goo blog サービス終了のお知らせ 

龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

続・『スピノザの自然主義プログラム』(木島泰三)を読む

2022年01月18日 16時09分26秒 | メディア日記

今、『スピノザの自然主義プログラム』
第6章まで読み進めてきて、「おおっ!」となっている。
「水平的因果と垂直的因果」
という枠組みに興味を惹かれると書いたが、次に、

本文P113~P114 スピノザのエチカ第3部の定理6と7あたりの説明で。

「事物が行為しようとする努力」

「事物が自己保存に固執する努力」

を同一のものとし、合わせてそれを

「現実的本質」

と呼び、それは「事物一般の『本質への注視』」における「本質」(いわゆる形相のようなものか?)とは区別されるべきと指摘している、というところに痺れた(笑)。

ここでいう「現実的本質」がコナトゥス(努力)であるということは、個別的本質はある種の「力」であるという了解に私たちを連れて行ってくれる可能性がある、ということでもある。

 

それは神様がある種の「本質」を持っていて、そのなにか「えらいもの」が個別的な存在に流出していき、何か神様の設計図か目的を持って粘土細工のように作っている、というそういう種類の「本質」を個別の事物が持たされているということではなく、あくまでも力のせめぎ合いというか固執が「現実的本質」だというのだから。

スピノザの合理主義の面倒なところは、一見<プラトン的な上から降ってくる「本質」で私たちが意思を奪われているみたいな話>でありながら、実はそれを根底からひっくり返していて、そこがハイパー合理主義というか、普通に考えているとたどり着けない思考のリミットを強要してくる点にあるといつも思うのだが、木島氏のこの本は、その辺りの複雑な事情をわかりやすく丁寧にステップを踏んで論証していってくれる。

木島泰三の描くスピノザがどこまで受け入れ可能なのか分からないが、かなり魅力的な提案であることは間違いない。

まだ読み進めていないが、この流れで行くと、思惟と延長という属性の難解さまで、たどり着いてくれそうな気が、する。
素人にとっても、いわゆる心身平行論のわかりやすい説明が期待できそうだ。

 


映画『来る』を観る。

2022年01月17日 08時00分00秒 | メディア日記
黒木華の映画『来る』を観た。

カテゴリーとしてはホラー映画なのだろうが、怖さは半分人間の側にある。そして残りの半分は、その化け物を招来して鎮める話になる。

妻夫木聡の糞なダンナっぷりもなかなかいいが、やっぱり黒木華はホラー映画に相応しい。

ただし、それは話の前半にすぎない。

後半は松たか子の怪演を中心に話が離陸していく。

主演が岡田准一ってのもよく分からない。この話に主人公とかあるんだろうか?という疑問も涌いてくる。

お話の枠組みこそが主人公か?

キャストも観ていないのに、黒木華と松たか子が共演している不思議。

前半のホラー展開……からの中盤の人間模様のダレ場……そして後半の霊能者集合による化け物との対決。

実に不思議な感触の映画だった。
ホラーというよりはSF。

子どもを巡るホラーの短編連作と言う形を取りながら、贅沢に役者たちを配置して、惜しげもなく展開していくパワーが主役か。
結局化け物の正体は分からないままだ。

あるいはこの作品を映像化した蛮勇をたたえるべきか?

怪演といえば、柴田理恵、げえっす。

お暇なら、そして何でも観てやろうのヒトならオススメの一作。
まとまりのよいウェルメイドな作品をお望みの方は絶対観ないでください(笑)








未見のヒトは必ず観るべし『その女、ジルバ』

2022年01月16日 08時00分00秒 | メディア日記
去年ビデオ録画していて、評判も良かったのに、第1回だけ撮り逃しをしてしまったため、そのまま未見で一年過ぎてしまっていたのだが、今回U-NEXTで配信があったので(無料期間ぎりぎりで)昨晩イッキ見をした。

いやー、泣いた。
ケビン・コスナーの
『フィールド・オブ・ドリームズ』
がかつて男の子だった中年の男の夢物語だとするなら、『その女、ジルバ』は、いつの時代でも、その時代の女であるよりほかにない女が見る中年の女の(クドい)見る夢のリアルがてんこ盛りに詰まっている。

