福島に瞳をうばわれ続けている、ということでもあるのか。

12月には別の会合の小説レポートの分担になっている。
しかし、相変わらず小説は読めない。さて、どうしたものか。

小説なんて、たった今読むのを止めてもなんの不都合もない。

でも、読めないことが気になりだしたら、その読めない読めなさを、読んでみたくなつたりもする。不思議なものだ。

とりあえず、先週はエンタメを二冊読み、DVDを三本観た。
『下町ロケット』と『絆回廊』『Xメンファーストジェネレーション』『ウルヴァリン』『ハリー ポッターと謎のプリンス』

面白かった。
だが、その面白さを「今」と繋げる回路が見つからない。
そうか。

何かを読み、それを表象として論じるというのは、「今」「ここ」とどこかなにかで繋がっていなければ面白くないのか

「山で穴掘って一人で暮らしたい」

が最近の口癖になっているけれど、友人がいく人か、現状から隔離された「生」を暮らしていて、事情は様々異なるけれど、やっぱり私からみて幸せには見えない。
あくまでも、今とヒト、ここでおこっているコトに触れるための「ここより他」なのだと分かる。

だとすると、現実に触れ、その事象を分かるために担保していた小説という枠組が私にとって無効化しているということは、小説を追いかけてもしょうがないってことになる。
むしろ、小説から離れて事件=コトの現場をウロウロするしかないのかもしれない。

ヤレヤレ。
面倒はずっと続くということか。

さて、小説が「事件」であるための準備を、私が小説のためのためにする義理はないし、そんな能力もない。
だいいち何をすればいいのかわからない。
とりあえず小説を読まなければいいのか(笑)
意味が分からない。

しかし、最近受けた恩義を返すことは必要だ、とも感じてはいるのだ。
いつまでも元気なわけじゃないからね。

読めなくなった小説に、かつての恩義を返すには何をすればいいのだろう。









小説が読めなくて(3)

2011年10月15日 11時24分48秒 | 大震災の中で
そこでようやく気づいたのは、世の中の人はずっと前から
「小説を読む」
なんてまどろっこしいことはしていなかったのかもしれない、とい現実。

さらにそれを
「現代文学研究」
とかいった形で「読む」なんてことは、まあどこかの大学の学生や研究者は今なおやり続けているのだろうけれど、そんなスタンスで小説を読む人自体、私の周りには誰もいないわけで。

周りにいないのは昔からだからいいとしても、私の中の小説を読む行為自体が、いつのまにか何処かに消えてしまっていて、自分の中のどこを探しても小説を読むオプションが見当たらなくなっていたことが驚きだったのです。

もともと研究を深めたいとかいうつもりはあんまりなくて、小説は若い頃から国語教師として半ば仕事でもあり、「お勉強」の対象だったこともあったけれど、とにかくなによりも小説を読むこと自体が楽しみで、エンターテイメントからひねくれて意味の分からないものまでジャンルを問わず様々読んではああでもない、こうでもない、とその表現と向き合うこと自体が「快楽」だった。

かつては、ね。

毎月一回集まっては読書会を開き、メンバーと小説を読み続けることを15年ぐらい続けていたりもした。

「面白さの秘密を分かりたい!」

が基本スタンスだったのだと思う。

そしてまあなんだかわからないけれど、「表象」として文学を捉えるっていう研究の周辺をうろうろしてきたような気はする。

その範囲では哲学も社会学も文芸評論も読めてはいたわけです。

以前は、ね。


小説が読めなくて(2)

2011年10月15日 10時55分09秒 | 大震災の中で
たった今、本の購入を一切止めても、10年以上未読の本を読み続けられるぐらいの量の活字はある。

いや、別に本棚の本などなくてもよい。

ネットで青空文庫にアクセスすれば、死ぬまで読む本には困らないだろう。スマートフォンなら寝転がったまた片手で読めるわけだし。

さてではなぜ本が読めなくなったのか?

今週風邪で二日ほど寝込みながら改めて考えた。



小説が読めなくて

2011年10月15日 10時47分40秒 | 大震災の中で

<大震災以後を生きる(34)>

最近めっきり本が読めなくなった。
特に小説が読めなくて困る。

別にそんなことぐらいで困ることもないだろう、とも思うが、今まで基本的な「快楽」だったコトを失うのは正直痛い。

そしてモノではなくコトを失うのは、自分にとって「由々しき」事態でもある。

これはもしかしたら心が病気になっているのかもしれない。

あるいはこれが
「大人になる」
ということなのか?とかいうトンチンカンな期待(不安?)すら抱く。

とにかく今一番の関心事は、
「小説が読めない」
ことなのである。

かつて国語教師の先輩かが「年を取ると小説が読めなくなる」
としみじみ述懐していたのを思い出す。

失礼で生意気だった私は、神妙な顔をして話を聞きつつも
「それは要するに知的怠惰ってことでしょ」
と思っていた。若気の至りだ。吉田センセ、すみません(>_<)

さて、それから30年。毎月小説を読むという「読書会」を止めて10年以上。

自分がそういうことになってみると、気持ちが小説を読む方向に向かないのだからどうにもこうにも仕方がない。

三連休中、書庫に溢れた未読本(過半は小説です)の一部を整理しながら暗い気持ちになった。