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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

浅野俊哉『スピノザ<触発の思考>』明石書店は、スピノザの練習問題。

2020年05月18日 12時50分32秒 | メディア日記
浅野俊哉『スピノザ<触発の思考>』明石書店
を読了。
この本は、スピノザを現代の中で考えるときに必要な練習問題を解いてくれている、という感じがする。

ニーチェ、レオ・シュトラウス、アドルノ、ネグリ、シュミット、三木清など(バーリンはよく知らないので……)におけるスピノザ受容やスピノザ理解、スピノザ批判を取り上げ、それらの思想家との距離を測定しなおす作業をしながら、筆者と一緒に現代におけるスピノザの「可能性」を考えるという本、という風に理解して読んだ。

「スピノザの思想は、そこに姿を映した者が、自らのゆがみや偏り、あるいは秘してきたものを大写しで見させられる、精巧に磨き上げられた水晶玉のようなものかもしれない……。/思想史を反転させ「もう一つのあり得る思考」の水脈を明るみに出す」

と表紙にある通り。

「スピノザが批判するのは、むしろ、「他者」という位相を特権化することによってそれを自己の「外部」と規定し、自他の間に乗り越えることの不可能な壁を構築するような、ある種の思考だった(かれは「人間」や「存在」という表象すら非十全な観念として告発しつづけた)。スピノザはきたるべき全体性の一景気として他者性を揚棄するのではなく、様態としての世界にしかいきられない私たちに対し、他者をその不定型な多様性のまま感受し、互いに触発し合い、その無数の力の放射に応答していくという行動様式を提示している。」P41~P42

ざっくり早わかりしてしまうと、スピノザには普通の神様のごとき外在的人格神が存在しないため、その神様に対して良心に恥じないことをするとか神様に対して道徳を以て向き合うみたいな姿勢が全くなく、そこがニーチェによって「良心なき思考」みたいに言われたりする。
しかしその一方で、非十全な形でしか知り合えない限定された「様態」同士である人間が、互いに影響を与え合いつつ互いに「よりよき生」を目指して生きていくことを強く内在的な喜びとして捉えている、ということになる。
そしてここに明らかに存在する人格とか人間性とか他者に依拠しない「共同性」の「芽」から、multitude(マルチチュード)的な発想も生まれてくるというわけだ。

スピノザは、暴力がいけないのは「悲しみ」をもたらすからだ、という。その悲しみは、自らの力が非十全的な方向に向かうから「悲しい」ということであって、内面的な人間の感情としての悲しみではなく、身体を伴った「情動」としての悲しみなのだって話になる。

レオ・シュトラウスの項などは、そのあたりの事情がよく見えてきて面白かった。『自然権と歴史』を國分功一郎先生に勧められて読んでいたことも与って力になっていたか。カール・シュミットも、ワイマール時代の話から読んでいたし。

概ね、「そうか、なるほど、そういう風に考えるとスピノザもこの人たちもよく見えるようになるんだ」と納得の一冊だった。


その中で一つ気になったのは、正面から語られていないレヴィナスのことだ。
レヴィナスといえば、スピノザを徹底的に批判したユダヤ系の哲学者で、イスラエルが300年以上続いたスピノザのユダヤ教からの破門を解こうとしたときに、徹底的に反対の論陣を張ったという話も聞く。

レヴィナスとスピノザをがっちりこの著者に論じてほしいな、と思った。

そう思ったら自分でやれって?

ごもっともですが、そんな力は、ない(笑)。
ただゴシップ的な興味も湧くので、素人としては素人なりに今度考えてみようとは思っている。







Netflix映画『ROMA』にぶっ飛ぶ。

2020年04月01日 00時52分58秒 | メディア日記
2020/03/31
Netflix映画『ROMA』にぶっ飛ぶ。
一昨年から去年にかけてめちゃくちゃ話題になった映画だという話を聞いていて、この映画のためにNetflixを契約したのだが、なかなか観る気持ちにならずにいた。
やっぱり気持ちに余裕がないときは、とにかく娯楽映画が観たくなる。「無思考」でいたいから映画に没入する、ということは確かにあって、それが映画の大きな効用の一つだとすら思っている。小説はもう、そういう時期は過ぎてしまった。小説は定番すぎると飽きてしまう。しかし映画は十分普通のエンタテインメントで十分。
しかし『ROMA』は全くネットの批評サイトもアクセスしていなかったものの、芸術映画の匂いがして、そのためにNetflixを契約したのに、一月ぐらい迂回していた。