まあ、とにかく観るべし。
自分の生きる時代の波に翻弄されつつ、その波の中で生きるリアルをこれほどテレビドラマのエンタテインメントで描ききるとは。
女性必見、福島県民必見、描かれていないけれど、福島県の浜通りの人々が受けてきた棄民の歴史にも(ちょっとだけ)触れつつ、声高な復興など無縁な、生きてコトバを取り戻す小さなプロセスが積み重ねられている。

原作の漫画を友人から勧められて読み、号泣した記憶がかすかにのこっている。
今回もイッキ見するうち何度か泣いた。

びっくりしたのは、
映画『ジョゼと虎と魚たち』で原作:田辺聖子/監督:犬童一心/脚本:渡辺あや/主演:池脇千鶴(2003年のほう)
で観て以来の池脇千鶴がお目当てだったのに、実際に観てみると同僚役の江口のり子やママ役の草笛光子、それに品川徹などの脇役を観ている愉しいことといったらなかった。

40歳を迎えた独身女性の葛藤と再生というテレビドラマの軸はぶらさずに、こんな職場ある、というリアリティだけでなく、こんなオールドバーがあったらいいのに、と思わせる作品の力、役者の力は秀逸だ。

江口のり子も追っかけてみたくなった。
もちろん、池脇千鶴の「おばさん」役は驚異的。それあってこそ、全てが成立しているのだろう。
若いイケメンの俳優や可愛い女優が完全に徹底的に脇役なのも爽快だ。
唐突に、
『デブラウィンガーを探して』(ドキュメンタリー)
を思い出した。

20年経って、日本のドラマにはこんな作品が生まれましたよ、と言ってみたくなる、そんな素敵な作品を、一年間もほったらかしにしていたことを懺悔。

そういう意味では出会いをもたらしてくれるサブスク、恐るべしだ。

ちょっとでもアンテナに引っかかったら、ぜひ。損はさせません(払い戻しはしないけれど)。

『スパイダーマン』1・2・3を観た。

2022年01月15日 08時00分00秒 | メディア日記
サム・ライミ版のスパイダーマン3部作(昔の奴です)をイッキ見した。
今更観る必要が?
と言われてしまうかもしれないが、これはこれで面白かった。

まず感動したのは第一作目のウィレム・デフォー。あの『イングリッシュペィシェント』で知ったウィレム・デフォーが、
こんな(失礼!)グリーンゴブリンを熱演(怪演)しているとは!改めて惚れ惚れしてしまった。

アメコミ映画だから、そこを突っ込むなら観なければいいわけで、でもちょっと失笑しながらシリーズを自宅のソファで観るのも正当的な享受法だろうと思うし(^_^)

第一作の逆さまkissも懐かしかった。

『マトリックス』と一緒で、どうしても第一作が良い、と思いたくなるが、こちらの場合は『マトリックス』のような面倒な設定もないから、自己評価の低い主人公二人のグダグダ恋愛も今となっては懐かしく愛しく観られる。

よほどのことがなければ敢えて見直す必要はないと思うけど、何かの拍子に一作目をもう一度観てみようかと思った人を止める理由は、ない(笑)

U-NEXTの配信でドラマ『スイッチ』を観た。

2022年01月14日 08時00分00秒 | メディア日記
U-NEXTで配信されている、単発のスペシャルドラマ『スイッチ』を観た。


松たか子と阿部サダヲのコンビは抜群に面白い、とこれを観て思った。
共演映画『夢売る二人』も観なくちゃ!
と思わせる出来。
もちろん脚本も監督もあずかって力があるのだろうが、松たか子のファンとして悔しいほどに、相棒の阿部サダヲがピッタリくる。

松たか子は舞台を何度か観たことがあるだけで、テレビのドラマは、木村拓哉との『HERO』、それに藤田まことと『役者魂!』の2本しかみていない(いずれも大分昔のものだ)。

