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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

岩波文庫『ゲーデル 不完全性定理』を一応読了。

2020年01月23日 03時31分21秒 | メディア日記
頑張ってページを繰ったが、数式の部分はまあ分からない。

ただ、この本はゲーデルの不完全性定理が、ヒルベルトという数学者の業績というか仕事の上に出てきたものであり、そこで証明された不完全性は、昼ベルトの「数学論」というか数学的認識論にとってはある部分で致命的だったかもしれないけれど、それは「数学」がダメージを受けたみたいな話ではないよ、ということを教わった気がする(笑)。
むしろ、ヒルベルトという人がやろうとしたことは、その数学基礎論の完成みたいな本人の目標とは別のところで、「生産的」な意義をもっていた、というお話になる、らしい(笑)

「数学」
と一口で簡単に言い表すことのできる一つの「実体」があるわけではなく、むしろ数学者の様々な営為の「標準性」と「生産性」が「数学」の領域を実質的にこのあたり、と指し示しているような印象(読後感)を持った。

それって、「哲学」なんて抽象的なものはないし、「哲学」自体を誰かが完全に基礎づけることは不可能だけど、その営みや努力は新たな哲学を「生産」していくのかもしれない、みたいなことと他人のそら似ぐらいにはにているような気もした。

歴史って、人間がモノを考えるときには重要なんだな。たとえそれが数学のようなものであっても。
無論理解はしきっていないけれど、かなり勉強になりました。

岩波文庫『ゲーデル 不完全性定理』林晋/八杉満利子訳・解説

2020年01月22日 16時03分40秒 | メディア日記
あの熱狂はなんだったんだろう、とふと思う事柄は、年齢を経るに従って増えていく。
ゲーデルもアラン・ソーカルもそんなことを思わせる名前だ。

今回のこの本は、有名なゲーデルの不完全性定理について、ヒルベルトの数学論にたいする応答、と捉えてその数学史的な意義を捉え直してくれている一冊だ。
素人にとってはとても有り難い本だった。
私が若い頃、ゲーデルが話題になったことがあって、あの時の印象は、極めてざっくりと
「数学的には証明できないことがあるって証明されたんだって!?」
というものだった。

この本によれば、それは、実際には20世紀前半のヒルベルトという有名な(名前だけは聞いたことがある)数学者の数学論についての応答であって、だから
ゲーデルの「不完全性定理」は、数学的(数学ってどこにあるんだ?という問いは哲学ってどこにあるんだ?という問いと似てるね)不完全性定理(整数論)ではなく、ヒルベルトが数学を基礎づけようとした営みとしての数学論が不完全性だと証明したにすぎない……という、当たり前と言えば当たり前の話。

しかも、ゲーデルはヒルベルトの(数学を形式系としてとらえる)考え方自体の不可能性を証明したつもりはなかったのだとも。

改めて興味が湧いてきた。
数式を理解しようとは思わないけれど、証明と逆説(パラドックス)の関係には惹かれる。

図書館から本を借りると「出会い」が多くなって嬉しい限りだ。数学基礎論の話なんて買っては読まないもんねえ、なかなか。
かつてゲーデルの「不完全性定理」に興味のあった人には圧倒的にお勧めです。



『なめらかな世界と、その敵』は圧倒的な傑作短編集だ。

2020年01月22日 15時42分03秒 | メディア日記
今四編目に突入したところだかが、もはや私の上半期ベストに推していいのではないか、というほどの傑作短編集だ。
一編一編の面白さはもちろんだし、それは読めばほぼ必ず(SF好きなら)分かると思う。

すごいのはこの作者、伴名練が、SF的描写を私たち自身の生きる「環境世界」として描き切っていてしかもその中に、よりよく生きる私たち自身の生を泳がせていくその筆致だ。

SFなんだから現実世界と異なる設定があって!その中で生きる人間を描くのは当たり前だろう、と言われてしまうだろう。
それを承知で反論するなら、その反論は事実の指摘に過ぎない、言っておこう。
ここにあるのは生きられてしまっている私たち自身の経験が賭けられている、その「価値」がSFとして描かれているのだと。それは決してどんな新奇な設定があるのか!というだけの話ではない。
ハードSFにはかつてそういうモノがあった。また他方、設定は空想的だが人間的葛藤の描写はスゴい、という作品も多くある。