だが、もはやこの新型コロナが強いてくる閉塞感の中で、アクション映画ばかり観ていてもしょうがない、という気持ちになり、ようやく『ROMA』にたどり着いた。

やはり。

これはちょっとしんどい映画だった。
映像が綺麗すぎる。こういうものを二時間も見続けられる映画的体力が私にはない。最初の15分ほどの「幸せさ」が失われていくのだとしたら、耐えられないと思った。
しかし、目を離すこともできない。モノクロの映画なのだが、色がある。グレーというかグラデーションというか、あまりに美しい。
最初の中庭などちょっとセットっぽくてキレイすぎ、と思ったぐらいだが、メキシコの中産階級の(僕らにとっては)街中の豪邸と、そこで働く家政婦二人、そして子供たちの姿は、美しく、幸福だ。
だからこういう映画はしんどい。これがそのまま続くなら、映画にはしないわけだから。

子供たちの自然さ、家政婦二人と奥様のやりとりの日常性。

ここに今年話題になった『パラサイト』、直近に読んだ韓国小説『82年生まれ、キム・ジオン』、それに今年になってからみたケン・ローチ監督の『家族を想うとき』を重ねてみたくなる。
そういうものを今年観てきた、自分の気持ちの中での乱反射をすべて吸い込む力がある映画だ。

そして車とその駐車スペースの描き方。冒頭、洗い流されている屋内駐車場の床の水は、寄せては返す波のようでもあることに、映画が終わって改めて気づかされる。
退屈なのに、やられてしまう。
映画好きが好きな映画になるだろうことは想像に難くない。
しかし、それだけでは済まないものを見せられてしまっている感じがある。

男たちがカスなのも観ていて辛い(笑)。
最後の海辺の長回しのシーンは、自分にも経験があったので冷静では観られなかった。
退屈というか淡々と美しすぎる映像の描写を積み重ねてきて、ここにたどりつくのは、しんどい。
まるで芸術だ(笑)。

こういう映画を好きになる知的体力というか、マゾ的資質を私は個人的に欠いているのだが、それでもなお、なんか魅せられてしまってしんどい。
物語に回収されない描写、って単純に映画でまでそんなに熱心に観たいわけではないのだ。
しかし、魅せられてしまう。
Netflixのエンタメ全開のラインナップの中に、こういう作品が入っているというのは油断ならない。

素敵だ。
スチール写真としてとっておきたいようなシーンばかりである。
困る。

見はじめると、普通の映画が物足りなくなりかねない。
映画を観ることの意味(面白さ)が自分の中で化学変化してしまいかねない種類の作品かも。
そういう意味では、観ないで済ませられるなら、観ないでおいた方がいい映画かもしれませんね。

Netflix映画『スペンサー・コンフィデンシャル』を観た。

2020年04月01日 00時43分58秒 | メディア日記
2020/03/30
Netflix映画『スペンサー・コンフィデンシャル』を観た。
シャフトと同系列の(こちらは白人が主人公)、相棒モノ。
元警察官の型破りな「正義派」が(警察の汚職を含めた)麻薬の密売組織をやっつけるというお話。
こういう物語は、これは定番中の定番なのだが、相棒モノとしてよくできた「型」になっていると思う。
『シャフト』は親子が相棒だが、こちらは麻薬汚職がらみの上司を殴って服役したムショ帰りの男と、そのボクサー仲間たちというところが違う。
相棒モノとしてのひねりもあって、楽しく観ることができた。
『シャフト』と『スペンサー・コンフィデンシャル』のどちらか一本というなら『シャフト』かな。
でも、時間があったら、そしてバディモノのアクションが嫌いでなければ、二本観てもいいかもしれません。

この主役の役者さんの顔がいいと思ったかな。なんかちょっと間抜けな正義派の感じが良く出ていたし、その彼女のぶっ飛びキャラも楽しい。
最後のタイマンマッチョぶりはご愛敬というものでしょう。
ボクシングジムのおじちゃんのキャラもなかなか。