舞台の松たか子は存在感があって、第一声が心地よい。声を聴いていたいという女優さんはそんなに多くない。特に舞台では。

そしてテンポ、そしてセリフの切れ味、そして表情。もうステキです。

映画も観る、とひとりで約束して見終えました。

お話の内容は、

を参照のこと。
映画を観てから、また書きます。

映画 『特捜部Q Pからのメッセージ』を観た。

2022年01月13日 08時00分00秒 | メディア日記

デンマークの推理作家エーズラ・オールスンという人の特捜部Qシリーズの映画化作品。
北欧ミステリによくある、少年少女の誘拐・殺人・虐待の事件。
犯罪者とその犯罪は気分が悪くなるほど糞&闇だが、カールという心の傷を負った直情型の主人公と、シリア系難民を出自とする冷静で包容力のあるアサドの相棒関係は見どころが多い。
今回は少年・少女誘拐に、信仰に関わる対立や奇行・偏見・抑圧・狂信もからんで、切ない展開の中にも考えさせるものがある。
刑事物の定番、なのだろうが、北欧のミステリ&映画のストーリー展開における刑事の追い詰め方は、日本の刑事物の追い詰め方とは違っていて、向こうのものは主人公が精神的に病んでいたりアル中だったりすることが多い。アメリカ風のタフでハードボイルドな主人公(アル中を含む)ともまた違ったウェットさ、内面の暗部を感じさせる。

日本のそれも、刑事のトラウマは設定されていることは多いが、この主人公のように同僚から手の震えを指摘されてへこむ、みたいなことはあまりない。日本では、「症状」というより「激情・感情」の問題として描かれる傾向がありそうだ。

素材は一緒でも、描かれる傾向性が違う。それが作品の味わいの違いにもなっている気がする。

犯人が殺人を犯すディテールも、被害を受けた者たちがさらに厳しい目にあう感じは、日本のテレビドラマではたぶんあまり見ない感じだ。映画ということもあるのかもしれないが、大人の見世物、という感じがする。

時間があったら観るのは悪くないけれど、おすすめしたいものでは必ずしも、ない。

映像で観るよりは暇な休日の昼間、文庫本で別世界を楽しむのに適した一冊。

週末の夜に部屋を暗くして一人で観るのはどうかな。

 


『コンフィデンスマンJPプリンセス編』を観た。

2022年01月11日 08時00分00秒 | メディア日記
長澤まさみが好きだ。
小日向文世も好きだ。
コンゲーム系の映画も好きだ。
となれば、
『コンフィデンスマンJP』
のような作品がお気に入りになるのは必然だ。

昨夜は『コンフィデンスマンJPプリンセス編』を観た。

三浦春馬と竹内結子が出演していて「あっ!?」
となり、慌ててwikiで
『コンフィデンスマンJPロマンス編』
が映画第一弾、
『コンフィデンスマンJPプリンセス編』が第二弾

この後に2人がなくなっているという時系列を確認した。

映画は安定の面白さだ。

突っ込みどころはたくさんあるにしても、時間の巻き戻し(そこには種明かしも多く含まれるが)も分かり易い。

柴田恭兵の執事は、動かない彼を画面で見ている心地よさがあったから、良かった。
もっと違う執事もあり得ただろうけれど、違う方がいいとは思わなかった。役者が揃ってるってこともエンタメ度としては楽しさに寄与するのだね。

英雄編が観たくなった。

サブスクで観る映画はエンタメばかりだ。しかも、オタクとしてではなく、ぼんやりと浅く触れ続ける観客として。

映画の記憶と読書の記憶ではいほいろ違っているのだろう、と思う。
あるいは、読書には多少の慣れと訓練があるけれど、映画にはそういう訓練がない、ということだろうか。
いや、もちろん、映画は見れば見えるものなんですが。


日記を付ける。書く習慣を取り戻す。

2022年01月09日 08時00分00秒 | メディア日記
今までメモソフト(Evernoteやkeep、一秒メモなど)やFacebook、友人とのLINEに書き散らかしたまま収拾がつかなくなっていたものたちのうち、一つの原稿にまとめる必要があってどうしてもアップ出来ないもの以外はしばらくの間ブログに書いておこうかと思う。
誰かに読んでもらえるかどうか以前に、どこかで読んでもらえる(かもしれない)ヒトを想定しないと、書くことがまとまらないことに改めて気付いたからだ。
ちょっと前のことも含めて、しばらく1日1投稿、のペースを続けてみたい。

一つには、そうでないと観た映画や読んだ本、出会った事柄が随時引き出せる記憶として保持できなくなってきている、という懸念が出てきたから、でもある。
一旦思い出せたなら、その総体の印象や、全体の印象とかかわっている細部についてもアクセス可能だ。

記憶の質が変化(老化とも言う)してきた、ということもあるだろう。

もう一つは、今、ここでも書いた亡妻とのやり取りを書籍にしようとして半年ほど書こうとしては挫折し、近付こうとしては失敗し続けている、という現実もある。

二年半前に亡くなった彼女のことを想起する想起の種類はいくつかある。

①彼女に所属する事物に触れて彼女の欠如を思い知るタイプ
(彼女の使っていた食器や装身具など)