そうじゃなくてね。

(腰巻き惹句にもそれに近いコトバが書かれてあるが)SFへの愛が全編に満ち溢れているのだ。

ああ!そう言ってしまうとマニア的な道具立てへのフェティッシュな「愛」を想像されてしまうなあ。

SFはそれ自体が「経験」であり得るのだ、と、この短編集を読むと納得できる。

未読の方は直ちに本屋さんへ。

読み始めた『なめらかな世界と、その敵』伴名練

2020年01月21日 20時47分37秒 | メディア日記
本を読み始めるのは簡単だ。最初のページを開けばよい。
しかし読み終えるのは容易ではない(笑)
まあ、最後までページをめくったからと言って読み終えたことにならない本もあるけれど。
というわけで、読み差しの本がたくさんあるのに、あまりにも面白そうで借りてきてしまった
『なめらかな世界と、その敵』
これから読みます。
なんだか、数ページ読んだだけで頭の関節が外されそう……。これは評判通りの手応え、かな?

読み始めた『ひらがな日本美術史』はまずもって日本の宗教の話

2020年01月20日 20時32分29秒 | メディア日記




読み始めた
橋本治『ひらがな日本美術史』
は、まずもって日本の宗教(仏教美術)からの話だった。今日はなんと宗教づいている日なのだろうか。

縄文土器には神様というか宗教的なものがあるけど、埴輪にはそーゆーものはなくて、子どものように平和だって指摘にはちょっとびっくり。
弥生では政治は誰かがやってくれるから、庶民は平和になったんだね、ってのはさすが橋本治っぽい。つい加藤周一を並べて考えちゃう。日本文化は「此岸的」だ、という加藤の指摘と、この、弥生の埴輪分析とは、橋本ひねりがくわわっているけれど、どこかで関連しているように思う。

この先神道の話や源氏物語の話と、先を読んでいかないとまだわからないけれど。

しずれにしても一筋縄ではいきませんね、橋本治ワールドは。


今日は読み出すばかりで読み終わらないが

2020年01月20日 16時45分50秒 | メディア日記
繋がってしまうのだからしかたがない。本日
『〈日本哲学〉入門講座 西田幾多郎と和辻哲郎』
にまで手をかけてしまった。

取りあえず図書館から借りていて読まねばならないのは
『浄土系思想論』鈴木大拙
『宗教的経験の諸相』W.ジェイムズ
二冊なのだが、どうしても読書は同時展開になりがちだ。
1/24(木)までに取りあえずこの二冊にメドをつけねば……。

『一時間でわかる西洋美術史』宮下規久朗の使い方

2020年01月20日 15時52分21秒 | メディア日記
年末に読んだ『絵を見る技術』秋田早麻子はとても面白かった。

だが、今本棚を整理していて出てきたこの本、
『一時間でわかる西洋美術史』宮下規久朗(宝島新書)
も極めて便利だ。約15 分で通読できた。それはつまり、どこかで断片的にきいたことのある時代区分、絵画のカテゴリーや技法、作者などの知識をキレイに流し込んでくれる本だからだ。

一枚一枚の絵と向き合うには
『絵を見る技術』
が役に立つ、というか必須アイテムだ。
他方!今まで見聞きしてきた体験の整理には
『一時間でわかる西洋美術史』
が圧倒的に便利である。
どちらも間違いなく素人の役に立つと思います。

『正法眼蔵随聞記』を読み出す。

2020年01月20日 14時26分17秒 | メディア日記
道元の言行を書き留めた弟子の懐弉が書き留めたとされる本、『正法眼蔵随聞記』を読み始めた。
これは読み終わることのない本だろうが、色々興味深い。

例えば、

岩波文庫版P31「たとひ、発病して死すべくとも、なほただこれを修くべし病ひ無ふして修せずらこの身をいたはり用ひてなんの用ぞ。病ひして死せば本意なり」

とかいう過激さはとてもついていけないしやりたいとも思わないが、ある種の「清々しさ」すら覚える。

あるいは、師匠は弟子が座禅で寝ていたらぶん殴って拳が折れるほど戒める、それを自分の権力行使の為でなく行うことをよくよく思慮せよ、といったところもビビビびっくりだし、それが「私的な権力行使」にならない保証がどこにあるんだよー、と突っ込みどころ満載なのだが、にもかかわらず、そうか、道元さん、道とはそう言うものか、と納得する。