Netflix映画の娯楽アクション、けっこう楽しいですね。

Netflixの映画『シャフト』、楽しかった。

2020年03月31日 08時35分42秒 | メディア日記
2020/03/30視聴。
Netflix『シャフト』の感想を少し。
3月からNetflixを視聴しはじめ、まず『鬼滅の刃』シーズン1を観た。
評判通り、なかなか楽しい。
現在少年ジャンプで『ONE PIECE』が読み放題ということもあり、それもこなさねばならないのだが(笑)、せっかくだからNetflixの作品のいくつかをマイリストに登録してぼちぼち見はじめた。

単発モノで初のNetflix作品が『シャフト』。
意外に面白い。こういう肩の凝らないエンタテインメントは、
①設定が素直に飲み込めるか(合理的かどうか、ではなく)
と、
②テンポが良いかどうか
が受け入れ度合いを決める面があるけれど、これは面白かった。

いわゆる相棒(バディ)物のジャンルなのだが、
「型破り私立探偵の父+エリート分析官の息子」
というのがまず楽しい。
二人がぶつかり合いながら(改めて)絆を強くしていくメロドラマは心地よいし、アクションも楽しい。

夜、もしくは休日の午後、何を観ようか迷った時には、そしてアクションものが嫌いでなければ、お勧めの一本。

左上に赤い「N」の文字があるのはNetflixオリジナル作品かと思われるが、なかなかいいクオリティだと思う。
DVDレンタルでどれを観ればいいのか分からないとき、既存のものだとWOWOWとか厳選感が割とあったけれど、ついにその「厳選感」はNetflixの側に移ってきた、という印象。
それはもう昔からかな?
私は今日から始めます(笑)。

しばらくメモ代わりに書いてみます。

歌舞伎『風の谷のナウシカ』前編を観てきた。

2020年02月18日 07時30分21秒 | メディア日記
2019年の末に新橋演舞場で上演された歌舞伎『風の谷のナウシカ』(前編)をディレイビューイングで観てきた。
全部で7時間ほどになるのだろう、その前半部分にあたる(後半は二週間後に上演)。

映画版ナウシカではなくマンガ版(確か雑誌『アニメージュ』に連載されていたもの)全7巻を通し狂言にしたてるというのだから、むちゃというか振るっているというか。
とにかく不思議な面白さだった。

歌舞伎をあまり知らない者が「ケレン味たっぷり」といったところで、ある意味では当たり前の話にしかならないのかもしれないが、とにかくあれだけの物語を、(例えば忠臣蔵とか義経の話とかのように)「名場面集」として観客に強く印象づけることに成功しているのだから、歌舞伎らしいすぐれた編集感覚と誇張表現を駆使した「ケレン味」とやはり言っておくべきなのだろうと思う。
歌舞伎のことはよく分からないけれど、ナウシカ愛に溢れた観客の一人としては、名場面集として永く伝えられたらいいな、と思える作品になっていた。

なかでも格好良かったのは七之助のクシャナだ。無論ナウシカは主筋を担う人物なのだが、前編の華はクシャナにある。もう一方の悪の華はミラルパだ。

これはいかにも歌舞伎の荒事に相応しい配置だ。
それに比して、前半戦の世界=自然=王蟲と交感するナウシカは、宮崎アニメの真骨頂であって、明らかに映画版ナウシカの方が馴染み深い。この歌舞伎版ナウシカは、明らかに「少年」だ。ワンピースなら十分オッケーなんだけどなあ、という印象。ま、それはそれでいいのかな。
ことによると、物語前半の「少女」ナウシカは、歌舞伎の様式美に馴染まないところがあるのかもしれない。

後半、巨神兵が登場してからのナウシカに期待しつつ。

ともあれ、この暴挙というか快挙というか、歌舞伎版『風の谷のナウシカ』は、歌舞伎の力を存分に感じることのできる「場面」に満ちていて、何でも飲み込んで「歌舞伎」に消化=昇華してしまう楽しさが満載でした。

後半が楽しみです。

ケン・ローチ監督作品『家族を想うとき』観るべし。

2020年02月15日 13時38分12秒 | メディア日記
たまたま単館上映系の映画館が地元に一つ(2スクリーンのみ)が残っている。
2スクリーンのみとはいえ今晩の地方小都市の経済状況では存続してくれるだけでありがたいというしかないのだが、たまたまスケジュールが合ったので、
を観てきた。
切なかった。