②彼女と共に体験したことを独りでしているとき
(例えば旅行とか料理とか)
③彼女の写真を見たとき
④彼女が書いた、あるいはしゃべったことを記録したコトバを読むとき

このうち、もっとも生々しく彼女の息遣いが感じられるのはなんといってもコトバ(④)に触れた時だ。

逆に、魂が抜けるような喪失感をリプレイさせられるのは、モノに触れた時(①)である。

エラい哲学者の言を引用するまでもない。ヒトは言葉によって難度でも人間としての関係を取り戻し、縛られ、支えられるのだ、とつくづく思う。

コトバを石に刻むように、というのとは対極の、誰に読まれるか分からないブログという形式に頼ってみようと思う。
(今時は役に立つ実用的な、あるいはエンタメに徹した、もしくは新たな表現としてInstagramやYouTubeなどがあるのだろうが、それは若い人に任せておこう)

しばらくまとまった文章を書いていなかったリハビリも兼ねて。

万が一、読んでも良い、という奇特な方がいらっしゃったら、望外の喜びです(笑)




漫才「オズワルド」が面白い。

2022年01月07日 12時01分36秒 | メディア日記
M-1で優勝を逃した、と話題の「オズワルド」がおもしろい。


賞レースに若手の漫才師の人たちがこだわるのもそうだろうな、とは思う。実際私も2021年のM-1の決勝番組で「オズワルド」を初めて意識したのだから、なるほどM-1の効用は大きい。

しかし、「オズワルド」の面白さはちょっと他の人とは別次元だったと思う。
特に決勝の一発目のネタ、「友達」はやはり歴史的傑作かと思う。

「サンドイッチマン」も「ミルクボーイ」も、安心して身を任せられるという意味ではとても素晴らしい。
コント「空気階段」のテイストもスゴいと思う。

だが、マイクの前から動かず、小さな糸口からシュールな世界を展開する畑中と、突っ込みながら飲み込まれていく伊藤の絶妙なバランスは、比類ない手練れ、との印象を持つ。
もとよりお笑いの良い受け手ではないし、「ラーメンズ」「ポイズンガールバンド」(活動休止中ときく)「笑い飯」など、大きな笑いよりはシュールな世界観に惹かれる方なので、一般的にどうなのかは分からない。

しかし「オズワルド」はスゴいと思う。
YouTubeで「オズワルド」と検索するとかなりの数のネタが観られます。よろしかったら。


「ゴシップ」見始めてしまった黒木華の連ドラ

2022年01月06日 23時41分00秒 | メディア日記
2022年1月6日から始まったフジテレビ系の連ドラ
『ゴシップ』(黒木華主演)
(内容はHP参照のこと)

を見始めてしまった。まずい。見続けてしまいそうだ。
黒木華という女優を真面目に観たことがなかったのだが、今回の

「空気を読まない」

キャラが楽しい。

そして、捜していた証拠を発見したときの表情

「みぃーつけた!」

がちよっとコワくて萌える。

斜陽な出版業界のそのなかでも採算のとれないWEBニュース部門の廃部or建て直しという物語の枠組みは、今をうつすフレームとしても好適だろう。


特にオススメしなくてもいいとは思うが、自分は観ていたい種類の女優さん、というか演技だ。



『フロイト入門』妙木浩之を2022年の初めに読む。

2022年01月05日 11時30分00秒 | メディア日記


最近物忘れがひどく、読んだ本の題名も中身もきれいに忘れてしまうということがあるので、干からびたブログに水遣りをするぐらいの積もりで、メディア日記を書いていこうと思う。
まず第一冊目。

年の始め、ちくま新書の
『フロイト入門』妙木浩之
を読んだ。

フロイトについてのスキャンダラスな出来事、新たに分かった史実、家族や弟子との葛藤に満ちた関係etc.