さらに、訴訟のために一筆書き書いてもらいたい、という人がいたら、厭わずに書いてやることだ、、というのもちょっとビックリだった。世捨て人はそーゆーことに関わらないのかと普通思うところだが、あくまで優しく接してやれ、とのこと。ただ、無理難題を依頼者が言っているときは、その以降を汲んだ上でなお「適切に処理されたい」と書くことも忘れずに、と付け加える。

この厳しさと慈悲の振れ幅が、読んでいてちょっと愉しくなってくるのだ。
修行僧への師匠の鉄拳制裁は、ある種の極端な事例(何せ弟子も支障も世を捨てて修行してる身の上ですからね)であって、なんちゃらヨットスクールとかどこぞの社長さんとか、能力開発講座とかにそのままこの精神を流用されちゃあかなわない。

修行における外化された他者の有り様を、どう描くか、というのは常に大きな課題だろうし、「只管打坐」的禅宗では、修行においてはこーゆーことにもなるって話なのでもあろう。
とてもベタでは読めないが、ネタとしてはいろいろ興味は尽きない。

子猫を奪い合う者に対して師匠が猫を一刀両断するって法話もメチャクチャだし、猫好きはこれだけで禅宗嫌いになるかもしれないけれど、その故事についての道元の答えもふるっている。
一刀両断ではなく、一刀一段であるべきで、猫をぶった切った高僧は、いくら仏法の教えとはいえやっぱり罪を背負ってるよね、と道元は解説している。

「変な理屈捏ねてんじゃねえぞ!座禅だ座禅だおらおらー」

というばかりではなく、夜の講話でこういうことも話してくれるお坊さんはいいな。

ある意味、論語とかプラトンのソクラテス系の話とかと似ている対話編だよね。
厳しくて、「ナンジャコリャ?」とも思うけれど、興味深くもある。
まだ第一(第六まである)しか読了していないけど、十分に面白い。
自分は絶対禅の修行僧になろうと思わないけれど、このテキストを読むのは、あり。
興味深いです。

ただ、木田元かな、解説で書いてある、道元が徹底して拒否した「方便」を駆使している側の宗派のテキストも(もしあるなら)読んでみたい。ただ、そっち系はテキストそのものが「方便of方便」になりかねず、タイトかつソリッドに書いてはくれなそうで、「はてな??」になってしまいかねないかも、だね。

何に膝を屈するのか、何を絶対的な精神の柱とするのか、そんなことを考えてしまう。
そこで、道元が言う「行履」の重要性を思う。
師匠が弟子をただ殴ったら暴行だ。今の世の中なら単なる犯罪にすぎない。
ただ、「先達の行履(あんり=禅僧の日常一切の起居動作)」を重視しつつ修行に励む、という方向性に、理屈だけではない「コモンセンスセンサー」のようなモノを感じもするのだ。

どのみち一筋縄ではいかない道元だし、随聞記は随聞に過ぎないともいえよう。家中で曹洞宗を抜けて無宗門になった我が家としては、いまや無関係でもあるし、厳しい修行などチャンチャラおかしい、とも思う。

でも、そのストイックな姿勢は何か傍らに一度立ってみて、
P25「コモンセンス傍ら事を云ふやうにしてこしら」えてみる異議はあるかも。

関心のある方にはオススメです。でも、こういうのを座右の銘にされて部下に語るような人にはよんでほしくないけどね。

ストイシズムは所詮自らに課する(戯れのもしくは演技の)強制でなければならない。


読み差しになっていた『宗教的経験の諸相』上下を再開!

2020年01月18日 18時19分59秒 | メディア日記
年末年始、とりまぎれて途中になっていたW.ジェイムズの『宗教的経験の諸相』上下巻を、夕方から読み出す。

『プラグマティズム』
が主著なのかもしないし、「心理学」のフィールドの人なのかもしれないが、手に取ったこちらの本(講義録)が手になじんだのでまずはこれから。
多分手になじんだのは、特別に新しい知見がほしかったからではなく、むしろ今自分の求めているものが「常識」に近いものであり、この人の書き込みぶりが「常識」に近く心安く読めそうな気がしたからだろうと思う。とは言え「宗教的経験」である。興味はあるが信仰を持たない自分にどれだけ読めるのか。