お話は、世界の経済状況の急変で仕事も家も失い、夫は借金を重ねてでもなんとかもう一度家族のために家を買い直したいと思うが、選んだ宅配便の仕事は、1日休むと無休どころか100£ものペナルティーを課される過酷な「自営業」であった。身体も痛めつけられ、家庭を顧みることもできず、次第に家族の間にも亀裂が……というストーリー。

一度宅配の自営業主の方と話をしたことがありますが、どこの国(映画はイギリス)でも本当に過酷な状況がありますね。コンビニの時短問題も同質の課題がありそう。
フランチャイズゆえに「上司と部下」の雇用関係ではなくあくまで「契約」だから、リスクを背負わずに人を雇えるという、持てる者に好都合なシステムは、いたるところに蔓延っていて、実質的には「労働者」であるにもかかわらず、実質的には選択の余地もない「追い詰められた自営業主」として働きづめになるしかない。

そういう「相対的な貧困」の負のスパイラルを丁寧に描いています。
『パラサイト』のようなエンタテイメントに振ったつくりではなく、いわゆる社会派の人生切ない系ですが、席を立つことは許されない感じで(笑)観ていました。

『パラサイト』の家族も、普通に暮らせていたはずの「元中流」の匂いがしますね。
子どもたちも能力はある。
『家族を想うとき』の子ども二人も成績は優秀。
しかし、もはや子どもの才能は、階層維持や階層上昇のいわゆる「メリットクラシー」(能力中心主義)の幻想を持つ要素になり得ておらず、むしろ「絶望」への傾斜を強めるファクターですらあるかもしれない……。

希望は映画のかにはありません。しかし、映画を作って届けるその人々の姿勢の中には希望が宿っている。
監督も制作の人々も、役者さんも、映画館の経営をする人も。

では僕らはどうする?
いつもそこに戻ってくる。

2020年3月14日(土)は、
第14回エチカ福島『水になった村』をフォーラム福島で開催中・上映します。

よろしかったらぜひ!


先週の土曜日『パラサイト』を観てきた。

2020年02月12日 17時59分12秒 | メディア日記
観に行ったのは土曜日のレイトショー。
シニアだから1,200円。助かります。
そのときはアカデミー賞受賞前たったのに、女性が2人、3人と友達連れで来ていて、ここ最近観た映画(いずれもレイトショー)でへ一番の入りだった。
映画の中身はもう十分評判になっているからいいとして、舞台となっている二つの家のロケーションがとても魅力的だったことをメモしておきたい。

貧乏な家族が住んでいるのは街の半地下。家賃も安いのだろうが、Wi-Fiが入らないし、トイレは吸い込みの高さの都合か、家の中で一番高いところにあるのが目を引いた。
狭いところ、しかも酔漢がたち小便をするともろにかぶるような半地下の匂いの立ちこめるような家に住む四人家族。建物のセットはその生活を象徴的に表現している。

他方、著名な建築家が建てて、それを新興IT会社のオーナーが買い取った家は、いかにもセレブ感に溢れた素敵なおうちだ。前庭の芝生ではガーデンパーテイーが出来る広さがあり、地下室も食料や庭用のテーブル&椅子が収納されている。半地下の貧乏家族の家とは何から何まで正反対だ。

その家の対比がやるせなくも鮮明で、(乗っ取った後のセレブ邸宅の散らかし具合も含めて)、魅せられた。

さらにその地下室もただの倉庫ではなく……。

主役の一つは間違いなく二つの家だった。
後半、貧乏家族の家が被る洪水による浸水は、安い半地下ゆえの悲哀も感じられ、いろいろうまくできている。
「雨」、「立ち小便」、「嵐」「洪水」など、みずみずしい「水」のイメージも映画を支えている感じだった。

このあとケン・ローチ監督の『家族を想うとき』
という映画も観に行くことになるのだが、貧富の格差が広がるグローバルな「リアル」をヒシヒシと感じさせられた。
もちろん「名匠」ケン・ローチと違ってコメディ・ホラー・コンゲーム・社会派と様々な要素を見事に案分したエンタテインメント性の高さには、韓国映画(文化)のパワーを感じさせられた。
今から行くと混んでるでしょうが、お薦めの映画です。