人間フロイトを観ることが、精神分析のフロイトを入門しなおすことになる、という感じの本。

興味深い。


弟子との関係は特に各説の早わかりとしても便利。どこから読んでも面白い。フロイト全集を古本屋で購入したこともあるので、今年は改めて少し覗いてみようかと思っている。



アニメ『王様ランキング』をサブスクでイッキ見。

2022年01月03日 11時06分00秒 | メディア日記
『王様ランキング』のアニメをサブスクでイッキ見した。
(作品については以下のサイトを参照。

面白い。一見童話、というか絵本的なキャラクターに見えて、漫画らしい仲間を作っていく成長物語にもなっているし、内面的葛藤もキャラクター毎に適切配分されているし、今時の作品らしくテンポも速い。

息子に聴いたところ、作者は中年の挫折組で、40歳過ぎてからネットでバズったところから、の逆転勝利作品、とのこと。

お話の枠組みは、全く無力で誰よりも弱く耳が聞こえず口も利けない主人公の王子が、父親の遺言では次の王になるはすだったのに、諸々の思惑が重なって王位に就くことができずに暗殺の危機を乗り越えて落ち延びるという典型的な貴種流離譚の結構だが、一人一人のキャラクターに付与された荷物、というか強いられた宿命のようなものが簡潔にしかもキチンと書き分けられているのがすばらしい。

思えば『鬼滅の刃』もそうだったが、それぞれのキャラクターが抱える各々の物語を蔑ろにすることなく、メタ的な解釈をするのではなくてそれらの物語をキチンと束ねて言ってくれる「無力さ」の秘密(別に隠されてはいないが)がここにもある。
隠された物語が明らかにされる、必要はない。それは一つのカタルシスに過ぎない。
今も求められているのは
「たった一つの冴えたやり方」
ではないのだ、と改めて思わせてくれる一作。

マンガについては『ゴールデンカムイ』を読むべくまんが喫茶に籠もらねばならないのだが、その前に、らねばならないことがあるので、そのやらねばならない原稿の代わりに、サブスク映像逃避をしている。

しかし、面白かった。
お暇なら観ておいて良いかもー


『マトリックス』1~3をサブスクでイッキ見した感想

2022年01月02日 10時46分00秒 | メディア日記
『マトリックス』をシリーズ三巻イッキ見した。最近サブスク沼にはまっているのでなにでみたか判然としないが、多分Netflix。

第一作目は文句なしに何度観てもスゴいと思う。仮想世界と現実世界を往復しつつ、あの世ではなくこの世に幸せをもたらす救世主の覚醒を描く。皆さんご存知の傑作に贅言は不要だろう。
「ケータイで連絡が取れるのになぜ電話?!」
と突っ込みながらも、夢の中でなんとか自己=世界の崩壊を防ごうとする絶望的な恐怖や、うつせ身を宇宙船に置いたまま、仮想世界の死はそのまま現実世界の死につながり、しかも現実世界の生身歯無防備な無意識状態にあるなどのジレンマをここまで見事に映像化していることに改めて感嘆する。

つまり、普通ファンタジーは虚構の世界で空を飛んだり最強になったりするが、私たちの現実世界こそが虚構だ、とすることで、怪獣も魔法も出さずに実写化することが可能になっている。
他方、リアルに気持ち悪い世界(例えばエイリアン)の描写も、リアル世界という設定になっているからこそ気持ち悪さがこちらに迫ってくる。

いろいろね意味で凄かったのだなあ、と思う。

2と3は、袋小路になった「哲学」とお金をかけた「アクション」の二分法でお話が進行するから、これはこれでサービスとしてはあり、ではあるにしても、一本目の仮想-現実の繰り返される往復と反転のわくわくには及ばない。
さらっと復習するのが吉かも。


映画『偶然と想像』を観た。

2022年01月01日 10時28分00秒 | メディア日記
年末(2021年12月29日)、友人の退職祝い兼忘年会兼編集会議で福島に行った帰り、時間が会ったので
友人に勧められていた映画
『偶然と想像』を観た。
メチャクチャ面白かった。

映画の内容は下記を観てもらうといい。
監督が最初に登場して、舞台挨拶さながら客席に語りかけるのも楽しかった。
40分前後の短い独立した映画が三本「偶然と想像」という題の下に映されていくのだが、一番びっくりしたのは、映画の中身ではなく、極めて個人的な体験のことだ。

