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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社刊を読む(別バージョン)

2011年10月21日 21時04分05秒 | インポート
こちらのブログ(龍の尾亭)にも感想を書いたが、
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20111021

別のことをこちらにも書いておく。

この本は、人間が感じる「退屈さ」について、たくさんの哲学者の視点を踏まえつつ、いくたの哲学者の視点のどれにも「還元」されることのない「思考の軌跡」を読者と共に「生きる」ことを目的の一つとして書かれている。

(筆者でもないのに偉そうに書いてしまうが、ま、当然、私見です<笑>)。

「暇と退屈」を巡る哲学者の意見を経巡っていくなかで、その思考過程自体が、「同一性なき差異」の豊かさに関わる「倫理」を指し示していく仕掛けになっているといったらいいのか。

かつ、この本において読者と共に歩むステップそれ自体が、「暇と退屈」を単純に「排除」して「本来の」・「充実した」・「理想の」人生などという「虚構」の奴隷にならないための、思考の「歩行訓練」にもなっているという一粒で何度も美味しい本である。

何より、前著(『スピノザの方法』<名著です……これも私見ですが……>)に比して筆者の「哲学」する息づかいが感じられる文章になっている。

これ、哲学者の「業界内アクロバット」の文体でもなく、素人を囲い込んで「理想」を物語る「啓蒙」の文体でもないのがともていい感じ。

思考における「同一性なき疎外」の豊かさのありかをきちんと読者と一緒に感じる場所=傍らに立ちたい、という筆者の姿勢が伝わってきます。

お薦めです。

全部のお話が腑に落ちたわけではありません。
ハイデガーの3つの退屈の分類の説明は、その前後の歯切れよい活気に溢れたトーンと比べると、まだよく分からない感じ、が残ります。

でも、私の乏しい読書体験の中で、ハイデガーの文章が簡単に腑に落ちたことはないので、そんなにびっくりもしませんが(苦笑)。

今はハンナ・アレントの遺稿集を読んでいる最中なので、アーレントについての批評は面白く読みました。
なるほどねえ。
またそういうことも含めて考えてみようっと。

個人的に、なんといっても目から鱗だったのは、ルソーとホッブスとマルクスを並べて、彼らの示す「疎外」というのは元来、回帰=回復すべき同一性に向けてのエンジンにするべきものじゃないよね、「同一性なき疎外」をちゃんと観る必要があるよね、という指摘でした。

「同一性」に回収されるうさんくささを回避するために「疎外概念」を手放すのはどうかと思うよ、という点。

これはもしかすると私達の世代の「病気」みたいなもの(全共闘より下の少人数帯=現在50代前半ぐらい)だったかもしれません。

いろいろな切り口が豊富に提示されていて、それぞれの哲学者のスタイルが「暇と退屈」論を通して浮かび上がるようにもなっているから、そういう意味では小さな窓から覗いた「近代思想史」みたいなテイストも。

ぜひ周囲の人に勧めて感想を聞きたい一冊。
よろしかったらいかがでしょう?


追記
人類史における狩猟生活から定住生活への大変換と「暇」の関係の指摘もめちゃめちゃ面白かったです。

ユクスキュルの「環世界」という視点は、七月に聴いたオーギュスタン・ベルク氏の講演でも引用されていて、ハイデガーとの関係で論じられていました。
その辺りも面白いところですね。