龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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震災後を生きるということ(その2)

2011年06月04日 11時47分37秒 | 大震災の中で
しかしその生物的な適応は長続きしない。というより、その反応は元来「緊急時対応」にすぎないのであって、長期化すれば、緊急の過剰な反応レベルは、低下していくことを避けられないだろう。

それは、生物的なレベルばかりではなく、社会的な学習のレベルでも共通している。

生まれ育った土地。その環境に対する「愛着」は、単なる「物神化」の結果ではないだろう。環境の中で学習し、適応し、それを継続的に蓄積してきた結果として「身に付いた」、意識に上らない基層として私たちの「生」を日々支え続けている。それはもはや幾分かは「自分自身」そのものでもあるのだ。
餌場はどこか、住処はどこか、社会的な振る舞いを学ぶ時空間はいつどこに現出するのか、学校で、職場でどんな身体性が要求され、どんな社会的身振りが必要とされるのか、そういうもの全てが、具体的な「空間分割」によって支えられ、強化され、人為によって支えられている。
そういう意味では、言い古されたことだがこの「人為に満ち溢れた」故郷は「第二の自然」でもあるのだ。

獣でもある人間は、第一の生物的基層ばかりではなく、この第二の社会=脳みその時空間分割を「自然」として生きているといっていいだろう。

だが、この「社会的な身体訓練によって作り上げられてきた第二の基層は、臨界期を持つ。音楽とか、言語とか、スポーツとか、愛情とか、学習とか、およそある種の個人的身体を伴った技術を必要とする社会的なことがらは、制度設計の面でも、身体適応の柔軟性からいっても、臨界時を持たざるを得ない。

「四十の手習い的」伊能忠敬モードはいつの世にも例外的に存在するが。

「成獣」となってからの新たな適応は、妖精=幼生の時よりも各段に難しい。
あとは、既に成立し、脳に刻まれた世界像とそれに対する「反応」のデータベースによって日々を事故なくドライブしていくことが出来る「はず」だ。ある意味、自分の作り出した「人為」に「動物的適応」をすることで、最適化してしまうという倒錯を生きることになる、といってもいい。

古今東西の文明はこのようにして滅んだのか、と隠居ジジイの感慨めいたコメントは不要だろうが、前提を自ら作り上げ、そこで「動物化」することによって「最適化」をはかるエンジンがどうしても働いてしまうのだね。

「時間と空間」の認識を前提としてヒトはヒトとしての「生活」を現実世界と脳みその世界と、同時に二重化して生きていく。考えてみれは当たり前、のことだ。
そしてその当たり前を自動的に運営してくれる人間の脳はなんと高機能なのだろうか、と感心もする。

しかし、その便利さは、諸刃の刃でもある。

その便利な脳の機能を駆使して、作りあげられた人為的事物が、次々に前提としてくりこまれ、参照可能な「第二の自然」として扱われて行くことになる。

その挙げ句に、私たちの中には、忠犬ハチ公的に帰らぬ第二の主人を待つ「犬」が私たちの中に立ち現れるのだ。

まちつづけるのは「主人」か、「自然」か「人為」か。存在しないものを参照しつづけるヒトの脳みそは、実は地震に怯える犬とどこがちがうのだろう、と考えてしまうのだ。


ちょうど家で飼っている老犬が、地震が起きる度に「この庭」からなんとか逃げ出そうとするように。あたかも目の前にある足の下の「この庭」こそが揺れてでもいるかのように。

本能ではない。

明らかに犬なりに思考と判断は機能している。しかし、揺れているのが「この庭」だけではないことを老犬は「知る」ことができないのだ。

なぜなら、犬が参照可能な脳みその記憶とそれに基づく判断を、私たちは書き換えてあげられないから。

「地震だよ落ち着いて」、と言うことばは、永遠に老犬には通じないから。うちの婆さんはいつも犬に毎回言い聞かせてるけどね(笑)。


そして震災後の「問題」はこの庭から飛び出しても、解決しないところにとりあえずの面倒くさい本質の一つがあるようにおもうのです。
「動物」である人間にとって「庭」はどこか?

次第にまた分からなくなってきたけど、この項続きます。(つづく)



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