あり得べき「常識」を読み解く、というほどのスタンスで再度挑戦。
宗教的経験を今常識の範囲内で考えることは、(少なくても私個人にとって)とても重要なことだ。

読了『千畝の記憶』

2020年01月18日 17時19分21秒 | メディア日記
エチカ福島に参加してくださっている方が杉原千畝と同僚だったことがある、と教えてもらい、エピソードをいろいろ伺っていた。
今度!その知人のインタビューを含む本が出版されたというので早速取り寄せて読んだ。

杉原千畝の生い立ちから仕事ぶり、ビザ発給のドラマチックな業績、地元の顕彰などが書かれていて興味深かった。

個人的にはその中でも、戦後の不遇な時期の杉原千畝の様子に胸が打たれた。

ある種の「善」あるいは「正義」は、必ずしもその実現を私たちに知らされないままになることがあり、そしてそれを為した人もまた、そのことを知られないままに生き、死んでいく、ということ。
心に染みる。

また、最終章、現代の難民の記述は、新聞社のお仕事としてありがたく読ませてもらった。

この本のメッセージを受け取って、さてどうするか?

『十二国記』の新作四冊、読了!

2020年01月18日 17時04分23秒 | メディア日記
『十二国記』の新作『白銀の墟 玄の月』四巻本を読了。
年末年始の仕事を終えた気分だ。
昨日夜中に読み終わったため、なかなか寝付けずに参った。

中身について言うと無論文句なしに面白いのだが、解説子も指摘していたとおり、十二国記の世界観そのものの物語、というに近い。
失われた「王」の探索にしては長すぎる。道を見失った「偽王」の物語というには物足りない。

むしろ失われた「王」とその「道」および「失道」をめぐる庶民、兵士、将校、宗教者、官僚etc.様々な国の人々の想いに焦点が当てられ、丁寧に描かれている。

だかや今回は王の物語、というより「麒麟と王」というシステムの物語、という感じもする。
麒麟のシステムに馴染んでいる十二国記ファンには泣ける話です。
初心者は、これを、読む前にぜひシリーズを読破してほしいと思うなあ。

ここに描かれているもっとも特徴的なことの一つは、限りある「天命」のただ中で懸命に生きる者たちを時には愛おしく時には冷酷に描く小野不由美の筆致。それが主題の一つなんだろうという印象。
よくもまあ20年近い時を経て続編を書いてくれたものだ。
作者に感謝すると同時に、オレの人生が終わるまでには完結しないんだろうな、とも思うと、ちと切ない(笑)




十二国記『白銀の墟 玄の月』3巻目に入る!

2020年01月15日 16時26分07秒 | メディア日記
2巻目の後半まできて、今までの作品とは物語の性質が大きく異なっているのに漸く気づかされる。
単に、謀反によって傷つき落ちぶれ身を隠ている王のことを家臣が探す話というばかりではなく(それが物語の主要エンジンてあることはたしかなのだが)、それがもっと大きな物語の「伽藍」の一部に過ぎない(のかもしれない)、と知らされていく面白さを、いま味わっている。
これから伏線の回収にかかる後半、となるのだろうが、語られるのは単なる貴種=王の流離の話でもなければ、隠れた王=聖杯を探す話でもない。
話の主人公は、国か摂理か。
そこに絡む麒麟というものの設定がこれほどおもしろい話に広がるとは正直思ってもみなかった。
20年かけて(時を隔てつつ)これを書く小野不由美の脳みその中を一度観てみたいと思う。
さて、後半を読み進めねば!

いよいよ読み出す『白銀の墟 玄の月』小野不由美

2020年01月13日 17時04分54秒 | メディア日記
年末から読もう読もうと思っていた『十二国記』の新刊
『白銀の墟 玄の月』(全4冊)
にようやく手を着けた。
読み始めるための準備に1ヶ月余りかかった勘定になる。

だが、小野不由美の代表作であり、日本のファンタジーの代表作の一つでもある『十二国記』のシリーズは、短編を含めても16年以上前から新刊が出ていない。
だからシリーズ最新刊がでたからといって直ぐには読み始めることが出来ない。

個別のエピソードを描いた短編なら別だが、シリーズ本編、さかも最大の四冊ボリューム、となれば、この新刊を読むためにはまず既刊本10冊以上を復習しなければならない、ということになる。
これは古くからの『十二国記』ファンの多くが肯いてくれるはずだ。実際周りにいる多くの読者は本棚の奥を探しあるいは図書館に行き(あろうことか図書館では友人のひとりと鉢合わせまでした)、旧作の読み直しを「強いられた」のだ(笑)