演劇「わたしの人生の物語、つづく。」川前編(劇団ごきげんよう)を観てきた。

2020年02月02日 16時56分19秒 | メディア日記
今日は朝から演劇を。

リージョナル・シアター2019
劇団ごきげんよう
「わたしの人生の物語、つづく。」川前編を観に来た。

九州を拠点に活動する劇作家・演出家の永山智行さんと、「劇団ごきげんよう」が受け取った、地域と人の物語、とのこと。
これから観てきます。
川前は夏井川渓谷にある町。小中学校は廃校になっていて、その元校舎(今は多目的ホール?)での上演です。

その土地で演じられるその地域の演劇、、ということかな?
感想は後で!

……というわけで観てきました。
ステキなお芝居でした。

友人に送ったメールを再録しておきます。

演劇、よかったよー。
九州の都城の演出家が来ていて、いわき市の田舎(周辺部)で聴き取りをじっくりやって、地元の人の語りを沢山採集した上で台本を書いて、それを芝居にして地元の観客に届けるってスタイルの芝居でした。
キャストは全部いわきの
ひとで公演母胎は「劇団ごきげんよう」。老舗のいわき小劇場
からの客演も複数。
アリオスも一枚噛んだ企画かな。
もう4,5年なってるしいよ。
引用開始
2015年から活動し、これまで豊間編・田人編(2015年度)、内郷編・遠野編(2016~2017年度)、久之浜・大久編(2018年度)として地域の方の「人生の物語」を、演劇を通してお届けしてきた「劇団ごきげんよう」。
引用終了
(下記のアリオスページより引用
https://alios-style.jp/cd/app/?C=blog&H=default&D=01906&F=pagetype%3Ar%E2%80%BERYugRYQLKcvWFgfG%3B&O=STIME%3AD)

今回は川前でということでした。
でね、土基本地の人の物語なわけね。
もちろん地元の素人の人は自分自身の物語とか聴かれても最初は口ごもるんだろうけど、劇団員が地域のイベントに参加して、一緒に酒のんで、それから4カ月かけてゆっくり聞いていくと、最初は
「おれのはなしなんがきいだってしょあんめ」
って感じだったた人も、だんだん話し出てくれるんだって。
その時必ず聞くのは
「子どもの頃の遊びは?」
これは盛り上がるらしい。
それからさいごに
「一番幸せだったのは?」
を聞いて終わるんだって。

そうやって聴き集めたお話を元に、父親の訃報を聞いて都会から帰ってきた息子がみんなの話を聴いていく……ってフレーム。
あと、いろいろしかけはあるんだけど、基本は現地の人たちの物語を現地で演じるお芝居なんだね。
たから観客は
「ああ、誰々のはなしかなー」なんて分かっちゃったりもするし、そうでなくても
「んだんだ!」
ってその小さな物語に共鳴してくれる……。
そんなステキな「小さいお芝居」でした。
生きる元気の出る演劇だったなあ。

映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』

2020年01月30日 14時19分07秒 | メディア日記

母親をエスコートして、イオンシネマに行ってきた。

観たのは『男はつらいよ お帰り 寅さん』


寅さんシリーズを観たことがない人には不要の懐旧映画。でも、一度でも寅さんを観たことがあれば、十分楽しめる仕上がりになっていたと思う。

なにせ劇場で寅さんを一度もみたことがないどちらかといえばアンチ寅次郎だった私でさえ、懐かしく堪能したのだから、一度でも(TVででも)観たことがある人は、映画館に足を運んでゆっくりご覧になるといい映画だと思う。なにせ名場面集よろしく、渥美清が登場人物の回想で出まくっているし、寅次郎のマドンナはおそらく(分かんないけど)ほぼ全員顔見せしてるんじゃないか。
どうしても観る気が起きなかった寅さんシリーズも、この一作なら観ておいてもいいと感じる。
歴代マドンナの中でどの女優が好きだったか、なんて考えるだけでも楽しい。

