龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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福島から発信するということ(2)

2011年06月19日 21時05分59秒 | 大震災の中で
ここのところ、週末避難が続いている。今週は週末哲学に逃亡してきた(笑)。
正直、被災し、大学に間借りしつつ高校の授業をする生活は、いろいろと「疲労」が蓄積するのです。
年っていうこともあるのかもしれません。というわけで、

対談「スピノザの哲学」國分功一郎・萱野稔人 於:朝日カルチャーセンター6/18
内容は下記にまとめるので参照してみてください。

メディア日記

http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=ee1a9480836a9663fe44874d25e27f18

ここに参加することでずっと考えていたことが、少し整理できたような気がする。

デカルトは、与えられた結果から遡及して作用原因を追求し、世界原因=神に到達しようとする。
17C以降の「理性」は、このデカルトの考え方の方向で強化され、19C以降「常識」となってきた。

しかし、スピノザはそうは考えない。人間にはあらかじめ根本原因は与えられていない。だから、神=世界原因から初めて総合的・演繹的に世界を説明するためには、まず「知性を改善」して、「神の観念」に至ることが必要だ、と考える。

前者が分析的に他動因・作用原因を考えて、結果から遡及して原因を考えていこうとするのに対して、
後者は、総合的に、私達の存在可能性を支える条件を考え、その条件を踏まえて総合的に世界を認識していく。

私は、今、大地震・大津波・原発事故という大災害に直面して考えて行くべき方向性は、前者ではなく後者の哲学に依拠することだと強く感じています。

デカルトからスピノザへ。
(それを経済学者安富歩はニュートンからホイヘンスへ、という形で論じている。『経済学の船出-創発の海へ-』NTT出版)

たとえば海江田大臣(菅首相も今夕同意したみたいですが)が、休止中の原発に対して「安全確認」ができたから、再稼働を進めたい、と発言した。
この「安全確認」はどういうことか?

大地震・大津波

東電福島第一原子力発電所の事故が起こった。

その結果から原因を遡及して考える

チェックと対応

できることはやった(できないことはやっていない……だと思う……)

+経済的な安定的電力供給の必要性

再稼働要請

みたいな流れなんじゃないか。

でもね。
大津波も大地震も放射能も、私達がこの世界-地球-日本に住み続ける限り、避けて通れない
「生存可能性の条件」
だ。
制御できない放射性物質の扱い。防御できない大津波の力。予測不可能な地震の襲来。
これらは、たまたま偶有的に起こった原発事故の原因を遡及して「対応」していけばクリアできる条件ではもともとない。

これは、何かを研究したり分析したり、データを蓄積しなくても、哲学的に認識すべきこと、なのではないか。

私がこのブログでぐずぐず考えるともなしに呟き続けてきた

「人為」=≠「自然」

というのもその辺りに関わっている。

たとえば、グランドキャニオンやナイアガラ瀑布、富士山でもキリマンジャロでも、ギアナ高地でも、大自然の「力」を目の当たりにして私達は自然の「崇高さ」「偉大さ」を感じるけれど、それを決して脅威には感じない。

圧倒的な脅威と感じ、瞳を釘付けにされながら何度見てもその実質を受け止めきれずに瞳を逸らさずにはいられないのは、「人為の裂け目」から「自然」を垣間見る瞬間だろう。

あの津波の後の瓦礫を見た私は、言葉を失い、カメラに撮ることも躊躇われ、瞳を逸らすこともできないまま、茫然と受け止めようのないショックを受けた。
また、原発事故による放射性物質の飛散状況の報道をつぶさに見守り続け、自分の「視界」に入れることができないまま、生存可能性の条件がどんどん「狭められていく」のを感じてきた。

そして今も感じ続けている。

それはけっして単なる「自然」の脅威ではないのだ。

私達が「テクネー」によって築き上げてきた「人為」が、圧倒的な「可能性条件」の究極である「神」=「自然」の力によって引き裂かれ、「人為の裂け目」を目の当たりにすることによって初めて、怖れがその裂け目から不可視の現実として招来しているのではないか。

だから、私達が今瞳をこらすべきなのは、「自然」でもなければ「人為」でもない。
そういう二分法では、この「裂け目」はついに見えてこない。

自然という根本的な
「存在の可能性の条件」(1)

と、

インフラストラクチャやさまざまなアーキテクチャ-として私達の「人為」的生活の基盤となっていた、社会的な
「存在可能性の条件」(2)

とを、「総合的」に見つめ続ける必要がある。

失敗した原因から遡及して、あるべき「原発」の姿をこの数ヶ月で提示できるはずもない。
「生存を支える可能性条件」
が満たされていないことは、福島の住民ならずとも、身に沁みて感じたはずだ。

(エコロジーとの関係も両氏は言及していたが、そこについてはまた後日触れる機会を持ちます。)

素朴に「福島を返せ」と叫びたい心情も分からないではない。
しかし、少なくても私は、そういう「叫び」として言葉を用いることはしない。

「生存を可能にする条件」を、しっかりと瞳を凝らしてみつめ、考え続けていきたいのである。


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