龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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大間に建設中の原発、止めておいた方がいいと本当に思う。

2011年10月23日 20時55分32秒 | インポート
再開見通せず(Jパワー)<時事通信>
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111023-00000064-jij-bus_all


この夏、青森県下北半島の北端、大間に建設中の原発の建設現場を観てきました。
遠くから眺めただけですが。
下北半島の南には六ヶ所村の再処理工場があります。
確かに目立った産業がなく、原発誘致による地元への交付金や税金、その他さまざまな補助金などがノドから手が出るほどほしい、必要だ、ということもあるのだろうなとは思います。

福島県の浜通りも同様に、目立った産業がないからこそ、東電の原発立地を容認し、そこから得られるお金と雇用とによって、地元を支えてきたのですから。とても他人事ではない。

でも、そのときも思ったことですが、ここを放射能汚染の「現場」にすることはなんとしても避けねばならない。
電力会社、開発会社が「安全」だといったから、は少なくてももはや通用しないでしょう。
地権者とか交付金とか利益を得る限られた地元の地域の人の意向だけで、原発の稼働を認めることはできない、と日本人は否応なく学んだはずです。

悪いことは言わないから、大間原発の稼働は止めておいた方がいい。

いろいろ議論の余地はありましょう。
もしかすると新しい原発の方が何十年も前の設計のものより安全だ、なんて視点だって、そりゃああり得るかもしれない。
でも、制御できない現実の結果を何十年も受け止め続けていかねばならない福島県の住民として、何度でも、特別に尋ねられなくても、「止めておいたほうがいい」と言い続けます。

自然災害なら、私達は立ち上がり直せるって部分もある。制御を失った人為の暴走は、否応なく埋めることのできない「裂け目」を私達に突きつけてきます。

だからこそ、「人為」に同一化することは本当に注意深くあるべきなのだと思います。
しょうがないとか時間がないとかとにかく今は必要だ、 とかいった「時間」をけちって威すような言説は、なし崩しの「現状同一化」を欲望すするものとして、特に注意が必要でしょう。
もし、丁寧に検証して考えているうちに何かが手遅れになったとしても、徹底した思考の結果は、必ず別の成果への道を指し示すことになる。

二者択一を迫られて、どちらに「同一化」して「正解」を求めるかを迷って情報を集めているだけだったら、失敗する危険も大きいし、没落の危惧もあながち根拠がないとも言い切れない。

初期衝動を手放さず、徹底的に思考をつきつめていく行為は、単に現況を「今」に区切った恫喝的ベストチョイスよりもずっとスパンの長い「価値」への目覚めを、必ずもたらしてくれるはずです。

箱庭の中で答えを探すな。
恫喝された同一性を疑え。

長い人生を楽しむ方法は、脅迫されて答えを素早く選ぶテクニックの中にはないはずです。
選択肢を比較するんじゃなくて、選択肢を成立させている根元から考え直して行動していくってことですね。

そのためには、ヘタな理屈より、初期衝動が頼りになる。動物化することが目的ではないけれど、衝動を失った論理の果てに見えるモノは、むしろ大きな「過ち」ってことが多いのじゃないかしら。