(誰でもするように)映画館を出て車に戻るまで歩きながら内容や印象を反芻する。いつものようにそれをしよう思って映画館の階段を下りはじめたとき、

「あれ?」
と思ったきり、固まってしまった。

二本目の映画の内容が全く思い出せないのだ。

一本目の三角関係めいた話は覚えている。三本目の女性二人の同窓会ネタも大丈夫。ところが、二本目の内容が分からない。

余りにキレイさっぱり抜け落ちているので、だんどん怖くなり、答え合わせのために映画館に戻ってパンフレットを買い、しかしそれを開かないままもう一度最初から思い出そうとしてみた。

だめだ……。

なんとしても思い出せない。

一本目のラストシーン、工事中の都会のビル街は思い出す。

三本目の始まり、仙台駅前のシーンも分かる。
なぜ間の二本目の記憶だけ、まるごと消えているのだろうか。

周りの人にこれを言うと「老化」「痴呆」「認知症」と決めつけられてしまいかねない、このまま思い出さなかったら病院にいかなきゃならない、など、余計ななことが頭を過り、かえって思い出せなくなる。

この後すぐに思い出せばネタ(笑い話)になるかもしれない。だが、パンフレットとかサイトを観るまで思い出さなかったら、自分自身にとって洒落にならない。

たった今、数10分前に観た映画なのだ。その前も後も分かるのに、と思うだけでだんだん背筋が寒くなってくる。

歩く速度を緩めて、念力を使うように全身全霊で思い出そうとする。
横断歩道の信号待ちで、うなり声をだしそうになるほど苦悶していると、金属でできた卵のようにツルツルして手がかりのないその記憶の塊の表面に、糸屑の綻びのようなものの手応えが見えた。
それを触って引っ張ろうとするがなかなか糸の先が掴めない。そうイメージしているうちは記憶の内容が全くこちら側には流出してこないのだ。信号が青になる。歩き出す。
あ、と思ったら……思い出しました。

エロい本を朗読する女性の情景が。
(内容は本編をご覧ください)

いやー、マジで焦りました。
人生の中で記憶に絡む「バグ」は何度か経験していて、その多くは
「運転中に、今走っている道路についての見当識を失う」
というもの。
平たく言うと、
「今どこの道路をはしっていて、道路の先がどうなっているかわからず、だから目的地へ向かう手順もそこ方向も全くわからなくなってしまう」
というもの。

知らない道を走っていれば同じ状態じゃないかって?
そうではないのです。それはあたかも分からないものの中に放り込まれた恐怖とでもいうか、走っている車の速度についていけないぐらいのパニックなのです。

今回のものはそれとはすこし種類が違っていました。

この短編三部作のパワー、つまり
全く異なった想像力を観るものに強いてきて、それを切断しつつ繋いでいく力、にやられたのかもしれません。

もしかすると、普段からこういう忘却を経験しているのかもしれなくて、この作品の「偶然」と「想像」と「切断」が、むしろ普段なら抑圧してしまうような「切断」=忘却を、表層に浮かび上がらせたのかも?

そんなことを思ってしまいました。

おもいだしてよかった、ですけど。

できればぜひ、映画館の暗闇でご賞味あれ。


シラス(ゲンロンの配信プラットフォーム)に登録してみた。

2020年12月15日 21時20分51秒 | メディア日記
シラスに登録してみた。

詳細は
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000012.000034496.html

東浩紀が作った(現在代表はは別)ゲンロンによる生中継、「ゲンロン完全中継チャンネル」の配信コンテンツとして「シラス」が誕生した。
1本800円(税別)で3h~の対談や鼎談の中継を観ることができ、終了後も半年間は自由に繰り返し視聴できる。
月額見放題は「ゲンロン完全中継チャンネル」については6,000円(税別)

高いか安いか受け取る人によるのだろう。
こんなことを言うとしゃらくさい話、といわれるのかもしれないが、私個人としては高くない、という印象だ。

比較が適切かどうか分からないが、都心のカルチャーセンター(朝カルなど)でも、それこそゲンロンカフェのトークイベントでも、1回数千円はかかる。田舎から交通費と時間をかけて出ていてイベントに参加すれば、1回10,000円は下らない。
地元で読書会(カフェロゴ)の読書会に参加したり、エチカ福島というイベントを開催したりとかしてもいるが、なかなか気軽にこういったコンテンツに触れるのは難しい。ましてやこのコロナ禍ではなおさらだ。

そんな中で、1本800円で人文系トークコンテンツを視ることができるのは結構ありがたいと思う。月6,000円も高くはない。
今までのことを考えれば、2本視聴すれば十分元が取れる計算になる。