いや私は断然池脇千鶴ですが(八千草薫を除いて、ね)。

TVの名場面集で十分じゃないか、という方もいらっしゃることでしょう。
八割方はその通りかもしれません。でも、映画館の暗闇で二時間を奪われながら懐旧に浸るってのは、お茶の間のテレビではなかなか難しいことです。

60才以上のシニアの方は割引もありますし、ぜひ。別にたいしたことは起こらないのがおそらく寅さんシリーズの大切なことなのだとすれば、さしたる盛り上がりもないこの感じもまた、いいんじゃないかな。
87歳の母親も、それなりに満足していたみたいです。特に、オープニングの桑田佳祐の歌にいたく感動していましたよ。

「この人歌、うまいねえ」
といって(笑)。



今観てきた『フォードvs.フェラーリ』

2020年01月28日 20時20分20秒 | メディア日記
レイトショー(シニアの方が安いけどね)を観に来た。
朝は観る気がしなかった
『フォードvs.フェラーリ』
だが、夕方お腹が一杯になったら観ても良いかな、という気になった。
福島県いわき市の小名浜ということろにある「焼き畑商業施設」の典型イオンの中に入っているシネコンの上映。
体の力を抜いてゆったり観てこよう(^_^)
感想は特にないと思う。楽しめれば。

はい、観てきました。
面白かった!
クルマ好きなら一刻も早く観て損のない作品。
これが作られて世界で受けるってことは、世の中にはこういうクソ(この当時のフォードの役員たち)なことが沢山あるってことなんだろうね。
しかし誰かが言ってたけどこの映画を作ることにOKを出したフォードには感謝。
フォードの伝説ではあるにしても、この場合フォードの役員たちは「悪役」だもんね。

ル・マンを走るフォードのドライバー、ケン・マイルズ役を演じた人(クリスチャン・ベイル)がとりわけかっこよかった。その奥さんも素敵な女優さん(カトリーナ・バルフ)だね。マット・デイモンももちろん上手いけど。

素敵なエンタテインメントだと思います。
気になるのは、マット・デイモンの演じたキャロル・シェルビーが最後に乗っていた緑色のクルマ、あれカッコ良かったんだけど、なんて言うクルマかなあ。
ブログ上のコラムには
「シェルビーが乗っていたコブラ427」
という指摘も見える。
あのミニチュア、ほしいなあ。



映画『ジョジョ・ラビット』を観る。

2020年01月28日 12時59分13秒 | メディア日記
映画好きの男性の友人に
『フォードvsフェラーリ』
を薦められたのだが、同じく映画好きの女性の友人に
『ジョジョ・ラビット』
を薦められ、どちらを観るか迷った挙げ句、今日は後者を選んだ。
朝起きたときから
「ちょっと死んでみても良いかな」
という低い「老(low)」な気分だったので、とてもじゃないけどフェラーリとフォードのレースを観にいく気になれなかったのだ。

『ジョジョ・ラビット』
は、とても小さくて可笑しい映画だった。
対戦末期のドイツを舞台とした映画なのにのっけからヒトラーユーゲント志望の少年が英語で喋っているのが面白い。
それだけで笑えてくる。
作品中、敵性外国人?のアメリカ人と話す場面があるのだが、当然のことながらアメリカ人の言葉の方が最初は訳が分からないものとして出てくる(あんまりしゃべらせていない)し(ソノアト英語シャベッテタトオモウケド)。
そして、ナチスの少年たちを鍛える合宿の指導をしているのが、どう考えてもアメリカ人の将校にしか見えないのが苦微笑を誘う。
映画の「小ささ」は、主人公が10歳ということもあるし、ユダヤ人の隠れるスペースが小さい(狭い)と言うこともあるし、当時のドイツでは心を小さいところにしまっておかねばならなかったということでもあるし。
主人公はアドルフ(妄想)が友人なのだが、その関係も面白い。

子どもの想像するヒトラー像、こんなものだったのかもしれない、と思わせる。ドイツ国内の青少年の大半をナチスの青少年
団として組織していったヒトラーユーゲントの(おそらく)悲劇的な現実を踏まえつつ、あくまで少年の瞳が捉えた世界という「コメディのフレーム」を失わないのが嬉しかった。小さい映画はこうであってほしい。

