今日は1980年代にツール・ド・フランスで2勝を上げるなど活躍した自転車選手ローラン・フィニョンが癌で亡くなって49日である。(Laurent Fignon 1960-2010 享年50歳)
私はこのフィニョンの大ファンでブログのドメイン名にも使わせてもらっている。思うに、フィニョンほど個性的だったスポーツ選手はそうはいないのではないだろうか?
まずは、そのルックス。金髪のポニー・テールにメタルフレームの眼鏡というルックスは「プロフェッサー」と呼ばれたように、とてもスポーツ選手には思えない知的なものだった。そのルックスどおり、フィニョンはパリ大学で学び、古本屋巡りが趣味。ルックスだけではなく実生活も知的だった訳だ。
ルックスだけでなく、レースの内外で見せる自己中心的な行動、発言の数々もまた個性的。自分の勝利の為に89年の世界選手権で先行する自国のクラベローラの逃げを潰したのを始め、その自己中心的な走りは様々な非難を浴びた。また、マスコミ嫌いで有名で、しつこく迫るカメラマンに対して唾を吐きつける始末。まさに、意地悪パリジャンを体現化したのがフィニョンだった。(実際にフィニョンはパリ18区出身)
そんなフィニョンであったが、非難も多かった代わりに人気も高かった。なんと言ってもその強さ。83年ツール初出場にして初優勝。そして84年には師匠とも言うべきベルナール・イノーを破ってツール2連覇を達成。名実ともにロードレース界の頂点に立った。その後は膝の故障により低迷の時期が長く続いたが89年、ついに復活。春先のクラッシック・レース、ミラノ-サンレモで優勝すると、ジロ・デ・イタリアでも念願の初優勝。そして、運命のツール・ド・フランスを迎える。
この年のツール・ド・フランスの劇的な展開はあまりにも有名だ。猟銃事故により長期低迷に喘いでいた86年のツールの覇者、グレッグ・レモンが復活、前年の覇者デルガドがプロローグの遅刻とチーム対抗タイム・トライヤルで大きく出遅れたことにより、レースはフィニョンとレモンの一騎打ちとなった。個人TTでレモンがマイヨ・ジョーヌを奪えば、山岳ステージでフィニョンがアタック、マイヨを強引に取り返すという手に汗握る展開が続く。
そして迎えた最終日、ベルサイユ~パリ・シヤンゼリゼの短いタイム・トライヤルを残して、フィニョン50秒のリード。さすがに個人TTに強いレモンといえども24.5kmという短い距離での逆転は不可能と思われ、誰もがフィニョンのツール3勝目を確信した。フランス革命200周年の記念にあたるこの年、人生最高の瞬間がフィニョンに訪れるはずだった。
しかし、運命はあまりにも残酷。スコットDHバーに身を埋めたレモンは驚異的なハイペースでパリの街を駆け抜けて行くのに対し、2分後、最終走者としてスタートしたフィニョンは必死の走りを見せるも50秒あったタイム差はぐんぐんと縮まって行く。レモンが26分57秒という驚異的なタイムでゴール。そして2分が経過、まだ、フィニョンは姿を見せない。アナウンサーのカウントダウンが始まる。「3、2、1、0」その時、フィニョンの前にはゴールまで80mあまりの距離が残っていた。ゴールタイムは27分55秒、8秒差…、ツール史上、最小のタイム差によりフィニョンは栄光の座をパリで失ったのだ。まさに劇的な展開、永遠に語り継がれるであろう1989年のツール・ド・フランスの敗者としてフィニョンは人々に記憶されることになった。
栄光と敗北の味を知り尽くしたフィニョンはその4年後に引退したが、引退後も解説者、レースのオーガナイザーとして自転車界かかわりを持ち、死の直前までツールの解説を行っていた。
最近は自転車レース界を始めとして、フィニョンのような個性的な選手が少なくなっているようだ。子供の手本となるような優等生タイプの選手も良いのだが、そんな選手ばかりではつまらないと思う。(ちなみに私の好きなスポーツ選手はフィニョンや伊良部秀輝、サッカーのルーニーのように傍若無人タイプが多い)
フィニョンのような超個性的な選手が出てきて、私たちを楽しませて欲しいものだ。
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YouTube: La educación de Fignon
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