龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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震災後を生きるということ(その1)

2011年06月04日 08時23分24秒 | 大震災の中で

先日、「震災後」を生きていると書いた。
それは、
「壊れてしまった/失われてしまった」
ことをゆっくり受け入れる暇がないまま、やむを得ず次にやってきた「電車」に乗り込み、行く先もわからぬまま揺られているような感覚だ。

帰る場所への道は断たれているのに、行くべき先は分からないまま。

実は、ふだんの日常だってそうだったのかもしれない。でも、
体=脳みそ
が「覚えている」地図に乗って動いていられるうちは、断崖の横でもすり抜けられたし、深い溝でも何気なくジャンプできていた。

しかし、大きな「喪失」や、根本的な社会・生活・経済上の「基盤変化」を被った者にとって、その
「破壊・喪失・変化」
は、単にA地点からB地点に移動したことにはならない。


トラウマとか、そんな話じゃない。
心理的に構成された世界像の書き換えが上手く行かなかった、というのが本当なら書き換えをうまくすることだけが一義的な問題になる。
しかし「適応すれば解決だ」っていうのは、「心理学」や「精神分析」の虚妄(少なくてもそれを道具化することの錯誤)だと、「震災後」を生きてみると分かる。

確かに物理的身体は徹底的に「今」の「環境」を生きているのかもしれない。
新たな環境に投げ入れられればそれに懸命に適応し、サバイバルしようとする。

しかし同時に、ヒトはいくつかの意味でその身体との乖離を生きることになるだろう。

まず、身体と脳みそが自動的に動く身体的な習慣がある。
ある意味で無意識に、といっていいだろうが、刷り込まれた本能や脳みそのレベルでの反応(危機に際して免疫があがるとかアドレナリンが出るとか、あるいは仲間の様子をより強く見て同調しようとする傾向をみせるとか)があるだろう。
プログラム参照のレベルと言ってもよい。(続く)



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