感想としては、あんなコンビ(コンビニ、ではない)の靴を買いたくなった。
そして、とりあえず明日までは生きてみても良い、と思うようになった。
暗闇で映画を観る功徳には、そういう「効果」もある。


流し読みしても意味がない山内志朗の本『新版 天使の記号学』岩波現代文庫

2020年01月27日 18時29分26秒 | メディア日記
言わずとしれた中世哲学研究者の山内志朗の本が岩波現代文庫で甦った。
自分では手に負えないのを知りつつ、平凡社文庫の『普遍論争』とか『存在の一義性について』とか、『誤読の哲学』とか、読めもしないのに読み続けている。
これもその一連の本の一つ。
ただ、ことしから無職なので、
図書館でこういう本と出会えるのはほんとうに有り難いことだ。天使と題名にあるが、例によって別に天使の話だけをするわけではないのだろう。
分からないところに連れて行かれる戸惑いと快感があるし、そこがただわからない場所というだけではないのがまた悩ましい。興味津々なのに分からなさがどんどん重層化していく愉悦すら感じる。
まあ、そういうことですね。
さて!気合いを入れて分からなさの「海」=「快」に浸ってきます。

第14回エチカ福島を開催します。

2020年01月25日 02時17分26秒 | メディア日記
日時:2020年3月14日(土)13:30~15:45
場所:フォーラム福島
内容:
大西暢夫監督作品『水になった村』の上映および監督を迎えてのアフタートーク

ダムによって村全体が水没することになったその村の人々が、水没する時まで村の営みを続けていく様子を、静かに描写していくドキュメンタリー映画です。
しかし、その静かな映画の中に、強くこちらに迫ってくるモノを感じ、私たちエチカ福島はぜひとも上映会を開催したいと考えるようになりました。
今回、福島の映画文化を支えるフォーラム福島さんのご協力をいただき、上映会&監督を迎えてのアフタートークが実現しました。
前売り券1,100円、当日券1,800円をフォーラム福島でお求めの上ご参加ください。




『西田哲学の基層 宗教的自覚の論理』小坂国継を読む。

2020年01月23日 18時16分08秒 | メディア日記
西田哲学とスピノザの対比が結構重要テーマになっているようなので借りてきた。
道元+鈴木大拙の読書からの繋がりでもある。

東西の「比較思想」ってのはちょっとなあ、とも思うけれど、お茶のみ話的に頭の良い人が楽しく付き合ってくれる感があって愉しい。
いや、書いておられる形は学問として大真面目に書いておられるのでしょうが、私らはその学問をentertainment的に読ませてもらうしか素養がないもので……(^_^)。

スピノザに「静」を、西田哲学に「動」を配置するところからもう「ウフフ」ってはなるけれど、それは逆に私(ブログ子)がスピノザを「一般的理解」とは別のところで読んでいる、ということでもあるかもしれないわけだし、、そう言う使い方もあるのだな、と分かるのも楽しい。それで西田哲学のしゅうへんもウロウロできたら十分だ。

永井均『新版 哲学の密かな闘い』を読了。

2020年01月23日 18時07分18秒 | メディア日記
永井均は『〈子ども〉のための哲学』以来、繰り返し読んできた著者だ。
同じことを繰り返している「ヘンな人」という印象がある。でも、独我論みたいなことを考えるときにはいつも永井均の文章を思い出してみる。
野矢茂樹の本もおもしろいし、説得されそうになるのだけれど、永井均の頑なにそこだけ(彼にとっては根本問題なのかな?)を追給し続けるその心意気というか、あられもなさにしまいには感動してしまうことになる。
何度目かの永井均だが、いよいよ今回は
「なんだ、読みやすいじゃないか!?」
というところまでたどり着いた。
考えてみればヴィトゲンシュタインを読み始めてから四十年、長い道のりだったと思う。

50歳直前にスピノザと出会って、それ以来少しご無沙汰していたが、ひさしぶりに「永井均」的ドライブを味わえた。
これは「永井均」の初心者にもお勧めかもしれない。
最後の野矢茂樹との論争のところことか、野矢の著作がどこかにいってしまっていてつきあわせられないのが残念。

文字通り表紙裏の惹句にもおるように「永井哲学ワールド」全開です。よろしかったらぜひ。
しかし、興味ない人にはほぼ無意味だと思いますが。