私自身は20年も前に妻に渡したきりだったので、違う家に住む今となっては改めて調達するしかない。退職後の身にとって一度読んだ本を買うのはしんどい。図書館を探し回ってようゆく一セット発見し、読み始めた。
一旦巻を開けばグイグイ読者を引き込む力はスゴい。
前日譚の『魔性の子』を含めて1日1.5冊ぐらいのペースでシリーズ本編の長編は読み終えたのだが、不思議なことに残りの短編集二冊にたどり着いて、パタリと読む手が止まってしまった。
その理由はまだわからない。ただ既刊をコンプリートしてから次にいきたいと思うが故に、身動きがとれないまま年末年始を過ごしてしまった。
年の始めから別の本を数冊読んでいるうちにようやく「短編集2冊(『華胥の夢』と『丕緒の鳥』)は後回しでもいいか、と思い直し、今日の午後から読み出した。
今度は夜寝られるのかどうかが心配になる。

人騒がせだかうれしい限りの新刊四冊。ここまで来たからには読者である私の寿命が尽きぬうちになんとかシリーズ完結編まで読みたいものだが……。
というわけで、読みます!
万が一小野不由美の『十二国記』シリーズ未読の方がいらっしゃいましたら、とにかくぜひ、とオススメしておきます。
『空色勾玉』の荻原規子、『獣の奏者』の上橋菜穂子と並んで、お勧めできる日本のファンタジー作家です。
『稲荷山戦記』のたつみや章も大好きですけどね。

あとはやっぱり日本のファンタジーといえば『光車よ、まわれ!』天沢退二郎ですかねえ。


長尾龍一『リヴァイアサン』を読む

2020年01月13日 13時03分04秒 | メディア日記
25年前出版された講談社学術文庫の
『リヴァイアサン』長尾龍一
を読んだ。とても面白かった。20世紀前半のドイツにおける
ヨハン・ケルゼン
カール・シュミット
の2人についてその法律論および国家論を、それぞれのホッブズ受容を比較検討しながら考察していく一冊。
今年読む予定の
ホッブズ『リヴァイアサン』
に取り掛かる準備運動としては好適な文庫本だった。

マルキシズムとナチズムを眼前に踏まえつつ、アナーキズムとカトリシズムを縦軸に置き、「自然状態」、「自然法」、「擬制的」な国家・神の人格、などなど、基本的なものの見方に触れつつ説明を展開してくれている本で、非常に勉強になった。レオ・シュトラウスとの距離、ルソーの「取り上げ方」、スピノザの「ダメさ」の扱い、また、ケルゼンとシュミットの二人に限らずホッブズが歴史的にどう受容されてきたか、などなどの整理もあって、国家論に興味がある素人にとってはとても得るものが多かった。

勝手なことをいわせてもらえば、最終的な著者の主張は正直チャンチヤラおかしいという感じはする。だが、そんなことは大した問題ではない。
この本を読んでみると学問って、その人の主張が問題じゃないんだということが少しだけ分かってきた感じだ。
もう一度國分さんの『近代政治哲学』をおさらいしてからホッブズにチャレンジしてみようかな。

今年三冊目『シーオグの祈り』ジェイムズ・ヘネガン

2020年01月07日 16時59分08秒 | メディア日記
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大傑作というわけではないけど、村や街の匂いのするステキなお話。
タイムスリップは、少年が人々に出会うための方策(ジャンル)と見ればいいでしょう。

むしろこの作品の面白さの大きなウェイトを占めているのは、孤児の主人公がリヴァプールで繰り広げる里親や社会福祉事務所とのやりとりと、タイムスリップした先で出会う100年前のアイルランドでの「家族」との対比を読む楽しさ、だろう。
そのことさえ受け入れられれば、かなり「読める」んじゃないかな。
結末が二種類あるらしいけれど、私はこの初版形で全然問題なし、だと思う。だってYA(ヤングアダルト)は物語であって、「こういうお話だよ」ってことを共有できることが必要なんだもの。これは仕掛けとして十分共有できると思うな。
読むモノに迷って、YA本が嫌いじゃなければ手にとっていい一冊。