そして結構大事なのは、自分だけで考えていては得られない視点や課題の切り口をいくつも見せてもらえる点だ。
100万人~1000万人単位のマスを対象としたテレビのコンテンツでもなく、都心に行かなければ触れられないイベントでもなく、こういうプラットフォームで「文化的」にコアなトークコンテンツが配信されていくのは歓迎したい。

たとえば、今日視聴した
飯田泰之×井上智洋「経済学は格差をどのように捉えてきたかーーコロナショックとこれからの世界経済」(2020年11月24日放送)
では、「格差」の問題を経済学の側から見るとどうなるかという話をたっぷりと聞くことができた。
先日読んだ
『時間かせぎの資本主義』W・シュトレーク
は、現代資本主義の課題についての事情をよく整理してくれている好著だと(素人としては)感じていたものの、二人の経済学者のトークで改めて「格差」について論じているのを聞いていると、そうか、そういうことだったのか、と腑に落ちることが多くなる。
一人で本を読むのも面白いが、その上で話を聞くともっと面白くなる。

また、一昨日視聴した
伊藤剛×斎藤環×さやわか「『鬼滅の刃』と少年マンガの新情勢――竈門炭治郎の優しさと強さが伝えるもの」
は、典型的な「流行り物」についてのヲタクな議論満載だったけれど、居酒屋でものをよく知った友人の話を聴きながら酒飲みをしつつときに突っ込みを入れる愉しさが味わえたような気がした。

さらに、先週視聴した
國分功一郎×東浩紀「哲学にとって愚かさとはなにか――原子力と中動態をめぐって」【『ゲンロン11』刊行記念】
でも、國分さんの関心である責任の話(そして近著である『責任の生成』で展開される欲望形成支援の話)と東さんの関心である動物的な悪とが交差するところで議論が展開していくのがとても面白かった。

1ヶ月にこれだけのコンテンツを味わえれば、得をした気分になれる。
有料にこだわった、という東浩紀の姿勢に共感すると同時に、これを実現したその「力」に敬意を表しておきたい。
あとはこれが「人文系」の発信を支えるプラットフォームとして(それなりの期間)機能してくれることを祈りたい。
複数のカテゴリーが立ち上がった時に、それをフォローするお金の余裕はないから、単発で購入することになるのか、チャンネルを選んで定期視聴することになるのか分からないけれど、Netflixの4倍お金を払っても、それだけの価値は(私にとっては)あると感じた。

ぜひ、続けてほしいと願う。

かつて井上光晴が『文学伝習所』を全国に作り、同人誌の合評をしたり小説の添削をしたり、文学論講義をしながら日本中を駆け回っていたことを思い出す。文壇の友人には「そんな暇があるなら小説を書け」と言われたり「文学が伝習できるのか」と揶揄されたりもしたと聞く。しかし、自分の手で自分の顧客を開拓し、教育し、掴んでいくというその姿勢を考えるとき、シラスとは違うけれど、人文系の文化資産を再生産していくシステムを構築しようとしているという点では、響き合うものがあるかもしれない、とも感じる。
「文化資産」もまた、決して無料で手に入るというものではない。自分がどんなスキルを持ち、どんな文化的関心を持ち、どんな形の「より良き生」を求めていくのかによって、求めるものも異なり、そのコストも違うだろうけれど、いずれにしても、人文系の文化資産を豊かにしてくれる場所、基盤の可能性を、今はこのシラスに見いだしてみたいと思う。

ただ、ばとりとめなく考えると「塾」のような形式なら、例えば中島義道、松岡正剛、内田樹(かれは道場、ですかね)、丸山健二など、を思い出す。
そういうものよりはシラスはもう少し通りに面して開かれたサロンに近いのだろう。

そこもいい。

サロンの談論に耳を傾けた後、自分の場所に戻ってさてではどうする?と考え、また動くのはそれもまた楽しい。
コロナ禍が一段落しないと、動きだすのは大変だが。

7年ほど続けてきた自分たちの(ささやかな)活動も、一昨日、今年度はイベントを開催しないと話し合って決定した。
居酒屋で友人としゃべりにくくなったのも辛いが、まあ仕方がない。

今は書斎で、あるいは職場の片隅でシラスを聞きながらいろんな視点やアイディアをもらっておこうと思う。
図書館に籠もって本を渉猟するのもまたよし、だ。